第7話 旅立ちの時
園遊会の夜は場所を城の大広間に移しての舞踏会となる。夜という事もあってか開放的な雰囲気となり、普通ならはしたない事とされる異性との交遊も許される。普通は未婚の若い貴族がパートナーを探す出会いの場だが、あからさまに一夜の恋を探すのが目的の者もいる。
(まぁ、私にはただそこにいるだけの場だったが……)
シャルロットはそう回想した。シャルルは幼い頃にマリーとの婚約が決まった事もあり、彼をダンスに誘わず、自身もマリー以外の令嬢とはダンスをしないという不文律が存在していた。それを無視できる図太さを持ったアンリエットや、外国来賓の令嬢と接待としてダンスをすることはあったから皆無ではないが。
しかし、今日の彼女は久々にデビュタントする大物貴族の娘という事で、ダンスの申し込みが殺到するだろう。大公家の領地自体にはうまみはないが、もしルイにこのまま後継ぎができなければ、大公家に後継の目が出てくる。そこと縁戚関係を結んでおけば、自分たちが外戚として権力を振るう事もできると、多くの貴族たちが計算しているはずだ。
彼らは何としてもシャルロットをダンスに誘えと一族の若い男子に発破をかけたのだろう。大広間に入った時から、彼女は全身に若手男性貴族たちの視線が突き刺さるのを感じていた。
(逃げたい……でも、そういうわけにはいかないからなぁ)
精神的には同性に迫られるわけで、考えるだけでも悍ましい気分になるのだが、どうあがいても将来はどこかの男と結婚しなければならない身だ。それに。
(お前を愛さない、などと言う男に嫁がされるマリーの苦しみは、こんなものじゃなかっただろう……)
そう考えれば、事態に立ち向かう勇気はともかく、義務を果たさなくてはという意志力は湧いてくる。キャヴァリエとしてエスコートしてくれているアルベールと目を合わせた。
「大丈夫。私がついている。ダメな奴なら私から断る」
アルベールが励ましの言葉を贈る。心強さをもらって、シャルロットが広間を見渡すと、それまで彼女に注がれていた男性たちの視線は、互いを牽制するように交差し、さながら切り結ぶ剣のようだった。なかなか率先して誘って来ようという剛の者はいない。
(じれったい……)
少し苛立ちを覚えるシャルロット。特定の時間を除くと、通常女性から男性をダンスに誘う事は許されないので、シャルロットとしては誰でもいいから名乗りを上げるまで、こうして待つしかないのだ。このままその時間まで状況が変わらないのだろうか? と思った時、一人の男性――というより少年が進み出てきて、シャルロットに貴婦人に対しての礼をとった。
「あなたは……」
その少年の顔にシャルロットは見覚えがあった。正確には、その少年とおそらくは血縁関係にあるであろう人物に。
「オレニア子爵ピピンと申します。シャルロット姫様、私と一曲踊っていただけませんか?」
シャルロットは差し出されたピピンの手を取った。どよめきが起こる。手を取るという事は承諾の証だ。
「お誘いありがとうございます。喜んでお受けいたします」
笑顔を浮かべるシャルロット。しかし、胸中には動揺がある。オレニア子爵の先代の名はクローヴィス。シャルル時代の側近の一人で、今目の前にいるピピンの兄だった。シャルロットがピピンに出会うのは初めてで、それもそのはず。クローヴィスが当主だった頃のピピンはまだ十二歳で、宮中に参内する事などほとんどなかった。
その未熟な少年のはずのピピンが、当主としてオレニア子爵家を継承している。クローヴィスがどうなってしまったのか聞いてみたいという内心を抑え、シャルロットは今の自分よりもさらに少し背の低いピピンにエスコートされて大広間の中心に進み出た。
楽団が新しい曲を演奏し始め、シャルロットはピピンと踊り始めた。シャルロットに比べれば稚拙だが、それでも大きなミスなくピピンはシャルロットをリードしていく。彼が浮かべる必死の表情に、シャルロットは緊張をほぐそうと笑いかけた。
「大変お上手です、オレニア卿。ですから、もう少しわたしの顔を見て楽しそうにしてくださいませ」
褒めたつもりだったのだが、逆効果になったのか、ピピンはそれを聞いて顔を真っ赤にすると、二、三度ステップを間違えた。しかし、シャルロットはそれをうまくフォローしてどうにか一曲踊り終える事が出来た。
「申し訳ありません……不出来なところをお見せしました」
謝るピピンに、シャルロットは笑顔のまま首を横に振る。
「いえ、そんなに恥じる事はありませんよ。十分にお上手だと思いますから、もっと自信をお持ちになってください」
これはシャルロットの本心だ。少なくともピピンは同じ年頃の貴族の少年たち、その大半よりは上手いだろう。この齢で急遽子爵家を継承する事になり、社交界で恥をかかないよう懸命に学び、練習してきたに違いない。
休憩を兼ねて、シャルロットはピピンと壁際に戻り、他の出席者たちのダンスを見つつ、会話を始めた。
「オレニア卿はまだお若いのに家を継がれたのですね」
ピピンは俯き気味で答えた。
「はい……本来は兄が当主なのですが、いささか理由がありまして、ぼく……いえ、私が当主に交代する事になりました」
本来ピピンのような成人すら済ませていない少年が当主になることは無いが、父親である先々代オレニア子爵は既に故人であるため、特例としてピピンの襲爵が認められたのだろう。ただ、後見人は必要なはずだが、それはピピンの続く言葉で明らかになった。
「どういうわけか、陛下が後見人をしてくださることになりましたので……私としては安心です」
「陛下が……そうですか」
シャルロットは他の貴族に囲まれている父を見た。不出来な息子の最後の願いを叶える一環として、オレニア子爵家が存続できるよう取り計らってくれたのだろう。
「ところで、お兄様はどうなされたのですか?」
シャルロットは一番聞きたかった事を尋ねた。当主の座を降りなければならなくなったクローヴィスはどうなったのか。ピピンの口ぶりでは兄に対する隔意や嫌悪は無さそうだから、ひどい事はしていないだろうが。
「兄は見聞を広める、と言って旅に出られました。時々手紙が来るのでご無事だとは思うのですが、今は東方のアルティア王国に滞在されているようです」
「アルティア……ずいぶん遠くまで行かれたのですね」
シャルロットは頭の中に地図を思い浮かべながら答える。アルティアはここフランディアから東南へ三か月以上の長旅が必要となる遠国だ。オルラント大陸を文化圏で大まかに西部、中部、東部の三つに区分する場合、西部文化圏の東端に位置する国で、中部の広大な荒野に住む遊牧民たちとの交易が盛んな国だ。
「ええ。"葡萄酒の聖女"の伝承を知りたくてお出かけになったとか」
ピピンが言う。"葡萄酒の聖女"はアルティアで五十年ほど前に、長年多くの人々を苦しめてきた伝染病を鎮めたと言われる伝説の聖女だ。その功績から救世主の一人に数えられることもあるが、彼女自身は自分が救世主である事を否定していたという。
(クローヴィスらしい)
シャルロットはくすりと笑った。クローヴィスは知識欲の旺盛な青年だった。元々オレニア子爵家は文書管理などの役職を務める家柄で、クローヴィスが王宮図書館の司書になったのもその流れだ。司書は彼にとってはまさに天職だったようで、数万冊にのぼる蔵書を体系的に整理する傍ら、全てを読破してその内容を細大漏らさず覚えていた。
ただ書物に埋もれるだけでなく、そこに書かれている知識を実地で確かめたいと言う意欲からシャルルの側近グループに加わったのだが、もしかしたらフランソワと同様、クローヴィスも狭い王宮ではなく、広い世界を相手に自分を試したいと思っていたのかもしれない。
「ありがとうございます。お兄様の旅のご無事と、あなたが素晴らしい当主になられるようお祈りします」
気になっていた事の一つを知ることができて、肩の荷の一つが下りたシャルロットが微笑みを浮かべて言うと、ピピンは顔を真っ赤にして、さらに俯いた。
「い、いえ……こちらこそありがとうございます、姫様」
そう言うと、ピピンはシャルロットに一礼して、そそくさと客の輪の中に紛れて行った。怪訝な表情になったシャルロットの肩を、後ろからアルベールがポンと叩いた。
「シャルロット……あまり、そうやって笑顔を安売りしないほうが良いぞ?」
「え?」
首を傾げるシャルロット。彼女には聞こえていないようだが、アルベールは周りの青年貴族たちの彼女を品評する声がしっかり聞こえていた。
「美しい……」
「可憐だ……」
そう呟く彼らの表情は一様に熱っぽい。どうやら、ピピンに見せたシャルロットの笑顔は、ピピンだけでなく彼ら青年貴族たちの心臓を正確に射抜いたようだった。自家のためという打算だけでなく、本気で恋心を抱いた者もいそうだ。
(まぁ、本人に媚びようという意識がないからこそ、めったにないレベルで清楚可憐に見えるわけだからなぁ。目的の事を考えればそっとしておくべきかもしれんが)
シャルロットの目的から言えば、笑顔で男性を夢中にさせるほどの魅力を出せる事は大きな武器だろうが、それで有象無象が寄ってきても困る。アルベールはその辺はロザリーに言付けて気を付けてもらおうと思いつつ、シャルロットにダンスの申し込みが殺到してくるのを見ていた。
とりあえず、それからしばらくの間、シャルロットはアルベールがOKを出した相手とダンスをして過ごした。アルベールの選択基準は社交界での評判が悪くないのに加え、露骨に勢力拡大を図っていない家柄の者であること。色や欲をむき出しの相手はアルベールがその場で回れ右を命じて追い払ってくれたので、彼女としては安心してダンスを楽しむ余裕があった。
次第に夜も更け、出席者に疲れも見え始めたころ、大広間にルイの声が響き渡った。
「皆の者、今年も大変愉快であった。しかし夜も更けた。宴はもうこの辺でよかろう」
ホストである王の宴の終わりを告げる言葉に、貴族たちはその場で姿勢を正した。園遊会は季節の区切りでもあり、終わりの挨拶の後には、王が何らかの重要な決定について発表する事も多い。
「アルベールよ」
「はっ」
王が大公の名を呼び、アルベールがその場で畏まるのを見て、貴族たちはその横で同じように畏まって言葉を待つ姫君に視線を向けた。シャルロットは、後継ぎがいない王の血縁の若い女性というだけで、注目を浴びざるを得ない政治的な存在である。アルベールが名を呼ばれたという事は、その娘に対する王の何らかの反応が予想できた。
「プロヴィンシェンの皇帝陛下より、ヘルシャー帝国学園への推薦入学枠を我が国に一つ割り当てるとの確約をいただいている。余としてはシャルロット姫をその枠に推薦しようと思うが、異存はないか?」
大広間にどよめきが起きた。シャルロットも驚きを覚えていた。この王の言葉にはいくつもの意味がある。
まず、ヘルシャーへの推薦入学枠を皇帝から割り当てられる事は、帝国がその国を重視している事を意味する。通常の場合従属国が入学枠を獲得するためには、相当な額の入学金を帝国に献納しなければならないが、推薦枠の場合それは免除される。シャルルの不祥事の後も、フランディアというよりはルイに対する帝国からの信頼は揺らいでいない、というアピールなのである。
また、シャルロット――大公家の娘を推薦するという事は、大公家にも帝国中枢との人脈を持たせる事を意味している。そして、ヘルシャーがただの学びの場ではなく、特に女性にとっては将来の伴侶を探す場である事も有名だ。
ルイは今の宣言により、帝国の権威を背景にした自分の地位の強さと、シャルロットの結婚相手は国外から迎える事を示唆することで、王権を貴族たちの好きにはさせない事を改めて示したわけである。
「光栄の極み。異存などあるはずがございません」
アルベールは拝跪の礼をとって賛同する。ルイは頷き、シャルロットに顔を向けた。
「シャルロット姫、そなた自身の存念はどうか」
「陛下の御配慮に感謝し、謹んでお受けいたします」
シャルロットも膝を曲げて一礼し、感謝の意を示した。もちろん二人はルイの考えを熟知しているが、帝国相手にそこまで根回しをしているとは思っていなかった。
(父上は戦だけの人ではないのだな……)
シャルロットは改めて自分が父を軽く見ていたことを思い知らされた。そして同時に自分のこれからを考え、内心ため息をつく。
(この父上を納得させるほどの人物……いると良いのだが)
園遊会の翌日、離宮にルイとアルベールが訪ねてきた。
「おはようございます、陛下、お父様」
出迎える娘の挨拶に、ルイはやや渋い顔になって答える。
「今は演技は良いのだぞ、シャルロット」
シャルロットは私的にはまだ父と子の関係を崩す気はないのか、とルイの言葉を意外に思いつつも呼び方を戻した。
「承知しました、お父様、アルベール殿下」
「うむ」
ルイは頷くと、アルベールと共に応接室のソファに腰掛ける。
「昨日はご苦労だった。改めて伝えておくが、合格だ、シャルロット」
「ありがとうございます、お父様」
シャルロットはルイの言葉に深々と頭を下げた。ヘルシャーへの推薦を伝えられた以上、貴婦人としての振る舞いに合格点が出た事はわかっていたが、改めてそれを確認できた事に安堵の息が漏れた。
「良くやったな、シャルロット」
アルベールが言う。彼が入学した時も推薦枠だったのだが、簡単な面接があるだけで事実上合格は決定事項である。もちろん、入学後は普通の競争に晒される事に変わりはないが、スタートと言う点では有利になったと言える。もっとも、シャルロットには成績争いより重要な任務があるのだが。
「入学が目的ではない。入学してからが始まりだ。わかっておるだろうな?」
釘を刺すようにルイが言う。
「もちろん承知しております」
シャルロットは従順に頭を下げながら、ふとアリアの事を思い出していた。彼女は今こうして自分がしているように、年長者や男性に対して従順な女性であろうとする姿勢を悪い事だと言っていた。人間はみな平等で、年長というだけで偉そうな態度をとったり、男が女を従えようとするのは間違いだ、と。
救世教のどの教派でも、それを聞いたらアリアを異端と断じて審問にかけかねない危険な発言だった。救世教では多くの男の救世主が複数の女性と関係を持ち、男は女を守るもの、女は男に従うもの、という価値観を示した事を伝えており、男主女従はこの世界における標準的な考え方である。
もちろん、女性ながら社会において指導的な地位に就いた例がないわけではない。現代でもいくつかの国は女性君主を戴いている。しかし、彼女たちの多くは下手な男性よりもはるかに強力な男性的価値観をもって国を率いており、中には戦の場で相手の騎士や将軍を一騎打ちで次々に打ち倒し、この戦場で一番強い男は私だ、と言い放った剛の者もいる。女性的な価値観をもって国をまとめているという例はなかなかない。
アリアはどうしてあんな考えを持つに至ったのだろう? そして、自分はなぜそれを当然のように受け入れていたのだろう? シャルロットはそのことを不思議に思った。
「それにしても、良く皇帝推薦枠をとれたな?」
シャルロットの一瞬の回想の間に、アルベールがルイに言う。ルイは何でもない事のように答えた。
「それは帝国も我が国への影響力を強める機会だからな。外国の姫が入学してくるのは歓迎だろうよ」
シャルロットが入学するのは伴侶探しのためである。帝国からみれば、自国の有力者の子息を彼女の結婚相手としてフランディアへ送り込むことができれば、その関係を通じて帝国の影響力をフランディアにより強く及ぼす事ができる。
「……いいのか?」
アルベールがいぶかしげに言う。帝国を頂点とする国際秩序内におけるフランディアの地位向上はルイの大目標だ。しかし、そのために国の独自性を失うのは本末転倒である。
「構わん。シャルロットが結婚して子を為せば、我らの血は王家として残り続ける。そこに帝国の貴種の血が含まれていれば、将来我が国に何かあっても帝国は保護者になってくれるだろうし、貴族どもの反発も抑えられる」
ルイはそう言い切った。フランディアを含め、この地方では帝国との関係なしに国の行く末を考える事はできない。下手に独自路線を貫こうとして帝国との関係を悪化させるよりは、卑屈に見えようと関係を良好に保つほうが結局は国の生き残りに役立つのだ。
「それにまぁ、シャルロットの婿次第では、我が国が逆に帝国の有力家系相手に影響力を持つこともできよう」
冗談めかした言葉でルイが続ける。確かに、状況によってはいずれシャルロットの子供やその子孫がそうした家の継承者になる事も、ありえないわけではない。かなり可能性の低い未来だろうが。それに。
「さすがに、まだ子供を産む事は想像がつきませんね」
シャルロットは言った。シャルルだった頃は妻を迎え子を為すことも想像のうちだったが、自分が妻や母になるところはいまだに現実味がない。しかしルイはとんでもない事を言った。
「なんだシャルロット、お前まだ大人になっていないのか」
シャルロットは真っ赤になった。さすがにこのシチュエーションで父の言ってる事の意味が分からないほど子供ではない。
「なっ……何をおっしゃるのですか、お父様!」
「そうだぞルイ。さすがの私も今のは引くぞ」
アルベールも加勢したが、それで恐れ入るようなルイではなかった。
「で、実際のところはどうなのだ」
「……まだです」
シャルロットは父のセクハラ質問に消え入りそうな声で答えた。女性になり、意識を取り戻してからほぼ半年。ロザリーからそうなった時の対処法については学んでいるものの、未だシャルロットには子供が作れる身体になった時の兆しはなかった。ベルナール医師は「発育が遅れているわけではないので、いずれ来るはず」とは診断していたが……
「そうか。お前が子を為せるかどうかは我が国の未来のかかった事だ。身体をしっかり労り、早く大人になれるよう励めよ」
ルイの言葉に無言で頷くシャルロット。さすがにこれは言葉で答えたいとは思えなかった。その時、ルイはそれまでとは違う神妙にすら聞こえる口調で言葉を続け始めた。
「シャルロット、お前は私をひどい父親だと思っているだろう?」
「いえ、そんな事は……」
シャルロットが否定しようとすると、ルイは片手をあげて娘の言葉を制した。
「否定しなくていい。私が父親としては失格もいいところの人間だという事は、自分が一番よく知っている」
ルイはそう言って自嘲するように笑みを浮かべた。
「私が理想とする王としての姿は、理想とする父親としての姿と相反するものだった。両立ができないと悟った時、私は王である事を選んだのだ。お前がこうなった責任は父としての役割を果たせなかった私にもある……済まない」
「お父様……」
シャルロットは初めて見るルイの父親としての弱さを曝け出した姿に、言葉を続けられなかった。
「それでも……私はお前に与えた使命を取り下げる気はない。これからも、私は父より王であり続ける事を選ぶ。だが、お前が遠い国に行く前に、父としての気持ちは伝えておきたかった。それだけだ」
ルイの言葉に、シャルロットは何かを返そうと言葉を探し……ふと、ルイの横に座るアルベールの様子に気が付いた。彼は胸のところに手を当て、親指で心臓の上を二度三度つつくような仕草を見せた。
(……あ)
シャルロットは昨日、アルベールが言ったことを思い出した。政治にかかわる者は決して本心を見せない。言葉の裏にあるそれを見抜くことが大事だ、と。今こうして父としての顔を見せているルイだが、それが本音とは限らない。それによってシャルロットの気持ちを操ろうとしているのかもしれない。
シャルロットはアルベールに微笑みを見せ頷いた。助言に対する礼のつもりだった。そして、それでも……例え酷い親であったとしても……それを信じたいのだという気持ちを込め、シャルロットはルイに答えた。
「お父様の言葉、何よりの餞別と思います。必ず、素晴らしい伴侶を探してまいります」
父の課した使命に応えたい、応えるのだという決意を見せ、そしてちくっと針を刺した。
「そうですね。お父様より素晴らしい人を。一緒に子供を慈しみ育てられる人を」
「こいつ……まぁ良い。その意気だ」
素晴らしい親ではない、という事は肯定したシャルロットに、ルイは苦笑を浮かべた。
離宮を辞去し、王宮へ向かいながら、アルベールはルイに問いかけた。
「なぁルイ、お前、シャルロットに対してどこまで本音で話したんだ?」
ルイは質問を質問で返した。
「私がどう答えたところで、お前は信じないんだろう?」
その質問返しには答えず、アルベールはルイに釘を刺すように言った。
「俺はあの娘の味方をすると決めている。もしお前があの娘をいいように利用して使い潰そうとするなら、俺はお前を許さんからな」
義兄の半ば宣戦布告ともとれる言葉に、ルイはしばらく黙っていたが、肩をすくめておどけたような口調で答えた。
「肝に銘じておくよ。だが私は心配ないと思っている。お前のその反応を見てればな」
「お前な……俺の反応は参考にならんと思うぞ」
アルベールは呆れたように答えた。アルベールがすっかりシャルロットを我が子のように可愛がっている事を指して、彼女が男性に好意を抱かせるだけの魅力を身に着けているとルイは言いたいのかもしれないが、アルベールにしてみればシャルロットは若くして亡くなった妹の生き写しのような容姿を持った少女なのである。身内の情が湧かないほうが不思議というものだ。
「俺から見れば、お前があの娘を見て道具と割り切れる感性のほうが不思議なんだがな」
アルベールが言うと、ルイの顔からすっと表情が消えた。
「好きで割り切っていると思っているのか?」
底冷えのするような、殺気を孕んだ声でルイが言う。
「私が今まで、誰に勧められても後添をとらなかった……その気持ちをお前はわかっているのか? 私の数少ない私情だぞ」
戦場でこんな殺気を叩きつけられたら、並みの相手は震えあがり何もできないままルイに瞬殺されてしまうかもしれない。アルベールもさすがに背筋が寒くなるのを感じたが、ルイの殺気はその一瞬だけでしぼむように消えていき、後には肩を震わせる弱々しい男の姿が残った。
「彼女が命と引き換えに残した子だぞ……愛してないわけがないだろう……」
アルベールはルイの肩を叩いた。
「それがお前の本音だと受け取っておくよ。その気持ちを、少しはシャルロットにも向けてやれ。あの娘が本当に甘えたいのは、愛されたいのは俺じゃない。あの子は……シャルルは、父親のお前に褒めてもらいたかったんだ」
ルイは首を横に振った。
「今更どの面下げて優しい父親になれというんだ。私は父である前に王なのだ。それもまた偽りない本音だぞ」
「王である事をやめてからでもいいだろう」
アルベールは先代王のアンドレの事を思い出しながら言った。退位し、離宮で悠々自適の生活を送っていた晩年のアンドレは「好々爺」という言葉が身体を持ったような人物だったが、王として現役だった頃は厳格で冷徹な判断を下すことを躊躇わなかった。
「そうか……そうだな」
頷くルイ。アルベールは自分が王でなくて本当によかったと思う。大公という格だけは高いが、国政に関わる事もない身でいるから、家族を愛していられる。それを捨てて王である事を優先するというのは自分にはできない事だ。
考えてみれば、王家に取って代われる地位であるがゆえに、下手に国に分裂の種を蒔く事になってはと、国政から遠ざかってきた大公家もまた、私情より公の立場を優先してきたのかもしれない。あまりルイを責められる立場でもないな、とアルベールは思った。
(まぁ、これからはこいつのこういう愚痴を少しは聞いてやってもいいかもしれんな)
ルイのためにも、シャルロットのためにも、してやれることがあればしてやろう。それがアルベールの抱いた新たな想いだった。
それからしばらく、シャルロットは留学のための準備に追われていたが、出発の日がやってきた。離宮の前に王族専用の旅行用馬車が止められ、その周囲に護衛に着く十人ほどの騎士たちが展開する。見送りにはルイとアルベールの姿もあった。
「それでは参りましょう、ロザリー、ロベール」
窓からその様子を見たシャルロットが振り返って言うと、ロベールが手を挙げた。
「いや、俺は別行動させてもらいますよ、姫様」
最も身近なはずの護衛の、突然の職務放棄ともとれる言葉に、シャルロットは首を傾げた。
「どうして?」
とはいえ、ロベールがいい加減な事を言う男ではない事は、この半年の付き合いで分かっている。確認のため理由を聞くと、ロベールは窓の外を指さした。
「俺は騎士団の一員という扱いですが、実際は違いますからね。本物の人たちの前に顔を出すわけにゃいかんのですよ。一応陰からは見守ってますんで、また帝都で会いましょう」
そう答えると、ロベールはまるで最初からその場にいなかったように一瞬で姿を消していた。
「あの男……せめて荷物運びくらい手伝ってくれればいいのに」
ロザリーが冷たい口調で言う。
「まさかそれで逃げたわけではないでしょうね……?」
シャルロットも冷たい声を出す。絞ったとはいえ、荷物は二人が運ぶにはちょっと多すぎた。結局、御者や騎士の従卒たちに手伝ってもらって、馬車に荷物を運びこむ事になり、出発は予定より少し遅れる事になった。
そうした準備も終わり、シャルロットが馬車の前に立つと、ルイが声をかけてきた。
「いよいよだな、シャルロット……身体に気を付け、良く学ぶのだぞ」
ルイの言葉に、シャルロットは深々と頭を下げる。今日のルイの見送りには、この前とは違う親としての暖かい気持ちが感じられるような気がした。
「はい、陛下。お心遣いに感謝いたします」
シャルロットがそう答えると、ルイは待機している騎士たちのほうを見た。
「お前の無事な道中のために、精鋭を選りすぐった。紹介しよう。護衛団長のジェルマンだ」
上級の騎士にのみ許される、金糸で縁取りをした赤いマントに身を包んだ精悍な男性が、恭しく跪いてシャルロットにキスハントをした。
「初めて御意を得ます、シャルロット姫様。今回の護衛団長を務めます、ジェルマンと申します。道中全身全霊を挙げて姫様の身をお守りさせていただきます」
ジェルマンの事は良く知っている。フランディアの騎士団は黒龍、金虎、銀狼という幻獣の名を冠する三つあるが、そのうちの第二席にあたる金虎騎士団の団長であり、騎士団全体でも有数の使い手だ。何度も王主催の馬上槍試合大会で優勝している強者であり、本来ならルイと共に戦場に赴いて良いほどだが、あえて国の守りを任されたことからもルイの信任がわかる人物である。彼が同行しているなら、ロベールがいなくとも何の問題もないだろう。
「よろしくお願いいたします、ジェルマン卿。それに護衛隊の皆様も」
シャルロットが言うと、騎士たちが一斉に抜剣し、それを天に掲げると勢いよく身体の横へ振り下ろした。出陣にあたって献身を誓う儀式だった。
「騎乗!」
ジェルマンが号令を発し、騎士たちがそれぞれの従士たちの手を借りて馬に跨る。ジェルマンの妙に深く兜を被った従士が高々とフランディアの旗を掲げる。
「それでは行ってまいります、陛下、お父様」
もう一度シャルロットは二人の父親に頭を下げた。
「息災でな」
ルイが言い、アルベールはシャルロットを抱擁した。
「何かあったら、アイフェル伯爵のヴァルター・フォン・リッペを尋ねると良い。私が学生時代に親しくしていた友人で、今は宮内省にいる。必ずお前の助けになってくれるだろう」
「はい、お父様」
シャルロットはアルベールの教えてくれた相手の名を頭に刻み、彼を軽く抱き返して頷いた。名残は惜しいが、もう出発の時だった。ロザリーの手を借りて馬車に乗り込むと、ラッパ手が高らかに出発を知らせるファンファーレを吹き鳴らした。
「出発!」
ジェルマンの号令一下、馬車とそれを囲む護衛隊が動き出す。シャルロットが馬車の後部窓から振り返ると、アルベールは手を振って、ルイは腕を組んだまま、それでも彼女のほうをじっと見つめたまま別れを告げていた。
その姿もすぐに城門の向こうに消え、一行は城下の大通りを進んでいく。先触れとなる騎士の姿に貴人が来ることを知った市民たちが道の両脇に下がり、通り過ぎる馬車を見送った。その中に見た事がない美しい姫が乗っていることを知り、ざわつく者たちもいたが、シャルロットにはそれは聞こえなかった。
(……これで、この街もしばらく見納めか)
城下への微行で立ち寄った様々な場所が視界に入るたびに、シャルロットは感慨で涙が溢れそうになる思いだった。シャルルとしての青春の思い出が詰まった街並みだった。三年間の期限付きとはいえ、そこを離れて旅立つ事にこれほどの寂しさを覚えるという事実は、改めてシャルロットにこの街――ひいてはフランディアという国への愛着を自覚させた。
そして、馬車が王都を出てしばらく行ったところで、シャルロットはもう一か所、絶対行っておかなくてはならない場所……というより、会うべき人の存在を思い出し、馬車の窓から顔を出してジェルマンを呼んだ。
「お呼びですか? 姫様」
馬を寄せてきたジェルマンに、シャルロットは行き先を告げた。
「どうしても、行きたい場所があるのです。少しだけ寄り道をさせてください」
行き先を聞いてジェルマンは怪訝な表情になったが、頷いて隊列に指示を出す。馬車は街道を離れ、脇道に入ると森に覆われた丘を登って行った。それは三か月前、シャルロットが自分との決別を決めた場所。
(彼女はどうしているだろう?)
シャルロットがその人に思いを馳せた時、馬車は目的地――咎人の修道院の前に到着した。突然やってきた王家の馬車に目を丸くしているのは、幸運にもシャルロットがどうしても会いたかった人――マリーだった。たまたま門前の掃除中だったようだ。
「ご無沙汰しております、マリー様」
「まぁ、シャルロット姫様……お久しぶりです。もう車椅子がいらなくなったのですね?」
馬車から降りたシャルロットが挨拶すると、マリーは相好をほころばせた。そう言えば前に来た時はそうだったな、と思いながらシャルロットは頷いた。
「はい、おかげさまで」
「それは何よりでした。今日はどうされたのですか?」
我が事のように喜ぶマリー。シャルロットはこの前はしっかり見る事の出来なかったマリーの顔を見つめて答えた。
「実は、ヘルシャー帝立学園に入学する事になりました」
「ヘルシャーに? それはおめでとうございます」
マリーもヘルシャーに通う意味は知っているが、それはそれとしてめでたい事も間違いない。シャルロットの入学を素直に祝福してくれた。
「ありがとうございます」
シャルロットは礼を返すと、マリーの手を握った。
「ですから、わたしは三年ほどこの国へ戻ってくることはできません。その前に一目、マリー様にお会いしてご挨拶がしたかったのです」
握った手から伝わってくる、マリーの体温。それは婚約者同士として過ごした十数年の間に、ほとんど意識した事がなかった感覚だった。手を繋いだ事がないわけではない。心があまりに遠すぎてわからなかったのだ。その時の長さを、それを無為にしてしまった事の罪深さをシャルロットは思った。
しかし、今は後悔に囚われて足を止めている場合ではない。シャルロットは手を握られた事に当惑しているのか、どう反応して良いかわからない様子のマリーに言った。
「どうかご息災でお過ごしください。そして、どうか、マリー様ご自身のための幸せがありますよう祈っております」
自分の……シャルルの事は忘れて、幸せになって欲しい。本当はそう言いたいが、口にする事は許されない想いを言葉の裏に込めて言う。
「姫様が、どうしてわたくしの事をそこまで気にかけられるのかはわかりませんが……」
マリーはシャルロットの手を握り返した。
「その思いに感謝し、わたくしも姫様に良き学園生活と良き出会いがあるよう、ここから祈らせていただきます」
そうか、とシャルロットは残念に思う。「ここから」と言う事は、マリーは今後もずっとこの修道院で空の棺を守って暮らすのだろう。
(いつか、私が正体を明かして良い時がくる、その日まで……)
その日を必ずもたらして見せる。その決意と共に、シャルロットは再び車中の人となった。見送るマリーに手を振って言う。
「行ってまいります、マリー様」
再会を約する言葉に、マリーもまた頷く。
「はい。行ってらっしゃいませ」
本当は、夫と妻として、互いへの慈しみと共にこんなやり取りをする可能性もあったのかもしれない。しかし、失われたそれに代わる、より良い未来を掴むのだと誓って、シャルロットは帝都への道を進んで行った。