第13話 自分の過去を見るような
「単刀直入に申し上げましょう。我が家はヨハンをシャルロット姫様の婿として、フランディア王国と縁を結びたいと考えております」
そのコンラートの言葉の意味を、シャルロットが飲み込むまで呼吸数回分の時間が必要だった。一瞬でカラカラになった口の中を、目の前のお茶で少し湿らせる時間で、シャルロットはどう返すか頭を巡らせる。
「……ヨハン様はご嫡男であると記憶していますが」
まずは現状を確認する。事前に確認した限りではヨハンの他にゴータ公爵家に子供はいない。仮にいたとしても、長子を他家に婿を出すというのは普通はない事だ。コンラートの意図が見えない。
「確かにヨハンは私の唯一の男子であり、普通であれば私の後を継いでゴータ公の地位に就くべき立場です」
コンラートは頷いた。
「しかし、人には向き不向きというものがございます。おわかりですか?」
シャルロットは口ごもった。コンラートの言葉の意味は分かる。しかし、迂闊に賛同するわけにはいかない内容だ。父親が息子を評して「公爵家を継ぐのに向いてない」と言っているのだから。それに、その評価が真実だとしたら、それはそれで恐るべき無礼でもある。帝国の公爵位を継ぐ能力がなくとも、フランディアの王位を継ぐには足りる。そう言っているのと同じだからである。そう指摘しようかとシャルロットが思った時、コンラートは笑みを浮かべた。
「その方が、姫様やフランディア王家にとっても都合がよいのではありませんか?」
シャルロットはしばしその言葉の意味を考え、確認の言葉を口にする。
「我が子を傀儡の地位に甘んじさせても構わない……閣下はそう仰りたいのですか?」
それを聞いたコンラートは大きく頷いた。
「いかにもその通りです。シャルロット姫様はやはり聡明でいらっしゃる」
揶揄するような響きはなかったが、褒められたとはシャルロットは思わなかった。子供を政略の駒としてしか見ていないコンラートの振る舞いに、嫌悪感を覚える。そんな彼女の内心に気付くわけもなく、コンラートは言葉を続ける。
「ヨハンは……あの子は頭は良いのですが、気質が政向きとは言い難い。学者にでもなれば大成するかもしれませんが」
それなら、お飾りの地位であっても学問に打ち込める立場になるのが良い……とコンラートは考えているのだろう。あるいは、それも親の愛情であるかもしれないとシャルロットは思う。それでも、コンラートへの好感度が上がる事はなかった。
(……この方の有り様は嫌いだ)
それでも、シャルロットはその嫌悪感を表に出さぬように隠し、コンラートを安心させるように笑みを浮かべて答えた。
「帝国有数の名門と縁を結ぶことができ、しかも政治的な自立は保たれる……確かに、我が国には利の多いご提案ですね」
それを認めた上で、シャルロットは目を細めてコンラートを見つめつつ、言葉を続けた。
「ですが、ゴータ公爵家には見返りがないと思うのですが……それについてはどうお考えなのですか?」
そう、この話はフランディアにとっては利益があっても、後継者を手放すゴータ公爵家にとっては家門断絶の危機となる。ならばコンラートがまだ話していない、ゴータ公爵家にとって有利になる何かがこの話には必ずあるはずだ。そして、それがフランディアにとって受け入れがたいものである事も十分あり得る。
さらに言えば、皇統を守るために存在する公爵家が、その役割を放棄してフランディアに後継者を差し出す事を、皇帝がよしとするかどうかも問題である。この婚姻を受け入れたがために、フランディアまでが皇帝の不興を買っては目も当てられない。
「ふむ……それは当然気になさる部分でしょうな」
シャルロットの疑惑の視線に気を悪くした様子も無く、コンラートは頷いた。
「ですが、シャルロット姫様が危惧される点についてはご心配には及びません。この縁談を進めても良い、と言う事については陛下の許可をいただいておりますので」
その答えを聞いて、シャルロットはコンラートが火急の用事と言って出かけていた理由を悟った。そして、コンラートが後継者の心配をしなくてもいい理由も。おそらく、この縁談が成立した場合、コンラートはコルネリウスを養子として迎え、家を継がせる算段なのだろう。第二皇子なら公爵家の跡継ぎとしては十分な格であるし、帝国からすれば後継者争いを未然に防ぐこともできる。
(……なるほど、公爵という地位にあるのは伊達ではない)
シャルロットは内心舌を巻いた。実によく練られた策だ。この縁談を受ければ、おそらく帝国のフランディアに対する心象は極めて良くなるだろう。ゴータ公爵家も安泰だ。しかし。
(フランディアにとって有為の人材……それが私の結婚相手の条件だ。ヨハン様はその条件に適うと、父は考えるだろうか?)
少し考え、シャルロットはコンラートに頭を下げた。
「良き話を聞かせていただきました。ですが……この話、お受けする事はできません」
コンラートにとっては自家繁栄のために知恵を絞ったものであり、それなりに通る自信もある策だったのだろう。シャルロットの拒絶に一瞬驚いたように眉が動いたが、すぐに平静な表情を取り戻した。
「理由を聞かせていただいても?」
そう聞き返す声にも動揺はない。シャルロットは再びお茶で喉を湿らせると、理由を言った。
「傀儡である事を、ヨハン様が良しとされるとは思いません」
ここを訪れてからの短い時間しか話せていないが、ヨハン自身は決して学者になりたいと思っているわけではない、とシャルロットは見ていた。高位貴族らしく、将来帝国を支える藩屏としての役割を果たしたい。それがヨハンの望みであると。
思えば自分も、ヨハンと同じ年頃にはいずれは王となり国を導くという将来像を描き、それを成し得る人材になるために剣を習い、学問に励んでいたものだ。将来こんな形でなくともそこから脱落する事など考えもせず、自分の可能性と能力を信じていた。それは何も自分だけの事ではない。たいていの貴族の子息ならそうではないだろうか。
そんな子供の思いを、親の方で勝手に見切りをつけて、お前は傀儡になるのが幸せなのだと言って送り出す。そんな結婚をして、ヨハンが満足できるとはとても思えない。
(私だって……今の境遇を完全には受け入れきれないのだから)
シャルロットはそう思いながら、カップの中で微かに揺れる香茶の水面に映る自分の顔を見る。自分に与えられた罪の象徴。こうなった原因が自分の大失態、それも一切言い訳できないそれにある事は理解している。それでも……今まで積み上げてきた王太子としての経験を全て奪われ、二度とその人生に戻れないという現実を思い知らされることは耐えがたく辛い。
「それに……わたしも、夫となる人に傀儡であってほしいとは望みません」
シャルロットは理由を付け加えた。自分の夫になると言う事は、傀儡になるのを拒否するのであれば、自分が空しく敗れ去ったフランディアの現実――王権を侵さんとする貴族たちと対決する道を選ぶと言う事でもある。ヨハンをその道に巻き込むことはできないと、シャルロットは思っていた。才覚の問題ではない。まだそんな覚悟を背負わせる事ができる年齢ではないから。何しろ卒業する頃でも彼は十三歳なのだ。
それとこれは口にはしないが、もう一つ理由がある。コンラートはこの縁談について皇帝に許可を取ったと言うが、その許可は「進めても良い」という消極的なものだ。もしこの縁談が帝国の利益に完全に合致するなら、皇帝も進める事に積極的になるだろう。そうでないという事は、皇帝はフランディアとの婚姻外交においてもっと良い条件を検討しているに違いない。
皇帝からすれば「成功すれば儲けもの、失敗してもデメリットはない」くらいの感想なのかもしれないが、シャルロットの方は命や尊厳がかかっている。安易にこの話に乗る事は出来なかった。
シャルロットの挙げた二つの理由を聞いたコンラートは、しばらく目を閉じて考えていたが、ふっと息を吐きだすと苦笑を浮かべた。
「そうですか……承知しました。この話は無かった事に致しましょう」
思いがけずあっさりとコンラートが引き下がった事に、シャルロットは少し驚きを覚えた。もっと粘ると思っていたのだが……と思った次の瞬間、コンラートは爆弾を落とした。
「残念ではあります。父親としては、息子の初恋を成就させてやりたかったのですが」
その意味をシャルロットが飲み込むのに、心臓の鼓動数回分の時間が必要だった。
「……え?」
思わず目を点にするシャルロット。その様子がおかしかったのか、コンラートは頬をひくつかせて笑いながら言葉を続けた。
「あれは入学式の後でしたかな。普段は学問の事ばかり話しているヨハンが、帰ってくるなり『素晴らしい女性がいた』と言い出すものですから」
戸惑いつつも、シャルロットはコンラートに言葉を返した。
「それは……それだけで、ヨハン様がわたしに異性として好意を抱いているとは……言い切れないかと思いますが……」
そこまで言って、シャルロットは先程のヨハンとの会話の中で、確かに彼が入学式でのシャルロットのあいさつに感銘を受けたと言っていたのを思い出した。それでも、ただそれだけで恋愛感情があるかどうかなどわかるはずもないと思うのだが、コンラートはさらに追い打ちをかける。
「しかし、『顔立ちもお心を反映して美しい』などと言っておりましたからなぁ……私も向かい合ってみて、これは息子が夢中になるのも無理はないと思いましたぞ」
それを聞いてシャルロットの顔が真っ赤になる。それは容姿を誉められた少女が示す当然の恥じらいに見えたが、シャルロットの内心は違っていた。
(やめてくれ。そんな風に私を見ないでくれ)
恋心を寄せられているという、嬉しいような恥ずかしいような、くすぐったいが決して不快ではない気持ちが、その想いで上書きされて消えていく。シャルロットも自分が美しい外見を持っている事は認識しているが、心まで美しいと、そんな風に褒められるような人間では断じてないと思っている。だからこそ、今こうして彼女はここにいるのだから。何とか呼吸を整えると、シャルロットは微かに笑みを浮かべ、コンラートに言った。
「それでは、ますますヨハン様と夫婦になることはできません。わたしは……ヨハン様が思うような人間ではありませんから」
それにコンラートは答える事ができなかった。シャルロットの言葉に、酷く重いものを感じからだった。
(……なるほど、確かにこのお方はヨハンには背負いきれぬ何かをお持ちのようだ)
実のところ、コンラートも息子の器量をそこまで過小評価しているわけではない。いずれ十分な経験を積み、知識との均衡が取れる時期が来れば、この帝国の宰相くらいは務まるだろうと思っている。しかし、まだ子供である事も確かだ。おそらくシャルロットを、彼女が背負う何かを受け入れる事ができるのは、もっと経験を積んだ人物なのだろう。例えば……
(その名前を口にするのは面倒の元というものだろう)
コンラートはそこで思索を打ち切った。臣下として不敬な行為でもある。その代わり、コンラートは別の言葉を口にした。
「ヨハンに対しては、この件は一切言っておりません。よろしければ、息子と友人になる事は了承していただけませんか? 個人教授についてもお引き受けしましょう」
縁談の話を完全に諦める代わりに、シャルロットとのコネは保つ。それがこの対話でコンラートが決めた落としどころだった。
「それならば喜んで。いえ、わたしの方からお願いいたします」
コンラートのその内心を読み取り、シャルロットも答える。彼女としても、帝国有数の名家であるゴータ公爵家と友好的な関係を持つ事に損はない。
「ありがとうございます。ではこれからの話についてはヨハンも呼びましょう」
コンラートはそう言って机の上のベルを鳴らした。それほど待つ事もなく、扉が開き家宰が姿を現す。
「お呼びでしょうか、閣下」
そう言って恭しく頭を下げる家宰に、コンラートは命じた。
「ヨハンを呼んでもらいたい。個人教授の事について話を詰める」
「かしこまりました」
家宰は再び頭を下げて姿を消し、すぐにヨハンを連れて戻って来た。
「お話は済みましたか? 父上」
コンラートは振り向いて息子に笑い掛けながら言った。
「うむ、シャルロット姫様に、お前の個人教授を受ける事をご了承いただいたぞ」
それを聞いた途端に、ヨハンの顔が輝くように明るくなった。
「本当ですか!?」
頬を紅潮させ、勢い込んで聞いてくるヨハンに、コンラートは苦笑気味に答える。
「本当だとも。そうですよね? 姫様」
シャルロットも笑顔を浮かべ、ヨハンに頷いて見せる。
「はい、よろしくお願いいたします、ヨハン様」
「もちろんです! こちらこそよろしくお願いします!!」
勢いよく答えるヨハン。彼が自分に好意を持っている、と聞いた後ではシャルロットにも彼の一見不審な態度が、照れ隠しや緊張から来るものだという事が分かった。
(……想いに応えてあげられなくてごめんなさい、ヨハン様)
それが分かっていながら、ただの友人としてしか接する事が出来ない事に罪悪感が芽生える。もし自分が本当に生まれながらの女性で、国や家のしがらみのない身だったら、ヨハンのように好意を向けてくれる相手に応える事の出来る立場だったら、どんなに気分が楽だろうか。生まれて初めてシャルロットは王族という自分の生まれを窮屈なものだと思った。
(でも、私はそれから逃げないと誓ったのだから……)
そう自分に言い聞かせて、シャルロットはゴータ公爵家を後にしたのだった。
その夜、光輝宮の自室ではヴィルヘルミーネが側近の一人から報告を受けていた。
「そう……あの小娘、ゴータ公家からの縁談を断ったのね」
ヴィルヘルミーネが不快さをにじませた口調で言うと、報告者であるディートリッヒ派貴族の令嬢が、主に迎合するようにわざとらしく嘆かわしそうな口調で相槌を打った。
「不遜な事です。大公息女と言っても、従属国の者が帝国貴族の求婚を袖にするなど」
ディートリッヒ派に多い血統至上派貴族は従属国の貴族を帝国貴族よりも数段下に見る傾向が多い。本来はどこの国であろうと大公家であれば帝国の公爵より位階は上であるが、彼らは従属国の大公を帝国で言えば侯爵程度の存在に見ていた。そんな彼らの価値観に沿って言えば、シャルロットは一も二もなく有難く求婚を受け入れるべきで、それを蹴ったというのは帝国に対する許しがたい侮辱なのである。
「良い話を転がしてやれば、簡単に受け入れると思ったのですけどね……まぁいいでしょう」
ヴィルヘルミーネが独り言のように言う。それを聞いて、報告者は首を傾げつつ主に尋ねた。
「この一件の斡旋、どのような意味があったのでしょうか?」
シャルロットが個人教授を探しているという情報を手に入れたヴィルヘルミーネが、この側近を動かして仕組ませたのが、ゴータ公家との縁談であった。確かに傍から見れば気に入らない相手と公言しているシャルロットのために、わざわざ良縁を持って行ってやる意味はわからない。
「私としては、あの小娘は確かに目障りですが、何も排除するだけが消す方法ではありません」
ヴィルヘルミーネは答えた。シャルロットの目的が帝国の良家との縁談と言うことは周知の事実である。極論を言えば話がまとまりさえすれば彼女が学園に通う必要はない。ヨハンと婚約が成立すれば、彼の卒業とともに中退して帰国と言う選択肢もあるのだ。
「そういう事でしたか……」
意味を理解した側近が頷く。
「今回はうまくいきませんでしたが、今後も小娘の動向には目を光らせておくようにお願いします。では、お下がりなさい」
ヴィルヘルミーネはそう言って報告者を退出させた。人の気配が無くなったところで、窓の外を見ながら呟く。
「ヨハン君には引っかからなかったか……と言う事は、あの子はやはりイレギュラーと言う事」
彼女にしかわからないある基準で、ヴィルヘルミーネはシャルロットが何者なのか見定めようとしていた。頭の中でシャルロットに対応する方針のうち、使えなくなった幾つかに線を引いて消し、代わりにいくつかの方針を立てると、彼女は机の上にあった手紙を手に取った。それは派閥に属する生徒やその関係者たちからのもので、問題解決のためにヴィルヘルミーネの力を借りたいと言う嘆願書が多くを占めている。面倒だが、こうして下の者たちのために権力を行使してやる事も、派閥の長としての義務であった。
「……あら、これは使えるかもしれないわね」
そのうちの一通に、ヴィルヘルミーネは利用価値を認めて笑みを浮かべた。
「それでは、今日はこの辺りにしましょう」
図書室の一角で、ヨハンが個人教授の時間の終わりを宣言した。
「はい、ありがとうございました」
シャルロットは丁寧に礼を言うと、筆記用具を片付け、その間にヨハンが借りだしてきた参考書を元の場所へ戻していく。小物袋に筆記用具をしまい終えると、シャルロットは辺りを見回した。遠巻きにこちらを見ている生徒が数人いるが、シャルロットとは視線を合わせないように顔をそむける。しかし何日も経てばだいたい顔の見分けはつく。いつものメンツだ。
(……ディートリッヒ派の下っ端の生徒か……ご苦労な事だな)
シャルロットはそんな事を考えて苦笑する。図書館を個人教授の場に選んだのはシャルロットの考えだった。ヨハンは集中しやすいからなどの理由で二人きりになる事を望んだが、そんな事をすればいらぬ憶測を呼ぶ。それなら堂々と人目に付く場所で個人教授を受ける方が良い。そうすれば躍起になってこちらの醜聞を掴もうとしているディートリッヒ派……つまり、ヴィルヘルミーネのつけ入る隙も無くなるというものだ。
そんな生徒の気持ちを知ってか知らずか、ヨハンは新しく借り出してきた参考書を二冊、手に持って戻ってくるとシャルロットに差し出した。
「これは予習用です。いつも通り、しおりが挟んであるところまでが範囲ですので」
「はい、ヨハン先生」
ヨハンの指示におどけたように答えるシャルロット。それを年下へのからかいと見たのか、ヨハンの表情に一瞬不満げなものが浮かんだ。
「そんなに気持ちを顔に出してはいけませんよ、ヨハン様」
今度は笑顔を浮かべつつも、真剣な口調で言うシャルロット。ヨハンははっとしたような表情になり、頭を下げた。
「はい、シャルロット様」
勉強をただ教わるだけではなく、貴族としての嗜みや振る舞いについてはシャルロットの側から教える。二人の師弟関係は一方的なものではなく、そうした対等な友人に近いものだった。
「それでは……次回は明後日ですね」
図書室を出たところでシャルロットは言った。
「ええ、またさっきの席のところでお待ちしています」
ヨハンが言う。二年生の教室の方が図書室に近いため、席を取るのは彼の役目だった。
「はい。ではごきげんよう、ヨハン様」
別れのあいさつを交わし、シャルロットは自室に向かった。途中受け取った参考書の表紙を確認する。
(帝国の歴史と地理……確かに苦手分野ではあるか)
流石に他国の知識についてはなかなか学びきれるものではない。入学が決まってから多少は予習したものの、今のところシャルロットのこの分野の知識は一般常識に毛の生えた程度だ。
この辺ならクラリッサやテレーゼにも教われるかもしれない、と考えながら階段まで来た時、下の階から当のクラリッサとテレーゼが上がってくるのが見えた。もう一人、見知らぬ女生徒と一緒だ。クラリッサ達と同じで制服を着ているのだが、服に着られているという印象のある、少し地味な容姿の少女だった。
「クラリッサ様、テレーゼ、お出かけでしたか?」
シャルロットは声をかけたが、返事が来る前に三人の様子が何やら深刻そうなことに気がついた。
「あ、シャルロット様……いえ、そういうわけではないのですが」
クラリッサが返事をする。そして、知らない女生徒が慌てたように顔を上げた。
「え、しゃ、シャルロット姫様? ご、ご無礼を……!」
改めて見るとやはり面識のない少女だ。シャルロットは安心させるように微笑んだ。
「この学園にいる間は、わたしも貴女も、同じ一生徒です。過剰な礼儀は不要ですよ。気楽になさってください」
そう言っては見たものの、少女は緊張にガチガチで固まったままだ。仕方なくシャルロットはクラリッサ達に顔を向けた。
「この方はミリセント様と仰いまして、私たちと同じ今年の新入生で、特待生枠で入られたんです」
クラリッサが説明する。特待生枠という事は、優秀さが認められたか多額の献金があったか、いずれにしても平民という事になる。大公息女相手にガチガチに緊張するのは無理からぬことだった。
「実は、今ちょっと面倒な事に巻き込まれていて……それで私たちが相談に乗っていたんですよ」
補足するようにテレーゼが言う。
「面倒な事?」
首を傾げるシャルロットに、クラリッサがちょっと考えこんだ後、辺りを見回して言った。
「ここでは人目もありますし、私どもの部屋で事情をご説明します。もしかしたら、シャルロット姫様にも無関係の事とは言い切れませんし」
「……わたしに?」
さらに首を傾げるシャルロット。その時、階下から大勢の人間が上がってくる気配があった。いつまでも階段に立っていては邪魔になる。四人はクラリッサ達の部屋に場所を移す事になった。
クラリッサのメイド、イルマが茶を用意したところで、少し気分が落ち着いたのか、ミリセントが自己紹介から始めた。
「先ほどはご無礼をいたしました。改めてご挨拶させていただきます、姫様。私はミリセント・マイヤーと申します。実家は帝都で商会を営んでおります」
貴族号がないので、平民だという予想は当たっていたようだが、思ったよりもしっかり礼儀にかなった挨拶をするのにシャルロットは感心した。先程は不意打ちのような出会いだったので緊張が先に立ったのだろう。シャルロットは自分も挨拶を返すとクラリッサの方に向き直った。
「それで……何が起きたのでしょうか? 私にも無関係ではないとの事でしたが……」
今日が初対面のミリセントが何かトラブルを抱えているとして、それがシャルロットに波及する事は普通はない。しかし問いながら、シャルロットは心当たりがあるとすればそれだろうな、というものに一つ思い当たる事があった。
「実は……」
クラリッサが切り出す。彼女の話を要約するとこうなる。
ミリセントの実家、マイヤー商会はクラリッサのコルベルク伯爵家とは割と長い付き合いのある商会だ。ミリセントの父親フランツはなかなかの商才の持ち主で、フランディアでマティアスの行っていた馬車往還の整備の話を聞きつけると、すぐにその可能性を見抜いて大きな投資を行った。
結果は大成功で、マイヤー商会はかなりの利益を得る事が出来た。そして、その利益を次に投資する先としてフランツが選んだのが……
「娘……つまり、ミリセントさんというわけですね」
シャルロットが言うと、ミリセントは頷いて説明を引き取った。
「はい……私がこの学園で、クラリッサ様以外にも貴族の皆様と顔を繋ぐことができれば、将来商売の手を広げる事にもなると、父は考えまして……私自身も、勉強して商売に役立つ知識を学べれば、父の手伝いもできると」
本質的に政治に関わる事を多く教える学園では、商売のやり方そのものを教わる事はないが、法律のようにあれば商売の役に立つ知識は学べる。
「ご立派な事と思います」
シャルロットはそう褒めた。ミリセントの向上心はシャルロットの目から見ても好ましい姿勢だと思えたが、どうやら今回彼女が直面している事態も、その姿勢が呼び込んだものらしかった。やはりシャルロットのようにミリセントの振る舞いに好感を覚えたのが……
「ルハウネン子爵のご令息……ですか」
シャルロットはその肩書を口にする。ルハウネン子爵令息、エッカルト・フォン・ザームエル。ミリセントに好意を抱き、求婚してきた男子生徒の名前がそれであった。
「エッカルト様はどのような方なのですか?」
後でロベールにも調べさせようと思いつつ、シャルロットは男子生徒の噂に詳しいテレーゼに尋ねた。
「実を言うと、私もそれほど親しく付き合いのある人じゃないので何とも。悪い噂は聞きませんが、良い噂といえばなかなか美形らしい、という事くらい。要するに……まぁ普通の人です」
テレーゼはそう答えたが、さらに言葉を続けた。
「……と思っていたんですが、ちょっと評価を修正した方が良さそうですね」
親友の言葉にクラリッサも頷いた。
「婚約者がいらっしゃるのに、そういう事をするのはちょっと……」
そう、本来なら玉の輿でもあり十分喜ぶべき事態であるはずの貴族からの求婚にミリセントが困惑しているのは、エッカルトに既に婚約者がいるからだった。しかもその婚約者というのも問題であった。
「ディートリッヒ派の方ですか……」
シャルロットが確認するように言う。
「はい。マルグリット様と仰るのですが、シュウェリン伯ギュンター家の御令嬢です」
クラリッサが答え、テレーゼが補足する。
「まぁ……あまり親しくしたくはない類の子ですね。顔は可愛いですが」
確かに、ディートリッヒ派で血統主義の貴族の子女となると、性格がきつい――というよりは、自派閥以外への当たりが強そうな少女だろうというのは容易に想像がつく。
「マルグリット様はもうこの事をご存知なのでしょうか」
シャルロットの言葉に、ミリセントは首を横に振った。
「いえ……今のところは多分まだ。ですが……」
そこまで言ったところで、ミリセントは恐怖の表情を浮かべて口ごもる。学内最大派閥に属する貴族の子女との対立など、平民の彼女にとっては恐るべき災難としか言いようがない。
「……さて、どうしたものでしょう」
シャルロットはそう独り言ちた。彼女としては、ミリセント、エッカルト、マルグリットの関係はかつての自分たち――アリア、シャルル、マリーの関係を見ているような気分にさせられる。何とかして円満に解決してやりたい。少し違うのは、珍しい事だが男子の方が女子より爵位が低い家柄だという事だ。となれば、エッカルトがミリセントを守るのにも限界があるだろう。
「確かにこの一件、わたしが動かねばミリセントさんが一方的にひどい目に遭って終わりになりそうですね……恨みますよ、クラリッサ様、テレーゼ」
シャルロットはそう言って二人の友を睨んだが、口元には笑みを浮かべていた。どのみち成績のこと以外でもいずれはディートリッヒ派、つまりヴィルヘルミーネとは対立する事を覚悟していたのだ。今更恐れるような話ではない。
「申し訳ありません、姫様……私のために」
シャルロットの恨み節が冗談である事が分からないミリセントだけが、泣きそうなくらい申し訳なさげになったが、シャルロットはにこりと笑ってミリセントの手を握った。
「気にする事はありません。貴女のような人の味方になると、わたしは誓いを立てている身ですから。どうすればいいか一緒に考えていきましょう」
こうして、シャルロットは学園における初の本格的な政争に足を踏み入れる事になったのだった。
シャルロットは何故かショタにモテます。
という冗談はさておき、次話からは初めての本格的政争です。




