第4話 自分を弔う
離宮でシャルロットの療養と淑女教育が始まって、二か月ほどが経った。その日、ロザリーは離宮を離れ、ルイの元に中間報告のために訪れていた。
「で……様子はどうか?」
ルイが切り出すと、ロザリーが報告を始めた。
「淑女教育については、姫様が気を付けていれば、それなりに形にはなってまいりました。ただ、気を抜くとすぐ男の地が出てしまいます」
ルイはロザリーを視線で射抜くように見据え、尋ねた。
「シャルロット自身のやる気はどうなのだ」
「課題には、真剣に取り組まれておいでです」
ロザリーは言う。実際、彼女は半年程度と言うごく短時間でシャルロットに淑女として恥ずかしくない立ち居振る舞いを身に付けさせるため、かなりスパルタンなカリキュラムを組んで教育を行っていた。それにシャルロットが必死に食いついてきている事に偽りはない。
そもそも、十九年間男性として生きてきた人の意識を、半年で女性として自然なものに塗り替えるなどという事は、非常に難しい事である。今のカリキュラムについてきているだけでも、シャルロットの努力は十分褒めるべきことだとロザリーは思っていたが、どうやらそれではルイは満足しないようだった。
「……足らぬな。並み居る高貴な令嬢たちを押しのけ、高嶺の華を射止めるにはまだ足らぬ」
ルイの言葉に、ロザリーは頭を下げた。
「力不足を申し訳なく思います、陛下」
その謝罪に、ルイは手を打ち消すように振って答えた。
「そなたのせいではない。シャルロットをもっと追い込まねばならぬ。もっと真剣に、命がけで誰よりも姫君らしくあるように振る舞おうと自覚させねば」
「お言葉ではございますが……これ以上は難しいかと。ただでさえお身体が弱いのですから」
ロザリーはシャルロットを弁護するように言った。男性のシャルルであった頃は壮健な身体の持ち主だったシャルロットだが、今の彼女は疲労が重なるとすぐに発熱して寝込んでしまうような、病弱な少女になっていた。ベルナール医師の協力と、シャルロット自身がそれを自覚していて、出来るだけ無理を避けようとしている事は良い事だが、それによって生じるカリキュラムの遅れをどう取り戻すかはロザリーにとって頭の痛い問題だ。
「それはそれで悪くはないな。男性の保護欲をそそる事だろう」
ルイは鬼畜の発想で娘の体質を論じた。そして、ロザリーに命令を下した。
「あれをもっと追い込むために、行ってもらいたい場所がある。明日にでも連れて行くように。詳しくは……」
「御意のままに」
ロザリーは一礼した。シャルロットにとっては非常に辛い現実に向き合う事になるだろうな、と思いながら。
翌朝、シャルロットは相方のロベールに用意させたものと共に、シャルロットの私室を訪れた。
「朝でございます。起きてくださいまし、姫様」
ベッドの横に置かれたベルを数度鳴らすと、シャルロットは目を覚ました。
「……おはよう、ロザリー」
シャルロットは朝に弱い。まだ眠そうだったが、ロザリーは手際よくシャルロットを着替えさせ、髪を整えた。顔を清拭し、朝食をすませて軽くメイクを施す頃には、シャルロットもようやく目が覚めてきた。
「……いつもありがとう、ロザリー」
シャルロットは礼を言い、その時になってロザリーが持ってきたものに気が付いた。
「……今日は何故あんなものを持ってきたのですか? ロザリー」
「あんなもの、という言い方はいけません。あのようなもの、と言われますよう」
ロザリーに注意され、シャルロットはごめんなさい、と謝罪し、言い直した。
「……今日は何故あのようなものを持ってきたのですか? ロザリー。あれは車椅子ですよね?」
そう、今日ロザリーが持ってきたのは車椅子だった。座面には外出用のコートやショールなども積んであった。
「今日のレッスンはお休みです。陛下より、姫様をある場所へ連れて行くよう仰せつかりましたので、本日は外出します」
「……外出……? どこへ?」
目が覚めてから、ほとんど外に出た事のないシャルロットにとっては、久々の外出である。もともとシャルルだった頃から微行が好きで良く王宮の外へ出ていただけに、外出自体は嬉しい。
ただ、自分の足で遠出をするのは、今もまだ難しい。大人の背丈で五十人分ほどの長さの離宮の廊下を、端から端まで往復するだけで疲れ切ってしまう今の彼女には、他人の力を借りてようやく外に出られる現実は歯がゆいものだった。
「行けばわかります。実をいうと、私も陛下より場所を指示されただけで、行った事はないので、うまく説明できないのですが」
ドロシーの答えに、シャルロットは妙な事を言うな、と思いつつも頷いた。
「……わかりました。では準備をしましょう」
すると、ロザリーはさらに妙な事を言った。
「その前に、一つ姫様には約束していただきたい事がございます」
「……約束? わたしに? それは、わたしにできる事なら構いませんが」
ロザリーの注文に、戸惑いながらもシャルロットは頷いた。
「では……今日は私が許可した時以外、一言もお話にならないでいただきたいのです。よろしいですか?」
ロザリーは「約束」についてそう言った。シャルロットはまだ戸惑った表情だったが、こくりと頷いた。
「……とにかく、黙って一言も口にしないでいれば良いのですね? わかりました。約束します」
同意が得られたことで、ロザリーは準備を再開した。既に外は真冬。シャルロットのドレスの上から厚手のコートをまとわせ、首回りにショールを巻いて寒気が入り込まないようにする。さらに車椅子に座ったシャルロットにひざ掛けをかけて準備を整えると、ロザリーは車椅子を押して部屋の外に出た。
「では参りましょう、ロベール」
「了解」
ロザリーが呼びかけると、部屋の外で待っていたロベールが頷き、シャルロットの斜め後ろに立って護衛の姿勢になる。ロザリーの押す車椅子に揺られ、シャルロットは数カ月ぶりに離宮の外へ出た。既に季節は初冬になり、まだ雪こそ降らないものの、吐く息は白く、肉付きの薄いシャルロットにとってはコートを着てなお寒気が強く感じられた。
幸い、外出は車椅子のままではなかった。王宮の裏手に止めてあったフローベル家の馬車に乗り換えると、既に王から伝えられていたのか、特に何の指示を受ける事もなく、馬車は王城の正門を出て城下を走りはじめた。
「……城下は、特に何の変わりもないのですね」
王太子、つまりシャルルが亡くなったのは八カ月前。王族が亡くなれば、通常一年は服喪期間が続くはずだが、街には何の変化も見られず、人々は普通に暮らしていた。するとロザリーが言った。
「殿下が亡くなられたことについては、罪あっての事なので喪に服するに及ばず、と陛下よりお触れが出ましたから」
「……そうですか」
答えてシャルロットは俯く。自分は罪人なのだと今更ながらに思い知らされた気分だった。民の事を思っていたはずの自分が、その民から一顧だにされない。自分の独りよがりな思いを、世界から嘲笑されているような気がした。
馬車が走っていくと、見覚えのある街角の光景が次々に現れては消えていく。その多くはアリアとの甘い思い出と共にあった。父に聞かされたところでは、アリアは王都全域を捜索しても見つからず、既に国外に逃亡したのではないか、との事だった。あの優しく儚げなアリアと、自分を捨てて国外逃亡した強かさが、どうしてもシャルロットの中で結びつかない。
(アリア、君にもう一度会いたい)
シャルロットは思う。もう関係は二度と元に戻らないだろうが、それでもなお彼女の事が忘れられない。
(女々しいな。いや、今は私も女ではあるのだが)
そんな事を思いながら、シャルロットは窓の外を見続けていた。やがて馬車は王都の城壁も通り過ぎ、郊外に出た。帝国領へ通じる街道をしばらく走った後、馬車は方向を転換して脇道へ入った。それは森を抜け、次第に登り坂になっていく。
(ここは……)
シャルロットには記憶があった。たまに狩りなどで王都の外へ出た時に見た、小さな丘の上の修道院。馬車はそこへ向かっているようだった。
やがて、坂を登りきったところで馬車は停車し、シャルロットはロザリーとロベールの介護で再び車椅子に乗り換える。
「では、ここより約束を守り、無言でお願いします」
ロザリーの言葉に頷き、シャルロットは辺りを見回した。こうして近くで見ると、修道院は思ったよりも大きな建物だった。流石に王都の大聖堂には及ばないが、仮に街中にあっても荘厳さでは見劣りしないだろう。
しかし、修行の場であるから街から外れた場所にあるのは宿命とはいえ、この修道院はとりわけ寂寥感が漂う佇まいだった。まるで無人のようにさえ思える。シャルロットは扉を見上げ、その上に刻まれた文字を読んだ。
(フランディアの……咎人に祈る者たちの修道院……?)
それが、この修道院の名前であるらしい。その時、扉が軋む音を立ててゆっくりと開き始めた。中から現れたのは、枯れ木のように痩せた初老の司祭だった。
「ようこそ。皆さんがお出でになる事は、陛下より伺っております。どうぞ中へ」
司祭はそう言って恭しく一礼した。無言のシャルロットに代わり、ロザリーが挨拶を返す。
「お出迎えいたみいります。こちらはロワール大公家ご息女のシャルロット様です。私どもは傍仕えの身ですので、名乗りは遠慮させていただきます」
ロザリーと共に、シャルロットも頭を下げると、司祭は笑顔で頷いた。
「承知しました。中へどうぞ。秘廟へ案内します」
そう言うと、司祭は先頭に立って歩き始めた。シャルロット一行もその後に続く。一階のホールには通常なら礼拝堂があるはずだが、代わりに中央の通路の両脇に多くの石の棺が並べられており、霊廟になっている事がわかった。
(この棺、高位の貴族たちの格式だが……不名誉紋が刻まれている……)
シャルロットは石棺を見て気付いた。不名誉紋とは、何らかの罪あってその家門から追放された人々の紋章だ。元々使っていた家紋に交差した二本の斜線を引いてそれを打ち消すもので、シャルロットはこの修道院の役割が何なのか知る事が出来た。
「ここは、罪を得て処刑された者たちを弔うための修道院なのです」
シャルロットの心を読んだように、司祭が言った。
このオルラントでは、怨念を抱いて死んだ人が、魔物と化して災厄をもたらしたという説話が多く残されているため、不名誉な死を迎えた人を秘かにではあっても丁重に葬る伝統が存在していた。シャルロットは今まで知らなかったが、この修道院が不名誉者たちの葬祭を引き受けているのだろう。シャルロットはこの司祭を知らないが、おそらく彼も死刑にはならないほどとは言え、罪を得て追放され、ここへやってきた元罪人のはずだ。
やがて一行は霊廟の奥についた。司祭が最奥部にあった扉の前に立つ。それには王家の不名誉紋が刻まれていた。
秘廟――王家の不名誉者を葬るための、特別な区画だった。
(そうか。ここは……ここにあるのは、"私"の墓なのだ)
そう気づいたシャルロットの前で、司祭が扉を開く。その先には、一人の修道女が立っていた。
「この者がここから先の区画を管理しております。この先は彼女が案内いたします」
司祭の言葉に、修道女が頭を下げる。だが、その時シャルロットはもう少しで叫びだしそうになるところを、すんでのところで抑えていた。なぜなら……
(マリー……!?)
その修道女は、紛れもなくかつての婚約者、マリー・ド・ラガティア侯爵令嬢その人だった。マリーは顔を上げ、家格は違えど同じ貴族だったロザリーに気付いた。
「貴女はフローベル家のロザリー様? どうしてそのようなお姿を?」
男爵家令嬢でありながら侍女の服装をしているロザリーの姿を奇異に思ったらしい。ロザリーは一礼して事情を説明した。
「お久しぶりです、マリー様。今はこちらのロワール大公ご息女のシャルロット様にお仕えしておりますため、このような姿で失礼いたします」
「まぁ、大公様の……いえ、お構いなく。わたくしも今は出家の身。俗世の礼儀は不要ですよ」
マリーはシャルロットが見た事もないような穏やかな笑顔で答え、改めてシャルロットに挨拶した。
「秘廟の管理役を務めております、マリーでございます」
シャルロットはロザリーを見上げた。彼女が頷くのを見て、挨拶を返す。
「……シャルロットと申します。シャルル……殿下には、子供の頃は良く遊んでいただきました」
彼女の今の「設定」を混ぜた挨拶に、マリーは特に疑いを持つ様子もなく、シャルルを訪ねてくる人の存在を喜んでいるようだった。
「本日はよくぞいらっしゃいました。さぁ、奥へ」
言われるままに、シャルロット一行は秘廟の中に進んだ。その一番奥に、まだ真新しい棺が安置されており、マリーはその前で立ち止まった。
「こちらが……シャルル殿下のものです」
名を刻まれず、不名誉紋だけが彫刻された棺の前には、野の花を摘んだものと思しき小さな花束が飾られ、周囲は塵ひとつなく掃き清められていた。
「姫様、お祈りを」
「あ……」
誓いを破って小さな声を上げてしまったシャルロットだったが、特にロザリーは咎める事はなく、頭を下げて棺に向けて祈り始めた。シャルロットも慌てて頭を下げ、祈る姿勢になる。すると、マリーが死者を弔う聖句の一節を唱え始めた。その声はシャルロットが聞いたことのある彼女のどんな声よりも美しく、歌うように秘廟の中に響き渡った。
祈りの時が終わり、マリーは三人に向けて深々と頭を下げた。
「本日はありがとうございました。故人もきっと皆さんのお越しを喜んでおいででしょう」
ああ、とシャルロットは内心で溜息をついた。
喜んでいるはずがない。この棺には誰もいないのだから。ここに私は眠ってなどいないのだから……彼女は昔からそうだ。私の気持ちをわかってくれたことなど一度もなかった。
そして……自分も、とシャルロットは思った。
シャルロット―シャルルも、マリーの気持ちが一度もわかった事はなかった。自分が彼女を嫌っているように、彼女も自分を嫌っているだろうと、そう思っていた。おかしな話だがシャルロットには一度だってマリーに好意を抱かれるようなことをした事はない、という自信さえある。
しかし、ここで祈りの聖句を唱えている彼女からは、本気でシャルルを悼む気持ちが伝わってきた。そんなマリーを、初めて美しいとも思った。容姿の問題ではない。ありようそのものを美しいと思ったのだ。
そんな気持ちを抱いてマリーを見つめるシャルロットの肩を、そっとロザリーが二度叩いた。見上げると、彼女は優しい表情で言った。
「マリー様のお話を……聞いてみてはいかがですか? 姫様」
自由に話しても良い、と言う合図だった。シャルロットは考え……マリーに尋ねた。
「……マリー……様。貴女は、どうしてここに?」
まず気になったのはそれだった。貴族社会では家の体面の問題もあり、結婚に失敗した女性が出家して信仰の道に入る事は珍しくない。と言うより、「結婚よりも優先されるものがあるとすれば、それは信仰である」という価値観があるため、家や本人の体面を傷つけずに結婚・婚約をなかった事にするための方便が出家であると言った方が正しい。
しかし、マリーへの婚約破棄の宣言は、誰も証言者のいない場所で行われた。もちろん、多くの家がその事実を密偵などを使って知っているだろうが、相手の男、つまりシャルルは不名誉者として葬られた存在であり、この婚約破棄がマリーやラガティア家の体面を傷つける事はない。従って、マリーが出家を選ぶ必要などは無いのである。本来であれば。
「出家した理由……という事ですか?」
マリーの問い返しにシャルロットは頷いた。
「あのお方は……シャルル様は、国を危うくした罪でこのようになりました」
マリーは棺の方を向き、話し始めた。それは、シャルロットには意外に思える事だった。
「ですが、それはあのお方だけの罪ではないと、わたくしは思っています。わたくし自身にも、罪のある事だと」
「……罪? 貴女にも……?」
シャルロットは信じられない思いで聞き返した。マリーがシャルルのことで自分を責める事などないと思っていたし、その必要性もないと考えていたからだ。
「はい。あのお方をお諫めする事が出来なかった、このわたくしの力不足。将来の王妃としての義務を果たせなかった事が、わたくしの罪なのです」
マリーはそう言って、棺を撫でた。
「……あのお方は孤独でした。父君は戦場に赴かれ、一人で国を背負われていました。それを支えるべき、わたくしの父をはじめとする貴族たちは、あのお方の信を得られず、得ようともしない者たちもいました」
マリーの声に嗚咽が混じりはじめるのを、シャルロットは黙って聞いていた。
「本来なら、わたくしがその孤独を埋めて差し上げるべきだったのでしょうが……それもできなかった。そのわたくしがやるべきことを、たやすくやってのけた、あの平民の娘が……羨ましかった」
その独白のような言葉を、シャルロットは呆然となりながら聞いていた。マリーがそんな風に自分に対して献身的であろうとしていた事など、全く気付かなかった。
「……辛くはなかったのですか? その……報われない想いを持つ、と言うことは」
自分だったら、そんな風にどんなに相手を想っていても、それが報われないと言う事には耐えられないだろう。想い人に逃げられたという耐え難い心の痛みを持つシャルロットはそう思っていたが、マリーの答えは違っていた。
「辛くないといえば嘘になりますね。ですが、見返りなど求めないのが愛というものではないでしょうか」
その一言は、シャルロットを打ちのめした。実は、同じ言葉をシャルルであった時に聞いた事があったからだ。
それは、何度目かのアリアとの逢瀬の時だった。
「アリア、君はどうしてそんなに優しいんだ?」
シャルルはそうアリアに尋ねた。当時、彼は自分が王太子であることを彼女に明かしていなかった。しかし、その時から彼女はいつもシャルルが欲しいと思う言葉を与えてくれ、彼のこぼす悩みや愚痴を聞いてくれる存在だった。
そんな彼女に何のお返しもできない事を恥ずかしく思い、そう尋ねたシャルルへの、アリアの返しが
「見返りなんていらないですよ。私がそうしてあげたいから、そうしてるだけなんです」
という言葉だった。
政治の世界は利権を取引する世界。誰もが腹に一物を抱え、見返りがなければ指一本動かそうとしない妖怪の巣窟だ。その世界に疲れていたシャルルにとって、アリアの言葉は新鮮で、そして爽快だった。そんな彼女の世界の空気を政治の世界に呼び込めたなら、どれほど世界は良くなるだろうかとも思った。
だが、シャルルが全てを失って破滅した時、アリアは逃亡し、マリーは「死んだ」シャルルに見返り無しで寄り添おうとしてくれている。
本当に無償の愛を示してくれていたのは誰だろうか?
「……どうなさいました、シャルロット様?」
マリーがシャルロットの様子が不審なことに気づき、声をかける。シャルロットは指が真っ白になるほど車椅子の手すりをつかみ、全身を小刻みに震えさせていた。ロザリーが素早くシャルロットの額に手を当て、マリーのほうを向いた。
「どうやらお加減が優れない様子ですので……本日はこれにてお暇させていただきます」
マリーはロザリーの説明に頷き、シャルロットにやさしく微笑みかけた。
「わかりました。シャルロット様、お身体をお大事に。シャルル様の事を聞きたいとお考えなら、いつでもお待ちしております」
シャルロットはかろうじて頷き、ロザリーに押されて秘廟を退出した。そのまま修道院も出て馬車へ乗り込み、城へ戻る。その間、シャルロットはずっと無言だったが、部屋に戻ると、震える声でロザリーに言った。
「ロザリー……しばらく、私を一人にして欲しい」
口調が男のそれに戻っていたが、ロザリーは咎める事なく頷いた。
「わかりました」
一礼し、ドアを開けて出ていくロザリー。扉の前で立番をしているロベールにもこの場を離れるよう彼女が指示する言葉は、扉が閉じる音の向こうに消えた。シャルロットはよろよろと立ち上がると、膝をつき、ベッドに顔を突っ伏し、ここまで抑え込んできた激情を絶叫とともに吐き出した。
「うわあああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!」
涙がベッドに飛び散る。繰り返し絶叫しながら、シャルロットは自分を責めていた。
(馬鹿だ。愚かだ。私は……救いようのない大馬鹿者だ!!)
憎しみや見かけだけにとらわれ、人の心をわかろうとしなかった。その結果がこれだ。本当に自分に愛情や慈しみを持ってくれていた人を遠ざけ、表面上の甘い言葉に踊らされた。今なら父のしたことがわかる。私は本当に、為政者たる資格のない人間だったのだ。
(このままでいいはずがない。こんな私のために、マリーがあんな境遇にいていいはずがない)
愚かな自分に殉じ、出家の道を選んだマリーの事を想うと、その後悔、自分への怒り、マリーへの申し訳なさ。いろいろなものが胸の中をぐるぐると回り、言葉にならない喉も張り裂けそうな叫び声として吐き出され続ける。そのうち本当に喉が裂けでもしたのか、ベッドに吐き出された血が飛び散り、その味を感じ取った瞬間、シャルロットの身体に異変が起きた。
(うぐ……ああ!?)
賜杯を飲み干した直後、吐血しながら味わった、全身が造り替わっていく時の、あの煮えたぎる熱い泥に沈められたような苦痛。その記憶が感覚を伴って蘇り、シャルロットはもはや声もなく床に頽れた。
(私は……また……今度こそ死ぬのか)
苦痛の泥沼に意識が飲み込まれていくのを感じながら、シャルロットは思った。しかし、今はその苦痛が救いですらあるとも思った。自分の愚かさをずっと噛み締めながら生きていく、屈辱に塗れたこれからの人生を考えれば。
(だが……私は……わたしは……死にたくない。死ねない。まだ……何も償えていないから)
自分の愚かさに巻き込まれ、人生を狂わせてしまった人々に、償いをしなければならない。消えゆく意識の中、シャルロットは祈りを捧げた。
(だから……今度こそ……やり直す機会を……)
目が覚めると、シャルロットはきちんと着替えさせられた状態でベッドの中にいた。窓から差し込む光の角度から、今は朝だと分かった。
「お目覚めですか? 姫様」
横を向くと、ロザリーが控えていた。その目が赤く、腫れぼったいところを見ると、ずっと寝ずに付き添ってくれていたらしい事が分かった。
「ええ……ありがとう、ロザリー。わたしをちゃんとベッドに運んでくれたのですね」
シャルロットが礼を言うと、ロザリーは何でもない、というように首を横に振る。
「仕事ですので……お目覚めにはなりましたが、今日は少しお熱が高いようです。レッスンはお休みにしましょう」
言われてみれば、すこし身体が熱っぽい。おそらく床に倒れていたせいだろう。声もややしわがれているが、これは叫び過ぎたせいかもしれない。
「ロザリーもゆっくり休んでください。ずっと看病していてくれたのでしょう?」
シャルロットの言葉に、実は徹夜だったロザリーは素直に頷いた。
「そうですね……では少しお休みを……」
いただきます、と続けようとして、ロザリーはシャルロットの変化に気づき、目を見開いた。
「姫様? お言葉遣いが……」
今までシャルロットが必要としていた、頭の中での男口調から女口調への「翻訳」に費やす一瞬の間。それが無くなっていることに、ロザリーは気づいた。シャルロットは微笑みをもってその驚きに答えた。
「ロザリー、わたしは、まだ自分に何ができるのかわかりません。でも、淑女であろうとするなら、ずっと一番の手本が傍にいてくれた、ということは思い出しました」
シャルロットが思い浮かべるのはマリーの姿だ。彼女こそが本当の淑女であり、自分に必要な人だった。今後自分がどう振舞えばよいかは、マリーを指針にすべきだとシャルロットは悟っていた。
「いつか彼女に謝り、恩を返さなくてはいけない……そのためにも、お父様から命じられた使命を果たさなくてはいけない。そのために、わたしは決めたのです。愚かな"私"には別れを告げなくてはいけないと……」
どうすればそれができるかはわからないが、いつかマリーを不必要な贖罪の道から救い出し、彼女が本来享受すべきだった幸せの待つ場所へ連れ出さなくてはいけない。それがシャルロットの決意だった。そのために誰よりも淑女であることが必要なら……男だった自分を捨て去ることも辞さない。彼女は自分の「墓参り」を通じて、自分の過去を弔ったのだ。
「姫様……」
ロザリーはそれで良いのだろうか、と思った。ルイの狙い通り、シャルロットは追い込まれる事で覚醒したかに見えるが、それがとても危ういものに彼女には感じられた。
「……いえ、わかりました。姫様がそうおっしゃるなら、私も全力で姫様を支えさせていただきます」
ロザリーはそう決意した。確かにシャルロットは愚かかもしれない。しかし、使命感と責任感は王族にふさわしいものを持っていることは間違いない。彼女が正しい道を歩むことができれば、誰よりも素晴らしい姫君になれるのではないか。それを支えるのが臣下の務めではないか、そう思ったのである。
「ありがとう、ロザリー。貴女にそう言ってもらえるのは、とても頼もしいです」
シャルロットは上半身を起こし、ロザリーの手を握った。本気で心の底から淑女であろうと決めた今も、まだロザリーから学ばなければならないことはいっぱいある。その教師でもある彼女が本気で支えると言ってくれた事は、飾りではなく本気で心強い事だった。 この時、ようやく二人の主従は強い絆を持つことができたのかもしれない。
(……ロザリー嬢もお若い)
自分の年齢を棚に上げ、部屋の外でじっと警護をしていたロベールは思った。影として鍛えられた聴力は、扉を閉めていても室内の様子をはっきり捉えていた。
(そう簡単に殿下の心根が変わるものかどうか。こちらとしてはまだ様子見かね)
五年以上、シャルルを陰から見守ってきただけに、ロベールはまだシャルロットをそこまで人として信用はしていなかった。
(ただ……変わってほしい、いい方向に、と思うのは……そりゃ人情だろうな)
ロベールはひとまず上に報告する内容には、シャルロットとロザリーの関係の変化を入れないことにした。
シャルロットの外見ですが、甘ブリのラティファ姫をイメージしています。
ロザリーはグラブルのクラウディアです。あんな武闘派ではありませんが。