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第3話 彼女の生きる世界

 姫君として修業をする、とは言ったものの、まだまだ本格的にそれを始めるには時間が必要だった。何しろシャルロットは半年もベッドで寝たきりだったのである。意識がない間も、ベルナール医師が時々身体を動かして完全に筋肉が固まるのを防いでくれてはいたが、まともに身体を動かすにはそれなりのリハビリ期間が必要だった。

 最初の数日は上半身を自力で起こすだけで精いっぱい、一週間でようやく立って数歩歩けるようになり、壁につけられた手すりを手掛かりにして、部屋を一周できるようになったのが二週間目だった。それでも、部屋の一周が終わる頃には、支え無しでは立ち上がれないくらい疲労し、息を切らしていたのだが。

「支え無しで歩けるようになるまでは、まだ午後は言葉遣いの練習を中心にやっていきましょう」

 介助役のロザリーの言葉に、シャルロットは息を切らしながらうなずく。

「……わかりました」

「では、汗を拭いて、それからお着替えをしましょう」

 ロザリーはシャルロットを姿見の前に立たせて、リハビリ用のゆったりとしたワンピースと下着を脱がせると、身体が冷える前に手早く汗を拭き、ドレスの着付けにかかった。シャルロットは目を閉じ、鏡に映る自分の姿を見ないようにする。自分が今どんな姿をしているかは知っている。こんな美女を娶りたい、と憧れを抱いた母親そっくりの美少女……それは、どうしてもなかなか自分として認識することの難しい姿で、裸を見てしまう事に罪悪感がある。

 一方で多少なりとも男として興奮するところがあってもいいのではないか、とシャルロットは思うのだが、そのような衝動は全くと言っていいほど感じなかった。

(自分の身体だから興奮しないのか、それとも私の中の男が死んでしまったからなのか……)

 シャルロットはそんなことを考えながら、一瞬目を開けてちらりとロザリーを見る。侍女として主より目立ってはいけないから、という意識からなのか、地味な印象になるよう心掛けてはいるようだが、ロザリーもなかなか整った顔立ちである。動きやすさを重視して肩の長さで切りそろえてある髪は、この地方では珍しい艶やかな黒。知的さと品の良さを感じさせる切れ長の目は印象的だ。身体の方も女性としての完成度はシャルロットより上で、特に胸はかなり豊満だ。つまり総じて言えばロザリーはかなりの美女である。

(男の頃だったら……多少は意識しただろうか?)

 シャルロットはアリアの事を思い出す。彼女も細身な割には胸は大きめで、そこがシャルルの好みに合う部分だった。母親を知らないで育ったせいか、シャルルは胸の大きな女性が好みだった。

 しかし、今ロザリーの大きな胸を見ていても、特に何も劣情のようなものは湧いてこない。と言う事は、やはり男性としての感性が死んでしまっていると言う事なのかもしれない。

 そんなことを考えている間に、ロザリーはシャルロットに下着やコルセットを付けさせ、ドレスを着せていく。最後に髪形を整え、軽くメイクを施せば、大公息女シャルロットの完成だった。

「はぁ……」

 ため息をつきながら、姿見に映る自分の身体を再度見直すシャルロット。少し垂れた大きな目や男の頃よりずっと低くなった身長は、幼さを感じさせる要素しかない。自分の内面――大人になり切れていない未熟者――を反映させたようで、見ていて悲しくなってくる。

「どうかなさいましたか?」

「……なんでもありません」

 ため息を聞きつけたロザリーの案ずるような問いかけに、心配ないというシャルロット。しかし、頭の中では今の自分の嫌なところをまだ数え上げてしまう。次に思うのは、病み上がりと言う事を差し引いても余りにも薄い肉付きだ。特に胸など自分の好みとは程遠いわずかな膨らみしかない。父には男を誘惑しろと言われてはいるが、こんな見た目だけでも幼げな少女に誘惑されるような奴は、ろくでもない人間(ロリコン)ではないだろうか? という疑問が湧く。

「姫様は身体が細くていらっしゃるので、コルセットがいらないくらいですが……いずれお肉がつく頃には必要になるので、今から慣れておいたほうがよいでしょう」

 ロザリーが言う。どうやら、シャルロットが何を見てため息をついたかは把握していたらしい。

「……ありがとう、ロザリー」

 礼を言うシャルロット。先ほどから彼女が話し始めるときに一瞬の間が開くのは、口に出す前に頭の中で男性口調から女性口調への「翻訳」が必要なためだった。女性としての振る舞いを学び始めた時、シャルロットが最初にロザリーに受けたアドバイスだが、フランディア語をはじめとして、オルラント西方諸国の諸言語では、文字に起こすときには男女の区別はない。それを口にする時の微妙なアクセントの違いで、男女のみならず敬意や身分の違いも表す仕組みである。

 それ故に言葉遣いはそれを話す人の育ちや素性を如実に表す。シャルロットが元は男であったことが誰にもばれないレベルで姫として振舞うには、こうした頭の中の翻訳なしで自然と上流階級女性の話し方をできるようにする必要があった。

 今やっている本人にとっては、女の真似をする道化の、そのまた真似を自分が演じているようで、しかもその演じ方がへたくそな自覚もあるので、非常に苦痛ではあった。確かにこんな毎日を送らされるのは、下手に死で人生を終わらされるよりもきつい罰だろうなと思う。

 

 着替えを済ませた後は昼食の時間だった。シャルロットが暮らす離宮にも台所はあるが、まだシャルロットが重い食事を受け付けられないこと、機密を守る必要があることから、食事は王宮からシェフを呼ぶのではなく、ベルナール医師の監修でロザリーが作っていた。今日のメニューは柔らかいパンと、刻んだベーコンをわずかに入れた程度の野菜のポタージュという病人食だが、シャルロットは文句を言わず口にしている。

 もともと、彼女の生まれたブリガンド王家は、歩兵を意味するその姓の通り、初代王が兵士から成りあがって建国した国であり、王家も代々常在戦場を旨として、それほど贅を尽くした食事をしない……というのは建前。実際には王家も率先して倹約に励まなければならない、貧しい国だったからである。余裕が出た今も、王家の食事はさほど豪華なものではない。

 それだけに、平然と贅沢をする貴族たちの暮らしに苛立ちを覚えていた事も王太子時代の思い出だが、もうそれを気にしてもどうにもならないのが、シャルロットの今の境遇だった。

「では、お祈りをしましょう」

 ロザリーが言う。彼女の前にあるのはシャルロットと同じメニューで、炙った腸詰や干し肉などの肉類がつく程度の差である。自分に気を遣わず、普通の食事をすれば良いのでは、とシャルロットは一度提案しているが、ロザリーは首を縦に振らなかった。その実直というか頑固な精勤ぶりを見て、シャルロットはロザリーを秘かに尊敬している。

 なお、ロベールは一緒に食事をとらない。シャルロットの食事の間も部屋の外で立番をしながら、影に伝わる特殊な丸薬状の保存食を水で流し込むだけで済ませている。子供の頃からほとんどそれだけで生きているので、普通の食事は口に合わないらしい。

「天におわします救世主よ、今日の糧に感謝いたします」

 シャルロットは食前の祈りを捧げた。このオルラント世界にも神という概念はある。世界を作ったのは「名も無き創造神」と呼ばれ、七日でこの世界のすべてを作り上げた偉大な力の持ち主だが、ほとんど信仰の対象とはなっていない。

 というのも、創造神は本当に世界を創造した以外何もせず、また別の世界を作るために旅立ってしまったからで、代わりに信仰の対象となっているのが「救世主」と呼ばれる存在である。

 救世主は神が去った後に出現し、世界を滅ぼそうとした「魔王」の前に降臨し、これを打ち破って世界を救った人物――「始祖の救世主」を嚆矢とし、その後もたびたび出現しては悪を滅ぼし、新たな知恵をもたらして歴史を変えたと言われている。

 歴史上、救世主とされる人物は二十人以上いるが、そのうち誰をもっとも信仰の対象として重視するかにより、大枠で救世教と呼ばれている宗教は多くの宗派に分かれていた。フランディアでは魔王を打ち破った「始祖の救世主」を特に重要な存在として信仰する、救世教始祖派を国教と定めている。武人を尊ぶ国柄ならではだった。

(そういえば……帝国は輪廻派だったな。その辺も向こうへ行く前に学んでおかねばならないか……)

 シャルロットは食事をしながらも考える。帝国の国教である救世教輪廻派は、全ての救世主は同一人物で、使命の度に生まれ変わって地上に降臨してくると考える宗派である。

 この他に「救世主は全て別人であり、必要に応じて遣わされてくる」と考える再臨派が、始祖派と輪廻派とともに救世教の三大宗派とされる。昔は宗派が変われば血で血を洗うような抗争が繰り広げられた時代もあるのだが、最近はそこまでシビアでもなくなり、宗派の違いを互いに尊重しあう、というスタンスを取ることが多い。

 尊重しあうというのが重要で、始祖派の信徒であるシャルロットでも、帝国に行けば輪廻派の習俗を守らねばならない。祈りの言葉も帝国では「天地を巡りわれらを守護する救世主よ」と変わる。再臨派なら「天より遣わされし救世の使徒たちよ」である。

「……ロザリー、時々輪廻派のマナーで食事をしてみましょうか」

「良きお考えかと存じます」

 シャルロットの提案に頷くロザリー。こうした宗派による習俗、マナーの違いを教えるのも、彼女のフローベル家の仕事だ。もっとも、シャルロットは既にシャルルとして十数年マナーを学んでいるので、一般的なことについてはほとんど心配がなかった。しかし。

「姫様、おみ足が開いていますよ」

「……ごめんなさい」

 足を揃えて座り直すシャルロット。まだまだ、細かな仕草では女性らしさを身に着けるには至っていなかった。ちょっとしたところに、男時代の癖が顔を出すのだ。他にも、元々は帯剣していることが普通だったせいか、今も若干右肩を上げ気味で歩いているのが、ロザリーは気にかかっている。帯剣した時はそれでバランスが取れるのだが、今はそんな必要がない以上、まっすぐ背を伸ばしてバランス良く歩く事を教えなくてはならないだろう。

 ただ、ロザリーから見て、決して乗り気になれるわけもないであろう、女性としての振る舞いを身に着けるための一連のレッスンに、シャルロットは真剣に取り組んでいる。もっと身勝手な人間だと想像していただけに、ロザリーもまたシャルロットを見直す部分があった。

 

 午後のレッスンが終わると、ベルナール医師の回診があった。ドレスを脱いで寝間着姿になったシャルロットをベッドに寝かせ、安静な状態で脈をとったり、聴診器を当てて体内の音を聞いたり、といった定例の診断を済ませ、今日のリハビリの状況を確認したベルナールは、カルテに結果を書き込みながら言った。

「ふむ……体力の回復は遅れ気味ですが、弱っていた胃腸の機能はもう問題がなさそうですな。明日からの食事は少し肉を増やすなど、体力がつくものにした方がよいでしょう」

「わかりました。レシピはありますか?」

 ロザリーの質問に、ベルナールは鞄から一週間分のメニューを書きつけたレシピを取り出し、彼女に手渡した。

「では、明日またこの時間に参ります」

 シャルロットに頭を下げ、帰っていくベルナール。ロザリーはメニューを確認し、笑顔を見せた。

「明日からはもう少し献立の種類が増やせますね。もうお粥やポタージュには飽きましたでしょう、姫様」

 シャルロットも微笑みながら頷いた。粗食に慣れているとはいっても、やはり味の薄い流動食ばかりのメニューは飽きが来るが、あまりロザリーが嬉しそうなので、ふと意地悪したい気持ちになって聞いた。

「……ロザリーも、普通のものが食べられて嬉しいのではありませんか? とても嬉しそうですよ」

 嬉しそうにしているという自覚が無かったのか、ロザリーは真っ赤になった。そのまままじめな表情を作って言う。

「……も、問題ありません。従者として主より良いものを食べるなど許されない事です」

 その反論に、シャルロットは吹き出しそうになり、ふと別の考えが脳裏をよぎった。

「……ロザリーは、普段家ではどのような食事を?」

 シャルロットの口調が真面目なものだったためか、ロザリーも揶揄われているのではない事に気付き、少し考える。

「そうですね……我が家も男爵家でそれほど裕福ではありませんから、余り贅沢はしていませんが……」

 そう前置きして、何日分かのメニューを指折り上げるロザリー。それは王家の食事と比較しても、一段粗食なものだった。もしかしたら、裕福な平民の方がもっといいものを食べているかもしれない。

「……やはり、それは王家に遠慮してなのですか?」

 シャルロットが聞くと、ロザリーは頷いた。

「はっきりそう聞いたことはありませんが、やはりそうなのではないでしょうか。お気になるのであれば、兄にでも聞きますが」

「……いえ、それには及びません」

 シャルロットはロザリーの提案に首を横に振ると、物思いにふけった。

 ロザリーの家、フローベル家が裕福ではないというのは正しくない。爵位が低くとも当主が儀典長と言う要職を務め、高位の貴族たちに礼法を指南するフローベル家の収入は、その謝礼だけでも男爵家としては相当多い方のはずだ。その気になれば十分贅沢が可能なくらいに。そうしないのは家の気質の問題に過ぎない。

 同様に、今では十分粗食などしなくて良いほどの力を持つようになった王家が粗食にこだわるのも、家訓や気質の問題である。しかし、功成り名遂げて豊かになった者が贅沢をしようとするのは、ある意味自然ではないだろうか。

 自分の病人食に二週間も付き合って、普段の真面目な仮面が剥がれるくらいに久々の普通の食事を喜んだロザリーを見ていると、贅沢をする貴族に対する自分の憤りが、つまらない拘りだったのではないかとシャルロットには思えてきた。

(私は……いろんな意味で小さい人間だったんだな)

 思い通りにならない貴族たちを、私生活ですら思い通りにさせたい。王家に遠慮し委縮する存在にさせたい。その程度のものなのだ、贅沢をやめさせたいと思う動機は。だが、そんな事をしても得られるのは自己満足と敵意だけだ。

(そんな事にも気づかないほど、私は何を焦っていたんだろうな)

 シャルロットは自嘲の笑みを浮かべた。その昏い表情を見て取ってか、ロザリーが提案する。

「姫様、今日はお疲れのようですから、お風呂に入って寝る準備をしましょう」

 シャルロットの顔が少し明るくなる。風呂は彼女が自分に許す数少ない贅沢の一つだ。しかし。

(風呂に入ると言う事は……)

 否応なしに、少女である今の自分と向き合うと言う事でもある。それはまだシャルロットには少し憂鬱な事でもあった。

「……良いですね。入りましょうか」

 それでも、シャルロットは努めて明るい顔をした。自分の気持ちが落ち込んでいる事を悟って、気分転換を提案してくれたロザリーの好意を無駄にしたくはない。


 入浴と言う習慣は、これもある救世主がこの世界に伝えたものだとされている。それまで人々はどうしても汚れが気になるときだけ水浴びでそれを落とす程度で、自然の温泉でも近くに無い限り、湯につかるという形式の入浴をする事は無かった。

 そもそも、全身が漬かるほどの大量のお湯を用意する事自体がかなりの難事である。そのための水も燃料も馬鹿にならない。しかし、入浴によって体を清潔に保つことで、様々な病にかからずに済む、あるいは流行させずに済む、という事が理解できてくると、人々は毎日ではないにしても入浴する、と言う習慣を持つようになった。

 庶民は街のところどころにある共同浴場に通うのが一般的だが、上流階級では専用の浴場を持つことがステータスだった。当然王城にもそれは存在する。王城の風呂は王族専用のものと、城で働く使用人たちのものに分かれており、前者のために毎日湯を沸かすそのおこぼれで使用人たちも毎日湯を使う事ができるという、普通の平民にはなかなか難しい贅沢を味わう事ができた。とは言うものの、習慣として毎日入浴するような使用人はあまりいない。別に毎日入浴する事を禁じるような決まりはないが、それを実行するのは常に王族に接する上級使用人くらいだった。

(そういえば、アリアも毎日風呂に入れると聞いて、目を輝かせていたな)

 シャルロットはそんな事を思い出した。アリアは平民にしてはかなりきれい好きで、いつも自分の身体や服を清潔に保つことにこだわっていた。王城に上がってからは入浴も洗濯も常に行っていた。彼女は王太子付きではあるが、新参で使用人としても下級だったので、そうした行動を平民のくせに生意気な、と考える者もいたようだ。

(もう彼女の事を気にしても仕方ないが、やはり会いたいと思う事に変わりはないな……)

 溜息を付きつつ、離宮の浴場へ向かうシャルロット。離宮の風呂も、基本的には王城の風呂から湯を分けてもらって使うものである。ただし少し冷めて温くなってしまうので、沸かし直しは必要だった。

「で、やるのは当然俺なんですよね。へいへい」

 ロベールが文句を言う。この時代の風呂は温泉でもなければ全て薪を焚いて沸かすものなので、湯沸かし役はかなりの重労働である。

「……後でロベールも入って良いですから」

 シャルロットはロベールを労うように言ったが、彼は首を横に振った。

「良いですよ。俺たち影は風呂を使わずに済ませる方法を知ってますから」

 例えば、何日も天井裏等に潜んで相手を監視する、などというのも影にはよくある任務だが、普通にやったら汗や排泄物などでとてつもない悪臭が発生し、あっという間に潜伏場所が露見してしまう。それを防ぐため、水も湯も使わず清潔さと無臭を保つ秘術が影にはあるというのだが、シャルロットが聞いても詳細はもちろん教えてもらえなかった。

「ではよろしくお願いします。一応釘を刺しておきますが覗かないでくださいね」

「へいへい」

 ロザリーとロベールのお約束化しているやり取りを聞きつつ、シャルロットは更衣室へ入った。ロザリーが手際よくドレスと下着を脱がせ、入浴の準備を整える。ロザリーも裸になり、主従は離宮の浴室に入った。既に室内にはもうもうと湯気が立ち込めていて、肌にうっすらと湿気がまとわりつくのがわかる。ロベールはああ言いながらも真面目に火を焚いているらしい。

「……もう、かなりお湯が熱くなっているようですね。ロベールは火を焚くのも上手なのですね」

 シャルロットの感想にロザリーが応じる。

「影の秘伝で、火を早く大きくする方法があるそうですが……」

「……便利すぎませんか、影。何でもありにもほどがあるでしょう」

 シャルロットは苦笑しながら、湯船の横に置かれた椅子に腰かける。ロザリーが失礼します、と言って後ろに立つと、手桶でお湯を汲み、少しシャルロットの肩にかけた。

「お熱くありませんか、姫様」

「……いえ、ちょうどよい具合です」

 シャルロットは笑顔でロザリーに振り返った。寒い季節だけに、お湯の温かさが身に染みる。

「では続けますね」

 ロザリーはそう言ってシャルロットの髪から洗い始めた。かつて風呂と言えばお湯で汚れを洗い流すだけだったが、これもまた救世主の産物として、百年ほど前から石鹸やシャンプーと言った、汚れを奇麗に取り去る便利な道具が出回るようになっている。

(影もだけど、救世主というのも何でもありだな……)

 シャルロットは思ったが、そんな救世主も必ずしも万能というわけではない。実は石鹸とシャンプーをもたらした救世主は、風呂をもっと便利にしようと効率的に湯を沸かす事に情熱を注ぎ、巨大な密閉された炉と釜で湯を沸かす「ボイラー」とでもいうべき機構を作ろうとしたが、「ボイラー」の試作中に爆発事故を起こして亡くなっている。失敗した事がはっきりわかっている珍しい救世主だ。

 救世教の異端派の中には、古の魔王やその他歴史に名を……悪名を残す者たちも、本質的には救世主と同じ存在だと説く教えもあるという。この世界に降臨した後、持っている知識や力を正しく使ったものが救世主と呼ばれ、悪しき事に使ったものが魔王の眷属として名を遺すのだと。

(なんだか、おかしな事を考えてしまっているな)

 ロザリーの髪を洗う手つきが心地よく、ついとりとめもない事を考えてしまう。先ほどロベールの知識や技術も何でもありだと思ったが、思えばロザリーだって相当なものだ。礼法を指南するだけでなく、侍女としても完璧と言っていい技術を身に着けているのはどういうことなのか。彼女自身が貴族である事を考えればますます不思議な気がする。

 さらに、若くして王からシャルロットの正体という大きな秘密を託されるほどに信頼を受けている身でもある。シャルロットはロザリーの事を知りたいと思った。

「はい、終わりました。ではお身体の方を洗いましょう」

 髪を洗い終えたところで、シャルロットは口を開いた。

「……ロザリー、聞きたい事があるのですが、構いませんか?」

 ロザリーが一瞬手を止めた。

「お風呂に漬かりながらで良ければ。今はまずお身体を洗わせてください」

「……あ、はい」

 仕事の邪魔をしてはいけないのは当然の事ではあった。しかし。

「ん……はぁっ……!」

 泡立てた石鹸を付けたロザリーが背中に触れてきた途端に、シャルロットの声から自分のものとは思えない切なげな声が漏れ、ロザリーは思わず手を止めた。

「申し訳ありません、姫様。力が強かったですか?」

「いえ……大丈夫です」

 ロザリーの謝罪に答えるシャルロット。男の頃はそんな事は無かったのだが、今の彼女はかなりの敏感体質で、肌をくすぐられる感触が苦手になっていた。

「いえ、気を付けさせていただきます。これほどきめ細かい、すべすべのお肌なのですから、しっかり手入れをしなくては」

 ロザリーはそう言って、壊れ物のようにシャルロットの身体を清めていく。そのため身体を洗う時間は男だった頃の何倍も長くなってしまっていた。ちょっとした拷問を受けている気分だった。

(は、早く湯に漬かりたい……)

 声を出さないようにこらえるシャルロットの、それが一番の希望だった。


「それで、先程私に聞きたい事があると言われましたが、何でしょうか?」

 ようやく身体を洗い終わり、二人並んで湯船につかったところで、ロザリーから話を切り出した。

「……そうでしたね。ロザリー、貴女は、なぜわたし付きと言う事に?」

 シャルロットがさっき言いかけた質問を投げる。ロザリーは一瞬意味が分からなかったのか、首を傾げた。

「……わたしのような人間に専属で仕えるというのは、貴女の能力を活かす事にはならないのではないかと、そう思うのですが」

 シャルロットが疑問を持った理由を話すと、ロザリーは得心した表情になった。

「そう言う事でしたか。いえ、むしろ私だからこそ、姫様に仕える役目に適していると思います」

 ロザリーは事情を話し始めた。元々、シャルロットのお付きをどうするかについては、既にロベールが事情を知っている事もあり、影の中から侍女としての技量を持つ女性を選んで付ける事を想定していたらしい。

 しかし、通常王女付きの侍女というのは着付け、メイクなど専門分野別に3~4人になる事が多い。影を率いる頭領と呼ばれる彼らの指導者はそれだけの人数をシャルロットだけに付けるのは戦力不足になると難色を示し、ルイもその主張を受け入れた。そこで、ロザリーの兄ジャン=ジャックに身分が保証でき口が堅い侍女がいないか相談したところ、ジャン=ジャックが推薦したのが妹だったというわけである。

 フローベル家は貴族階級だけでなく、それに仕える侍従や侍女に対する礼法や技能も教えており、ロザリー一人で王女付きに必要な侍女の仕事は全てできる。身分と機密保持に対する意識も文句なしであり、最終的にルイはロザリーに侍女の仕事を任せる事を承認した。

「……そういう事情ですから、私の事は心配なさらなくても大丈夫ですよ、姫様」

 ロザリーがそう言って説明を締めくくる。なるほど、言われてみれば確かに正体を隠さなければならないシャルロットにとって、ロザリーはこれ以上ないほど条件に合った侍女だとわかる。しかし、シャルロットとしてはロザリーについてもう一つ気になる事があった。

「……わかりました。ですが、わたしについて帝国までくると言う事は、その……最低でも三年間は、国を離れると言う事ですよね」

「そうなりますが、別に子供ではないのですから、寂しいと言う事は……」

 ロザリーは答えようとして、シャルロットの気になる事が何なのかに気付いた。

「もしかして、年齢の事を気にしているのですか?」

 ロザリーの問い返しに頷くシャルロット。ロザリーはシャルロットより一つ年上、今年二十歳と言う事になる。まだ結婚していない身で、三年も帝国でシャルロットと行動を共にしていたら、帰国する頃には二十三。結婚適齢期を逃す事になる。

「それも心配はいりません。私にも一応婚約者というものがいますから。相手の方も私の出世になるならと了承してくださっています」

 ロザリーはなんでもない事のように言った。

「え……あ、ああ……そ、それもそうですね」

 思わず素に戻りかけるシャルロット。しかし、考えてみればロザリーも貴族の子女なのだから、婚約関係があってもおかしくは無いはずだ。

「今どうして驚いたんですか?」

 主君に向けるものとも思えない冷たい視線を向けてくるロザリーに、シャルロットは思わず頭を下げた。

「ご……ごめんなさい」

 ロザリーは溜息をついた。

「まぁ、私が恋愛結婚とかしなさそうな、可愛げのない女だというのは、自覚もありますし兄などにも指摘されるので良いですが」

 そう言って、今度はロザリーが質問してきた。

「姫様は、いえ、殿下もマリー様と婚約されていたのですよね。それを破棄しようとしたという事情は聴いていますが……なぜそのような事を? 結婚に必ずしも愛情など不要、というのは常識でしょう」

 結婚とは貴族社会においては単なる個人間の関係ではない。家門同士の関係でもある、というよりその側面の方が強い。家門という様々な利権を抱える集団を守り、その力を強めていく事が貴族の責務であり、そのために敢えて愛のない結婚をする事などごく当然の事だ。

「私は……ガラティア家と王家がこれ以上結びつきを強める事が間違っていると思った。いずれガラティア家が王家を乗っ取るのではないかと、そういう危機感を持っていた」

 シャルロットは男の口調に戻って答えた。

「いえ、そう言う事ではなくて」

 ロザリーはシャルロットの答えに、質問の意味を勘違いされているのを気付いて軌道修正した。

「平民の女性を愛していて、彼女と結婚したかったと聞いています。何故そんなに恋愛結婚に拘られたのですか」

 その質問に、シャルロットはきょとんとした表情になった。そんな事は考えもしなかった。

「……何故だろうな。いや、そもそも私はそんなに恋愛結婚にこだわっていたか……?」

 記憶を辿ると、シャルルとして初めてマリーと出会ってからの数年間は、彼女の容姿にこそ不満はあったものの、婚約関係、つまり王家とガラティア家の関係強化と言う点では受け入れていた気がする。マリーの方は愛されたいという気持ちはあったようだが、この関係に愛はないと言えばそれは了承していた。

 何時頃からか……シャルルは結婚するなら愛が無くては駄目だと思うようになり、だからこそマリーとの仲を破談として、アリアを妻に迎えようとした。いや……むしろ、愛する人と巡り会えたと思ったからこそ、愛のある結婚にこだわりたいと思った?

 頭に靄がかかったようになり、うまく考えがまとめられない。だから、シャルロットは自分が意識を失おうとしている事も、ロザリーの慌てる声も、気付く事は無かった。



「……ここは」

 目が覚めると、シャルロットは寝室でベッドの上に寝かされていた。心配そうな表情で覗き込んでいるのは……

「ロザリー?」

 シャルロットが声をかけると、ロザリーは泣き笑いのような表情になった。

「姫様、お目が覚めましたか。良かった……」

 心からの安堵の声に続いて、ロザリーはシャルロットの手を握った。

「申し訳ありません、姫様。お話に夢中になって主がのぼせるのを見過ごすなど……従者にあるまじき失態でした」

 なるほど、とシャルロットは自分の身に起きた事を理解した。ロザリーの手を握り返して首を横に振る。

「……気にしないでください、ロザリー。わたしもうっかりしていました」

 男だった頃は風呂でのぼせた事など一度もなかったのに、今の自分の身体がいかにか弱いか、シャルロットは今更ながらに思い知らされた。もう二度と、あの頃の頑健な肉体に戻る事は無いのだろう。

(そういえば、慈王ルイも決して長生きではなかったな)

 彼女の前に秘薬を使ったルイ五世は、四十に届く前に亡くなっている。王にとって不都合な事実は歴史書に残される事は無いが、秘薬を使ったことがルイ五世にとって寿命を縮める結果になった事は有り得なくはない。戦を避け内政に徹したのも、元が女性であるという事に加え、身体が弱く戦場に立つ事に不安があったから、という理由もあったかもしれない。

(私の生命もあまり長くないのだろうか……?)

 その不安にシャルロットは初めて直面した。男だった頃は、尚武の国フランディアの王として戦場に立ち、そこで果てる覚悟があった。しかし、今こうして自分にはどうにもならない余命という問題を前にして、シャルロットは男の頃に持ったその覚悟さえ、ただの強がりに過ぎず自分にはそんな強さはないのではないか、思い始めていた。

「姫様?」

 真剣な、しかしどこか暗い表情で物思いにふけり始めたシャルロットを見て、ロザリーが呼びかける。シャルロットは無理やり笑みを浮かべ、ロザリーに命じた。

「……今日はもう休みます。ロザリー、貴女ももうお休みなさい」

「かしこまりました」

 一人になりたいというシャルロットの気持ちを察してか、ロザリーはシャルロットにシーツだけを掛け直し、ベッドサイドのランプを消して退出する。しかし、シャルロットは眠ることなく暗闇の中で考えを巡らせ続けていた。

 ルイ五世と同じくらいの余命しかないとすれば、シャルロットに残された人生はあと二十年という所だ。シャルルとしての死を迎えたのが十九歳。もう人生の半分を通り過ぎてしまった事になる。その中の三年間を学園生活に使うと考えると、生きる事について少しでも無駄な時間を使うことはできないと痛感する。

(二十年なんてあっという間だ。その間に私は何をする事ができるのだろう……)

 その自問は、しかしシャルロットを包む夜の闇のように、答えを見通す事ができなかった。

 

 結局、満足に眠る事ができなかったシャルロットの翌朝の体調は最悪だった。身体を起こそうとして腕に力が入らず、ベッドに力なくくずおれる彼女の額に手を当てたロザリーは、すぐにベルナール医師を呼びにロベールを走らせた。

「風邪ですな。それもいささか症状が重いご様子。熱が下がるまで、四~五日は安静が必要ですぞ」

 ベルナールの診断を聞いて、シャルロットは目を見開いた。

「そんな。そんなに長い間、時間を無駄になんてしていられない。私は……」

 そう言って無理に身体を起こそうとするシャルロットを、ベルナールはベッドに押さえつけた。

「駄目です。こんな老人を跳ねのけられないのに何を言っておられるのですか。風邪とて無理をすれば容易に人は死ぬのですぞ」

 そう言って諭すベルナールの言葉を拒んで、シャルロットは無理に身体を起こそうとし続けたが、しばらくすると力尽きてぐったりとベッドに横たわった。

「今日の姫様は随分と強情でしたな。一体何があったのですか」

 自分も少し息を切らしながら聞くベルナールに、シャルロットは答えた。

「……私には時間がないんです」

 そう言った途端に、堰を切ったように不安と涙があふれ出した。

「私の命は……人生は、もう短いかもしれないから……! だから……立ち止まってなんていられない……!!」

 秘薬の副作用の事、弱くなってしまった自分の身体の事、それでも果たさなけばならない使命の事、それらをうまく整理できないまま、シャルロットは思いつくままに嗚咽を交えながら話し続けた。最後には感情が昂りすぎて話す事もできなくなり、ただ涙としゃくりあげる声だけが部屋の中に響き渡った。

「……仰りたい事はよくわかりました」

 やがて、ベルナールはシャルロットを落ち着かせるように、優しい声で話し始めた。

「ですが、焦って無理をしてはなりません。無理は結局のところ、姫様が抱くそうした不安を本当の事にしてしまうでしょう」

 ベルナールは名医と言われているが、それでも助けられなかった患者と無縁ではない。患者は時として自分が治らないという不安から、医者の言葉に耳を傾けず、安心だけを求めて詐欺師の売り付ける何の効果もない、それどころか危険でさえある薬や治療法に手を出し、結局は命を縮めてしまう。そうした光景を何度も見てきた。

 そうした、助ける事の出来なかった人々の思い出をシャルロットに語りながら、ベルナールは彼女の手を握った。

「このような枯れ木の如き年寄りではございますが、私の生ある限りは姫様の傍に寄り添い、末永くお健やかに暮らせるようお助けします。ですから……焦らないでください」

 熱っぽいシャルロットの手には、ベルナールの手がひんやりとしたものに感じられたが、それとは別に、彼女を患者として案じる医者としての使命感と、年長者として若者を見守ろうという優しさが、温かいものとなって伝わってきた。それが自分の中の焦りを溶かしていくようにシャルロットには思えた。

(ああ……私には……こんな私でも、こうして助けてくれる人がいるんだ)

 シャルロットは目を閉じてその思いを受け止める。そうだ。まずは目の前の事を一つ一つ片付けていく事。それが大事だ。そもそも、今のこの姿は性急に事を運ぼうとし過ぎた事への罰なのだから。その事を思い出させてくれたベルナールに、シャルロットは心からの感謝を込めて笑いかけた。

「ありがとう、ベルナール先生……」

 同時に、彼のくれた温かい安心感の中で、シャルロットは眠りの世界に引き込まれていった。

 

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[良い点] 細部まで世界観を書き込んでいてよかったです。
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