泥棒さん
「君が天国を見せてくれるっていう姫?」
身体を幾らベッドに沈めても、夢の世界へは行けず、
夜を幾つ明かしても、新しい一日が始まる事がない。
身体も心も囚われたまま、逃げ出そうとする気持ちも手放してしまった。
人の気配はするものの、全ては監視する為に目覚めている者たちだけ。
喉が渇いた。と。
ベッドは軋む音もなく沈み、そこから降りたクラルテの気配だけがバルコニーの方へ向かう。
喉の渇きよりも先に、何故かそちらの方が気になった。
アヴニール宮の警備は強固である。
侵入者などもっての他で、例え居たとしてもクラルテに姿を見せる事なく近衛に囚われて連れて行かれてしまう。
風は強くなさそう。
壁の向こうから木々の葉が擦れる音が微かにしか聞こえてこない。
毎日毎日、白い壁の内に閉じ込められている彼女は、少しでも外の空気を求めていた。
初めてアヴニール宮へ来た時は、どうやってここから脱出しようか、そればかりを考えて生活していた。
異性に身体を開く事にも拒否を示していたが、組み敷きられてしまえば、か細いクラルテは従うしかなかった。
カチャリと軽い音が闇に響き、キキキ、と、少し軋んだ音と共に扉を向こう側へ押す。
新たな風の通り道ができたのを察知し、我先にとそれらがクラルテの髪を舞い上げ部屋へ入り込んで去っていく。
初めの一陣だけが力強く、続く風は心地よい。
鼻から吸い込めるだけ息を吸うと、胸部が膨らんだ。
温暖な気候のアッシャムスの夜風は、星空の元ではひんやりと心地よい。
「……」
外へ続くこの扉を開くと、誰かがここから連れ出してくれる様な幻を視る。
諦めたと心では言いながら、完全に思い断つ事ができないでいる自分は、己の力で今を打開しようとする勇気は砕かれ、他人にそれを求めてしまう。
『一緒に行こう』
それは、夢か現か分からぬ世界が視せる幻か。
『あなたはだれ?』
『泥棒さん?』
差し出された手は、かつてクラルテの覚えていたそれよりも成長していて、聞こえる声は以前の面影もない程に低く変わり、脳に直接届く。
彼女の身体を這う異性たちの手よりもカサつき、傷も多い。
けれど何故か、その手を取りたくなってしまう。
『泥棒にさんなんてつけるなよ』
『じゃあ何て呼べばいいの?』
『ーーーー』
視てきたものが多すぎて。
誤魔化してきたものが多すぎて。
何が本当なのか分からない。
しばらくそこに希望を視てしまったクラルテは、静かに扉を引き、風を止める。
「……」
夜は肌寒く、ショールの掛けていない彼女の身体は冷え切ってしまった。
命じられた期間、相手に肌を晒しているからといって、毎晩人肌恋しく過ごしている訳ではない。
喉が渇いて起きた筈なのに、今はもう渇いていない。
自分は一体、何に渇いているというのだろう。
「君が天国を見せてくれるっていう姫?」
「…………」
扉を閉め、夜風に冷えた肩を抱き、再びベッドに沈もうと踵を返す。
この部屋にはない筈のもう一つの人影が月夜に照らされ、侵入者の存在を知らせる。
「何処から?」
息が止まる。
「?だって開けてくれたじゃん」
気安い口調。
ここにはクラルテに対し、気軽な対応をする人間はいない。
言いながら、すらりと伸びた人差し指は、先程まで彼女が開け放っていたバルコニーの扉を指差す。
左右の硝子戸を大きく開いても大人二人分程のスペースしかないそこから、部屋主の隙をみて侵入する隙間はなかった。
声を出せば部屋の外に待機している衛兵が捕らえてくれる筈。
けれど、クラルテはそれをしなかった。
見るからに怪しい侵入者。
色付きの眼鏡をかけた男は顔の上半分を隠し、小汚く装った服を身に纏う。
月をその背に背負う男の顔は、夜に目が慣れているとはいえ、闇とその輪郭の境界はとてつもなく曖昧である。
背はクラルテをベッドに縛りつける男たちの様に高い。
「随分魅力的でうっすいネグリジェ着てるけど……。もしかして俺、誘惑されてたりする?」
元々、二人の間に距離はない。
だが、侵入者はさらにそれを詰めようと、一歩クラルテに歩み寄った。
声を聞いても、背格好を凝視してみても、今まで夜伽の相手をした人間たちと合致する部分はない。
「あなたは誰?」
瞳が隠されているので、視たくてもそれが叶わない。
いつもは無理やり求められる力なのに、知りたい時に役に立たないアヴニールの力。
正体さえ分かればきっと、このモヤモヤとしたむず痒い気持ちを落ち着かせる事ができるのに。
けれど、男の隠されている顔を見つめると、わざわざ言葉にしなくても「力を使わなくても良い」と言われている様で安心してしまってもいる。
知らなくていい事だってたくさんある。
それは、たくさん見なくていいものまで視てしまっている彼女だから重みがある。
「……もう覚えてないんだね」
クラルテの頬に伸びかけていた長い腕が、静かにそこから遠ざかっていく。
届いた声は、確かに淋しそうな感情を含み、何か言ってはいけない事を口にしてしまったのか、と、彼女が戸惑ってしまう程に落ち込んでしまった。
クラルテも次に続く言葉をどうしたら良いのか考えを巡らせてみるも、いかんせん、何の情報もない相手故に打開する話題も見つからない。
むしろ、侵入者なのだから、そこまで気を使わずに早く近衛に突き出してしまっても構わない。けれどそれをしてはいけないと、彼女の頭の中で何かが告げている。
「じゃあ」
瞳が何処を見ているか分からず、口元だけでは何を考えているのか察する事も出来ない。
「じゃあ、覚えて。俺のこと」
記憶の中にある傷だらけの手とは違う。
けれど、クラルテに触れる手入れの行き届いた数多くの男たちのそれとも違う。
彼は身体の横に垂れたクラルテの手を硝子細工の置物を扱うかの様に優しく触れ、彼女の胸の高さにまで上げる。
不思議と嫌悪感はない。
礼儀作法も何もあったものではない。
けれど、全く嫌ではないのだ。
触れては去る男たちの体温はどれも熱かった。
そして今、闇に包まれている目の前の男の熱がクラルテの指先に同じ熱を注ぐ。
ほんの一部しか触れていないというのに、何故か胸が大きく鼓動する。
触れた表層だけでなく、内部がとても熱い。
手を掲げたまま静止する彼の、サングラスで隠された瞳が、真っ直ぐ自分を見つめている気がした。
身分は王に寵愛されているクラルテの方が高い。
故に、彼女が許可するまで彼の方から彼女に触れる事はマナー違反。
だが、その触れた手を振り払えず、彼の次にとる行動が気になってしまう。
挨拶なら何度もされてきた。
触れられる事にも慣れて来た。
なのに、何故たった少し手を取られただけで、心臓の音が騒がしく動くのだろう。
暗くなければ、頬を染めるクラルテに気付いただろうが、今は月明かりしか頼りがない。
「イリス」
「え?」
「俺はイリスっていうんだ。覚えておいて」
取られた手の甲が、他の異性が自分にそうしていく様に、相手の唇が触れるのを待ってしまっている。
「ここ。警備、穴があるよ。気をつけた方がいい」
だが、その希望は叶えられる事なく、そっと彼が手を離す。
「たとえばどこ?」
「素直に答えてしまえば、俺はもう君に会えなくなってしまう?」
「あなたはどこから入ってきたの?」
「さあ。どこだろね」
少しだけ歯を見せて男は笑った。
それは教えてくれないという意思表示だと感じていたのに、それはクラルテの勘違いだったらしい。
「けれど、ここは君を守る為の砦でもある。調理場の扉の辺りは手薄だから、少し人員を増やした方がいいかな」
「どうして」
教えてくれるの?と聞こうとして、クラルテは続く言葉を飲み込んだ。
わざわざ教えてしまっては、あなたがここへ来る途中で捕まってしまうかもしれないのに。
彼女は話題を変える。
「あなたは何をしにここに来たの?」
「君に会う為に」
「なにそれ」
「街で耳にした。ここには男に天国を見せてくれる姫が居ると。だから、会ってみたくなっただけ」
「逃がしてくれるんじゃないの?」
「逃がしてほしい?」
「……」
クラルテは返事をする変わりに、真っ直ぐ顔を見つめてくる彼から視線を逸らす。
「何故かしら。どうしてか分からないけれど、逃げてもうまくいかない気がするの」
だから初めから望んでいないわ。と、続ける彼女の口調は、言葉の通りに初めから諦めが滲んでいる。
「そろそろ行かなくちゃ」
声を潜めて言葉を交わす二人の距離は近い。
互いの息が触れる程そばにいるのに、イリスが自ら触れたのはクラルテのスラリと伸びた指先のみ。
「また」
自分に背を向けた彼の後ろ姿に何と声を掛ければいいか。
少しでも一緒に居たくて引き止める声を出す。
「また来てくれる?」
「また来てもいいの?」
クラルテの懇願は、彼の足を止める事は出来なかった。
けれど返ってきた声は、少し嬉しそうに聞き返す。
質問したのに、また質問で返すなんて。
クラルテは少しだけ頬を膨らませる。
アヴニール宮では皆、彼女の言動を伺いながら仕えている。
だから、彼女自身も少し傲慢になってしまったといえば、その通りかもしれない。けれど、本人は気付かない。
こうしてテンポよく言葉のやり取りをしたのも、いつ振りだろう。
「退屈は毎日はもう飽きたの。みんな腫れ物の様にわたしを扱う。でも、あなたは違うみたい」
彼が見ず知らずの人間だから、素直な言葉が出たのかもしれない。
「あなたが来てくれたら……わたしは嬉しいわ」
「じゃあ、今度は俺に天国を見せてくれる?」
扉のハンドルに手を掛けたイリスは、ようやくクラルテの方を向く。
「いやよ」
「ハハ」
身体の前で腕を組み、自分を見つめる彼女の即答振りに、思わず弾んだ笑みが漏れる。
「気が向いたら来るよ」
じゃあね。
イリスはそれだけ言うと、バルコニーの手すりに軽々飛び乗ると、そのまま闇の向こうへ消えてしまった。
再び部屋の中で風が舞う。
「じゃあね」
クラルテは静かに繰り返す。
またね。
とは、言われなかった。
開け放たれた扉からバルコニーへ出ても、きっともう彼の姿はない。
クラルテはハンドルを掴み、扉を引き戻す。
「ここは守る為の砦じゃない。閉じ込める為の檻の中よ」
カチャリ。
クラルテは誰に向けてでもない言葉を吐き捨てる。
逃げ出せるなんて思っていない。
たとえ奇跡的に逃げ出せても、追われて捕まって、再び囚われるのが関の山だ。
そうなってしまえば、今の様な待遇は絶対に望めない。
ここにいるのが一番安全。
クラルテは自身に言い聞かせる。
期待なんてしてはいけない。
だから、彼にも期待しない。
気紛れに侵入してきた男になんか。