第2話 ある王女の目覚め
煮えるように熱い泥の中で必死にもがき続けるような、苦しい夢を見ていた。
目が覚めた時、記憶していたのはそんな事だった。
(ここは――)
どこだ、と続けようとして、そういえば前もそんな事があったなと思い、それは何時だっただろうと考えた時、ぼやけた意識が次第に覚醒してくるのを感じた。
(……生きている?)
西の塔に幽閉され、そこから毒杯を飲んで「死ぬ」までの記憶を思い出し、フランディア王国「元」王太子、シャルルは首を傾げようとして、激痛に息をのんだ。
(あ、あ……この痛みは……)
それには覚えがあった。シャルルは剣の稽古をしていて、うっかり相手役の剣を受け損ねて、左腕の骨を折ってしまった事があった。幸い骨折と言っても重度のものではなく、腕を固定して二カ月ほど安静にしている事で治ったのだが、固定を解いた直後、二カ月間動かしていなかった左腕はすっかり凝り固まっており、ちょっと動かそうとすると激痛が走ったのだ。
今身体を襲う痛みは、その時の痛みと同じものだった。それが引いていくのを息を深く吸いながら待ち、今度は慎重に首を動かした。
(ここは……離宮か?)
シャルルは室内の内装に見覚えがあった。離宮は退位したり、病気療養が必要などの理由で、王城を離れる事になった王族の住まいとなる建物だ。敷地こそ王城の中にあるが、中庭を挟んで南側の端に建てられている。
数年前に亡くなった先代王――つまり、シャルルの祖父にあたるアンドレ三世王はルイに王位を譲った後、この離宮で晩年を過ごし、シャルルもしばしば祖父の元に遊びに行ったものである。この祖父の血から、よく苛烈な武人のルイが育ったものだと思うほどに、温厚で陽だまりのような印象の老人だったのを覚えていた。
シャルルが目覚めた部屋は、アンドレの過ごしていた部屋に違いなかった。離宮の中で一番格の高い部屋であり、大きな窓から中庭が見渡せた。
(……葉が落ちている)
大きな窓から見える城内の森の木は、葉がほとんど落ちて無くなっていた。季節が秋――それも晩秋になっている事を示す光景だ。しかしシャルルが「死んだ」のは春の終わりの出来事のはずだった。
(私は死んだのではないのか。それとも夢を見ていたのか? いや、ここは死後の世界なのか? なら身体が痛むのは何故だ)
状況がわからない。混乱するシャルルだったが、扉が開く音に気が付き、そっちを向こうとして……再び全身に痛みが走る。
「あ……くぅ……」
思わず漏れた声は、しわがれた老人のような声だった。自分の声とは思えない。その時、扉を開けて入ってきたらしい人物の声がした。
「お目覚めになったのですね、殿下。私の声が聞こえますか?」
「……ベル……ナールか?」
シャルルは名を呼んだ。ベルナールは王宮付きの医者――典医として、祖父の代から仕える国一番の名医だった。王の個人的な相談に乗る事もあり、王城の人々からの信頼は篤い。
「はい。そのまま安静にしていてください。今軽く様子を診させていただきます」
ベルナールはそう言うと、シャルルの目や口を開かせ、脈をとった。その時、シャルルは自分の腕がまるで骨と皮ばかりのように細くなり、日焼けもなく真っ白になっている事に気付いた。
「ふむ……今お薬を差し上げますので、それを飲んで今少しお休みください。そうすれば、次に起きた時には、だいぶ身体が楽になっているはずです」
特に健康状態を説明する事もなく、ベルナールは煎じた薬を入れた水差しを手に取り、シャルルの頭を起こして口に差し口を含ませた。
「ゆっくりお飲みください。急ぐと咳き込みますので」
シャルルはその通りに、少しづつ口に流れ込む薬を飲み込んだ。苦味はあるが、それを緩和させるためか、蜜とハーブが加えられており、安心する味だった。飲み終えると、急速に眠気が襲ってくる。
「また明日参ります」
頭を下げるベルナールに、シャルルは眠気に耐えながら言った。
「待って……くれ……私は何故……生きている……?」
「それは明日、陛下より説明がございます。今はお休みください」
陛下……父は、再度出陣せず在国しているのか。シャルルはその事を意外に思いながら、再び眠りの世界に引き込まれていった。
翌日、目が覚めると、ベルナールの言った通り、ずいぶん身体は楽になっていた。昨日と同じように身体を動かしても、それほどの痛みはない。しかし、ずいぶん衰えてはいるらしく、上体を起こすことはできなかった。布団の端から手を出して、シャルルはその細さを再確認した。
(まるで女性の手だな)
シャルルは思った。武将としても、武人としても一流である父ルイに追い付こうと、シャルルは子供の頃から熱心に剣技をはじめとする武芸に打ち込み、特に剣の腕は同年代にほとんど並ぶ者がないほどの技量を身に着けた。シャルルと互角以上に撃ち合えるのは、腕を折った当の相手であるオスカルくらいのものだった。その鍛えられた腕は、今や見る影もなかった。
(父は最期の願いを聞いてくれただろうか)
オスカルを含む、四人の側近が無事かどうかを気にかけた時、それを教えてくれる人物が部屋に入ってきた。
「なるほど、目は覚めているようだな」
ルイだった。横にベルナールと、後ろに見知らぬメイドと騎士を一人ずつ連れている。
「父上」
昨日よりは滑らかに回るようになった舌でルイを呼び……シャルルはまた違和感を持った。昨日に比べると声のしわがれはなくなっているが、その代わり妙に高い声になっている気がした。
(まだ本調子ではないのか)
「まだ動ける身体ではあるまい。無理はせずともよい。そなたは半年も寝ておったのだからな」
ルイは賜杯の時とは打って変わった、優しい声でシャルルを制すると、後ろの二人に命じた。
「ロザリー、ロベール、起こしてやれ」
「はい」
「承知しました」
どうやらメイドがロザリー、騎士がロベールと言うらしい。ロベールは「御免」と断って、シャルルの上体を起こした。その間にロザリーがクッションを背中に入れて、もたれかかれるようにする。すると、上体が起きたはずみで、シャルルの視界が金色の何かでふさがった。
「な、なんだ?」
驚くシャルルだったが、ロザリーが落ち着かせるように肩を抑えて言った。
「今お髪を整えます。じっとしていてください」
そのまま、ポケットから櫛を取り出して、シャルルの目の前にかかっていた金色の何かを顔の横に流して、素早く櫛を通して整えはじめた。そこでようやく、シャルルは今のが自分の髪の毛だと気づく。
(私の髪の毛はこんなに長かったか?)
落ち着いて改めて見ると、髪の毛は肩からさらに下、胸の先まで伸びていた。
(父上は私が半年寝ていたと言っていた……半年でここまで髪は伸びるか?)
「終わりました。失礼します」
シャルルが考えているうちに作業を終えたロザリーとロベールはベッドから離れ、再びルイの後ろに戻って控える姿勢に戻った。代わってベルナールが進み出て、再び脈をとるなど簡単な診断を済ませる。
「問題ございません、陛下」
ベルナールが一礼し、場所をルイに譲った。
「うむ……これで落ち着いて話ができるな」
ルイはベッドの横にあった、ベルナールが診断のために座っていた椅子に代わって腰かけ、シャルルを見た。
「気分はどうだ?」
「……よくわかりません」
シャルルは相変わらず、妙に高い自分の声に違和感を覚えつつも話を続ける。
「父上、私は死んだのではなかったのですか?」
毒杯を飲んだ後の、あの大量の吐血と激痛。到底助かるとは思えないすさまじい苦痛だったが……
「ある意味では死んだとは言える。少なくとも、お前は公的には死んだものとして処理されている」
「ですが、私はこうして生きている……なぜですか?」
先ほどからの父の優しい口調に、もしかして許しを得られたのでは、と期待を持ったシャルルだったが、そこでルイは再び峻烈な表情に戻った。
「勘違いするな。私は温情などでそなたを助命したのではない。むしろ、そなたに与える罰はこれからだ」
ルイはそう言うと、シャルルに問いかけた。
「ヘルシャー帝国学園の事は知っておるな?」
シャルルは頷いた。帝国語で「統治者」を意味する名を冠されたそれは、プロヴィンシェン帝国の帝都に設けられている、俗に「国立学園」と呼ばれる貴族の子女を対象とした高等教育機関の一つだった。
国立学園と言う制度が創始されたのは今から五十年ほど前、ここから西方のエルアバニカと言う王国でのこととされている。それまではエルアバニカにおいて貴族の子女に対する教育は、それぞれの家が自分たちのやり方で行うものだった。主流なのは家庭教師や学識のある別の貴族による一対一の教育で、これは現在のフランディアでも変わらない。
しかし、この方法では、育成される子女たちのレベルには大きな差が出がちである。教え方が上手く、優れた教え子を輩出するような教師はいずれも高給取りであり、余裕のある大貴族でなければ雇用できない。場合によってはほどほどのレベルの教師すら雇えないような家も珍しくない。
同じ家の中でも差が出がちだ。優秀な子女がいると、限られた教育費がその子女の教師に集中してしまい、他の子たちのレベルが低いままになってしまう……と言う事がしばしば起こる。
エルアバニカでは五十年前、その弊害が最悪の形で出た。優秀な後継者が病気などで次々と死んだ結果、到底王にしてはいけないような愚かな王子が王位を継承してしまったのだ。あまりにも酷いその治政ゆえに王統譜からも名を抹消された愚王は、同じような取り巻きと共に暴政の限りを尽くし、エルアバニカは滅亡の危機にさらされた。
幸い、先王の弟だったバウティスタ大公アロンソが反乱を起こし、愚王を討ち取った事で、最悪の時代は三年ほどで終わりを告げたが、そのたった三年の酷政だけで、国を元のレベルまで再建するのに新王アロンソとその後を継いだ息子レイモンド王による、二十年以上の時間が必要だったと言われている。
そして、ある程度再建に目途をつけたころ、レイモンド王がこのような事態が再来する事を防ぐために創始したのが、王立学園と言う制度だった。一流の教育者と貴族の子女たちを一カ所に集め、均質な教育を施す事。これが愚王やその取り巻きのような連中を再出現させない方法だと考えられたのである。
実際、学園の誕生以降のエルアバニカでは、群を抜いた天才と言うのは少ないものの、安定して質の高い貴族官僚や軍人が輩出され、今ではかの国は西方の雄国の一つに数えられるようになっている。そのため、多くの国が同じような学園を創設するに至っていた。プロヴィンシェン帝国もその一つだ。
プロヴィンシェンの国立学園、ヘルシャー帝国学園は帝国貴族だけでなく、従属国の王族や貴族も受け入れており、帝国を頂点とする国際秩序の中で、人材交流、人脈形成の場としても機能してきたが、シャルルは入学していない。フランディアも同じような学園を作ってはいない。理由はいくつかある。
まず、学園の運営には大変な費用が掛かる、と言う事である。エルアバニカやプロヴィンシェンのような強国、大国と呼ばれる国でなければ、学園を維持運営していくことはできない。
その両国も、国費だけでは運営費を賄えないため、入学する子女の家から高額な学費を取っている。逆に言えば、それを納得させられるほど教育レベルが高いか、国が貴族の統制に成功している事が、この制度を成功させる条件である。フランディアはこの条件を満たす事が出来ていない。
そして、一か所に子女を集め、その場を国が管理すると言う事は、貴族たちにとっては大事な子供を人質に出すのも同然と言う事である。ルイは自分が帝国の遠征に従軍する――逆に言うと自分を人質にしているようなものなので、シャルルまで学園に入学させる必要はないと考えていたのだ。
その学園の名をルイが口にした……つまり。
「私にヘルシャー帝国学園に入学せよ……と?」
シャルルが言うと、ルイはその通り、と頷いた。
「私は当分国政に専念せねばならんからな。帝国への忠誠疑いなきことを示すには、お前を学園に送る事が一番の早道だ」
やはりそうか、とシャルルは思ったが、それには疑念がいくつもあった。
「しかし……私は死んだものとされているのでしょう? それに、確か入学条件には年齢制限もあったかと思いますが」
シャルルは死人である。しかも、国事犯として処刑された事を帝国も確認している身の上だ。仮にそうでなくても、年齢が十九歳であるため、入学は許されない。ヘルシャー帝国学園の在学条件は十二歳以上、十八歳以下と定められている。
「眠っている間に誕生日が来たから、正確には二十歳ではあるが……まぁ良い。今日からお前の年齢は……そうだな、十五歳くらいか」
「は?」
父の意味不明な発言に戸惑いの声を上げるシャルル。そんな我が子を見ながら、ルイは控えていたロザリーとロベールの二人に命じた。
「そろそろ、自分の現状を知るべき時だろう。姿見を見せてやれ」
「承知しました」
ロザリーは一礼すると、部屋の片隅に置いてあった姿見をロベールと共に運んできた。それを、ベッドに座るシャルルの正面に置く。そこに映っていたのは……
「え?」
シャルルは戸惑いの声を上げた。そこにはてっきりやつれた自分の姿があると思ったのだが、そうではなかった。
「はは……うえ……? いや、違う」
それは、確かにシャルルを産んですぐ亡くなったはずの母、ディアーヌの肖像画とそっくりな、しかしもう少し若い、線の細い美しい少女だった。僅かにウェーブのかかった長い金髪の下で、あどけなささえ感じる青い瞳が自分を見つめ返してきている。その鏡の中の少女は、自分と同じく「母上」という形で口を動かした。
「……これは」
おずおずと手を上げてみると、少女は全く同じタイミングで手を上げた。何度やっても。疑う余地はなかった。その鏡の中の少女は……
「これが、今の私だというのか……?」
シャルルの呆然とした言葉に、ルイは頷いた。
「そうだ。それが今のお前だ」
それを聞いて、シャルルはひらめくものがあった。
「あの賜杯ですね……? あれは毒ではなかった……」
「いかにも。あれは我が王家に伝わる秘薬を混ぜてあったのだ。飲んだ者の性別を変える事ができると言う効果を持つ、な」
ルイはシャルルの疑問に答え、言葉を続けた。
「とはいえ、お前も味わった通り、身体が作り替わる苦痛は並大抵のものではない。服用したものは死んだのと区別がつかない昏睡状態に陥る。コルベルク伯爵もちゃんと毒だと思ったであろうよ」
「確かに、間違いなく死んだと思ったでしょうね」
飲んだ本人にしかわからないであろう、あの苦痛を思い出してシャルルは背筋が寒くなった。
「なぜ、このような薬があるのですか?」
性別を変えると言われても意味が分からない。ルイは良い質問だ、と言って説明を始めた。
「無論、王家存続のためよ。どうしても女の子しか生まれない時があった場合に、その一人を王子に変える……と言う使い方が普通ではあるがな」
「では、我が祖先の中に、女性から男性になった王がいたというのですか?」
シャルルの疑問にルイは頷く。
「百年ほど前にそういう事があった。当時の王ルイ5世は、生まれた時はルイーズと言う王女であったそうだ。だがこの秘薬で男性となり、王家を継いで我が国は今に至っている」
「なんと……」
秘められた歴史の数奇さにシャルルは驚く。ルイ5世は今日も名君として語り継がれる王で、拙速な戦を避け国力の涵養に勤めた政治手腕から、慈王の異名で呼ばれる。元女性だったとすれば、そうした政策をとった事にも納得がいくというものだ。
そこでシャルルは疑問に思った。
「では、なぜ私は女性に……いや、待てよ。確か、今王家の縁者は……」
現在、王家であるブリガンド家は王妃ディアーヌの早逝により、ルイの実子はシャルル一人となっている。むろん新たに王妃を迎えるという事も考えられたが、当時フランディアは帝国の従属国の中では地位が低い方で、ルイはそれを引き上げるために軍事、外交の面で多忙な日々を送っていた。そのため、大貴族たちが持ち込んできた縁談をすべて断っていたのだ。
ディアーヌは王家と縁続きのロワール大公家出身であり、そのような親戚筋からの縁談であれば断る理由はなかったが、残念ながら当時適齢期の女性はなく、それもできなかった。まだルイが若かった事もあり、新王妃の問題は数年先送りにする、とされたが、シャルルが健やかに成長し、婚約者も決まった事で後継問題は解消されたとして、ルイが新たに王妃を迎える事は無かったのである。
そして、現在ロワール大公家など縁戚筋の家にはシャルルに取って代われる年齢の男子はいなかった。年若い女性は数人いたが、若すぎるか、既に婚約者がいるなど、王妃にするには問題がある者ばかり。王太子の廃嫡と処刑により、王位継承権問題は喫緊の課題となったのである。
「そう言う事だ。いくら親戚とは言え、王子にするからとか、人質として帝国に送るから娘を差し出せ、などと言えるはずもあるまい」
ルイはそう言うと、姿勢を変えて表情をより厳しいものにした。ここからが本題のようだった。
「そなたはロワール大公家の姫と言う事にする。名前は……まぁそうだな。安直ではあるがシャルロットでよかろう」
シャルロットはシャルルの女性形である。
「その上で、来年春からヘルシャーに入学する、と言う形をとる。その在学期間の間に、そなたにある任務を命じる。それが同時にそなたへの罰でもある」
「任務にして罰……父上、私に何をせよと申されるのですか?」
シャルル改めシャルロットは尋ねた。父のたった一言で、名前を変えられてしまった事に思うところがないではないが、逆らってどうにかなるものではない事は十分理解している。それより、名誉挽回の方法があるなら、それを聞くべきだろう。
しかし、父親の答えは、シャルロットを唖然とさせるものだった。
「婿探しだ」
「…………は?」
シャルロットが反応できるまで、呼吸十数回分の時間が必要だった。
「今、何と仰せられました? 婿探し? 誰の婿ですか」
「そなたの婿に決まっておろうが」
意味を確認するシャルロットに、ルイはあっさりと答えた。
「そなたを帝国に送ったところで、せいぜい数年の事だ。その間に、そなたはこのフランディアと帝国の関係を強化できそうな有力者の子息を見出し、その者を篭絡してくるのだ」
つまり、古来から異性を手中に収める最良の手段は蜜の罠、という事である。それは理解できるのだが……今のシャルロットは女性である。つまり。
「私に……その……男に媚びを売れと?」
シャルロットが確認すると、ルイは露骨な言葉でそれを肯定した。
「何なら、処女を捧げて責任を取るよう迫っても良いぞ」
「な……」
絶句するシャルロット。男に抱かれる……それだけでも人格としては男性のままであるシャルロットには悍ましいの一言に尽きる。しかしルイは一切の抵抗を許さない厳しい口調と表情で言った。
「拒否も抗命もお前には許さん。そんな立場ではないのは理解しておるだろうな」
「……はい」
シャルロットは心の底からこみあげてくる恐怖に震えながら頷いた。父から本気の殺気が伝わってくる。武人として少しは追いつけたかに見えていた父が、今は巨大な山脈のように立ちはだかっているのが感じられた。今のこのか弱い少女の身である自分に抗う術はない。その事を理屈抜きで思い知らされた。
「それに、これは温情でもあるぞ。お前が納得できる相手を自分で探せと言う意味だからな。無理だと言えば……」
「……言えば?」
父の言葉の続きに、シャルロットがまだ収まらない恐怖に震えながら聞き返すと、ルイはさらに追い打ちをかけるような事を言い出した。
「その時は……お前はロワール大公家の姫という設定が意味を持ってくるな」
シャルロットは一瞬戸惑い、そして父の言葉の意味を理解する。
「……正気ですか?」
自分の生殺与奪を掌握している相手に対して投げるにはあまりに危険な発言だったが、言わずにはいられなかった。
「無論正気だ。本気でもある」
「……何と言う事を」
シャルロットは頭を抱えた。父は要するに、シャルロットを「妻」として迎えた上で、我が子を抱いて後継者を作る気だ。いや、抱くなどと言う生易しいものではない。それは凌辱に等しいものとなるだろう。新しい後継者が得られるなら、シャルロットが狂おうと壊れようとルイは気にも留めないに違いない。
「我が国存続のために手段を選ぶ気はない。一応今のは最後の手段にしてやる。それが嫌なら励むがよい」
そう言ってから、ルイはそれまで控えていたメイドのロザリーと騎士のロベールを手招きした。
「この者たちは、お前の事情を知ったうえで仕える事に同意している。ロザリーは身の回りの世話だけでなく、お前に淑女としての振る舞いを教える役目も負う事になる。ロザリー」
名を呼ばれたメイドのロザリーが進み出て、優雅に一礼する。
「ロザリー・ド・フローベルにございます。よろしくお願いいたします、姫様」
「フローベル? もしかして、儀典長のジャン=ジャックの?」
「妹です」
ロザリーはシャルロットの質問に答えた。
フローベル家は男爵ながら、宮廷儀礼や有職故実に通暁した家柄で、当主は代々国内で執り行われる様々な式典を司る儀典長を務める習わしだ。儀典長は同時に王族の礼法に関する教授役でもあり、現当主であるジャン=ジャックは二十代の若さで儀典長を立派に勤め、父親よりも遥かに多くシャルルを叱りつけてきた人物だった。
「わたくしも兄の下で、女性貴族の礼法指南を務めてまいりました。姫様が一刻も早く、お立場に相応しい淑女となれるよう全力で補佐させていただきます」
そう言って一分の隙も無い洗練された動きで一礼するロザリーは、確かにフローベル家の人間特有の雰囲気を持っていた。
「あ、ああ……よろしく」
やや気圧されつつシャルロットが答えると、ロザリーは顔をしかめた。
「今はまだ仕方がありませんが……もう姫様は女性なのです。そのような男性的な口の利き方をしてはいけません」
シャルロットは戸惑いの表情を浮かべた。
「それはそうだが……」
どうしても心理的な抵抗はある。しかし、ロザリーはそれを踏まえた上で提案してきた。
「まず、丁寧な言葉遣いを心がけるようにしましょう。誰に対してもそう話していれば、完全な女性的な言葉遣いへの移行も楽になります」
フランディア語をはじめとして、オルラント西方諸国の諸言語では、文字に起こすときには男女の区別はないのだが、それを口にする時には微妙なアクセントの違いで、男女のみならず敬意や身分の違いも表す仕組みである。それだけに、今まで男性的な言葉遣いに慣れていた人間が、急に女性的な言葉遣いにするのは難しい。
しかし、上流階級の女性の言葉遣いは、基本的には丁寧語のそれに近い。学習のやり方として、まず丁寧語に慣れるのは理にかなったやり方である。それを受けて、シャルロットはしばらく考え、口を開いた。
「……わかりました……そのように心がけてみましょう」
父以外に自分より上の身分の人間に出会った事がないシャルロットにとって、丁寧語はもちろん話すことはできるが、慣れてはいない。それでも、若干ぎこちないながらもシャルロットは丁寧語を使って話してみた。
「はい、結構です。その喋り方を常に続け、自分のものにしていきましょう」
ロザリーは始めたばかりにしてはまずまずだと思ったのか、それ以上厳しい事は言わなかった。
「ロザリーの自己紹介はその辺で良かろう。次にこの騎士ロベールはお前の護衛を担当する事になる」
ルイは次にロベールを指した。
「ロベールと申します、姫様」
「あ……え、ええ……初めまして、騎士ロベール。よろしくお願いします」
ロザリーに言われた通り、ロベールに対しても丁寧な口調で挨拶をするシャルロット。しかし、内心ではこのロベールと言う騎士に対して、これは本当に騎士だろうか? という疑問を持っていた。
シャルルも騎士たちに交じって武芸の稽古をしていたので、彼らの気質は良く知っている。戦場では花形として戦うだけに、騎士と言うのは非常に自己顕示欲の旺盛な人種だ。身嗜みにも気を遣う事にかけては女性にも劣らない。
ところが、このロベールと言う騎士は、服装こそ騎士団のそれだが、とても騎士とは思えない雰囲気だった。とにかく印象が薄いのだ。確かに目の前にいるのに、まるで影のように実体がないとさえ感じる。顔だちも目を離すとすぐに顔を忘れてしまいそうなくらいに平凡だ。しかし。
「いや、実は俺自身は姫様とは初めましてじゃないんですがね」
「……え?」
目を丸くするシャルロット。突然ロベールが貴人に対するものとは思えないぞんざいな口調で話し始めたのも驚きだったが、初対面ではないというのもそうだった。
「……わたしの方は、あなたに覚えがないのですが」
シャルロットが言うと、ロベールはだろうね、とやはりぞんざいに答え、種明かしをした。
「実は、俺は影でしてね。姫様が王太子だった頃からの影守なんですよ」
「……影守。そうか、お前が」
シャルロットは男の口調に戻り、苦々しいものを交えて言った。まるで影のようだと思ったら、本当に影だったとは。
影……多くの国や貴族たちが、非合法の情報収集や暗殺などの表沙汰にできない"汚れ仕事"をさせるために雇っている、あるいは育成している者たちの事である。その中でも影守とは対象にすら悟られないようにその身を護衛する役目……と言えば聞こえはいいが、その実対象の監視が目的だった。
(父上は私ですら信用せず、監視対象としていたわけだ……)
シャルロットは恨めしげな眼でロベールとルイを交互に見た。ルイがシャルルが事を起こす前に帰国できたのも、ロベールの報告があっての事。シャルルはこの二人に敗北したわけである。
「……それで、どうして影のあなたがわたしの護衛になったのですか。それも騎士として」
シャルロットは口調を丁寧語に戻した。それは彼女なりに敗北を受け入れた事の表明だった。
「普通の騎士をお前の護衛にするわけにはいかんからな。護衛として行動を共にしていれば、いずれお前の素性を知る事もあろう。そうなった時に、お前に忠節を尽くせる騎士がどれだけいるかな」
答えたのはルイだった。その指摘には残念ながらシャルロットも頷くしかない。内戦を引き起こしかけた国事犯の元王太子に忠節を誓える騎士などいるはずがない。
「従って、お前の事情を知る立場にあり、かつ戦闘力にも優れたロベールを、一時的に騎士身分としてお前に付ける事にした。一応言っておくが……お前がこの先国を危うくするような真似をすれば、即座に処断せよと命じてある」
ルイが言うと、ロベールは苦笑気味にその先を引き取った。
「そういうわけです。下手な真似はせんでくださいよ、姫様。俺も好きであなたを殺したいとは思いませんので」
「……肝に銘じておきます」
シャルロットは頷いた。どのみち、今のこの貧弱な身体では、父はもちろんロベールにも勝てるはずがないし、下手をすればロザリーにすら負けるかもしれない。この先どれほど悍ましい目に遭おうとも、父の命じた通りに振舞う以外、今のシャルロットに生きる術はない。
(なるほど、これは死んだ方がマシだと思える……恐ろしい罰を考えたものだ、父上も)
それでも、やられっぱなしではどうにも腹が煮える。少し考えて、シャルロットはロベールに言った。
「……わたしも、姫らしくあれるよう努力しましょう。だから、あなたも少しは騎士らしく振舞いなさい。そんな地味な騎士がいるものですか」
それを聞いて、ルイはにやりと笑い、ロザリーは肩をすくめた。そして、ロベールはと言えば。
「これは一本取られました。良いでしょう。人前では騎士として恥じぬ振る舞いを心がけましょうぞ」
そう言うと、シャルロットに向けて跪き、胸に手を当てて一礼する。洗練された振る舞いはにわか仕込みのものとは思えない。それもそのはずで、影の多くは身分を偽って調査対象に近づくと言う事が日常的にある。騎士のふりなどお手の物だった。
反撃をあっさりといなされ、シャルロットは憮然とした表情になった。
「シャルロット、淑女たるもの怒るにも可愛げが無ければ、男には嫌われるぞ」
ルイがからかうように言う。
「……精進します」
シャルロットはそう答えるしかなかった。それを受けてロザリーが言う。
「では、明日より早速姫様を淑女にするため、レッスンを行う事としましょう。今日はお休みください」
シャルロットは頷く。既にここまでの会話ですら、今の彼女にはかなりの負担だった。背中に入れていたクッションが取り除かれ、ベッドに横たわると、じわじわと眠気が迫ってくる。
(……あの熱い泥に沈む夢も酷かったが……現実は夢よりなお酷い……でも、私はもうそこから逃げられない)
見えない籠の中に囚われた王女は、せめて一時の安らぎを求めて目を閉じた。
次話から投稿間隔があきます。