第6話 園遊会の決意
春の恒例行事である花の園遊会。王城の中庭に設けられ、庭師たちが丹精込めて手入れした花壇に咲き誇る花々を愛でながら、王族と貴族たちが親睦を深めるための行事だ。夜には舞踏会もあり、未成年の子女にとってはデビュタントの機会として、まだ未婚で婚約関係もない青年層には出会いの場としても機能している。
中庭の花壇に囲まれた広場に設けられたガーデンパーティの会場では、酒杯を手にした国王ルイが、ひっきりなしに挨拶に訪れる貴族たちに気さくに応対している。そこへ人波を割って現れたのは……
「陛下、ご無沙汰しております」
「おお、アルベール。久しいな」
大柄な体を折り、胸に手を当てて挨拶するロワール大公アルベールに、親しく声をかけるルイ。王と大物貴族のやり取りに周囲の目が注がれるが、この日それ以上の注目を浴びていたのは、もちろんアルベールが連れている姫君……シャルロットだった。年配の貴族の中には、生前の王妃ディアーヌに生き写しのシャルロットの姿にざわつく様子も見られた。
「アルベール、その愛らしい姫を紹介してはくれないのか?」
ルイの言葉に、アルベールは頷いてシャルロットを前に出す。
「我が娘シャルロットにございます。さぁ、陛下に挨拶しなさい」
シャルロットはアルベールの言葉に頷くと、微笑みを浮かべ、身にまとう可憐なドレスのスカートをつまみ、膝を折って優雅に一礼する。
「初めて御意を得まして光栄至極に存じます、陛下。ロワール大公アルベールが娘、シャルロットと申します」
シャルロットの主観的には茶番も良いところのやり取りなのだが、もちろん彼女は真剣だった。ルイは満足げに笑みを浮かべ、シャルロットを褒めた。
「うむ。見目好く、礼儀もよく心得ている。良き娘を持ったな、アルベールよ」
「有りがたき幸せ」
アルベールはシャルロットと共に頭を下げた。シャルロットは安堵の息をつく。少なくとも、ルイとしては合格点をくれたのだ。あとは貴族たちにバレなければいい。
「なに、自信を持っていいぞ、シャルロット。今のお前を見て魅了されない男がいたら、そいつは衆道趣味だぞ。賭けてもいい」
小声でアルベールが言う。それくらい、今のシャルロットは魅力的な愛らしい姫君だった。身に着けているドレスもそれを強調している。
「……そうですね。フランソワのドレスの魅力を信じることにします」
当のシャルロットは自分の魅力とやらにそんなに自信を持つことはできなかったのだが、ドレスの力は信じることにした。
数日前、シャルロットはドレスが出来上がったというフランソワの連絡を受けて、ロザリーと共に工房に赴いた。出迎えたフランソワは、それこそ心魂を削るような覚悟で作業に向かっていたのか、その面差しは再会の時よりもさらにやつれたものになっていたが、目には力強い自信の光が輝いていた。
「お待たせしました。今の私にできる最高のものができたと自負しております。ご覧ください」
フランソワはそう言って、ドレスを着せたマネキンにかけられていたカバーをとった。
「……!」
シャルロットは絶句した。そのドレスは、まるでそれ自体が光源となって部屋を照らしているかのような、鮮烈な存在感を放っていた。
上半身は淡い空色だが、次第にグラデーションしてスカート部分では淡い緑色に変わっており、春の空と野原をイメージしたデザインだ。野原を表すスカートの部分には春の花々のコサージュが無数に散らされており、見るからに華やかな印象を与える。
上半身もただの空色だけではなく、雲をイメージしたレースで彩られ、それまでほとんど青系の寒色だけで作られていたフランソワのドレスとは一線を画す、彼の心象の変化を表したデザインだった。それほど服装にこだわりがないシャルロットにも、これが素晴らしいものだという事は良く分かった。
「これは……これを、わたしが着ていいのでしょうか……?」
だから、シャルロットはこんな素晴らしいドレスを自分が着ていいのかわからなかった。フランソワは微笑みを浮かべ、もちろんです、と頷いた。
「着ていただけなければ困ります。これは貴女のためのものなのですから。他の誰にも着こなすことはできません」
さらに、やはり言葉を失っていたロザリーも目を輝かせて試着を提案してきた。
「とにかく、着てみましょう。きっとお美しいですよ、これをお召しになった姫様は」
フランソワも試着を薦めてきたため、シャルロットは戸惑いながらも、ロザリーと針子の女性たちに手伝ってもらい、ドレスを試着した。女性陣はうっとりした目でシャルロットのドレス姿を褒め称えた。
「素晴らしいです、姫様……フランソワ様、本当に良き仕事をなされましたね。文句のつけようがありません」
ロザリーが太鼓判を押した。
「私たちも縫っている間中、素晴らしいドレスだと思っていましたけど……着るべき人が着ると、全く違います」
針子の一人も感激の表情で言った。フランソワはそれらの称賛に頷くと、シャルロットの前で跪き、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、シャルロット様。おかげで職人として満足の行く仕事をさせていただきました。これ以上のものが作れるよう、日々精進させていただきます」
「い、いえ。頭を上げてください、フランソワ様」
シャルロットはフランソワの手を取った。そのためには本来ドレスでは難しい身を屈める、という動作をしなくてはいけないのだが、フランソワの作ったこのドレスはまるでシャルロットの動きを妨げなかった。
「こちらこそ、素晴らしいものを作っていただき、本当に感謝しています。ドレスがこんなに動きやすいなんて……」
その動きやすさという点でシャルロットは感激していた。今まで着ていたドレスはいったい何なのだ、という気持ちになる。女性らしい体形を強調し、着用者の魅力を高めるという点でドレスは優れているが、反面動きにくく息苦しく、決して着心地に優れたものではない。
「そうですね。今までも女性の皆さんからは、ドレスを着る時の辛さというものは聞いていまして……何とか工夫できないかと思い、縫い方などを今までとは大きく変えています」
フランソワが言うと、針子たちの目が少し冷たくなった。どうやらその今までにない工夫のおかげで苦労させられたようだ。
「腕を振ったり、腰を捻ったりしても、ほとんど抵抗はないようにと考えてあります。ダンスも格段に楽になるかと」
それを聞いて、シャルロットは腕を振ったり、腰を捻ったりしてみた。普通のドレスなら布地が突っ張って動きにくいと思うところだが、確かにそういう抵抗が感じられない。これならフランソワの言う通り、ダンスの疲れも減り、不安のある体力面での問題がなくなる。シャルロットは改めてドレスの出来映えに満足した。
その反応を確かめてか、フランソワは部屋の隅にあったイーゼルにかけてあったカバーを払った。カンバスを外し、シャルロットに捧げるようにして差し出す。
「これは、ドレスとは別に私から個人的にシャルロット様への贈り物とさせていただきます。受け取っていただければ幸いです」
「絵ですか? これは……わたし?」
シャルロットは差し出された絵を見つめた。それは、今着ているこのドレスを身に着けた自分の肖像画だった。
「はい。元はドレスのデザイン用に、イメージを固めようと描いたものです」
フランソワが頷く。シャルロットは何度かこの工房に足を運んではいるものの、絵のモデルとして拘束されたことはない。それなのに、記憶だけでここまで描けるものなのか、とフランソワの画才に感心した。それくらい、絵のシャルロットは活き活きと描き出されていたのである。しかし、実際のシャルロットと絵では違う部分がある。絵の中のシャルロットは、本当に何の翳りもない、無邪気な、純粋無垢な笑顔を浮かべていた。自分はこんな表情は見せたことはないはずだ。
「恐れながら……」
フランソワが言葉を続ける。
「シャルロット様は、私が過去に囚われていると看破なされましたが、事情は分からないながら、シャルロット様ご自身も何か心から笑えない事情を抱えておられると……私にはそう思えました。ですから、いつかシャルロット様がこの絵のように屈託なく笑う事ができる日が来る事を、私は祈っております」
僅かの出会いの間でも、フランソワはシャルロットの笑顔に翳りがあることを見抜いていたのだ。それを聞いて、シャルロットは絵を受け取り、そっと胸に抱くようにした。かつての忠臣の暖かい思いが、絵から伝わってくるような気がした。
「……ありがとうございます、フランソワ様。このドレスも、絵も、わたしの宝として大事にさせていただきます」
事情を語ることはできないし、この絵のように笑える日が来るかどうかもわからない。それでも、シャルロットはフランソワの思いを大事にしようと誓った。
その大切なドレスが、フランソワに貰った気持ちが、自分を後押ししてくれる。傍にいるアルベールが守ってくれる。そう思うと、シャルロットはこの不安だらけの園遊会の中でも勇気が湧くのを感じた。そう思った時、一人の貴族がアルベールに近寄ってきた。
「大公殿下、お久しぶりです」
「おお、元気かな、ラガティア侯爵」
アルベールがにこやかに応じたのは、宰相でありマリーの父親、かつてのシャルルにとっては政敵だったラガティア侯フィリップだった。
(しばらく見ない間に少し老けたな)
シャルロットは思った。かつて国政を巡り論争し、対立し、時に妥協し、しかし圧倒的に自分の負けが多かった相手だが、その頃のフィリップはもっとギラギラとした欲望をみなぎらせた雰囲気を漂わせていた。しかし、ほぼ一年ぶりに見るフィリップは、そうした雰囲気を薄れさせていた。髪にも白髪が増えた気がする。
「ははは……まぁまぁですね。それにしても」
フィリップはシャルロットのほうを見た。
「大公殿下に、まだこのように美しい姫様がいるとは知りませんでしたぞ」
アルベールは公的には一男二女の父として知られており、上の二人の娘は既に他家に嫁いでいる。どちらも美女として名高い。長男はもちろん将来の大公家の継承者で、普段は自領で父の補佐をしている。
「うむ。幼いころから病弱で、今まで領地の外に出したことがないのでね。幸い病も治り、こうしてお披露目もかなって、私も肩の荷が下りた気分だよ」
笑うアルベールにそれは何より、と笑顔で応じると、フィリップはシャルロットにキスハントと共に挨拶した。
「シャルロット殿下、侯爵の位を賜っております、フィリップ・ド・ラガティアにございます。ご挨拶がかない、恐悦至極に存じます」
「シャルロット・ド・ロワール=ブリガンドと申します。こちらこそ、よしなにお願いいたします」
挨拶を返し、シャルロットはあることに気が付いた。フィリップが宰相と名乗らなかったのだ。
「失礼ですが、ラガティア侯は宰相をお務めでいらっしゃるとお聞きしていたのですが……」
シャルロットが聞くと、フィリップは苦笑を返した。
「それはいささか古い情報でございますな。宰相の椅子は半年前にお返ししました。今は無官の身でございますよ」
シャルロットは酢を飲んだような表情になりかけ、慌てて平静を装った。
「そ、そうでしたの……申し訳ありません。不躾な事をお聞きしました」
「いえ、かまいません。それでは私はこれにて」
シャルロットの謝罪に笑顔で応じ、フィリップは再び人ごみの中に紛れて行った。それを見送るシャルロットに、アルベールが屈みこんで耳打ちをする。
「そなたを補佐しきれなかった責任をとると言われてな。ルイも慰留したが本人の意志が固く、そういう事になったのだ」
シャルロットの心をまた黒い何かが塗り潰していく。しかし、アルベールは彼女の頭を安心させるように撫でて言った。
「そなたが気にすることはない。それが本当の動機かなど、あやつ本人にしかわからん。政争をするうえで不利になる事実ではあるから、先手を打ってやめる事で非難をかわしただけとも言える」
王太子廃嫡・賜死事件は愚かな王太子の自滅というのが貴族社会全般での見方ではあるが、それはそれとして「補佐しきれなかった宰相にも原因はある」という主張が、政争においてフィリップと対立する派閥の武器として使えるのも事実である。また、フィリップが将来の王妃を出した家であることを武器にしてきた事も。武器をなくし不利になったフィリップが、辞任により身を守ろうとするのも処世術としてかもしれないのだ。
「そう……なのでしょうか?」
シャルロットの問いには答えず、アルベールは笑った。
「そなたはそういうところは真っ直ぐだな。ルイももう少し腹芸というものを教えておくべきだっただろうに」
そう言ってアルベールはシャルロットの頭に置いた手をどけると、真剣な表情になった。
「我々がいるのは、誰もが本音を語らぬ世界よ。言葉には常に裏の意味があると心得、それを読むように努めると良い。そなたは決して愚かではない。そのように考える事ができるようになるはずだ」
「はい……お父様」
シャルロットは頷いた。王太子として政治にかかわっていた頃は、そうした腹芸的なやり取りが嫌で仕方がなかった。しかし、嫌だからと言ってそれと向き合うのをやめてしまった事もまた、自分がこうなった理由だろう。後から相手の真意を知ってそれに打ちのめされるなどと言う事には、もうなりたくはなかった。
そんな父娘の話が終わるのを待っていたのか、遠巻きに見ていた貴族の令嬢たちが一斉にシャルロットを囲むように近づいてきた。
「シャルロット様、お会いできて光栄です」
その先頭に立っている令嬢にシャルロットは見覚えがあった。ラガティア侯爵家、アスティア侯爵家と並ぶ権勢を誇る……
「確か……アンリエット様ですね。ポエティア侯ヴィラール家ご息女の」
シャルロットが言うと、アンリエットは顔を輝かせた。
「まぁ、初めて会うのに名前を知っていただけていたなんて……!」
あ、ちょっと失敗したかな、とシャルロットは思った。アンリエットとはもちろん初対面ではない。シャルルだった頃には何度もあった事があり、舞踏会でダンスをしたこともある。しかし、シャルロットの姿で出会うのは初めてなのだから、知らない人のふりをしておくべきだった。
「感激です。どうかわたくしの事はエティと呼んでくださいまし」
一方、アンリエットの方は感激したと言いつつ、グイグイと距離を詰めてこようとしてきていた。思えば、シャルルは昔からこういう彼女の強引さがちょっと苦手だった。どうやら、アンリエットというかポエティア侯はシャルルとマリーの不仲に付け込んで、婚約関係を奪い取ろうとしていた節があり、舞踏会でも強引にダンスのパートナーになろうとしたりしていた。
マリーが面と向かってアンリエットに婚約者のいる男性に迫るはしたなさを指摘しているのを見たこともあるが、アンリエットにはまるで蛙の面に水といった様子で応えた風もなく、その後も行状を改める事はなかった。シャルルはそういうポエティア侯家のやり方自体あまり好きではない。まだマリーのほうが好ましかったくらいだ。
「では、エティ様と呼ばせていただきます」
しかし、シャルロットとしては露骨に敬遠するそぶりを見せるわけにもいかないし、見せたとしても効かない相手ではある事は知っていたので、表面上だけでも友好的で行くようにした。
「光栄です。それにしても、シャルロット様のドレスは素晴らしいものですね。どちらの工房で仕立てられたのですか?」
アンリエットの質問に、シャルロットはドレスに興味があったのか、と納得した。フランソワのデザインしたドレスが人気を呼んでいることは知っているし、流行に敏感なアンリエットのような上流階級の女性が興味を持つのはおかしくない。
「王都のシャルバン工房ですが……」
しかし、シャルロットがそう答えた瞬間、アンリエットの雰囲気が一瞬変わった。それまではにこやかにしていたのに、その目に氷のような冷ややかさが宿ったのである。
(……!?)
驚くシャルロットだったが、アンリエットは一瞬でその気配を消し去り、表面上は穏やかさを保ったまま言った。
「まぁ、さすがお目が高い……わたくしもオーダーしたのですが、三か月は待たされると言われましたのよ」
シャルロットは適当に相槌を打ったが、今のは自画自賛だな、と思った。シャルロットを褒めているようで、それと同じ工房のドレスを注文しようとしたアンリエット自身も目が高いと言っているのと一緒だ。
その後もしばらくアンリエットと会話したシャルロットは、彼女が何をしようとしているのか、だいたい理解することができた。
(要は、こいつは私に対してマリーにしたように優位に立ちたがっているのか)
と。
性格には問題があるが、アンリエットとマリーを比べたら、おそらく十人中九人はアンリエットの方が美女だと答えるだろう。家格で互角でも自分のほうが美しいのに、なぜマリーが王太子の婚約者に選ばれたのか、という嫉妬心から、アンリエットはマリーに対して対抗意識を持ち、何かと自分の優位性を誇示したがっていた。
そのマリーが出家したことで、現在社交界の若手令嬢たちのトップの座は、アンリエットのものになったわけである。そこへ家格で上回るシャルロットが出てきた事で、アンリエットはシャルロットを潰すべき敵手だと認定したのである。自分が持っていないフランソワのドレスをシャルロットが持っていることも気に入らなかったのだろう。
(……女って怖い)
現状認識ができたところで、シャルロットはうんざりした気分になったが、どうせこの園遊会が終わればすぐに留学だ。その間だけの付き合いでしかないアンリエットにムキになって対抗する必要はない。せいぜい良い気分にさせておけばよいだろう、とシャルロットは決めた。
「エティ様の話はとてもためになりますね。わたしは今までこういう席に出たことがありませんので、これからもいろいろと聞かせていただければ嬉しく思います」
適当なところで、シャルロットはアンリエットを敬うように言って頭を下げた。
「まぁ、大公家の姫ともあろう方が、わたくしごときに頭を下げるものではありませんわ。こちらこそ、これからもよろしくお願いします」
アンリエットはたしなめるように言ったが、自分がシャルロットより社交界において上だという確信を持ったのか、その声音には嬉しさと勝者の余裕が滲み出ていた。
(そういうところじゃないかな……)
家としての勢力はラガティア侯爵家、アスティア侯爵家と並ぶポエティア侯爵家だが、国政で要職を得たことは無く、そのことがポエティア侯家のコンプレックスになっているらしい、とは聞いているが、代々そういう性格の人間ばかりだからダメなのではないか、とシャルロットは思った。
しばらくしてアンリエットが取り巻きの娘たちと共に去っていくと、シャルロットはため息をついた。
「これが女性の社交界……怖い……」
思わず口に出すと、アルベールがおいおい、と呆れたように笑った。
「そうは言うが、学園に行けばあれが日常的になるんだぞ。学生でいるうちは、こうしたたまの社交の場よりも遥かに濃密な人付き合いをしなければならないからな」
頑張ります、と答えようとして、シャルロットは気づいた。
「その口ぶり……もしかして、お父様はヘルシャーに入学したことがおありなのですか?」
シャルロットがそう尋ねると、アルベールはうむ、と頷いた。
「別に秘密にしていたわけではないのだが、もう何十年も前だし、男子クラスだからあまり参考にはなるまいと思ってな。今まで言っていなかったのだよ」
「それでもかまいません。その頃のお話を聞かせてください」
シャルロットが重ねて聞くと、アルベールは「では何か食べながら話そうか」と言って、会場の隅にある立食スペースへ移動する。その間も何度か他の貴族たちからの挨拶を受けつつ、二人は立食スペースでテーブルの一つを確保した。ここにいる間は、礼儀として話しかけられる事はない。
「あれは、私がまだ十四か十五くらいの時だったな……」
酒のグラスを口に運びながら、アルベールはヘルシャー時代の話を始めた。
先代王アンドレの方針により、帝国への人質も兼ねる形でアルベールはヘルシャーの門を潜った。当時から体格はあるものの、特に武術を修めているわけでもなければ、勉学に秀でているわけでもなかったアルベールは、平凡な一学生として三年を過ごすに留まっている。
もっとも、そこで学んだ帝国の進んだ諸制度に関する知識は、大公家を継いでからの統治に役立ったことは間違いないし、国境に近い領地を治める関係で必然的に発生する、他国の領主との付き合いには、その頃の人脈が生かされているから、学園への留学経験は今でもアルベールの財産ではある。
「まぁ、私はその程度の存在だったが……上位を争う者たちは、それはもう凄まじいとしか言いようがない切磋琢磨を続けていたよ」
アルベールは思い出す。彼の在学中、成績上位を争っていた学生たちは、いずれも卒業後に重きをなす地位についている。現在皇帝の下で閣僚を務める者たちは、ほぼ例外なく学生時代に成績最上位層にいた事がある者たちだ。
ただ学問に秀でているだけでは人を従わせることはできない。彼らは「小宮廷」と呼ばれる学生の自治組織を構成し、まさに宮廷を模した役職に就いて、学園の運営に関わっていく。もし皇族が在学していれば、その皇族が小宮廷の頂点である総代の地位に就き、閣僚となる役員たちを率いる。皇族がいない場合、役員たちの合議で小宮廷は運営される。
もちろん小宮廷の権力は学園内にしか及ばないが、その経験を通じて役員たちは人を使う事を学び、将来の皇帝や閣僚になるべく研鑽を積むのである。学園の名前が「統治者」を意味するのは伊達ではないのだ。
男子は主に政治家や高級軍人になるための学問や技術を学ぶが、女性の場合は家政について学ぶ。一朝事あらば出陣する夫を支える良き妻として、子を産んだ後は賢き母として、家門を切り盛りする事が貴族階級の女性の役目だ。
すなわち、貴族階級において女性が求められる役割は統治者、教育者、奉仕者、交渉者といった多方面に優れた人物であることだ。決して左団扇の優雅な生活など期待してはならないのである。
当然、学園における女子クラスの上位争いも男子のそれに勝るとも劣らぬ熾烈さで展開されていた。
「当時、学園には皇妃の座を争う同年代の令嬢が二人在籍していてね。その争いはそれはもう男子には想像もつかないくらい凄絶熾烈なものだったそうだよ」
「マリーとエティが通っていたような状態ですか?」
アルベールの回想の途中でシャルロットが聞くと、アルベールは首を横に振った。
「どっちかというとアンリエット嬢が二人いたようなものだな。マリー嬢は……まぁ、そなたと同じで割と正々堂々とした性格だから」
両者は実家の権力を背景に派閥を構成し、女子学生を取り込み、豪華な茶会を開いては自らの権勢を誇示し、ありとあらゆる機会をとらえて自分こそが皇妃にふさわしい存在である、という事を喧伝する事に努めた。その結果……
「隣国の王女が第二皇子……現在の皇帝陛下に嫁がれてね。令嬢本人はもちろん、両家の落胆たるやそれは見ものだったよ」
アルベールの言葉にシャルロットはくすっと笑い……ん? と首を傾げた。
「現在の皇帝陛下は第二皇子であられたのですか? 第一皇子はどうされたのでしょう」
帝国も基本的に相続は長子優先主義だったはず、とシャルロットは記憶していたのだが、アルベールも詳しい事情は知らないようだった。
「その頃は私の入学前だからな。知っている限りでは第一皇子は後継争いを嫌って出奔されたとか」
当時の第一皇子アウグストは血統の良い第一夫人の子で、長子だが才能については平凡な人物。第二皇子テオバルトはやや位階の低い出自の第二夫人の子だが、才能には非凡なものがあった。継承権の高い凡人と低い才人。後継者争いに名を借りた宮廷内の権力闘争が起こる材料はそろっていた。
しかし、二人の皇子同士は仲が良く、お互いの間には憎しみも遺恨も無かった。結局、アウグストの方で弟が後を継ぐべきだと思ったのか、出奔して行方知れずになってしまい、皇太子の地位は自動的にテオバルトのものとなった。
テオバルトは皇位継承後に手を尽くして兄の行方を探させたらしいが、結局今に至るまで何の手掛かりもなく、アウグストがどこへ行ってしまったのかは謎のままである。
ちなみに、シャルルの「死」に立ち会ったコルベルク伯が皇兄と同名なのは偶然である。アウグストというのは帝国の上流階級では割と一般的な名前なのだ。
「話がそれたが、シャルロットもそういう修羅場に巻き込まれる可能性が無しとは言えない。自ら覇権を目指すか、それともそれを支える側になるか……入学したら、情勢をよく見極めて考える事だ」
「わかりました、お父様」
頷くシャルロットに、アルベールは笑いかけた。
「よろしい。ちょっと話が長くなったな。お前と話したい人が待ちかねているようだよ」
シャルロットはアルベールと同じほうを向き、思わず「げっ」という姫君らしからぬ声を上げそうになるのを必死に抑えた。そこにいたのはアンリエットとその取り巻きたちだった。
(またあいつか……うん?)
シャルロットはアンリエットとその取り巻きの令嬢たちの列の向こう側に、見知った顔を見つけた。マリーの親友だったポリニャック伯爵令嬢のコンスタンスだ。マリーとよく一緒にいたのに加えて、華やかな美貌の持ち主だったのでよく覚えている。
しかし、今日のコンスタンスは翳りのある表情で、あの独特の華やかさが感じられなかった。親友がいない事が彼女の上に影を落としている。その責任の一端を感じているシャルロットとしては、コンスタンスを放っておくわけにはいかなかった。
「シャルロット様、あちらで一緒に花を見ませんか?」
歩み寄ってくるシャルロットに、より親睦を深めようとアンリエットが声をかけてきたが、シャルロットは微笑みの仮面をつけつつ、やんわりと拒否の意思を表明した。
「いえ、ご挨拶をしたい方たちがいらっしゃいますので、またあとで」
そう言ってシャルロットが歩き出すと、アンリエットの取り巻きがさっと左右に割れて道ができた。その間を閲兵するように進んだシャルロットは、コンスタンスの前に立った。
「ごきげんよう」
「え……あ、しゃ、シャルロット姫様!?」
考え事をしていたのか、上の空だったコンスタンスが驚きの声を上げ、続けて真っ赤な顔になる。
「し、失礼しました……ポリニャック伯爵家が娘、コンスタンスと申します」
「急に声をかけたのはこちらですので、お気になさらず」
シャルロットが言うと、アンリエットがコンスタンスとの間に割り込んできた。
「シャルロット様、このような礼儀をわきまえない人とお話をする必要などありませんよ。私たちと……」
「アンリエット」
シャルロットはアンリエットの言葉を遮って、強い口調で愛称ではなく本名の方で相手を呼んだ。その雰囲気に怯んだのか、口を閉じるアンリエットに、シャルロットは言葉を続ける。
「わたしが誰とお話をするかはわたしが決めます。それに割り込んでくる貴女こそ、礼儀知らずと言われても仕方ありませんよ」
どうせ数日の付き合いだから適当にあしらっておこう、というさっきの考えをシャルロットは訂正していた。誰に対しても真摯であろうとする事こそ、マリーを理想とする自分なりの淑女としての振る舞いと思い直したのである。
「わかりましたか? わかったのならお下がりなさい。わたしは今コンスタンス様とお話をしているのです」
シャルロットが言うと、気圧されたアンリエットは「し、失礼しました……」と頭を下げ、下がっていく。しかしそれでも悔しさがあるのか、途中でシャルロットを睨んではきたが。
(面倒だが、これに負けているようでは学園でやっていけなさそうだし、これも予行演習の一つかな)
そう考え、それ自体に苦笑を浮かべるシャルロット。人と付き合うのにずいぶんいろんなことを考えるようになったものだと、自分の変化に驚いていたのだ。そこへコンスタンスが声をかけてきた。
「あの……ありがとうございました、シャルロット様」
そう言って頭を下げるコンスタンス。その表情には安堵があり、マリーの出家以後、おそらくこのようなアンリエットからの嫌がらせを何度も経験しているように思われた。
「この場で、貴女一人が寂しそうに見えたので、声をかけさせていただいたのです。良ければわたしとお話をしませんか?」
シャルロットはそう言って、コンスタンスの近況を少しづつ聞き出していった。思った通り、核を失ったマリー派の令嬢たちはアンリエット派に圧迫されており、鞍替えしても派閥の中で最底辺の地位に置かれるなど、影日向に嫌がらせを受けているとの事だった。今日の園遊会にも参加はしているが、多くは目立たないように隅のほうにいる事で嵐をやり過ごそうとしていた。
「それでは、せっかくの園遊会が面白くないでしょう。良ければ、コンスタンス様のお友達の皆さんと一緒に楽しみたいと思うのですが」
シャルロットはそう提案した。コンスタンスは驚きの表情でシャルロットを見る。
「え、ですが……」
コンスタンスは口ごもった。シャルロットの振る舞いは、アンリエットの一人勝ちになりつつある社交界において、彼女との対立をも辞さないように見える。
「わたしは今まで領地で療養していたので、お友達がいないのです。できるだけたくさんの方と知り合い、できればお友達になりたいと、そう思っているだけですよ」
シャルロットは微笑む。思えば、シャルルの頃の自分の世界はあまりに狭かった。同年代である程度心を許して付き合った存在となると、側近たちとアリア、マリーくらいしかいなかったのだから。
それでも、自分の実力を恃んでいるうちは、それでも良いと思えていたのだった。しかし、無力な少女になった今は、もっとたくさんの人と付き合い、その中で味方になってくれる人を探すべきだろう。今まで知らない相手だったロザリーや、それほど親しくしていたわけではないアルベールが心強い味方になってくれたように。
「今後も、事情があってあまり王都に来ることは無いでしょうが、それでも良ければ……ですが」
一応、そう断ってはおく。もし王都に残るなら、旧マリー派の庇護者になれるが、そういうわけにもいかない。そこは明確にしておくべきだった。しかし、コンスタンスは先ほどまでの暗さがない、希望の光を湛えた目でシャルロットを見ながら答えた。
「わかりました。そういう事であれば、私の知り合いを紹介させていただきます。さぁ、こちらへどうぞ」
彼女の先導で、シャルロットはかつてマリーの派閥に属していた令嬢たちと会い、言葉を交わした。そこで分かったのは、マリー派の令嬢たちは人数は少ないが、会話の端々から聡明さや善良さがうかがえる人材ばかりという事だった。マリーは人物本位で友人を選んでいたのだろう。
(社交界の力関係だけで、こういった娘たちが冷遇されて良いものだろうか……)
シャルロットは話をしながら、そんな思いを抱き、そして一つの事を心に決めていた。
庶民たちの暮らしに目を向け、それを向上させたいというのが政治におけるシャルルの思いだった。その思いを間違いだったとは今も思ってはいない。弱き者たちのために何かをしたいというのは、シャルロットにとって政治を考える上での原点だ。
今こうして大公息女として、かつての権力は振るいようもない立場ではあるが、そうだからこそ思いは昔よりずっと強くなっていた。
(わたしは、誰であれ虐げられている人、苦しんでいる人の味方であり続けたい。いや、あり続ける)
シャルロットはそう決意したのである。