アヴニールの乙女
私の血には、力があるらしい。
だから絶やしてはならないと、周りが騒ぐ。
こんな血私はいらないのに。
***
アヴニール宮は、ただ一人の女性の為に用意された宮殿だった。
壁は白。
その色が霞まぬ様、侍女たちが隅々まで磨き、艶を保つ。
虫たちを誘き寄せる為の光であり、閉じ込める為の籠。
真っ白で何にも染まっていないと。
その手で何色にも染めることができると。
彼らは美しいものに惹き寄せられる。
魅力的な匂いに誘われる。
それは生きる為であり、子孫を残す為でもある。
他のものを寄せ付けない厳重な警備の中、護られたそこは、彼女にとっての檻。
ある人は楽園だという。
また違う人間は、天国を見たという。
どちらにしても変わらないのは、そこは彼らにとっては幸せな空間であったということ。
ずっとこの空間に留まりたいと願う程に。
しかし、それは許されない。
一度訪れたものが、この場所に再度足を踏み入れる事は叶わない。
人の手により作られ、人の手により隠された桃源郷。
熟した桃の香りが風に乗り、どんな生き物をもそれに触れたくなってしまう。
誘う為に。
触れてもらう為に。
虜になってもらう為に。
そういったものが、ここには棲んでいる。
閉じ込めている。
血を繋ぐ為の道具として。
彼女はその身を捩らせ、異性を誘い、その虜にさせて、そうして最後に突き放す。
***
城塞の内部は、今日もとても賑やかだった。
鮮やかな黄色が少しグロテスクにも思えるピレネー・ユリ。
たまご形に花が密集する赤いニグラ・バニラランからは、その名が体現するかの如く甘いバニラの香り。
タマシャジンは暗い紫色の花びらは、繊細な曲線を描き、風に揺れて踊る。
流れる水も濁りなく、水圧で上に持ち上げられ形を変えるそれは、見る人を楽しませると同時に涼を与える。
毎日が祝宴の様で、今日は人々が音楽に酔いしれていた。
ここへ向かう為の専用馬車が何台も到着した瞬間、彼らを出迎える侍女たちは騒がしく動き始める。
持ち運びができるオルガン、ポルタティーフに続き、初めて見る楽器が次々に馬車から姿を現す。
楽団を指揮する人間の指示を仰ぎ、アヴニール宮に仕える侍女たちは忙しなく動き回る。
迎える為に準備していたその空間はあっという間に楽器で埋められ、賑やかになる。
彼らが招かれたのは、ただ一人の女性を悦ばせる為に。
だから、彼女は周りの期待に応える為に、皆に合わせて楽しまなければいけない。
もう長い間、同じ事の繰り返し。
あの手この手で一方的に娯楽を与えられる。
賑やかなのは嫌いではない。
楽しい事も嫌いではない。
ここで世話をしてくれる侍女たちの事は好きだった。
皆、とても明るく元気で、彼女たちと接している時は、自分が何故この宮に閉じ込められているのか忘れさせてくれるから。
けれど、叶うならば、一番はここから出て自分の足で探したい。手で触れ、瞳に映し、香りを嗅ぎ、誘われる様な事をしてみたい。
彼女は薄いベールの視界の向こう側から奏でられ始めた音色に耳を傾け、押し付けられた現実から逃避する。
鼻をつく人を惑わす匂いからは、ここに居る限りは逃れられない。
閉じた瞳は視た記憶を無作為に引きずり出し、自分とは直接関係のない何かを再生する。
視たくないのに、彼女を囲う人間は時折それを強要し、また血を繋ぐ事までも強制する。
しかし今日からニヶ月は毎日続いた夜の務めも休める期間だ。
ベールを被った彼女は、周りから気づかれぬ様、静かに瞼を閉じた。
耳馴染みが良いその音色はとても心地よく、何処かで聞いた事のある様な気もしたが、毎日、音楽だったり、劇だったり、朗読だったりと変わる代わる人が訪れるアヴニール宮なので、もしかしたら、昔の音が耳に残っていたのかもしれない。と、彼女は意識を眠らせる。
もう何も視たくない。
独りになりたい。
誰にも触れられたくない。
彼女は目を瞑ったまま。
こうしていても、顔をベールが覆ってくれているので、自分が何処を見ているのか悟られずにすむのは気が楽だ。
口元さえ笑顔を作っていれば、大抵の人間はそう感じてくれる。
「クラルテ様?」
しかし、彼女に一番近い侍女が、静かなままの主人に気を配ってきた。
「なぁに?アービ」
演奏が続く中、音を楽しんでいる者たちが多いので小声で会話する。
「お疲れなのでしたら、お部屋に戻る事も可能ですが」
宮の侍女たちは皆、クラルテの枕の伽を知っているが故に、彼女の体調の変化には敏感に対応する様、城から厳しく言いつけられている。
しかも、一ヶ月のお務めは今朝、伽の相手を宮から見送りたところで、ようやく終えたばかりだ。
奥の部屋で行われている情事は、その扉の外で控える侍女達が、聞こえてくる物音や事後の部屋の乱れで判断している。
奥の間に引き篭もりになる一ヶ月間、クラルテの睡眠時間はとても短い。
だから、身体を休める為に彼女にはゆっくり過ごしてもらいたいとアービは思っているのだが、周りに気を配る主人は決してそうする事はない。
いつだったか、クラルテの身体を心配した侍女が城からの使者に、「主人の身体を休ませてあげたい」「伽を終えた翌日くらいは人を招くのは控えてほしい」と進言したが、聞き入れてもらえず、結果、以前と変わらず毎日、娯楽を楽しむ事を上から強要されている。
上辺は、アヴニール宮に縛りつけているクラルテを喜ばせる為に。
だが、真実はこのアヴニール宮を訪れる男を愉しませ、種をその身に授かる為の手段の一つとして。豪華な馬車が毎日国を横断し、この国が財政破綻をすることなどないと、見せつける為の手段の一つとして。
彼女はこうして繰り返される日々の中で、知識を蓄え、踊りを舞い、歌を歌い、楽器を奏で、相手から求められるがままの女性を演じる。
相手により服だけでなく、話し方も性格も変え、それを一ヶ月続けると本当の自分を見失ってしまう。
けれど、ここに閉じ込められている限りは自我は必要ない。むしろ、そんなもの無い方が辛い時間を乗り越えるには楽だという事に気が付いてからは、いつも相手が望む女性になりきった。
それで気に入られ、相手からいくら言い寄られようとも所詮は一ヶ月だけの付き合い。
アヴニール宮へ訪れるには、城から専用馬車に乗って来るしか方法は無い。
その中から風景を見たくとも窓はなく、景色から場所を推測する事も叶わない。
桃源郷へ一度足を踏み入れた者たちは現実世界へ戻ると、今一度あそこへ戻りたいと望み、拒絶される。
招かれた者たちはそれでも厳選された一握りの人材で、しかし、用が済めば追い出される。
全てはクラルテの持つ能力を次へ繋ぐ為。
演奏が始まってからずっと流れる音は彼女の内情も知らぬまま、次第に盛り上がりを増していく。
耳を通り抜ける音は彼女の心に何かしらの懐かしさを運び、そうして消えていく。
「大丈夫よ。アービ。心配してくれてありがとう」
アービは主人に寄せた身体を離し、奏でられる音に再び意識を向ける。
身体全体を覆う薄いベールから覗く色素の薄い肌は、少し触れただけでも折れてしまいそうな程細く、そのか弱い見た目に反して、返ってきた言葉は優しくて力強い。
周りに迷惑を掛けまいと常に笑顔のクラルテにそう言われてしまえば、深く追及する事などできない。
強がっていないか心配になり、主人の方をもう一度気にして見ても、彼女は楽団の方へ意識を向けている。
月毎にあんなことを強要されて、壊れてしまわない筈なんてないのに。
互いにそれ以上言葉を交わさず、音に耳を傾ける。
その様子を誰かにじっと見られていた事にも気付かずに。
***
今日もまた闇がくる。
クラルテは窓から見える夜を見ながら、遠くを見ていた。
見慣れた風景。
見飽きた景色。
ここから出たいという欲求はかつての自分の中に閉じ込めた。
この部屋に誰も居ない夜は一ヶ月振りで、またニ月後には再び知らぬ男と閨を共にしなければならない。
身体を休めるのなら今しかない。
分かっているのに、なかなか寝付けなかった。
賑やかだった昼間から一転。
人里離れたこの場所は星の瞬きがよく分かる。
ひとつひとつの星がパチパチと瞬きしていて、まるで地上の生き物を監視している生き物のよう。
城からも街からも離れたアヴニール宮は、人を招かぬ夜は最低限の灯りだけで夜を過ごす。
それは光に誘われて虫を寄せ付けてしまわぬ様に。
その体内に種を招き、それが新たな命となった時を考慮し、母体を守る為に。
昼間は毎日お祭りみたいに浮かれているアヴニール宮も、奥の間に人の居ない期間だけは闇と同化する。
ーーコツンーー
奥の間はとても広い。
どこかに当たったその音も深い闇に掻き消されてしまう。
ーーコツンーー
再び何かが当たる音。
普段であれば、奥の間の扉の前には必ず女性の近衛兵と侍女が待機している。
だが、今日から一ヶ月は近衛のみが配置されている。
外部からの侵入者を防ぐ目的がひとつと、クラルテが逃げ出さない様にする目的のふたつがある。
故に、待機する者は、いち早く異変に気付かねばならないのだが、その者の耳にまで、この小さな音は届かないらしい。
「……」
自分は常に監視されていると知っているクラルテは、声を出さずに静かに立ち上がる。
近衛が待機する扉から今、彼女がいる場所までは遠い。
勿論声を上げれば即座に反応してくれるが、基本、何もなければ待機している事の方が多い。
夜が深いとはいえ、なかなか寝付けないクラルテが部屋を動き回る事は日常茶飯事で、僅かな物音は大抵は生活音として判断され、聞き流される事が多くなっていた。
クラルテは外へ出るバルコニーの戸を開き、外を伺った。
誰かいるの?
声を出したくても、そうしてしまえば向こう側で控えている人間が来てしまう。
せっかく心身共に休める静かな夜がしばらく訪れるというのに、自分の行動でそれを棒に振ってしまうのは勿体ない。
「……」
クラルテは夜風を感じながら暫く耳をすませる。
「……」
いくら待ってみても、木々の葉が擦れて出す音や低く鳴く鳥の声だけで、密かに期待している返答はない。
『クラルテ』
『一緒に逃げよう』
言葉と共に差し出された大きな手。
節張っていて、働いている人のものだというのは、触れなくても分かる。
侍女たちから宝物の様に洗われ、オイルを毎日塗り込まれている艶やかなそれとは正反対の、幾つもの傷の残る逞しい手。
聞き覚えのあるその声に誘われて、彼女は自らの手をそれに重ねる。
「……」
しかし、虚しいかな。
分かっていた。
それは彼女だけが見ることの出来る幻影。
再びその手に触れようとした細い手は、温もりに包まれる事なく宙を切る。
「……」
クラルテは諦めた表情でひとり、静かに微笑んだ。
その声を。
その手を。
懐かしいと感じたのは何故なのか。
頭に過った疑問をそのまま深く思い悩む事をせず、クラルテは戸に手を掛けた。
いつか誰か連れ出してくれるかもしれない。
そんな叶いもしない希望は、とうの昔に捨て去った。
クラルテはそのまま、一人で寝るには広すぎるベットにその身を沈める。
束の間の静寂をその身に纏い。
ニ月後。
再びその身を見知らぬ男に捧げるまで。
お読み頂きありがとうございます。
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