第17話 女教師アンジェリカ
「本日皆さんに集まっていただいたのは、今日より小宮廷にヴィルヘルミーネ・フォン・プロヴィンシェン嬢とシャルロット・ド・ロワール=ブリガンド嬢のお二人に加わっていただくことについての報告となります」
大講堂にコルネリウスの声が響き渡る。シャルロットとヴィルヘルミーネが小宮廷への参加を承諾した翌日、臨時の全校集会が開かれ、その事が周知されたのだ。
(もしかしたら、私が入学したころから……いや、もっと前から小宮廷に女子を入れる件を準備していたんだろうな)
女子生徒の諸問題についての取り組みを強化するため、という理由を淀みなく説明していくコルネリウスを見ながら考えるシャルロット。この手回しの良さはある程度準備が進んでいた事を思わせた。
「では……シャルロット嬢からご挨拶をいただきましょう」
説明が終わったところで、唐突にコルネリウスが話を振ってきた。驚いたシャルロットだったが、確かに小宮廷入りして学生自治の代表に加わるとなれば、一言抱負などを話しておくべきなのだろう。シャルロットは立ち上がり、コルネリウスに一礼して演壇に上がった。
「皆さん、おはようございます。シャルロット・ド・ロワール=ブリガンドです。先程総代よりお話があった通り、まずは内務卿の補佐と言う形で小宮廷に加わることになりました」
そう話を切り出し、一礼すると生徒たちから拍手が沸いた。それが静まるのを待って話を続ける。
「総代も仰った通り、これまで手薄だった女子の諸問題に対応する事が、わたしとヴィルヘルミーネ嬢の仕事になりますが……」
そこで、一つ思いついたことを付け加える。
「男子生徒の皆さんも、同性には逆に相談しにくい悩みなどがあるかもしれません。その時は遠慮なくわたしを頼っていただければと思います」
こう見えても男の心理には詳しいので、とこれは声には出さないが内心でつぶやく。というか、クラリッサやテレーゼ、最近はミリセントやマルグリットとも会話する機会が増えているが、やはりまだまだシャルロットにとっては女性心理はわかりにくい事が多かった。
告知のための集会も終わり、いよいよシャルロットも小宮廷での業務を始める事になったが、連れていかれた内務卿の執務室は小宮廷の近くではなく、一般教室に近い区画にあった。
「そうでないと、生徒たちが直接相談に来ることが難しいですからね」
その事を指摘した事へのユースタスの答えに、確かにと納得するシャルロット。とは言え、内務卿に寄せられる相談の大半は投書によるものだった。帝国では主要な都市に「目安箱」と呼ばれる、庶民が政治に対する要望や意見書を投書する事の出来る箱が設置されており、それに倣って学園内にも目安箱が設けられている。
「面白い制度ですね……フランディアでも導入したいものです。ちょっと難しいでしょうが」
シャルロットは仕事の説明を聞きながら感想を言った。この制度が有効に利用できるためには、庶民の識字率がそこそこ高くなくてはならない。フランディアの識字率はこれまで詳しく調査された事はないが、一割いかないだろうとマティアスは言っていた。
シャルロットがかつて識字率を気にしたのは、アリアは不自由なく読み書きできたからで、彼女を基準にして政策の周知を行おうとしたところ、マティアスとクローヴィスに止められたという経験があったからだ。
「我が国もさほど識字率が高いわけではありませんが、たいていの町に代書士くらいはいますし、村長など土地の有力者ならまず最低限の読み書きはできますからね」
ユースタスが帝国での事情を説明する。字が読み書きできない庶民でも、それができる人に代筆してもらうことで目安箱へ投書する事は可能なのだという。この代書士というのも、高い教育を受けた者しかなれない職業である。亡くなった皇兄アウグストが代書士を営んでいた事からもそれがわかる。
学園の存在もさる事ながら、そこで教育を受けた者による私塾も多く、フランディアとは比べ物にならないほど高い教育水準を実現できている帝国の国力を、ここでも知ることができたシャルロットだった。同時にこうも考える。
(父上の眼鏡にかなう人材を婿として連れて帰るのが私の仕事だが……血筋や能力で言えばコルネリウス殿下が最良の選択肢でも、教育など帝国より遅れている分野を高められる人材と言う観点でも見るべきか)
そう考えるなら、今目の前にいるユースタスもおそらく十分ルイの期待に応えられる人物だろう。彼が帝国風の官僚機構を伝え、マティアスがそれを整備する。そうすればフランディアの内政は飛躍的に発展していくはずだ。篭絡を目指すかどうかはともかく、彼の個人的好意を得る事も考えて動かねばなるまい。
そんな思惑を巡らしつつ、シャルロットはユースタスの部下となる内務委員の面々と顔合わせを済ませ、この日の業務に入った。委員の一人が束ねた投書の山をシャルロットの机の上に並べていく。
「結構分量があるのですね」
目算で百通はあろうかと言う投書に目を丸くするシャルロットに、ユースタスが説明を始めた。
「これらの投書は全て女子生徒からのもので、匿名のものになっております」
投書用の紙は目安箱の傍に置いてあり、年齢や性別の他に自分の名前など個人を特定できる情報も記入できるが、それらを書かずに投書する事もできる。かつては記入が必須だったが、貴族の横暴を訴えた平民の生徒に対し、訴えられた貴族に近い内務委員が情報を漏洩した結果、その平民の生徒が襲撃を受け酷い暴力を受けるなど大問題になった事件があり、それ以来任意記入に切り替えられたのだという。
「投書した者の性別のみを確認しただけなので、中身についてはまだ確認しておりません。これを殿下にお願いしたいと思います」
ユースタスの言葉に、投書の数を再確認して黙って見上げるシャルロット。
「いえ、大丈夫です。これは男子からのものにも言えますが、投書の大半は他愛のない、対処する必要のないものです。その中から、我々が対処しなくてはならないものを見つけ出すのですが、まぁ百通の中に二~三通あれば多い方ですね。軽く見て問題が無ければ不受理として差し支えありません」
ユースタスがそう言って説明を締める。シャルロットはわかりました、と頷くと端から投書の束を取って紐を解き、一枚目を読み始めた。
(……恋の悩み……いやそれをどうしろと?)
ユースタスの言った事に深く納得しつつ、シャルロットは一枚目を不受理のトレイに入れる。幸い投書の多くは長い時間をかけて読み込まなくてはならないほど細かい事を書いているわけではないから、ユースタスの言う通り、数は多くとも消化していくのはそんなに大変ではなかった。
そうやって半分ほど山を崩したところで、シャルロットは気になる内容の投書を見つけた。
(あれ? これは……)
シャルロットは受理のトレイに入れた数枚の投書を改めて取り出し、共通の内容の投書が今目を通していたものを含め、三通ある事に気が付いた。少し考えこんだ後、残りの投書の山に同じものが無いか探す事を優先する。結果、同様の投書が五通ある事を確認して、シャルロットはユースタスの方を向いた。
「内務卿、今よろしいですか?」
「どうしました?」
ユースタスが立ち上がってシャルロットの机の前までやってくる。シャルロットは手にしていた五通の投書を、ユースタスに読めるように並べた。
「こちらの五通なのですが、ほぼ同じ内容で……教師による性的な嫌がらせを訴える内容です」
シャルロットの説明に、ユースタスが剣呑そうに目を細めた。
「それはまた厄介な内容ですね。一通ならともかく五通となると信憑性はありますが、相手が教師ですか……」
一通目に目を通し始めるユースタスに、シャルロットは尋ねた。
「一応確認しますが、小宮廷には教師に対してはどの程度権限がありますか? 例えば人事などですが」
まぁ常識的にはそんなものは無いだろうと思うが、皇族が入る事も多いだけに、教師に対しても何らかの形で干渉できるのではないかと言う確認だったが、ユースタスは首を横に振った。
「いえ、人事を含め教師の管理権は学長閣下に委ねられています。とはいえ、あまりに教師の振る舞いが悪質である場合、生徒の過半数の署名を集めた上で、学長閣下に対して罷免や懲戒を求める権利はありますが……」
説明しながら、ユースタスの表情に困惑が混じっていく。
「あの……殿下。私の目が正しければ、被害を訴えている生徒たちは生育の授業だと言っているようですが」
「そのようですね」
シャルロットは頷いた。生育とはどういう教科かと言うと、良き妻、良き母になるための知識を教えるものである……と言う事になっているが、身も蓋もない事を言えば、生育とは女子生徒向けの性教育の事なのである。
今も昔も、子を為し産み育てるという行為において、女性の負担は大きい。シャルロットの母、ディアーヌも産褥熱で亡くなっているように、生命の危機を伴う局面も多い。そうした危機を少しでも減らし、安全に子を産み育てるための知識、技術を教える事で、良き母になるのが一つ。そして良き妻となるため、子を為すために、いかにして夫に奉仕するか夜伽の作法・技術を教えるのが二つ。この二本柱で生育は成り立っている。
当然この授業は男子禁制で、女子だけが学ぶ事が出来るものだ。という事はつまり、それを教える事が出来るのも……
(女性の教師なんだよなぁ……)
シャルロットは溜息をつく。つまり同性間の性的なトラブルと言うわけで、これは帝国では非常に稀な問題と言えた。
このオルラントでは、同性愛をどう扱うかは国や地域によってかなりのばらつきがある。社会の規範を為すのは救世教の教えであるが、救世教は重視している救世主の言行録を経典とするので、宗派によって同じ問題についてまるで違う解釈をする事が多いからだ。
シャルロットの祖国、フランディアの国教である救世教始祖派は、同性愛に対して割と寛容である。最も強く信仰対象としている「始祖の救世主」が同性愛に寛容で、仲間たちとの間にも同性愛的な関係があった、と言い伝えられているためだ。そういうお国柄だから、シャルロットに精神的な同性愛を強要するルイの計画が発想できたともいえる。これが厳格に同性愛を禁止する宗派の強い国だったら、今頃シャルロットはここにはいなかっただろう。
一方、帝国は同性愛を厳格に禁止とはいかないまでも、眉を顰めるような不道徳な行為だとはみなしていた。皇帝の称号の一つに「救世の後嗣」があるように、帝国を建国した初代皇帝が救世主の一人である事が理由だった。救世主の血統を引く事を誇る立場から、後継者が生まれない同性愛を皇室が忌避しており、それが国全体の気風となっているのである。
もっとも、国教である輪廻派は歴代救世主全員を信仰対象とし、その中に同性愛者もいる事から厳格な同性愛禁止とまでは戒律化しておらず、帝国もそれを無視して違法とまではできていない。「違法行為ではないが不道徳である」というのは帝国特有の価値観である。ユースタスが投書の内容に困惑するのも、帝国の常識的な道徳観の持ち主としては当然と言えた。しかし、そこまで困惑する程ではないシャルロットは教員名簿を手に取って教師の名前を確認した。
「生育担当はアンジェリカ・バスケス先生……お名前からしてエルアバニカの方のようですね。だとするとおそらく再臨派」
救世教の三大宗派の残り一つ、再臨派は歴代救世主全員が霊的には同一人物である、とする信仰から同性愛も救世主がお認めになった行為であり、禁じる理由はないとして最も寛容な立場を取っている。そしてエルアバニカは再臨派を国教とする国だった。
「はい……確かそうですね。前任が高齢を理由に退任された後、去年の終わり頃から後任として来られた先生です」
ユースタスが答える。アンジェリカはあらゆる王立学園の元祖、エルアバニカ王立学園で教鞭をとっていたという経歴の持ち主で、実力的には申し分がない。
(学長閣下なら人格的な面も十分見抜かれそうだが……)
学園の少女たちにいかがわしい事をしたい、という欲求をもち、それを隠しきって面接を突破し就職したのなら、悪い意味ではあるがなかなかの傑物と言える。しかし、これらの投書がすべて真実を語っているとは限らない。先に述べたように生育は性教育を内容に含み、性に潔癖な性格の生徒であれば、ただの授業がセクハラに感じられる可能性もあるからだ。
こういう時、匿名の投書しかないのは困る。誰がその主かわからなければ話を聞く事も出来ない。生育を受けている生徒たちはわかるので、そこから絞ることはできるが、まずははっきりわかっている相手にあたってみるのが先だろう。
「一度バスケス先生とお話してみる事にしましょう」
シャルロットの言葉に、ユースタスが驚いた表情を見せた。
「よろしいのですか?」
もし本当にアンジェリカが同性に性的欲望を抱き、それを行動に移す事をためらわないような危険人物なら、いかにもか弱げで、しかも類稀な美少女でもあるシャルロットが対面するのは、猛獣の前に自ら飛び出すようなものだ。流石に他国の高位貴族を危険には晒せないと考えたユースタスだったが、シャルロットには成算があった。
「ご心配なく。わたしだって一応自分の身を守る方法くらいは心得ています」
安心させるように朗らかに笑って見せる。剣は持てなくなり、腕力も男の頃とは比べ物にならないほど貧弱な今のシャルロットではあるが、護身の心得まで失ったわけではない。最悪でもロベールに助けてもらえば良い。それにシャルロットは生育を履修していないが、アンジェリカに話を聞く口実は持っていた。それは、アンジェリカが生育担当以外にももう一つ、この学校で業務を持っている事である。
「では今から行ってくることにします」
そうと決まれば即決である。シャルロットは立ち上がると、ユースタスの方を振り返った。
「バスケス先生にお話を聞きに行っている間に、シーラッハ卿には一つお願いがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「お願いですか? 何でしょうか」
シャルロットの見せた思いがけない行動力にちょっと驚きつつ、ユースタスが聞き返すと、シャルロットは机の上に残していた件の投書を指さした。
「これらの投書が誰のものか、調べていただきたいのです。筆跡などで何とか割り出せないでしょうか」
方向性を示された事で、ユースタスはアイデアがあったのか頷いた。
「そうですね……入学届等の自筆サインと照合すれば、ある程度は絞り込めるかもしれません。やってみましょう」
「はい、ではお願いします」
シャルロットは頷くと、アンジェリカがいるはずの部屋に向けて歩き始めた。
目的の部屋には「第二医務室」と看板が掛けられていた。アンジェリカは生育の教師だが、放課後は主に女子担当の保健医でもあるのだった。女性ながら医師でもあるというあたり、確かにこのヘルシャーに迎えられてもおかしくない人材である。
ノックをすると、扉の向こうから意外に若い声でどうぞ、という返事があり、シャルロットは入室した。
「失礼します」
挨拶すると、机に向かって書き物をしていた女性――生育担当教師のアンジェリカ・バスケスが振り返った。教員名簿では三十七歳と記されていたが、そうは見えない若々しい外見の美女だった。
「今日はどうしました……ん? もしかして、シャルロット姫殿下ですか?」
アンジェリカは入ってきた相手を見て驚きの表情を浮かべ、慌てて立ち上がろうとするところを、シャルロットは言葉で抑えた。
「いえ、学園内ですから校外での身分は考えなくても結構ですよ、先生」
それを聞いて、アンジェリカはごまかすように咳払いをすると、椅子に座り直し、最初に口に出しかけた質問を続けた。
「そうでしたね……今日はどうしました? 身体の調子でも悪いのですか?」
「はい、ちょっと相談したい事が」
答えつつ、シャルロットは内心首を傾げていた。見た目だけでなく、言葉遣いなども若い女性のそれに近いのもそうだが、高位貴族を相手にする事も多い王立学園の教師にしては、身分差に敏感に見える。このヘルシャーだけでなく、エルアバニカの王立学園でも、生徒は身分を問わず教師よりは目下として扱われるはずだ。
「では詳しく話を聞きますので、そちらにお座りください」
アンジェリカに促され、シャルロットは彼女が指さした椅子に腰かけた。その間にアンジェリカは机の中から問診票を取り出していた。
「では、詳しくお話を聞かせてください」
丁寧な言葉遣いを崩さず言うアンジェリカに、シャルロットは辺りを見回すと、少し恥ずかしげな演技で言った。
「実は……わたしはまだ月のものが来ていないんです」
「……えっ? 失礼ですが、姫殿下はお幾つでしたっけ?」
思わず素の口調で驚くアンジェリカ。
「十五になりますね」
答えるシャルロット。国を離れる前にルイにもそう言っているが、あれから数か月経った今もシャルロットはまだ「大人」になっていなかった。今季生育の授業を取らなかった理由でもある。しかし、保健医でもあるアンジェリカと話をする口実としてはちょうどいいので話してみる事にしたのだ。
「それはちょっと確かに心配ですね……診察させていただいてよろしいですか?」
そんなシャルロットの思惑も知らず、心配そうに確認してくるアンジェリカに、シャルロットははいと答えたが、次の指示はここに来た目的を再確認させる、緊張するものだった。
「では服を脱いで、そちらのベッドに仰向けに寝てください」
「え……脱ぐんですか?」
アンジェリカの指示を再確認するシャルロット。医師としての指示にかこつけて襲う準備ではないのかと勘ぐりたくもなる。
「ええ。触診と聴診を行いますので」
しかし、アンジェリカの表情は真剣で、下心があるような感じはしなかった。シャルロットは頷くと、制服のワンピースドレスを思い切って脱いだ。机の中から聴診用の筒を取り出したアンジェリカが、振り返って意外そうな口調で言う。
「シャルロット姫殿下はクラシックなのですか? 若い女性には珍しいですね」
「え、ええ。わたしの実家の領土は田舎で、アヴァンギャルドなものは入ってきませんので……」
シャルロットは答えた。クラシック、アヴァンギャルドと言うのは下着のコーディネイトのスタイルの事である。ドレスを綺麗に着こなすため、上半身は補正力の強いビスチェやコルセットを、下半身はスカートを膨らませるためにドロワーズやパニエを着用するスタイルをクラシックと言い、シャルロットは普段これで通している。
一方、最近登場したブラジャーやショーツなど布地の少ない下着をつけるのがアヴァンギャルドである。守旧的な女性からはふしだらだ、破廉恥だ、と非難されているが、着心地が良く楽で何より可愛らしいと言う理由から若い女性の間に広まりつつあるスタイルだ。
「そうですか……ですが、姫殿下のように成長期の女性であれば、身体を締め付けないアヴァンギャルドの方が楽ですよ。正装の時は仕方ないにしても、普段用にアヴァンギャルドを一式揃えて置く事をお勧めします」
そのアンジェリカの言葉を聞いて、やはりおやと思うシャルロット。アンジェリカの年代は、どちらかと言うとクラシックを好みアヴァンギャルドに眉を顰める方が多い。医師としての判断があるにしても、感性も若い年代に寄っているようだった。
「まぁ今は下着談義は良いでしょう。診断の邪魔になるので少し紐を緩めますが、終わったら戻しますので」
アンジェリカは医者の顔でそう言うと、シャルロットの診断を始めた。緩めたビスチェをずり上げて剥き出しにしたお腹に触れるとき、シャルロットはくすぐったさに切なげな声を上げてしまう。
「んっ……はぅ……」
「え、だ、大丈夫ですか?」
驚いて手を止めるアンジェリカ。シャルロットは苦笑して首を横に振った。
「大丈夫です。わたし、ちょっとくすぐったいのは苦手で……」
それを聞いて、安心したように診察を再開するアンジェリカ。その表情はやはり真剣で、下着姿の美少女と言う極上のエサをぶら下げられている事に反応している様子はない。
やがて、診察を終えたアンジェリカはカルテに所見を記入しながら言った。
「内臓の動きや、脈、血流の様子など、おかしな所は見られませんね。心配ではありますが、個人差とも思いますので、気になるようでしたら定期的に診察を受けに来てください」
「わかりました」
制服を着直しながらシャルロットは頷いた。この時もアンジェリカの表情にいかがわしい感情は全くうかがえなかった。礼を言って医務室を出ると、自室に向かいながらシャルロットは小声で言った。
「ロベール、いる?」
「ええ、いますよ」
姿を見せることなく、シャルロットの耳にだけ届く声でロベールが答える。
「バスケス先生を見てどう思った?」
シャルロットはすぐそばを歩く人にも聞こえないような小さな声で続ける。
「姫様を見て興奮してるようには思えませんでしたね。あれが演技なら大したもんだ」
ロベールが答える。そう、と頷いてシャルロットは思った。アンジェリカの医師としての真摯な態度がどんなものなのか、自分の印象以外で聞いてみたかったのだが、影の目から見てもそうだったとなると、あれがアンジェリカの本質なのだと考えるのが自然なのだろうか。
(投書にあるような、いやらしい人間とはとても思えなかった……)
この問題、ただの投書の裏付け調査にとどまらない何かがある。シャルロットはそう考え、その場でロベールに二つ指示を出した。一つはアンジェリカの日常を監視する事、もう一つは彼女がエルアバニカにいた時の事を調査する事である。
(まぁ二つ目は難しいかもしれないが)
シャルロットは思った。エルアバニカは西方の大国で列強の一つに数えられる国だが、フランディアはもちろん帝国ともあまり利害の衝突がない国だ。当然フランディアも影を送り込んだりはしていない。ロベールが有能でも調査できることに限界はあるだろう。
それでも、アンジェリカ自身の情報はできるだけ集めておく必要がある。幸い定期健診と言う会う口実もできた事だし、自分自身の目でも見極めていこうと思いながら、シャルロットは自室に戻る途中にクラリッサとテレーゼの部屋に顔を出して、二人にも頼みごとをした。それについては快諾してもらったものの、ユースタスの下にいる内務委員たちのように、自分が指示を出して仕事をしてくれる役割を持った部下が必要だな、とシャルロットは考えた。
(……それには予算がいるな……あ、財務卿の手伝いをするときに、それを提案してみるか)
自分の功績にできるアイデアができた事に満足を覚えつつ、シャルロットは今度こそ部屋に戻った。こうして内務卿補佐としての第一日は暮れていったのである。
事態に進展があったのは、それから三日後の事だった。内務卿執務室に顔を出したシャルロットに、ユースタスが筆跡鑑定の事を報告してきたのである。
「……生徒の字ではない?」
シャルロットの確認の言葉にユースタスは頷いた。
「はい。念を入れて我が家の祐筆にも確認させました。生徒のサインと投書で合致する筆跡はないそうです」
祐筆は各貴族の家門が専属で雇っている代書士の事を言う。何しろ貴族の仕事の多くは手紙を書く事だ。派閥を束ねたり、国家の要職に就くほどの大貴族ともなれば、日に数十通の手紙を書く必要があることも珍しくはない。そんな時のために彼らは複数人の祐筆に手紙を代筆させる事で、時間と労力の手間を省いているのである。
そして、儀礼として「本人の真筆である」と言う体裁をとるため、祐筆は雇い主の筆跡をそっくり真似ると言う特技を持っており、その技術の派生として他人の筆跡を鑑定する事にも長けている。侯爵家の専属になるほどの祐筆の鑑定なら、まず疑う余地は無いだろう。
「では……あの投書は偽物である可能性が出てきますね」
シャルロットは言った。学園の生徒は当然全員が読み書きを出来る。投書を代筆させる事はまずないから、真筆でない時点で当然出てくる疑惑だった。
「しかし……偽投書だとして、誰がなぜそのような事を?」
ユースタスが疑問の声を上げる。
「そこまではまだわかりませんが……」
シャルロットはそう答えたが、朧気ながら事態の大枠が見えてきたような気がしてはいる。
ここ数日で調べたところでは、アンジェリカの校内での評判は良い。クラリッサとテレーゼが手分けして聞いてくれた範囲では、彼女の授業に不満のある生徒は見つからなかった。むしろ若い学生たちに合わせた授業でわかりやすく、堅苦しかった前任者よりも好評なくらいだった。
そしてロベールに調べさせたところ、アンジェリカは学園内の職員宿舎に住んでおり、門から一歩も出ていない。彼女への手紙なども届いておらず、外部との繋がりを持たない生活をしている。これは生徒よりも束縛の少ない教師としては不自然な事だった。
これらの事を考えると、アンジェリカには生徒を含め校内の人間から恨みを買ったり、敵対される要素はない。一方で外部との接触を避けているのは、校外に彼女にとっての脅威がある事を意味しているのではないか。
そしてもう一つ。アンジェリカは書類上三十七歳という事になっているが、外見と言い言動と言い、とてもそうは思えない。さらに教師としては妙に身分差を重んじるあの態度。三日前に会いに行った時、彼女は最後までシャルロットを「姫殿下」と呼び、敬語で接するよう心掛けていた。実際には彼女は自称より十歳以上は若い、あまり腹芸の出来ない年代なのではないだろうか。
(バスケス先生は……私とはまた違った事情で、身分を偽ってこの学園にいる必要があるのかもしれない……例えば、追われる身であるとか)
それが、現時点でのシャルロットの予想だった。だが、確証に至るにはまだ材料が足りない。
(もう一度先生と話してみるか)
ロベールにはアンジェリカのエルアバニカ時代の事を調べさせているが、やはり難航しているようで成果は上がっていないし、そもそも予想が正しければエルアバニカ時代の経歴自体が存在しないかもしれないのだ。それなら確実な手段をもう一度取ろうと考えて立ち上がろうとしたとき、ノックもなしに執務室の扉が開かれた。
「なんだ、血相を変えてどうした?」
ユースタスが入ってきた人物に声をかける。その相手は司法卿のベルンハルトだった。ユースタスが言うように真っ赤な顔をしている。
「大変な事になった。バスケス先生が……」
ベルンハルトが口にした名前にシャルロットも思わず立ち上がった。その間にベルンハルトが続けた言葉は、この問題が校内の問題では済まなくなったことを告げていた。
「姿を消された」
―ちょっとした設定―
この話は敢えて単位系などは曖昧にしているのですが、月のものと言う言葉があるように、年月日と言う概念はあるので一応設定を書いておきます。
このオルラント世界では既に地動説が理解されており、オルラント世界のある惑星は太陽を中心に三六五日で公転している事がわかっています。従って一年は三六五日です。
一方で月は惑星の回りを約三十日で公転しており、これにより一月は三十日で、十二カ月で一年となります。ただ現実世界と異なり月は常に同じ面を惑星に向けておらず、自転によって表面の模様が少しづつ変わっていくため、満月の日の模様で何月かを決めています。一月はウサギのような模様が見えるので卯月だそうです。
公転年と月の運動による十二カ月の間に五日のずれがありますが、十二月と一月の間の五日間を正月として、どの月でもない日にしています。




