第19話 彼女の真実
二度目の転移門通過の時は、慣れたのかそれとも心の準備ができていたからか、最初ほどの眩暈は無かったが、通過して目を開けてみると、すぐ目の前にコルネリウスが立っていた。やや残念そうな顔をしている。
「……殿下?」
シャルロットは彼の狙いを理解した上で、少し咎めるような口調で言うと、コルネリウスは誤魔化すように苦笑し、ずっと待っていたらしい学長の方を向いた。
「留守ご苦労だった、カッセル侯」
「いえ、全員無事で何よりでした……バスケス先生も」
学長の返事の後半は、最後にベルンハルトに支えられるようにして戻ってきたアンジェリカに向けられていた。
「ご心配をおかけしました、学長先生」
アンジェリカが頭を下げる。
「では話の続きは会議室を使おう。少し遅い時間になるが、付き合ってくれ」
コルネリウスが移動を促し、一行は小宮廷の防音の効いた会議室に向かった。
「殿下、ご無事でしたか」
小宮廷に入ると、留守のモーリッツが出迎える。彼と一緒に仕事をしていたヴィルヘルミーネはちらりと帰ってきた面々を見たが、興味無さげに処理中の書類に視線を戻した。
「ああ。しばらく会議室に入るので人払いを頼む」
コルネリウスは答え、防音の効いた一番奥の会議室へ向かった。シャルロットたちもそれに続き、席に着いたところで、まずコルネリウスが言った。
「さて……バスケス先生の事だが、事が帝国の外交政策上の問題にもなるため、彼女の事は君たちにも秘密にせざるを得なかったんだ。すまない」
そう言って頭を下げるコルネリウス。主君に頭を下げさせてしまったベルンハルトとユースタスが慌てたように言う。
「か、顔をお上げください、殿下」
「そうです。我々は気にしていません」
一方、シャルロットは君臣の関係ではない気軽さもあって質問を優先した。
「事ここに至っては、わたしたちにはお話しになる……という事でよろしいですか?」
コルネリウスは頷くと、アンジェリカの方を見た。彼女は覚悟したような顔つきで口を開いた。
「事情があったとはいえ、身分を偽っていたことはお詫びします……私の本名は、ブランカ・ロペスと申します」
その姓を聞いて、シャルロットには思い当たることがあった。
「ブランカ……貴女はもしかして白塔派の……?」
アンジェリカ改めブランカは無言で頷いた。それで、シャルロットはこの問題の背景を何となく悟ることができた。
白塔派……救世教白塔派は、始祖派、輪廻派、再臨派のいわゆる三大宗派以外では最大級、社会的影響力ではそれ以上のものを持っているかもしれない宗派である。何しろ国一つを持っているのだ。その国、バルティスタ教国は西方のエルアバニカに近い、山脈の中の小盆地一つを領土とする小さな国だが、その名を知らない者はいない。
白塔派の信仰対象である「白塔の救世主」は医者で、オルラントの医療を飛躍的に発展させた人物である。外科手術から優れた医薬品の製造・開発、様々な難病の治療法の確立。さらには多くの弟子を取りその技術を広め、医師の社会的地位を大きく向上させた。「白塔の救世主」は子孫を残さなかったが、弟子たちの子孫は師への尊崇から「白」を意味する姓名を名乗っている。ブランカの名を聞いてすぐに白塔派関係者だとシャルロットが分かったのは、「ブランカ」がエルアバニカ語で「白」を意味する名前だからだ。
こうした「白塔の救世主」の功績は始祖の救世主にも劣らないと言われ、直接的にも間接的にも多くの人命を救っている。それだけならば文句のつけようがない程の偉人であるはずの「白塔の救世主」だが、一方で降臨した時代は魔法が全盛期とは言えないまでもまだ盛んに使われており、「白塔の救世主」のもたらした医療技術は癒者匠合――治療・回復魔術師たちの組合からは、自分たちの存在意義を揺るがす大いなる脅威とみなされた。ついには「白塔の救世主」を魔王と認定し、弟子となる医師たちまで含め排斥すべきと言う声すら上がった。
しかし「白塔の救世主」も黙ってはいなかった。彼は医師であると同時に、政治的にも優れた才能の持ち主だったのだ。自分たちに向けられる迫害の刃を切り抜けるため、「白塔の救世主」は癒者匠合を「高額な治療費を請求する事で貧しい者たちを切り捨てている」と糾弾したのである。それはある程度事実でもあり、続いて「真に全ての人々に開かれた癒しを提供しているのは我々だ」と主張する事で、魔法使いたちの特権意識に反発する人々を自らの味方として結集させる事に成功する。
こうして始まった「白塔の救世主」を奉じる人々と、癒者匠合を中心とする魔法使いたちの対立は、それぞれを支持する国々が参戦する形での全面戦争にまで発展し、数十万単位の死者を出した。後世バルティスタ戦争と呼ばれる事になったこの戦いは、開戦から終戦まで実に三十年に及んだ、オルラントの歴史上でも最大規模の大戦争の一つである。
さらに、参戦した魔法使いの多くが戦死し、魔法の衰退に拍車をかける事となった。今でも大戦と魔法の衰退と言う二つの惨事を招いた「白塔の救世主」を救世主と認めず、白塔派を異端として排斥すべしとしている国や宗派が存在しているなど、後世に与えた影響は功罪ともに大きい。
「敵が多いですからね……白塔派」
シャルロットの呟くような言葉に、ブランカは恥じ入るように溜息をつきながら言った。
「いえ……今日の彼らは……あれは身内です」
今度はシャルロットが溜息をつく番だった。
「そっちですか」
バルティスタ戦争の末に、白塔派は自らの拠点を獲得し、確固たる地位を築いた。これで平和な日々がもたらされるかと思いきや、白塔派は今度は内紛を頻発させる事になる。自ら運営する巨大な病院の他、その能力を買われ各国の典医にも人材を供給する白塔派の政治力・財政基盤は強大だ。それを巡る権力闘争が起きるようになったのである。
そうした身内の争いを嫌い、医療者の本分を全うすべく、全ての人々の救済を優先すべきとする仁愛派や、ひたすらに医療技術の発展に尽くす事を優先する啓恵派など、白塔派と袂を分かった分派も多い。
「しかし、現教授のロペス殿は相当な剛腕と聞いています。それなのに今日みたいな事が……」
ユースタスが言い、途中でその言葉が止まった。教授と言うのは白塔派の位階で、他宗派では法皇や主教と呼ばれる事の多い最高指導者の事を指す。そして、現教授の名前はカンドーレ・ロペスである。その事に気付いたシャルロット、ユースタス、ベルンハルトの視線がブランカに集中した。
「私はカンドーレ・ロペスの娘です」
三人の視線に応えるようにブランカが言った。すでに知っていたであろうコルネリウスとタネンベルク学長の方を向いて、シャルロットは言った。
「殿下、ブランカ様の亡命を受け入れる事で、帝国にどのような利益があるのですか?」
偽名を名乗り、身内――つまりバルティスタからの追手から身を隠しているブランカの現状を見れば、彼女の帝国滞在はシャルロットのそれのような正常な外交関係に基づくものではない。おそらく亡命だろう。シャルロットはそう想像したのだが、どうやら当たりだったらしい。
「もちろん利益はある。それも帝国だけではない。貴女の国にも……その他多くの国にも利益のある話だよ」
コルネリウスは笑みを浮かべて答えると、ブランカに話を続けるよう促した。それを受けて、彼女はシャルロットたち事情を知らない三人に向けて尋ねた。
「お三方は、私の父の事をどう聞いていますか? 怒ったりはしませんので、正直に言ってみてください」
まずある程度知っているらしいユースタスが答える。
「私が聞いた限りでは、白塔派の真髄を極めたような人だと……」
続いてベルンハルト。
「医師としてもさることながら、政治家としても傑物とは聞いています」
シャルロットは首を横に振った。
「申し訳ありません、わたしは評判を聞いたことが無く、よくわかりません」
シャルロットにとって、というよりフランディアにとってバルティスタは縁の薄い国だ。というのも、フランディアはバルティスタ戦争後に建国された事もあり、既にいくつか存在していた分派の中から仁愛派の医師を典医に迎えたからである。今のベルナール医師も仁愛派だ。別に政治的な理由ではない。白塔派は拠点として大病院を作りたがるため、何かと金がかかるうえに、国の統制に服しがたいからである。
(……病院を作る事自体は、悪い事ではないんだけど)
とシャルロットは思っている。国民のためにも医療の水準を高める事は大事だ。しかし、大病院を運営するノウハウを独占している白塔派は、その見返りとして運営費の多くを国に負担させるよう求め、また入院費も高いため、シャルロットが望むような、全ての国民の健康に寄与できるものかと言うと疑問符がついてしまうのだ。この白塔派の現状を知ったら「白塔の救世主」がさぞ嘆く事だろう。
そんなシャルロットの考えを見抜いていたのか、ブランカは苦笑いを浮かべて言った。
「政争の怪物、白塔派の権化……父がそう言われているのは知っていますし、そのように振る舞っているのも確かですが……父の真の望みは、形骸化した白塔派の理想の復活です」
それを聞いて、ベルンハルトとユースタスが信じられないと言うように目を大きく見開く。帝国の医療界は白塔派が主流だ。二人はその医療を受けられる大貴族の一員だが、それでも時に横暴とさえ言える白塔派の活動には苦々しいものがあるのだろう。その頂点に立つロペス教授が、実は仁愛派のような事を考えていると言われても、にわかには信じがたいはずだ。
だから、驚きの薄いシャルロットが二人の代わりのように聞く事になった。
「真に全ての人々に開かれた癒しを……確か『白塔の救世主』はそう言っていたのでしたね」
娘のブランカも認める通り、現白塔派最高指導者であるカンドーレ・ロペスは、その地位に登るまでに無数のライバルを蹴落としてきた、剛腕と評されるに相応しい政争の達人だ。しかし、彼が今まで蹴落としてきた者たちは医療と言う白塔派の本分を忘れ、私利と権力の追求に耽ってきた者たちだけなのだという。
「そうした者たちを白塔派から一掃し、医療をもって人々に奉仕する白塔派の理想を蘇らせる。父は娘の私にはいつもそう言っていました」
そう語るブランカの表情には、父への敬意が溢れていた。
(……羨ましいな)
シャルロットは、そんなブランカを見て思った。いくらか父の心情に触れた今でも、ブランカほど素直に父への想いを表に出す事は、シャルロットにはできそうもない。そうしたシャルロットの内心など知る由も無く、ブランカは言葉を重ねていく。
「父のそうした夢を叶える手伝いをしたいと……私は思ってきましたが、父に言われたのです」
今、バルティスタではなくここにブランカがいるという事は、役立たずだと言われたのでなければ……シャルロットは予測しながら聞いた。
「……なんと?」
「手を汚すのは自分だけで良い、と」
ブランカは答える。全てを自分の力で終わらせ、あとに残された綺麗な世界を託す。それが彼女の父親の選択肢なのだと。
(いい親子なんだな)
シャルロットは思った。自分がブランカの立場なら、やはり傍で父親を助けたいと思うだろうし、それをいかなる理由によっても拒絶されたいとは思わない。きっとブランカも本心ではそう思っているだろう。それでも、彼女は父の元を離れる道を選んだのだ。おそらくは足手まといになってしまうだろうと思ったから。お互いに信じ合っているからこその別れ。
助けたい、と本心から思った。ブランカと彼女の父が作る新しい白塔派、それが世界にもたらすものを見たい。しかしその前に確認する事がある。
「ブランカ様のお話は分かりました。ぜひとも手助けさせていただきたい話ではあります」
ぱっと顔を明るくするブランカから視線をそらし、シャルロットはコルネリウスに尋ねた。
「ですが、ブランカ様、というかロペス教授を助ける事でどのような見返りが……"多くの国にも利益のある話"があるのか、わたしは聞いていません。殿下はもうお聞きになっているのでしょう?」
「もちろんだ」
コルネリウスは頷いた。
「教授は、貧しい者でも医療を受けられるようにする新たな制度を構想している。それが実現できれば我が国としても大きな利益があると、父上や兄上も判断した」
「殿下、それはいったい?」
ユースタスが身を乗り出す。いずれ本物の内務卿になる事を志している彼には関心の高い話題だ。
「簡単に言えば、全ての国民が普段から少しづつ金を積み立てておく。そして、医者が必要になった時に、その中から医者への報酬を払う……と言う感じだな」
コルネリウスが説明する。しかし、ユースタス、ベルンハルトは首を傾げている。いまいち説明だけでは利点が分からなかったらしい。
(どこかで聞いたような話だな)
シャルロットはそう思ったが、やはりその説明だけでは心当たりがつかない。
「貯金……のようなものですか?」
そう聞いてみると、ブランカが答えた。
「貯金とはまた違います。これは『白塔の救世主』が生前遺されていた案で、それを父が実現に移したいと考えているものなのですが……」
流石に当事者の一人だけあって、分かりやすく制度を要約していく。つまり、国は国民に対し新たに税金を定め、その税金を積み立てておく。国民が医者にかかると、医者は実際にかかった費用よりも少ない額を請求し、不足分は国が積立金の中から支払う。これによって国民の負担を減らしつつ医者にかかりやすくし、医者への報酬も保証する。
一方で、現在医師が自分の判断で定めている医療費を、白塔派本部の方で適正な金額を定め、それを全ての国で施行させる。もちろん、それにはロペスが現在進めている改革が成就し、私腹を肥やす者たちが一掃される事が条件だ。しかしこれらが実現すれば、高騰し続けてきた医療費は劇的に下がり、どの国でも今までよりずっと医者にかかりやすくなるはずだ。
しかし、まずユースタスが疑問を呈した。
「趣旨は分かりますが、少額とは言えこれは増税が必須の政策です。国民の不満が高まることは避けがたいかと思いますが」
シャルロットも同じ疑問があった。つけ加えて言う。
「気になるのは、普段は良いとしても大きな戦争や流行り病でもあれば、たちまち原資が底を突くのではないかという気がします」
かつて国の人口を半分にするとまで恐れられた最凶の伝染病、赤死病。今は「葡萄酒の聖女」の功績で予防が進んでおり、大流行は長らく発生していないが、その半分、いや十分の一程度の規模の病気が流行しただけでも、この制度は破綻するだろう。戦争で多数の負傷者が同時に出て、彼らが医者に通う時も同様だ。
「うむ……基本的には帝国でも採用したい制度ではあるが、その辺りは検討が必要だと、財務卿も内務卿も言っていたな」
コルネリウスが言う。既にこの制度については専門の官僚も交えて実現性や持続性について検討が進んでおり、ユースタスやシャルロットの感じた疑問も当然挙げられていた。
「その辺は財務卿たちに任せておく方がいいだろう。問題はブランカ嬢の処遇だ」
コルネリウスが話題を変えた。
「ロペス教授との取り決めで、政争が一段落するまでは帝国がブランカ嬢の身柄を保護し、部外者が入りにくく警備がしやすい学園を保護先に選んだのだが……既にこれは反ロペス派に露見したとみていいだろう」
コルネリウスの言葉に頷くベルンハルト。ブランカの拉致を実行に移した賊は二人だけだったが、すでに彼らは自分たちの主にブランカの所在を伝えたはずだ。彼女がロペス派に対する取引材料となる以上、今後も拉致や場合によっては暗殺も視野に入れた工作が行われるに違いない。
「学園長と言う立場でも、帝国貴族の一人としても、そのような事で生徒たちに危害が及ぶ事は避けたい。さてどうしたものか」
タネンベルクも懸念を表明する。
「それもありますが……今日の先生の拉致を見るに、既に反ロペス派の手はかなり帝国内部に浸透している可能性がありますね
ベルンハルトが言う。ブランカの所在を掴み、彼女を隠れ場所から炙りだすために偽投書を行い、それが上手くいかないとみれば拉致に移る。しかも極めて知る者の少ない地下の転移門からの侵入。相当帝国と学園の事情に詳しい者の手引きがあったとみて間違いないだろう。
「殿下、学長、あの転移門を他に知っている方はどのくらいいらっしゃいますか?」
シャルロットは尋ねた。
「皇族はみんな知っているはずだな……」
答えるコルネリウスが顔をしかめる。あまり考えたくない可能性に行き当たったのだろう。
(……私は口に出せないが、ディートリッヒ侯爵夫人はご存知なのではないか?)
シャルロットはコルネリウスが口に出せないその可能性を分析する。ディートリッヒ侯爵夫人アウスラもこの学園に在学していたはずで、間違いなくこの秘密を知る一人である。そして彼女が反ロペス派と手を結ぶ動機もある。ブランカの身に何かあれば皇帝の失態になるからだ。
「歴代学長も知っているだろう。しかし、現在の転移門の行き先設定は私と殿下以外は知らないはずだ」
タネンベルクが言う。そこでシャルロットとコルネリウスはハッとなった。確かに、あの転移門が結節門で行き先を切り替えられる以上、どこから学園に入れるかはわからないのだ。
(……あの時と同じだ。他に知る者がないはずの抜け道を知っていた者……)
シャルロットの脳裏にアリアの顔が浮かぶ。そして続いて浮かんだのはヴィルヘルミーネの顔だった。
(いや……考え過ぎだ。しかし……)
その想いを断ち切るようにコルネリウスが言った。
「内通者がいるとして、想像以上に侮りがたい相手のようだ。このままではブランカ嬢をより安全な場所に移したつもりでも、それすら筒抜けになるかもしれないな」
事態の深刻さに唸るような声だったが、ブランカが不安げな表情で見てくるのに気づいたのか、安心させるように明るい声でコルネリウスは言った。
「大丈夫です。我が帝国は必ずあなたのお父上との約束は守ります。大船に乗ったつもりでいてください」
次の瞬間、シャルロットの脳裏にひらめくものがあった。
「それです!」
突然大声を上げたシャルロットに、室内の一同の視線が集中する。
「何事ですか?」
「どうしたんです、姫」
口々に言うユースタスとベルンハルトを無視して、シャルロットは立ち上がると身を乗り出すようにしてコルネリウスに言った。
「先ほどの医療に関する新しい仕組み……どこかで似たようなものを聞いた覚えがあったのですが、思い出しました」
怪訝そうにその言葉を聞いたコルネリウスだったが、シャルロットの説明を聞いて直ちに人を走らせた。
半刻ほどして、会議室に現れたのはコルネリウスの親友であるレディング王国のセドリック王子だった。
「火急の用だと聞いたが、こんな遅い時間に何があったのかね? わが友よ」
挨拶もそこそこに問いただすセドリック。彼は寮暮らしではなく、レディングが帝都に持っている大使館に住んでいるため、既に帝都の門が閉じられたこの時間になって学園にやってくるには、コルネリウスの命令による手続きの簡略化をもってしてもなかなかに面倒なものがあった。
「済まない。だが君の国にとっても決して損のない話を持って来たから、それで勘弁してくれないか?」
コルネリウスの詫びに、セドリックは手を挙げてそれを制した。
「なに、怒っているわけじゃないさ。お前が理由も無く俺を呼ぶはずがないからな」
そう言いながら、セドリックはシャルロットに目を向けた。
「こうしてご挨拶をするのは初めてですね、セドリック殿下。シャルロット・ド・ロワール=ブリガンドにございます」
相手の方が身分が上なので、シャルロットの方から先に挨拶する。セドリックはほう、と声を漏らすと、胸に手を当て貴婦人に対する礼を取った。
「丁寧なご挨拶、いたみいります。スペンサー公セドリックと申します。シャルロット姫にご挨拶が叶います事、光栄の至り。どうかお見知りおきを」
そう言ってキスハントするセドリック。スペンサー公爵はレディング王国において王位継承権第二位の者に与えられる爵位で、同国では王族は姓を挨拶の口上に使わない。海を挟んでいるとはいえ隣国なのでそういうレディングの礼法も知っているシャルロットだが、相変わらず奇妙な風習だな、と内心では思っている。だが、ここに彼を呼び話ができるのも、レディングの事情を多少なりとも知っていたおかげだ。何事も知っていて無駄という事は無い。
セドリックも席に着き、会議は再開した。セドリックのために、コルネリウスがブランカを保護するに至った事情を説明し直し、ブランカは例の医療に関する新たな枠組みについて説明していく。それらが終わったところで、コルネリウスはセドリックに尋ねた。
「それで……君の国、レディングにはブランカ嬢が話してくれたのと似たような仕組みがあると、シャルロット嬢から聞いたのだが……確かか?」
セドリックはそれで俺が呼ばれたのか、と納得したように呟くと、コルネリウスの疑問に頷いた。
「ああ、あるぞ。わが国では"保険"と呼んでいるな」
大陸の南に広がるロメリア海。そこに浮かぶ島国レディングは、古代より「海の民」と呼ばれた海洋民族が築いた幾つかの国の中でも、最も強大、最も繁栄した国であり、海軍大国であると同時に海運大国でもある。
今も昔も、海運が陸運に比べて持つ優位は変わらない。船によって大量の荷物を高速で、しかも安価に運ぶ事ができる。これこそ海の民が栄えた要因だが、同時に海運には陸運にない危険も存在する。陸の上なら屋根の下に入ればなんという事も無い嵐も、避けるものがない海の上では致命的な危機をもたらす。陸ではほぼ絶滅したドラゴンのような巨大魔獣も広い海にはまだまだ多く生き残っており、それらとの遭遇は死を意味する。
そして、それらの危機により船や積み荷を失えば、海商たちにとってはまさに身代が一度に傾くほどの窮地に陥る事になる。たった一度の海難事故で破滅した海商は珍しくない。
そんなレディングの海商たちの間で自然発生的に生まれたのが、保険と言う仕組みだ。航海の前に出資を募り、予め海難事故の損失を補填できるだけの資金を用意しておくのである。万が一事故が起きても海商は事業を破綻させずに済むし、航海が無事に終われば、その利益から出資額に応じた配当を上乗せされた報酬が出資者に支払われるので、出資者にとっても利益となる。
当初は海商たちの協同組合的なものとして始まった保険はその利点が認められて次第に国中に広まり、中には保険業を本業とする商人も出現している。こうした「保険会社」と言うべき業者は、今ではレディングには大小数十も存在するという。
シャルロットは王太子時代にこの保険業者の存在をロメリア海沿岸地方からの報告書で読んで知っており、先程はっきり思い出したというわけである。ちなみに、側近たちにこの仕組みをフランディアでも作れないか? と研究させたこともあるが、結果は「既にフランディアの海運業者はレディングの保険に加入しているので、割り込む隙間がない」と言うものだったため、研究はそこで終わっている。
(あれを続けさせておけばよかったかな)
そうすれば、この席でもう少し詳しい話ができたのに。シャルロットがそう思った時、セドリックの声が彼女の意識を思惟から現実に引き戻した。
「それにしても、シャルロット姫はよく保険の事をご存知でしたな。他の国には広まっていない仕組みなのですが」
「いえ、私も聞いただけで……思い出せたのは偶然です」
セドリックの言葉にシャルロットは答えた。コルネリウスが「大船に乗ったつもりで」と言わなければ、過去の記憶と今の課題を結びつけることはできなかっただろう。
「ふむ……?」
セドリックは面白そうな表情でシャルロットを見たが、真面目な表情に戻ってコルネリウスに言った。
「どうだろうわが友よ。この一件、ブランカ嬢ともども我が国に預けてみる気は無いか?」
コルネリウスは驚いた表情になったが、すぐにその提案の利を悟ったらしい。
「そうだな……島国であるレディングなら、反ロペス派の影が入り込む事も難しいし、ロペス教授の構想も、既に似たような仕組みを運用している経験に富んだ商人たちがいるなら、うまく形にしてくれそうだ」
コルネリウスが呟くように確認していく。セドリックは満足げに頷いた。
「そう言う事だ。この仕組み――と言うのも回りくどいな。"医療保険"とでも言っておくか……も、将来的にはともかく、今は増税で財源にするというのは避けた方がいい。運営は商人に任せ、加入したいものが加入するという仕組みで行くべきだろう」
セドリックはレディングの保険業者も、ほとんど国からの補助なしでやっている事を挙げてそう言った。全ての国民に医療を届けるという目的からはやや遠ざかるが、まずはセドリックが名付けた「医療保険」が、持続性のあるものとして成立出来るという実績が必要だろう。
「わかった。明日、父上と兄上にこの件を伝えて最終判断を仰ぐが、今話した通りになるようにする。ブランカ嬢もそれで構いませんか?」
コルネリウスの言葉に、ブランカは頷いた。
「はい。父にもそのように伝えます。それと、セドリック殿下」
ブランカはセドリックに向き直り、深々と頭を下げた。
「ご理解をいただきありがとうございます。厚かましいとは思いますが、お世話になります」
セドリックは鷹揚に笑いながら手を振った。
「よしてくれ。うちの国にも利益があるからこそだ。借りと思ってるなら、今後の働きで返してもらえば良い」
「はい」
ブランカは微笑むと、再度コルネリウスの方を向いた。
「コルネリウス殿下、タネンベルク学長……今までありがとうございました。必ずこのご恩には応えさせていただきます」
その言葉に、コルネリウスが笑みを浮かべる。
「セドリックと同じ言い方になるが、互いに利益あっての事だから、そんなに恩に感じる事はないよ。それより無事の旅を祈っている」
タネンベルクは娘に向けるような優しい声で答えた。
「短い間でしたが、ご苦労でした。良ければ後任の推薦などしていただけるとありがたいのですが」
ブランカは候補の名簿を書いて渡します、と答え、今度はシャルロットとベルンハルト、ユースタスの顔を交互に見ながら頭を下げた。
「皆さんもありがとうございました。命を救っていただいたことは忘れません」
「いえ……これも騎士の務めですから」
ベルンハルトが言うと、ユースタスもそれに頷く。
「その通りです。我々は当然の事をしたまでです」
シャルロットも、男だった頃は騎士の端くれだったわけで、二人の男子と同様騎士道精神的に女性を助けるのは当然という考えは持っていたが、もちろん今そんな事を口に出すわけにはいかない。ブランカに微笑みを向けて言った。
「いえ……レディングで、先生の試みが上手く行く事をお祈りしています」
それだけでは素っ気ないかな、と考えて付け加える。
「先生の授業を受けられなかったのが、少し残念ですが」
それを聞いて、ブランカも寂しそうな笑顔を浮かべた。
「そうですね。私も姫様に教える栄誉に与りたかったのですが……」
そこまで言ってから、何かを思い出したようにブランカは手を叩いた。
「そうだ、授業の代わりに姫様に一つお教えしたいと思います。帝都のツェルラッハ工房にぜひ足を運んでみてください。きっと姫様のお眼鏡にかなう品が揃うかと思います」
「ツェルラッハ工房……ですか。わかりました。ありがとうございます」
シャルロットは頷いた。ブティークと言うからには服飾品の店だろう。フランディアから持ち込んだ服にも限りがあるし、帝国の流行の品をそろえる必要もあるだろうから、これはありがたい情報である。
「では、今夜はもう遅い。この辺でお開きにしよう」
コルネリウスがそう言って手を打つ。帝国に来てから一番長く感じられた一日が、ようやく終わろうとしていた。
冬コミで出す小説を並行して書くので、暫くまた更新頻度が下がります。