第8話 帝都への旅
王都を出てから十日、シャルロットを乗せた馬車は帝国との国境に近づいていた。
(旅というのも良いものだな)
実を言うと王都から三日と離れた事がないシャルロットにとっては、これが人生最初の長旅だった。今まで資料や報告と言った伝聞でしか知らなかった母国の様子を自分の眼で見て、実際の状況を確かめるのは新鮮な体験だった。
特に宿泊や休憩の際に、距離があるために王都へは入ってこない、その土地特産の新鮮な食材を使った料理を味わえるのは、目が覚めてから長い間療養のために粗食を続けてきた彼女にとって何よりの楽しみだった。王族は普通の宿ではなく、その土地の領主や代官、富農といった有力者の館に宿泊するので、どこでもホストとなった有力者は彼女のために最上の食材や調理法を揃えたもてなしを用意していた。
昨日泊った街では、領主である男爵の館に泊まり、そこで地元の名産だという香りのいいキノコを使ったソースをかけた野鳥のローストに舌鼓を打った。
「いかがでしたか、姫様、この土地自慢の逸品ですが」
感想を聞く男爵に、シャルロットはナプキンで口元を拭い、笑顔で答えた。
「たいへん美味しゅうございました。これを王都で味わえないというのは残念な事ですね」
ソースに使われているキノコは収穫すると二日ほどで香りの大半が消えてしまうため、この土地でしか楽しめないのだという。男爵は無念そうな表情になった。
「そうなのです。もっと早く王都に届ける手段があればよいのですが」
逓伝――早馬によるリレーを使えば、朝早く出発すればその日のうちに王都に届ける事ができなくもないが、そんな事をしたら恐ろしく高価な、貴族であってもおいそれとは買えないものになってしまう。かといってここまで食べに来るのも旅費や時間を考えれば難しい。
「難しいものですね。ですが、卒業後の楽しみが出来ました。帰りもまたこちらに立ち寄り、この料理を味わいたいと思いますが、よろしいでしょうか?」
シャルロットは慰めるように男爵に言った。
「それはもう! 姫様のお帰りを心待ちにさせていただきますぞ!」
我が子を誉められたように名産品への称賛を喜ぶ男爵を微笑ましそうに見つつ、シャルロットはこんなやり取りをするようになった自分の心境の変化に苦笑したりもした。
(王太子だった頃なら……これでも贅沢と憤ったかもしれないな)
いや、間違いなく怒って、もっと質素なメニューに変えろと言っただろう。それが男爵をどれほど失望させるかに思いを至らせることなく。
(何度も思う事だが、私はどこまでも世間知らずだったのだろうな)
それをこれからどれだけ取り返せるか。そんな事を思いながらぼんやりと窓の外を見ると、商人たちが荷物を背負わせたロバの群れを引いて歩いているのが見えた。
(……ん? 商人たちが馬車往還を通るのは珍しいな)
シャルロットは思った。今彼女が進んでいるこの道――馬車往還は、帝国への最短経路ではない。最短経路となるフランディア街道は険しい峠越えがあり、馬車が通過できないためだ。名前の通り馬車向けに敷設された馬車往還は傾斜が緩やかだがその分遠回りで、馬車でも峠越えより一週間は余計にかかる。そのため商人たちはロバや荷駄でフランディア街道を通る事が多い。
しかし、シャルロットの隊列が進む間も多くの商人が道を行き来しているのが見えた。馬車によるものだけではなく、中には個人の行商人らしき者も混じっている。この道がこれほど賑わっているというのは彼女の知らない話だった。
この道に関する情勢が何か変わったのだろうか? と考えていると、ジェルマン護衛隊長が馬車に馬を寄せてきた。ロザリーが窓を開けて用向きを聞く。
「どうなさいました? ジェルマン卿」
「申し上げます。まもなく本日宿泊予定のランヌの街に到着いたします」
ジェルマンが答えた。ランヌは馬車往還が帝国との国境を越える前の最後の街で、天領――つまり王室直轄領である。国境防備の拠点だけあってかつては国軍の精鋭部隊が駐屯する城塞都市だったが、ここ何代かのフランディア王は帝国との融和政策をとっているため、政策上優先される街ではなくなっている。今は百名ほどの警備隊が詰めるだけとなっていて、どちらかといえば寂れた町という印象が強い。
「わかりました。引き続き警護をよろしくお願いいたします」
「はっ!」
ロザリーの答えに、ジェルマンは敬礼して再び隊列の先頭へ戻っていく。旗を掲げている従者が手綱を取り直すのを見て、シャルロットは流石にジェルマンほどの騎士が従者に選ぶ者は違うな、と感心した。風に靡けば時には持ち手を転倒させるほどの重みがある旗を掲げながら、一日中主の傍に付き従って歩き続けているのだ。あれだけの膂力、体力を持った者は国軍全体でもそうはいないのではないか。
(誰なんだろう。それほどの者なら、噂くらい聞いても良さそうなものだけど)
シャルロットは後ろ姿しか見えない従者について思いを巡らせたが、その時馬車が丘の頂上を越え、視界が開けた。
「あれがランヌですね」
ロザリーが言う。国境となっている小さな川、そこから水を引き込んだ堀と、高い城壁に囲まれた街並みが見える。馬車往還はその街中を通って川を石橋で渡り、帝国領内へ続いている。
「思ったよりも賑やかな街なのですね」
シャルロットは答えた。街の手前で馬車往還を挟むように、露天商が出す店と思しき色とりどりの天幕の群れがひしめき合っており、買い物をする人々で道が狭くなっているように感じる。見たところ街中の大通りも露天商と客であふれているようだ。
「そうですね……私もここまで賑わっているとは聞いていませんでした」
ロザリーが答えた。二人とも途中の人通りの多さからある程度街の様子を想像してはいたが、それ以上の賑わいだ。
(よほど良い代官が着任したのかもしれない)
シャルロットは思った。天領の代官と言えば、王国の官吏たちにとっては普通出世コースの一つだが、帝国との戦争が考えられていない今、ランヌ赴任は事実上左遷に等しい。質の良い代官が赴任するというのは幸運な事なのだ。
街の賑わいを半年ほどで取り戻すほどの有能な官吏とはいったいどんな人物なのか……そう思ったシャルロットだったが、城門の手前で警備隊と共に一行を出迎えたその人物を見て、彼女は驚きに目を見張った。
(マティアス……!?)
それは、かつての側近の一人であるマティアスだった。王国の改革案を幾つもシャルルに献じた頭脳の持ち主であり、ゆくゆくは内務卿や宰相と言った行政の最高責任者を任せようと思っていた青年である。
シャルロットが驚いている間に一行は停止し、護衛隊の騎士の一人が馬車の扉を開いた。シャルロットがその手を借りて馬車から降り立つと、警備兵が一斉に槍を立て、石突きで地面を叩いて歓迎の意を表す。護衛隊も槍を立てて答礼すると、マティアスが一歩進み出て腰を折った。
「ランヌ代官のマティアス・モレルでございます。本日はシャルロット姫様のご行幸をお迎えする事が出来、恐悦至極に存じます。今宵は旅の疲れを存分にお癒し下さい」
「マ……モレル卿、出迎え真に大儀です。卿の忠誠を嬉しく思います」
シャルロットは答えた。久しぶりに見るマティアスは側近としてシャルルの傍に仕えていた頃に比べ、少し血色が良いように感じた。声にも気力が感じられ、あの頃よりも生き生きとした印象がある。
「もったいなきお言葉。さぁ、お疲れでしょう。まずは部屋へ案内させます。何かあればこのニコラにお申し付けください」
マティアスがそう言って紹介したのは、後ろに控えさせていた執事らしき初老の男性だった。
「ランヌ代官邸執事のニコラと申します。ご滞在の間は何なりとご用命ください。まずはこちらへ」
ニコラはロザリーから荷物を受け取ると、代官邸の客間へ二人を先導した。歩きながらふと振り返ると、マティアスは何故かジェルマンの従者と何かを話していた。時々親しげに肩を叩いたりしている。
(知り合いなのだろうか?)
文官のマティアスに騎士団の知り合いがいるのは意外な感があった。しかし、同じ側近衆で武官のオスカルとはもちろん友人であったし、それを介して知り合いがいても不思議ではないが……
(……まさか?)
シャルロットはハッとなった。あの従者は……もしかしてオスカルではないのか?
将軍の息子で、将来は確実に騎士となり、各騎士団の団長やそれを含む軍を統率する将軍の地位についたであろうオスカルは、決して血筋だけではない実力の持ち主でもあった。彼なら重い旗を掲げて一日中行軍する事もやってのけるだろう。騎士の従者という身分も決して高くはないが、団長のという枕詞が付くならそれほど出自に対して格下げではない。
マティアスと知り合いだという事にも納得がいく。シャルロットはもう一度二人を確認しようと振り返ったが、その時マティアスとオスカルかもしれない従者の姿は建物の角を回って見えなくなるところだった。
「あ……」
思わず落胆の声を上げたシャルロットに、ロザリーが心配そうな声をかけた。
「どうなさいました? 姫様」
「いえ、なんでもありません」
シャルロットは誤魔化すように答え、先導するニコラに声をかけた。
「ニコラさんと仰いましたね。この街がこれほど賑わうようになったのは、モレル卿の手腕なのですか?」
それを聞いて、振り向いたニコラはその通りです、と頷いた。
「私も二十年ほどここで働いていますが、モレル卿は中でも一番の出来物でいらっしゃいますな」
ニコラの就く代官邸執事という役職は、数年ごとに任地が代わる代官の個人的家臣ではなく、彼らのために住まい兼職場である代官邸を管理する仕事だ。二十年も務めていれば、五~六人の代官に仕える事になるが、マティアス以前の代官は無能とは言えないまでも、どれも出世コースから外れ、気力も意欲も乏しく、任期を無難に過ごすだけの昼行燈のような人物ばかりだった。
しかし、マティアスは赴任後、様々な改革や政策を打ち出し、フランディア街道を行く行商人たちをこの街に引き付ける事に成功したのだという。街の景気が良くなれば定住型の商人や職人たちも集まってくる。今ではマティアスの赴任前と比較して人口も一割は増したらしい。
「ランヌの住民の一人としては、できればモレル卿にずっと代官でいていただきたいところですが、あれほどの方ならまたすぐに中央へ戻られてしまうのでしょうな」
シャルロットはそのニコラの言葉を聞いて、複雑な思いにとらわれた。本来中央でその手腕を振るうべきマティアスがこのランヌへ飛ばされたのは、間違いなく自分のせいだ。
(しかし……その事を苦にしているようには感じられなかったな)
気力が充溢しているような先程のマティアスを思い出す。側近たちのうち、フランソワは密かに望んでいた、本当に自分がやりたかった仕事を見つける事が出来た。クローヴィスは本人から気持ちを聞く事はできていないが、見聞を広めるための旅を楽しんでいるように思えた。もしマティアスがこの街の代官である事を喜んでいるのなら……
(私は、ただ彼らを縛り付けていただけで、何もしてやれていなかったのではないだろうか……?)
忠誠を受け取る事を、当たり前のように思っていたのではないか。増長していた過去の愚かな自分をまたここでも見せつけられたような気がする。
(マティアスに話を聞いてみよう)
シャルロットは思った。過去への後悔に囚われて歩みを止めるな。フランソワにそう言った以上、自分もそれを実践しなければならない。
幸い、夜の会食で話す機会はいくらでもあった。給仕をするニコラを除き、シャルロットとホストのマティアスの一対一になる。この日、マティアスがシャルロットのために用意したのは、フランディア各地の名産を少しずつそろえたワンプレートに帝国産の甘口の酒を果汁で割った飲み物だった。
「明日以降は帝国領内ですので、祖国の味を楽しめる最後の機会かと思い、各地の味を用意させていただきました。お酒は今後帝国のものに慣れる必要もあるかと思いましたので、癖のない合わせやすいものを取り寄せました。ご賞味ください」
マティアスが説明する。
「モレル卿の気遣いいたみいります。じっくり味わおうと思います」
シャルロットは礼を言い、皿に盛られた料理を見る。中にはかなり遠方の素材もあり、言うほど簡単に揃えられるようなものではない。シャルロットはその遠方の味――海産の魚の干物を戻してマリネにしたものを口に運び、その味とマティアスの手際を誉めた。
「美味しいですね。これは、南のロメリア海で取れる魚ですね。この地で手に入れるのは難しかったのでは?」
マティアスは首を横に振った。
「いえ、最近はランヌにもこれを売りに来る商人が増えましたので、さほどの事もありません」
「そこが気になっていたのです」
シャルロットはいったんフォークを置いて尋ねた。
「馬車往還はそれほど人の往来はない道だと聞いていました。ですが、道も街もこの賑わい。それはモレル卿の手腕によるものと聞いたのですが、何をなされたのですか?」
マティアスは微笑んだ。
「姫様が女性ながら政事に興味をお持ちの様子であられる事を嬉しく思います。ですが、大したことはしておりません。この街で定期的に市を開くようにしただけですよ」
馬車往還は遠回りの道であり、商人たちは隣国での交易に最短距離のフランディア街道を使っていた。例えばフランディアの王都から帝都へは、片道二週間ほどの旅になる。これが馬車往還では三週間はかかる。
しかし、中間地点のランヌは片道十日ほどで行くことができる。ここで市を開き、ものが集まるようにすれば、両国の商人は険しい山道を越える必要もなく、今までよりも短い日数で取引ができるようになるのだ。
さらに馬車往還なら馬車を使って大量の品物を運んでくることもできる。聞けば聞くほど、どうしてそんな簡単な事が今まで行われなかったのか、不思議になるような話だった。
「大した事ではないのですが、簡単というわけではありませんでした」
マティアスは苦笑を浮かべる。実際、市を定期的に立てられるようになるまでは紆余曲折があった。多くの商人が来ても良いようにするには、従来の馬車往還沿道の宿場町では施設が足りない。それらの街の領主や代官、あるいは馬車往還を使いそうな商人と交渉し、宿屋や馬車の駐車場、馬小屋の増設に投資する。それをフランディアだけでなく、帝国領内でも行う必要があった。
「幸いと言っては不敬ですが……姫様が留学のためここをお通りになる、と聞いた時には、国庫から資金を出してもらうための口実にさせていただきました。おかげでだいぶ道を整備する事が出来ました」
たいして悪びれた様子もなく告白するマティアス。
「そうですか……いえ、別に気にはしませんが」
シャルロットが流石に苦笑するしかなくそう答えると、マティアスは真剣な表情になり、自分の首を手刀で斬るジェスチャーをした。
「姫様の寛容に感謝を。おかげさまで、私も首を失わずに済みます」
「え?」
死の覚悟を突然見せられたことに困惑するシャルロットに、マティアスは姿勢を正して言った。
「赴任以来、定期市を立てるためにかなりの横紙破りをしましたので、敵を多く作ってしまいました。こちらに旅人が流れる事で利益が減ってしまうフランディア街道沿いの領主や宿場の大立者は、私をさぞ憎んでいる事でしょう」
ランヌの定期市が実現した事で、両国の商人たちはこぞってランヌへ取引のためにやってくるようになっている。それは実現者であるマティアスの計算をも超える規模になっており、もしかしたら将来的にはこの馬車往還こそがフランディアと帝国を結ぶ道の中で最も栄えるようになるかもしれない。
それは、従来の最主要道であるフランディア街道沿いに利権を持つ者たちにとっては望ましくない未来だ。定期市計画が広まるにつれ、それを阻止したい彼らは様々な手段で妨害にかかってきた。
逆に、馬車往還沿道の領主や大商人たちも結束し、マティアスと定期市計画を守るために立ち上がった。マティアスは口にしなかったが、その中には脅迫や暴力と言った後ろ暗い手段が使われただろうという事は、シャルロットにも容易に想像できた。
(私が寝ている間に、マティアスはそんな事を……)
文官であり、暴力や脅迫の横行する鉄火場に身を置いたことなどないマティアスが、そこまで覚悟を決めて政策実現に動いたことに、シャルロットはかつての側近の知らない一面を見た思いだった。マティアスがそんなに腹の据わった男だとは思ってもみなかった事だった。
そう思ってマティアスを見直すシャルロットの視線に気づく風も見せず、マティアスは言葉を続けた。
「そこで、姫様の行幸のために往還の整備が必要……そう言う事で街道派を黙らせてきたわけです」
もし今日マティアスがシャルロットの不興を買っていれば、それを口実として街道派はマティアスを失脚させ、場合によっては抹殺するところまで仕掛けたかもしれない。裏の事情を知らぬまま許しを与えた事で、シャルロットはマティアスを救ったのだ。
「……貴方の仕事がこの国にとって良き事である、と思ったからです。それにしても」
シャルロットはマティアスの顔を正面から見つめて言った。
「大変な覚悟を持ってこの仕事を進められたようですが……なぜそこまで?」
下手をすれば暗殺者さえ送られてくるかもしれない。そんな状況を自ら作り出してまで政策を推し進める、という姿勢をなぜ持つに至ったのか。それをシャルロットは知りたかった。
「そうですね……証明したいから、でしょうか」
マティアスはそう答えた。その眼はシャルロットの方を見ているようで見ていない。
「証明……何をです?」
シャルロットは念のため聞いたが、その答えは何となく予想できていた。マティアスの視線が向く方向には王都がある。
「私の……いえ、私の主たる人の正しさを」
マティアスは答えた。
「私の主は罪を得て死を賜りました。それ故に全ての行いを否定されておりますが、あのお方の元で進められるはずだった政策は間違いではなかったと、そう証明したいのです」
シャルロットはその言葉を咀嚼する。そう……マティアスが今回取った政策――既得権益に固執する旧来勢力を打破する事は、確かにシャルルであった頃目指していたものだった。
(でも、このやり方で良いのだろうか?)
シャルロットは思った。かつてはそれら既得権益を守ろうとする者たち、例えば貴族たちを敵とみなし、戦う事に躊躇いはなかった。その戦いを成し遂げるための力である権力もシャルルは持っていた。
(勝ちさえすれば……勝ち続けていれば、それで良かった? 本当に?)
自分が敗者となり、生命以外の全てを奪われた今だからこそ、シャルロットはかつては自分も染まっていたその考え方を疑問に思う。それは、結局のところそれまでの敗者と勝者の立場を入れ替えるだけではないのか?
(全ての人が豊かになれる、そういう道を目指すべきではなかったのだろうか)
食事をする手を止め、考え込んでしまうシャルロット。
「姫様……? どうされました? お口に合いませんか?」
マティアスは気遣わしげな声をかけたが、それまで黙って控えていたニコラが少し呆れたような口調で言った。
「モレル卿、それよりも今のは食事時の、それも女性相手の話題として相応しく無いかと」
「いえ、政治についての話題を振ったのはわたしですから」
ニコラにそう言って、シャルロットはマティアスの顔を見た。
「馬車往還沿道を豊かにしよう、というお考え自体は正しいと思います」
そう話を切り出したシャルロットに、マティアスは満足そうにうなずく。
「ただ……わたしには上手く言えないのですが……それで多くの敵を作ってしまうやり方は、良くないのではないでしょうか」
シャルロットはそう続けて、マティアスの顔を見た。表情は笑顔のままで、やっている事に苦言を呈された事について、機嫌を損ねたようには見えない。しかしシャルロットは知っている。これは側近たちとの会話の中で、マティアスが相手の誤りを見つけた時に見せる、これからお前を論破してやるぞ、と考えている時の反応だ。
(ああ、変わってないなぁ、マティアスは)
シャルロットはちょっと安心した。貴族の家に生まれた他の側近たちと違い、マティアスの生家、モレル家は一代貴族である。一代貴族という制度にもいろいろあるが、モレル家の場合は裕福な商家で、国に多額の寄付をした事で得られたものだ。「国庫の安定に寄与した功績に対して与えられた」という名目ではあるが、実質的には金で爵位を買う事に他ならない。
商売の上では「爵位を得られるほどの豊かさ」を持つ事は絶大な信頼の証明であるが、反面「成り上がり者」と蔑まれる立場でもある。
そうした周囲の視線の中で育ったマティアスは、反動として身分よりも実力だという考えに傾きがちな、反骨精神の旺盛な性格だった。彼がシャルルの側近に加わった時も、他のメンバーを認めるまでは紆余曲折あったものだった。
「お言葉ではございますが……」
シャルロットの予想通り、マティアスは笑顔を浮かべたまま反論を口にし始めた。
「私は任地を発展させるという仕事を果たしただけの事です。それによって他の領地が影響を受けたとしても、それに対応するのはその土地の領主や代官の仕事です」
対応できないのなら、責められるべきは自分ではなく彼らの無能だ。口にはしないがそういう本音が透けて見える。一度の敗北と挫折で折れることなく、今も左遷先から功績を挙げて貪欲に中央への返り咲きを狙い続けるその姿勢を、かつては頼もしいと思ったものだった。
(自分の実力こそ全て、というマティアスらしい。でも……)
変わらないからこそ危うい、とシャルロットは考える。できれば、マティアスにも変わって欲しい。もっと広い視野で、国全体を豊かにできる道を見つけて欲しい。彼ならそれができるはずだと信じたい。
しかし、中途半端な言葉ではマティアスの信念を動かすことはできないだろう。シャルロットはふと目の前の皿に目を落とした。フランディア各地の名産品を一皿に集めた、言わばフランディアと言う国の縮図。
「モレル卿の言いたい事もわかりますが……わたしは、これが食べられなくなるのは残念だと思います」
シャルロットはそう言って、フォークである食材を掬い上げた。
「リーキ……ですか?」
マティアスはその食材の名を口にして、はっとした表情になる。リーキはネギ類の香味野菜で、それ自体美味な上に多くの料理と合わせる事ができ、フランディアの食文化を大いに豊かにしたと言われる作物だった。
しかし、栽培に広い農地と多くの人手を要するため、人口が多く古くから発展しているフランディア街道沿いの広大な平野部以外ではほとんど作られていない。もしフランディア街道沿道が衰退すれば、リーキは作られなくなってしまうかもしれない作物の代表格だった。
「はい。わたしは今日のこの一皿がいつまでも食べられるよう、国が一つにまとまり栄えていく事を望みます」
シャルルだった頃、自分にも理解できていなかったその事を、自戒も込めて言うシャルロット。それを聞くマティアスの表情からは笑みが消えていた。
「姫様のお言葉、心に留めておきましょう」
マティアスはそう答えると、自らの皿からリーキを取り上げ、口に運んだ。噛みしめるようにしてその味を確かめるマティアスの様子に、シャルロットは安堵した。
きっと、マティアスなら変わっていける。もっと穏健な形で理想の国を作る事を託せる。そう確信して、シャルロットもリーキを口に運ぶ。それは甘い、希望に満ちた味がした。
マティアスとの会食を有意義に終わらせたシャルロットだったが、翌朝、出立のために馬車のところへ来た時に、大事な事を忘れていたのに気が付いた。
(あ……オスカルの事を聞いていなかった)
馬車の直前に今日も旗を持って立つ、ジェルマンの従者を見た時に、シャルロットはしくじった、と思った。この日も彼は一人だけ兜を目深にかぶり、素顔を見せていなかった。
しかし、今更聞ける雰囲気でもない。仕方なく、シャルロットは車中の人となった。
「それでは道中お気をつけて。姫様の学園生活が実り多きものである事を祈っております」
見送りに出て来ていたマティアスがそう言って一礼する。その口調には真情がこもっていた。どうやらシャルロットの事を認めてくれる気になったようだ。
「ありがとうございます。モレル卿もご息災で。貴方の施政がこの国により多くの実りをもたらす事を祈っています」
シャルロットも言葉を返す。マティアスが深々と一礼したところで、ジェルマンが出発の号令をかけた。従者が高く旗を掲げ、隊列は帝国領内へ続く橋に向けてゆっくり進み始めた。
帝国領内に入っても旅は順調だった。もちろん、他国とは言え王族に準ずる地位を持つ大公家の姫ともなれば、フランディア国内同様に沿道の領主や代官からの接待を受ける。そこからシャルロットが受けた印象は、予想以上に帝国は自分の学園入りを重視し、入念に歓待しようとしているという事だった。
シャルロットの婿を学園に通う帝国の有力門閥の子息から探す、というルイの意向は帝国に密かに伝えられているはずで、一国がおまけについてくるレベルの姫などそうはいないだけに、どこの領主もおそらくは背後にいる門閥の当主の意向を受けて、シャルロットの印象を良くしようとしているのだろう。歓待にも力が入っているし、会食の中で一門の子息をそれとなく推薦してくることもあって、シャルロットは自分の婿候補とすべき在学中の貴公子を何人か把握する事が出来た。
(まさか、皇子が在学中とは知らなかったが……)
その中でも最有力の候補が、現皇帝の第二皇子であるコルネリウスだった。兄で既に学園を卒業し摂政として国政を総攬するリヒャルト皇太子とは七歳下の十八歳。今年三号生に進級しており、順調にいけば来年春の卒業となる。
皇族であるため、入学時から生徒総代として学生の自治組織である「小宮廷」を率いているが、一号生時代から上級生の役員をも見事に使いこなし、決して飾り物ではないだけの実績を上げているらしい。学生としても常に文武共に最優等を争う成績最上位者層の一員であり、加えて容姿端麗とまさに貴公子を絵に描いたような人物との事で、そんな絵物語の登場人物のような完璧な人間が本当にいるのだろうか? とシャルロットは懐疑的だった。
(まぁ、能力については話半分としても、第二皇子と言うだけで狙うには十分だが……それほどの人物に婚約者はいないのだろうか?)
自分にさえ婚約者の地位を争う動きがあったのだから、コルネリウスに婚約者がいないというのは不思議な話だったが、シャルロットの目的的には好都合ではある。とりあえず、入学後に彼の人物を自分の眼で見極めてみよう、とシャルロットは考えていた。
その他の候補となり得る貴公子も、だいたい「小宮廷」のメンバーであるらしい。とすれば、入学後「小宮廷」に接近するのが目的達成の早道になりそうだ。
入学後にどう行動するかの指針が見えて来た一方で、目先の事でも一つ片づけなければならない事がシャルロットにはあった。それはジェルマンの従者の事である。彼がオスカルではないか? と思ってから一週間経つが、まだそれを確認できていない。もちろんシャルロットが命令して身分を明かさせる事は可能だが、圧倒的な身分の差がそれを出来なくさせていた。
(私が従者の名前聞くとか不自然だよな……どうしたものか)
黙々と馬車を守って歩く彼らを見ながら考え込むシャルロットに、ロザリーが尋ねた。
「姫様、このところずっと考え事をされていますが、何を気になさっておいでですか?」
「え? あ……その、護衛の者たちの事なのですが」
唐突に声を掛けられ、シャルロットは驚いて取り繕う事もなく思っていたことを口にしてしまう。
「護衛隊がどうかしましたか?」
首を傾げるロザリーに、シャルロットは説明した。ジェルマンの従者がオスカルかもしれない、と言う事を。
「それは確かに姫様には気になる事ですね」
ロザリーは納得した。彼女もオスカルが廃嫡された事は聞いていたが、その後どうなったのかについての情報は無かった。
「ええ。でもどうやって聞けばいいのかと考えあぐねておりました」
正体はともかく「ロワール大公息女であるシャルロット」にはオスカルとの面識などあるはずもなく、従者の中で特別にジェルマンに付いている一人だけの事を聞くなど不自然極まりない話ではあった。
「それでしたら、いっそ全員の顔を見る口実があればいいかもしれませんね」
ロザリーが思いついたアイデアを披露する。
「なるほど、それは確かに……」
全員に兜を取らせる事が出来れば、オスカル(仮)の顔も見る事ができる。問題は口実をどうするかだが……
(……そういえば)
シャルロットはある事を思い出した。それは、まだシャルルだった時の話だ。フランディア国内にたちの悪い盗賊団が入り込み、各地で被害を出した事がある。シャルルは国内に残っている騎士団に討伐を命じたのだが、彼らが出陣する時に、恋人や婚約者など、親しい女性たちが……
(……いや、確かに間違いなく彼らの兜を取らせられるだろうが……やるのか? 私が? あれを?)
それは、まだ男の意識が抜けきっていないシャルロットにとっては考えただけで「気持ちが悪い」という感想を抱かずにはいられない事だった。しかし、他に良い手段が思いつかない。
(まぁ……ここまで長い旅に尽くしてくれた者たちなのだから、感謝の意を表す意味でもやったほうがいいかもしれない。私が我慢すれば良いだけだし、今の私にはそのくらいしかできる事は無いし)
そう覚悟を決めた時、ロザリーが彼女にしては珍しい、少し興奮した声を上げた。
「姫様、見てください! 帝都ですよ」
シャルロットが顔を上げると、それまで進んでいた森を抜け、開けた視界の先に高い城壁が見えた。
「あれが……」
言葉を失うシャルロット。その城壁は要害であるランヌのそれよりも高く左右に延々と連なり、しかも至る所に防衛戦用の塔を設けた、いかにも頑強な守りを感じさせるものだった。それでいて武骨一辺倒ではなく、皇帝の居城に相応しい威厳と優雅さをも感じさせるよう、白亜の飾り石のタイルが全面に貼られている。このタイルだけでも莫大な予算がかかったはずだ。
これがフランディアを含め、二十以上の国を従属国として従え、オルラントにおいて覇権国の一つとして数えられるプロヴィンシェン帝国の帝都だった。フランディアの王都などこれに比べれば田舎の宿場町も同然だ。
呼吸十回ほどの時間、呆然とそれを見つめていたシャルロットだったが、ふと自分の頬を軽く叩き、首を振って気合を入れ直した。
(……気圧されてばかりいられない。私は、この国を支えるだけの才覚を持った者たちと渡り合っていかなくてはいけないのだから)
そして、彼らに認められ、自分と結婚しても良いと思って貰わなければならないのだ、という所まで考えて、どんなに覚悟を決めたところで、根本的におかしな話だよな……とまたテンションが下がるシャルロットだった。
しかし、市内を見て回るのは少し先の話になりそうだった。隊列は城門の手前で左折し、延々と連なる城壁に沿って進んで行く。目指すヘルシャー帝立学園は学生たちが静かに勉強できる環境を用意するため、帝都内ではなく少し離れた場所にある。戦乱華やかなりし時代に帝都を守るために建設された支城の一つを学園に転用したのだという。
元出城と言っても、やはり帝都のように優雅に装飾されているのだろうか? と思ったシャルロットだったが、その予想も外れた。ヘルシャーの城壁は飾り石がない、質実剛健さを感じさせるものだった。閉ざされた門扉の前でいったん隊列は止まり、ジェルマンが口上を述べた。
「開門! こちらはフランディア王国より参った、ロワール大公家御息女シャルロット姫なり!」
その声に応えるように、門扉がしずしずと引き上げられていく。それをくぐって中に入ると、やはり城そのままと言う武骨な外観の学園の建物がシャルロットを迎えてくれた。
「思ったより何というか、その……」
貴族の子女を預かるための建物にしては見た目は粗末ではないか、と言いたげなロザリーに、シャルロットは微笑んだ。
「わたしは、こういう感じの方が好きですよ」
元々質素を旨とするブリガンド王家の気風に学園の雰囲気はマッチしていて、シャルロットとしては気分が落ち着くのを感じた。やがて馬車は玄関前の車止めの前に停止した。
「姫様、長旅お疲れ様でした。無事目的地についてございます」
キャビンの扉が開かれ、ジェルマンが到着を報告する。シャルロットは礼を言いながら彼の手を借りて馬車を降り、建物を見上げた。窓にちらちらと影が見えるのは、新たに到着した相手を確かめようと生徒たちが野次馬になってきているのだろう。
(ちょっとやりにくいな)
これからする事を考えてそう思うシャルロットだったが、その時鈍い音を立てて玄関の扉が開けられた。そこから現れたのはルイよりやや年下か、と思われる温厚そうな貴族の男性だった。
「貴女がシャルロット姫かな? 私は当学園の学長、グスタフ・フォン・タネンベルク。ようこそ参られた」
それに対し、シャルロットは優雅な跪礼をもって応えた。
「はい。シャルロット・ド・ロワール=ブリガンド、ただいま参りました。これより三年間、ご指導ご鞭撻のほど、どうかよろしくお願いいたします」
タネンベルクは満足げに頷く。その名前は事前にシャルロットも聞いていた。グスタフ・フォン・タネンベルクは帝国アカデミーの名誉総裁も務め、自らも科学分野において数々の功績を挙げている、帝国の学究界における巨人である。姓の前にフォンと言う前置詞が付くのを見てもわかるように帝国貴族、それもカッセル侯爵と言う有力者でもあった。
しかし、侯爵と言う貴族の号を名乗らず、敬語も使わないのは、ここでは学長と生徒の関係を優先させるという宣言であり、シャルロットもそれを理解したから、生徒として挨拶を返したのである。
「よろしい。当学園は貴女の入学を心より歓迎する」
タネンベルクは答えた。この瞬間、シャルロットにとって唯一の入学への試練――面接は突破した事になる。もし大公息女として挨拶していれば、即座の帰国が命じられただろう。
シャルロットは安堵して振り向くと、整列して成り行きを見守っていた護衛隊のメンバーたちに言った。
「皆様、警護の任ご苦労様でした。おかげで快適な旅でした」
「はっ!」
ジェルマンが答え、全員が槍を立てて答礼する。シャルロットは頷くと、ジェルマンに言った。
「ジェルマン卿、ちょっと兜を取っていただけますか? 皆様も」
シャルロットの謎の提案に、一瞬戸惑ったジェルマンだったが、旅の間中、修道院に立ち寄った以外は決してわがままを言わなかった姫の言う事だけに、意図はわからないながら従う気になったのだろう。全員に兜を取るよう命じる。そして、シャルロットは気になっていた人物の正体をついに知る事が出来た。
(やっぱり……元気で良かった)
ジェルマンの後ろに立っていた従者はやはりオスカルだった。騎士からは降格されたが、こうして団長付き従者としては残る事が許されたのだろう。今後武運に恵まれれば、戦功次第で騎士への再昇格も夢ではないはずだ。
しかし、それでも今の立場の居心地は決して良くないのだろう。その眼には再会した時のフランソワのような、暗い翳りが見えた。
(少しでもオスカルに元気を与えられたら良いが……)
シャルロットは行方の分かった最後の側近を案じつつ、ジェルマンに近づいた。
「ジェルマン卿、少し屈んでいただけますか?」
「は、はい」
ジェルマンが屈むと、シャルロットは彼の額に唇を寄せ、囁くように言った。
「あなたの征途に、始祖のご加護がありますよう、お祈りしております」
それは、騎士の出陣に際して、貴婦人から贈られる額へのキス――祝福のキスだった。キスハント同様、今では実際のキスを伴わない儀式ではあるが、女性から男性への真心を示すものとしてこれ以上のものはない。
流石のジェルマンも驚きのあまり硬直する中、シャルロットは微笑みを浮かべて残りの騎士はもちろん従者たちにも言った。
「さあ、皆様も」
戸惑う騎士たちではあったが、姫君から祝福のキスを送られるなど、これ以上ない名誉である。全員が屈むというより跪き、シャルロットは一人一人に祝福のキスをしていく。まずは前列の騎士たち、折り返して後列の従者たちにもそれを授けていく。そして、最後にオスカルのところへ。
「あなたの征途に、始祖のご加護がありますよう、お祈りしております」
同じ祝福の言葉。だが、そこからは違っていた。
「!?」
オスカルが驚きに硬直する。確かに額に柔らかく、そして暖かな感触があった。シャルロットはオスカルだけには実際に額にキスをしたのだ。
振り返り立ち去るシャルロットの髪の毛が微かにオスカルをなでるように触れ、香水の香りがふわっと鼻をくすぐった。シャルロットは元の場所に戻り、再度一礼した。
「繰り返しますが、皆様本当にご苦労様でした。どうか道中気を付けてお帰りなさい」
我に返ったようにジェルマンが立ち上がり、答礼する。
「はっ! 我々一同も、姫様の学園生活に良き学び、良き出会いのある事をお祈りしております」
決して社交辞令ではない、心のこもった声で言うジェルマン。彼を含め、護衛隊の者たちにとっては自分たちの任務に至上の名誉を与える事で報いてくれたシャルロットは、心からの忠誠を捧げるにふさわしい対象だった。
オスカルもまた感動に震えていた。キスが額に触れたのは偶然だったかもしれない。それでも、何かと軽蔑と揶揄の対象にされがちな立場である今の彼にとって、シャルロットの祝福は亡き主君への忠誠に匹敵する、心を支える柱になっていた。
(俺はこのお方のためならば、どんな苦難にも耐えて見せる)
そう決意したオスカルの眼には、炎のような力強い輝きが戻っていた。それを見て、シャルロットは良かったと思いつつ、自分の中のある変化に戸惑っていた。
(それほど……嫌じゃなかった)
思いついた時は気持ち悪いと感じたのに、実際にやってみると、騎士たちがそれを喜んでくれる事を嬉しいと感じた。オスカルへは本当にキスをした時も、嫌だとは思わなかった。
(私はだんだん心も女性に近づいているのだろうか)
心まで完全に女性のそれになってしまったら……それが良い事なのか悪い事なのか、自分に何をもたらすのか、今のシャルロットにはわからなかった。