第18話 狩猟場の森で
ベルンハルトの急報を受けて、シャルロットとユースタスが駆け付けた第二医務室は、一見普段と変わらない様子だった。アンジェリカがおらず、彼女の机の上に一通の書置きが残されている以外は。
「いったいいつから?」
シャルロットの質問にベルンハルトが答える。
「今日の授業はちゃんと行われていたという証言を得ておりますので……ここ数刻の間にいなくなられたものとかと」
そう言って説明を続ける。最初にアンジェリカがいない事に気が付いたのは、少し調子が悪く診てもらいに来た女子生徒で、この様子を見てたまたま近くにいた司法委員に通報したのだという。そこから直ちにベルンハルトに報告が上がり、内務卿の方でアンジェリカの事を調べていた事を思い出した彼は、すぐさま内務卿執務室へ飛んできたのだ。
「授業の間、何か変わった様子だったとは聞いていませんか?」
説明を受けて重ねて質問するシャルロットに、ベルンハルトはいいえと答えた。シャルロットは頷くと机のそばに歩み寄る。書置きは特に封筒などに入れる様子も無く、むき出しで机の上に置かれていた。
「書置きを見てもよろしいですか?」
シャルロットの問いに頷くベルンハルト。シャルロットは書置きを手に取り、目を通した。そこには生徒に迷惑をかけた事を詫びると共に、自分は教師である資格が無いから辞職して学園を去る旨の文章がつづられていた。
「これだけ見れば、バスケス先生が自発的に失踪したと見えますが……門番は先生が出ていくのを見ていないと言っています」
ベルンハルトが言った。それに頷きながら、シャルロットは書置きの文面を追っていく。
(……なんだかおかしいな)
シャルロットは違和感を覚えた。先日一回話したきりだが、アンジェリカは医師でもあるだけに教養豊かな女性だ。にもかかわらず、この手紙は文法の間違いが多く、単語もあちこち間違えていた。まるで簡単な読み書きしかわからない庶民が書いたような文章なのである。
(うん?)
シャルロットは最後まで読んで、署名の横に書かれた日付も妙だと感じた。今日は一九日。しかし、一と九の間が妙に離して書いてある。
「どうされました?」
大して長いわけでもない書置きを何度も読み返すシャルロットに、不審に思ったユースタスが声をかける。シャルロットは顔を上げるときっぱり言った。
「これは書置きではありません」
シャルロットは書置きの日付部分を指した。
「この日付は、各行の一文字目と九文字目を拾って読めと言う指示です。その通りに読むと……」
「……さら……われ……るた……すけ……て……"攫われる、助けて"ですか!」
ユースタスがシャルロットの言う事を理解し、大声を上げる。
「しかしどうやって……」
ベルンハルトが首を傾げる。アンジェリカが門からは出ていない事を確認した際に、部外者が入ってきた様子もない事も確認してある。もちろん、それなりの装備と技量があれば、学園を囲む城壁をよじ登って侵入する事もできなくはない。しかし、門番以外にも城壁の回りを巡回して警備している兵士はいるのだ。それらの目をごまかして侵入する事は不可能に近い。
「それについては、私が答えられそうだな」
ベルンハルトのその疑問に答えるようにして医務室に入ってきたのはコルネリウスだった。後ろにタネンベルク学長も続いている。
「総代、それに学長閣下」
ベルンハルト、ユースタスが敬礼する。シャルロットもスカートの裾をつまんで跪礼すると、挨拶もそこそこにコルネリウスに尋ねた。
「総代、何か心当たりがおありなのですか?」
コルネリウスは頷くと、周囲の委員たちに命じた。
「済まないが、ここから先はベルンハルト、ユースタス、シャルロット嬢だけ残ってもらいたい。君たちは外してくれ」
それを聞いて、同行してきた内務委員やベルンハルトと共に来ていた司法委員たちが部屋を出ていく。扉が閉まり、残ったのが小宮廷の役員とタネンベルク学長、それにコルネリウスの護衛の騎士だけになったところで、コルネリウスはタネンベルクに尋ねた。
「緊急事態ゆえやむを得ないと判断しますが、よろしいですか?」
「致し方あるまいな」
タネンベルクが渋々と言った感じで了承するのを見て、シャルロットは何となくコルネリウスの「心当たり」に見当がついた。
「おそらく、バスケス先生を拉致した賊は、支城時代の抜け道から入って来たものと思われる」
コルネリウスのその説明に、やっぱりかとなるシャルロット。ベルンハルトとユースタスも同じ事は感じていたらしい。
「噂には聞いたことがありますが……」
「やはりあったのですか」
二人の腹心が言うと、タネンベルクが頷いた。
「これについては総代と学長だけが代々把握している機密でな。本来なら君たちに明かす事は無いはずだったが……そうも行くまい」
「賊に知られた今では隠しておく意味も無いからね。念のため一般委員には存在自体伏せておくが」
コルネリウスも言う。シャルロットは頷くと、タネンベルクの方を向いて質問した。
「学長……一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「私に答えられる事ならば答えよう」
頷くタネンベルク。シャルロットは質問の続きを口にした。
「学長はバスケス先生……いえ、おそらくあの方は"アンジェリカ・バスケス"ではないのでしょう。正体をご存知なのですか?」
聞かれたタネンベルクがコルネリウスと一瞬視線を交わすのを、シャルロットは見逃さなかった。一息間をおいて、タネンベルクは首を横に振った。
「それは私からは答えられない事だな」
それを聞いて、シャルロットはコルネリウスに視線を向けた。彼は肩をすくめて言った。
「私なら知っていると言いたそうだね。まぁ知っているが……できればここから先は触れないでほしい問題なのだが」
シャルロットは溜息をついた。どうやらアンジェリカに関する想像はかなりのところ当たっていたらしい。想像の外だったのは、彼女の学園への滞在が帝国の許可の元にあった事だろう。
(それもそうか。自分を基準に考えるから、バスケス先生も帝国に対して正体を秘密にしていると思ったが……)
アンジェリカは追われる身ではあるが、帝国は彼女の正体を知った上で、保護するべきだと思っているのだ。シャルロットはふっと一息つくと、コルネリウスに視線を向けて尋ねた。
「でも、わたしを残したという事は教えてくださるのですね?」
「まぁ、それは後で教えよう。今は時間が惜しいからね。まずはバスケス先生の保護を優先する」
そう言うと、コルネリウスは医務室を出て歩き始めた。学長と護衛の騎士たちもそれに続く。シャルロットとユースタス、ベルンハルトも後を追う。向かった先は校舎の端、ちょうどシャルロットの部屋の真下にあたる塔の地下区画だった。
(こんなところがあったのか……)
辺りを見回すシャルロットの数歩先を歩いていたコルネリウスが、一つの扉の前で立ち止まった。
「ここだ」
コルネリウスが扉を開ける。すると、地下にも関わらず淡い青色の光が部屋の中から漏れ出してきた。その光の源は、部屋の中心に据えられた、人の背丈の倍ほどもある黒曜石のアーチ――正確には、そのアーチを満たす水面のように揺らめく力場だった。
「これは……まさか転移門?」
シャルロットは驚きの声を上げた。転移門――遠く離れた二点を一瞬で移動する事の出来る魔法の工芸品である。かつて魔法がまだ身近だった時代にはかなりの数が作られ、オルラント大陸全域を結ぶネットワークが形成されていたとも言われるが、今も稼働状態にあるものは少ない。もちろんフランディアにはこのような貴重な魔法の品は存在せず、シャルロットも見るのは初めてだった。
(抜け道には違いないが……流石帝国。うちとは違うな)
感心するシャルロットにコルネリウスが言う。
「ああ。今は龍眼の狩猟場に通じるようにしてある」
その間に、彼の護衛騎士の一人が手早く門の周囲を調べて回っていた。
「罠の類は無いようですね……また、殿下や我々のものを除くと三人分の足跡があります。おそらく一つは拉致された教師のものでしょうから、侵入者は二名ですね」
ほんの呼吸数回分ほどの時間で、それだけの情報を調べ上げた騎士が報告する。すると、シャルロットの耳元に彼女だけに聞こえる声でロベールが報告した。
(その騎士の調べは正しいですね。おそらくあいつも影ですよ)
シャルロットは頷いた。微かにロベールの声に優越感が滲んでいるのは、直接調べず目検だけで同じ事を導き出した自分の方が優れてますよと言うアピールだろうか。
(……そういう所がいまいち好意や信頼を得られない理由だぞお前)
シャルロットは口には出さず、心の中でロベールにそうツッコミを入れた。一方コルネリウスは次の行動に出ていた。懐から銀色の鍵を取り出し、タネンベルク学長も同じデザインの、金色の鍵を取り出して転移門へ歩み寄る。二人は転移門の左右に分かれて立ち、鍵を差し込んで回した。すると、それまで水色だった力場が白に変わった。
「主命に応えよ。汝が我を導くは銀龍の狩猟場なり」
コルネリウスの詠唱と共に、二人が鍵の位置を元に戻す。すると力場は白から淡い緑色に変化した。
(結節門……! ただでさえ珍しいのに、こんなものまであるなんて)
シャルロットは驚いた。転移門は普通行き先が固定されているが、ここにあるもののように複数の行き先が設定でき、それを切り替えて使えるものを結節門と言う。
「よし……では行くとしよう……と、その前に」
コルネリウスはシャルロットの方を向いた。
「事がバスケス先生絡みなのでここまでは来ていただいたが……この先は荒事になる可能性が高い。シャルロット嬢はここで待っていてほしいのだが」
シャルロットは一瞬思考を巡らした。確かに、コルネリウスの立場としては外国要人であるシャルロットを僅かでも危険にさらす可能性は避けたい事だろう。しかし、既に彼女の覚悟は決まっていた。
「いえ、わたしも参ります。バスケス先生がどのように扱われているかによっては、女手が必要となることもあるでしょう」
シャルロットははっきりと同行の意思を口にする。ここまで来て後は待つだけなど受け入れられるはずがない。それに、何らかの形で女手が必要になる可能性が無ではないというのも確かである。拉致と言う形を取った以上、下手人がアンジェリカに危害を加える可能性は低いと思ってはいるが、そんな手段を取る相手の道徳心に期待し過ぎるのも間違いだろう。
「ふむ……」
コルネリウスは少し考えこんだが、シャルロットの意思が固そうだと見たのか頷いた。
「仕方ない……同行を認めよう。フロエン卿、シャルロット嬢を守ってくれ」
「はっ!」
影ではない方の護衛騎士が敬礼し、シャルロットに向き直った。
「帝国騎士、ヴィスラー・フロエンと申します。僭越ながら姫殿下をお守りさせていただきます。どうか私から離れませぬよう」
そう言って跪くフロエン。シャルロットは頷き、彼の肩に手を置いた。
「わかりました。どうかよろしく頼みます、フロエン卿」
略式ながら護衛騎士任命の儀を行ったところで、コルネリウスが学長に言った。
「では行ってくる。カッセル候、後は頼む」
「は、お気をつけて」
総代と学長ではなく、皇子と家臣としての立場で挨拶をかわし、コルネリウスは転移門の力場に足を踏み入れた。影兼護衛騎士、ユースタスとベルンハルトも続いて転移門に入っていく。
「私は殿を務めます。姫殿下、転移門を使った事はありますか?」
フロエンの問いに、シャルロットは首を横に振った。
「そうですか。慣れないうちは、めまいや酩酊感を感じる事があります。もしダメだと思ったら後にお倒れください。私が支えますので」
「わかりました」
フロエンの助言に頷くと、シャルロットは見送る学長に一礼し、思い切って転移門に足を踏み入れた。その瞬間、一瞬足元がぐにゃりとした柔らかいものを踏んでいるかのような心許ないものに変わり、身体が闇の中に沈み込んでいきそうな気分になる。
(えっ……ちょっ……)
フロエンから聞いていた以上の気分の悪さに焦るシャルロット。後ろではなく、前の方に向けて身体が泳ぐ。このままではフロエンに支えてもらう事が出来ないまま転んでしまいそうだ。
「わぷっ……」
しかし、前のめりに倒れかかったシャルロットの身体は何かにぶつかって止まった。同時に感覚が正常なものに戻る。
「おっと、大丈夫かね? シャルロット嬢」
頭上から声が聞こえてきた。思わずその声の方向を見上げると、ほとんど触れあいそうなほど近くに声の主の顔はあった。コルネリウスだった。その瞬間、シャルロットは自分の今の状況を悟った。転移門を抜けて倒れ込みそうになったところで、そこにいたコルネリウスにぶつかった……いや、抱きとめてくれていたのだ。おそらくは彼女が転移門に慣れていないであろう事を予想した、コルネリウスの気遣いで。
「姫殿下、ご無事ですか?」
その時後ろから声が聞こえた。フロエンが追い付いてきたのだ。それを聞いて、シャルロットはまだ自分がコルネリウスに抱き着いたままなのを自覚した。
「し、失礼しました、殿下」
慌ててコルネリウスから離れ、頭を下げるシャルロット。顔面が紅潮していくのを彼女は感じていた。周囲に他の人々もいるというのに、その前でコルネリウスに抱き着いてしまう形になったのだから、流石に恥ずかしい。
「いや、構わないよ」
コルネリウスがさわやかに笑う。シャルロットは恥ずかしさを誤魔化すように、辺りを見回しながら尋ねた。
「ところで殿下、ここはどこなのでしょうか」
見たところ、今いるのは丸太を組んで作った小屋のような建物の中だ。
「ここは銀龍の狩猟場の狩猟小屋だよ……おっと、失礼。貴女には説明が要ったね」
コルネリウスはそう言って説明を始めた。
プロヴィンシェン皇室は帝国領土の各地に専用の狩猟場を幾つも持っている。その中で、皇子に与えられる専用狩猟場として用意されているのが、帝都から北に徒歩二日ほどの距離にある山地、龍鱗山脈に設けられている「龍眼の狩猟場」「銀龍の狩猟場」だ。
龍眼の狩猟場は皇太子専用で、「龍の目」と呼ばれる湖を中心として広がる谷を丸ごと使っている。さっきまで学園地下の転送門は龍眼の狩猟場を行き先として設定されていた。
「皇太子殿下専用なのに、よろしいのですか?」
シャルロットの質問に、コルネリウスは苦笑を浮かべた。
「兄上は身体を動かすのはあまり得意ではなくてね。良いと言うから使わせてもらっているんだ」
そう答えて説明を続ける。
「で、今私たちがいるこの銀龍の狩猟場だが……龍眼の狩猟場の隣にあり、ここを通らねば龍眼側に出入りできないようになっている」
コルネリウスは簡単に二つの狩猟場の地形を説明した。危険な生き物――暗殺者や刺客も含む――が紛れ込めないように、狩猟場は周囲が切り立った崖や急斜面になっている場所を選んでおり、ここでは圏谷――かつて氷河が削って作った幅の広い深い谷が丸ごと狩猟場になっていた。その規模が大きいために二つの狩猟場を設ける余裕があり、山頂側が龍眼、麓側が銀龍と名付けられているわけである。
(わかってはいたけど規模が違う……!)
シャルロットは説明を聞いて内心溜息をつかざるを得なかった。もちろんフランディアにも王家専用の狩猟場はある……が、一つだけで、面積もここまで広くはない。
とはいえ、そこに感心してばかりもいられない。シャルロットは確認するように言った。
「つまり……バスケス先生と、拉致犯はこの上の龍眼の狩猟場に出たはずで、今こちらへ向かっている最中という事ですね?」
「そういう事になる。バスケス先生を連れている以上、山や崖を越えたり、森を強行突破して逃げる事は考えにくい。間違いなくこちらへ来るだろう」
コルネリウスは頷いた。その時、扉が開いてもう一人の護衛騎士――ロベールが影と判断した方――が入ってきた。コルネリウスは尋ねた。
「レーマー、様子はどうだった?」
「周囲の道を確認しました。ここ最近の新しい足跡は二つだけで、入ってきた時のものだけです」
レーマーと呼ばれた影兼護衛騎士が淡々と答える。つまり、賊の総勢は転移門を通って学園まで侵入してきた二人だけで増援等は無く、まだアンジェリカを連れてこの狩猟場を出てはいないという事だ。
「そうか。よし、待ち伏せをかけるぞ。全員武器を準備しろ」
コルネリウスが命じる。狩猟小屋は泊りがけで狩りをするときの拠点であり、弓矢、槍などが備蓄してある。それらの武器は本来狩猟の際に使うものだが、もちろん対人戦にも効果を発揮するものだ。ベルンハルト、ユースタスは腰に剣を吊るすと、メンファンガーを手に取った。長い柄の先に半輪形の金具を取り付けた武器で、本来は人間を取り押さえて無力化するための武器だが、狩猟でも小型の動物などを抑え込むのに使われる。
レーマーとフロエンは弾弓を手に取っている。普通の矢の代わりに石や金属の弾丸を飛ばす事の出来る弩の事で、毛皮を取りたいなどの理由で獲物を傷つけずに仕留めたい場合には良く使われる。どうやらコルネリウスは相手を殺さずに捕らえたいらしい。
自らも剣と槍を手にしたうえで、コルネリウスはシャルロットの方を向いて言った。
「できれば小屋に留まって欲しいところだが、貴女は聞き入れはしないだろうな」
その問いにシャルロットは無言で頷くと、武器棚から今の彼女でも使えそうな小ぶりのダガーを一本手に取る。
「護身用としてお借りしていきますが、よろしいでしょうか?」
シャルロットの問いに、コルネリウスは仕方ないな、と言うように苦笑した。その時、フロエンが他の四人を代表して報告した。
「準備完了です、殿下」
「うむ。では行くとしよう」
コルネリウスが頷き、一行はレーマーを先頭に狩猟小屋の外に出た。既に太陽は狩猟場を囲む峰々の稜線にかなり近づいている。間もなく日が落ちればこの辺りは真っ暗になるだろう。
「この先にある森の境目で待ち伏せをかける」
コルネリウスが言った。自分用の狩猟場だけあって、その地形を熟知しているのだろう。小屋からの道を少し進むと、主要道らしい広い道と合流し、その辺りでは道の両側で森の様相が変わっていた。小屋がある方は植林された整然とした森なのに対し、反対側は自然の森らしく鬱蒼としている。
「この辺りだな……レーマー」
立ち止まってコルネリウスが名を呼ぶと、レーマーは道の少し先に向かい、地面に何かを撒いた。どうやら砂利のようだ。他の部分は土なので、そこを歩いた時だけ足音が変わる。それが襲撃の合図という事だろう。
「配置に付け」
砂利の用意を確認し、コルネリウスが命じる。その反対側の森にはレーマーとベルンハルトの二人が向かい、こちら側にはコルネリウス、シャルロット、ユースタス、フロエンが残った。
「全員隠れろ」
コルネリウスの指示と共に、全員が木や茂みの間に隠れていく。シャルロットはフロエンに大人二人分はあろうかと言う高さの岩陰に連れていかれた。
「こちらでお待ちください、姫殿下。何があっても私の合図が無ければ動きませぬように」
囁くようなフロエンの指示にシャルロットが無言で頷くと、彼は安心したように近くの茂みの陰に身を潜めた。シャルロットも小さな石に腰掛け、身を縮めて出来るだけ気配が隠れるようにする。
待つ時間はそれほど長くなかった。木々の間を風が渡る音に交じり、土を踏みしめる音が次第に近づいてくる。
(……いったい、相手は何者なのだろうか)
シャルロットは思った。アンジェリカを追っているのは間違いないだろうが、学園から彼女を追いだすのに、信憑性に欠ける偽投書をしたり、彼女を拉致するまでは良いものの、影にはあっさり見つかる程度の証拠を残していたり、今もまるで気配を隠せていなかったり、どうにも有能そうな感じがしない相手である。首尾よく捕らえる事が出来れば相手の正体もわかるだろうか。
やがて、近づいてきた足音が砂利を踏む音に変わった。次の瞬間、それまで茂みに潜んでいたフロエンが立ち上がり、用意してあった弾弓の引き金を引いた。
「がっ!」
「ぐわっ!?」
苦悶の叫び声が二つ。どうやらフロエンもレーマーも見事に的に弾を命中させたらしい。フロエンが弾弓を投げ捨てて腰の剣を引き抜いて駆け出すと共に、前方では飛び出したベルンハルトとユースタスがメンファンガーを突き出し、賊に襲い掛かっていた。弾を受けて動揺していた賊たちがひとたまりもなく叩き伏せられ、駆け付けた二人の騎士がその顔面やのど元に剣を突き付ける。
(見事な手並みだ)
感心しながらも、シャルロットはアンジェリカの姿を探した。四人に抑え込まれている賊たちの少し後ろ、腰縄をつけられ、後ろ手に縛られ、猿轡をかまされた女性がへたり込んでいる。間違いなくアンジェリカだ。
「先生、今お助けします!」
フロエンの合図は無かったが、シャルロットはアンジェリカに駆け寄ると、背中に回り込んでダガーの鞘を払った。アンジェリカに傷をつけないよう、慎重に手を縛っている縄と腰縄を切り、猿轡を解く。
「はふっ……あ、ありがとうございます、シャルロット姫殿下」
息苦しかったのか、大きく息をつくアンジェリカ。シャルロットは安心させるように微笑んで見せた。
「もう大丈夫ですよ、先生」
そう言って賊たちの方を見ると、彼らは二人の騎士によって武装解除され、地面に抑えつけられていた。その前に槍を手にしたコルネリウスが立つ。
「さて……素直に話してくれる気はあるかね?」
そう言って地面をコツコツと槍の石付きで叩くコルネリウス。
「言っておくが、わが国にも優秀な尋問官は多い。しかし彼らの預かりになれば君たちもあまり愉快な目には合わないだろう」
猫が獲物をいたぶるような雰囲気を漂わせながらコルネリウスは続ける。
(皇子自らこういう事をするのか……)
罪人の尋問など皇族が自らやるような事ではない。それでもやるという事は、この事にあまり多くの人を関わらせたくない事情があるのかもしれない。
(……それに踏み込んでしまったのは、ちょっと早まっただろうか)
シャルロットがそんな事を考えた時、賊の一人が口を開いた。
「わかった……その前に、ちょっと話しやすい姿勢にしてもらえないか。このままだと話しにくいのでな」
そういう賊は後ろ手に縛られ、うつ伏せに地面に転がされている状態だ。
「良いだろう。レーマー、起こしてやれ」
コルネリウスは頷き、命じられたレーマーが賊の上体を起こして座らせる。もう一人は転がされたままだ。さらにレーマーはダガーを抜いて賊の喉に突き付けた。話はできるが、少しでもおかしな動きをすれば即殺せるという状態だ。
「これで良かろう。まずは雇い主について聞こうか」
コルネリウスに促され、賊が話し始める。その声はシャルロットたちの方には距離もあって切れ切れにしか聞こえないが、彼らを囲んでいる男性陣五人はそれに耳を傾けている。
(いったい何を話しているんだろう……)
シャルロットがそう思って少し身をそちらに乗り出した時、彼女はもう一人の賊の妙な動きに気付いた。首を無理に曲げて、シャルロットを見ようとしているかのようだった。いや、シャルロットをではなく、アンジェリカの方を見ようとしている。男性陣はもう一人の話に気を取られているのか、その動きに気付いていない。
(まさか!?)
シャルロットの背筋を寒いものが走り抜ける。警告する暇は無かった。シャルロットは咄嗟に手にしていたもの――ダガーを渾身の力で投げつけた。
「ぐがっ!?」
もう一人の悲鳴が尋問を強制的に中断させた。その首筋にシャルロットが投げつけたダガーが突き立っていた。その賊は白目を剥き、口から血を吐き出して事切れる。
「姫、何を……!?」
ベルンハルトが驚きの表情で、その賊を葬ったシャルロットに詰問とも非難とも付かない口調で問いかけるが、その時全員が賊が吐いた血の中にそれを見つけた。舌先に乗るくらいの、小さな金属製の筒。
「含み針だと!?」
フロエンが叫ぶ。含み針……口の中に含んで隠し持てる、暗殺用の小さな吹き矢だ。威力はたかが知れているが、毒でも塗ってあれば一撃必殺の武器と化す。
「しまった……レーマー、そいつを止めろ!」
コルネリウスが失敗を悟って叫ぶが、その時には尋問に応じていた方の賊も、身を震わせると口から血の混じった泡を吹いて首をがくりと落とした。含み針を自分に刺して自決したのだ。脈を取ったレーマーが黙って首を横に振るのを見て、コルネリウスは舌打ちした。
「しくじったな……」
シャルロットも立ち上がり、コルネリウスに頭を下げた。
「申し訳ありません、殿下。咄嗟の事だったので……」
それを聞いて、コルネリウスは一瞬怪訝そうな表情をしたが、微笑を取り戻して答えた。
「いや、問題ない。バスケス先生の生命が最重要だからね……それより、貴女は大丈夫なのか?」
今度はシャルロットが怪訝そうな表情になりつつも答える。
「はい、含み針を撃たれる前でしたし、何もありませんが……」
その答えを聞いて、コルネリウスはシャルロットの顔をまじまじと見てしまった。
(敵とは言え、人一人殺しておきながら、まるで動揺していない……)
それは驚くべき事だった。コルネリウス自身は初陣を済ませており、敵兵を自ら倒した経験がある。戦に出るために動揺を抑える訓練はしていたが、それでも初めて戦場での死を見た時、自ら敵を殺した時には堪えきれず嘔吐するほどの衝撃があったものだ。
同じような……いや、それ以上の経験をシャルロットはしている。王太子時代に王都近郊を荒らしていた盗賊団を自ら討伐した経験があり、敵を手に掛けた事もある。指揮下の兵士の死を看取った事もある。そして、何より彼女自身が自分の「死」を乗り越えて今ここにいる。戦場での死に心を揺らす段階など、とっくの昔にシャルロットは通り過ぎてきた。しかし、そんな事を知らないコルネリウスには、シャルロットの反応が信じがたいほど冷静に見えた。
「まぁいい……レーマー、フロエン、賊共の死体は処理しておいてくれ」
騎士たちに現場の処理を指示すると、コルネリウスは小宮廷の役員たちとアンジェリカの顔を見渡した。
「我々は学園に戻る。事情説明はそこでゆっくりとしよう」
そう言って先頭に立って歩きながら、コルネリウスはさっきのシャルロットの反応を思い出していた。
(シャルロット姫、君はいったい何者なのかな?)
コルネリウスの中で、シャルロットへの興味はますます大きくなりつつあった。




