第1話 ある王子の死
「この愚か者が!」
戦場で数千の兵を叱咤する父ルイの、その雷鳴のような声量の怒声をまともに叩きつけられ、立ちすくんだシャルルの左頬を、今度は拳が殴りつけた。シャルルも決して貧弱な青年ではなかった――むしろ、一人の武人としてはかなり鍛えられた方だったが、それ以上の豪勇の主でもあるルイの鉄拳には耐えられず、吹き飛ばされるようにして床に這わされる。
「ち、父上……何を……」
衝撃と狼狽で半ば朦朧となりながらも顔を向けるシャルルを、つかつかと歩み寄ったルイは胸ぐらを掴みあげるようにして引き起こした。
「何を、だと? まだわからぬか! お前の浅慮がどれほどこの国を危うくしたと思っておる!」
心当たりはあるが、言い分もまたシャルルにはある。彼は反論を試みた。
「浅慮など……! 父上も悲願であったはずでしょう! 大貴族どもの専横を……」
その反論は、今度は右頬への豪拳によって強引に阻止された。立て続けの打撃に意識を刈り取られたシャルルの身体は力なく床に崩れ落ち、それを怒りと嘆きの籠った視線で見下ろしたルイは、控えていた二人の屈強な騎士に命じた。
「こやつは西の塔に幽閉しておけ。沙汰は追って下す」
「はっ」
騎士たちは受令すると、シャルルの肩を両脇から抱え、玉座の間を出て行った。溜息をつくと、ルイは秘書官に命じて、各地で不穏な動きを見せつつある貴族たちへの命令書を起草させた。息子である王太子が引き起こした、一連の騒動を鎮めるために。
シャルルが目を覚ましたのは、普段使っているそれよりも硬く、質素なベッドの上だった。
「こ……」
ここはどこだ、と言おうとして、両頬の痛みに思わず顔をしかめる。だが、その痛みはぼやけていた意識をはっきりさせてもくれた。
(ここは……西の塔か)
シャルルは現状を把握した。西の塔はその名の通り、城の西側にあって、王族や上級貴族など、身分のある罪人を幽閉するための施設だった。見上げると円錐状の屋根に付けられた明り取りの天窓が見える。つまりここは塔の最上階だろう。分厚い石壁には窓は無く、剃刀の刃も通らぬほど緊密に組まれており、何の足がかりもない。脱走は不可能だった。
(なぜ、こんな事になってしまったんだ……私はただこの国を……フランディアを良くしたいと思っただけなのに)
ベッドに腰掛け、シャルルは肩を落とし、自分がこの境遇に至るまでの出来事を思い返した。
様々な国と文化、民族と種族、神秘と混沌が息づく世界――オルラント。フランディア王国は世界と同名でオルラントと呼ばれる大陸の一角にある、平凡な王政国家の一つだ。現在はブリガンド家が王家としてこの地を統治している。
フランディアのある地方で覇権を掌握しているのは、隣国でもあるプロヴィンシェン帝国。フランディアは独立国家ではあるものの、代々の王はプロヴィンシェンの皇帝に忠誠を誓い、それと引き換えに玉座と独立を保障されることでその地位を保ってきた。現在の国王、ルイ7世は戦上手で知られ、プロヴィンシェンの求めに応じて軍を率いて出陣し、幾多の戦いで抜群の武功を上げる事により、帝国を頂点とする国際秩序の中でフランディアの地位を向上させてきた。
シャルルはそのルイ7世のただ一人の男児であり、生まれながらにして次代のフランディア王たる地位を約束されていた。少なくとも――今日、先ほどまでは。
それを示すように、三年近く前から、ルイはプロヴィンシェンと北のもう一つの大国、ルスラント帝国との戦いの前線に赴いており、シャルルは王の代理たる摂政として、この国の内政を預かってきた。ルイももう四十近く、数年のうちには隠居を表明して、シャルルが次期王となる事は既定路線となっていた。
しかし、この西の塔の住人とされた今、シャルルにもはやそのような明るい将来はありえないだろう。
(何故だ。父上は……あれほど、大貴族の専横を嫌っていたじゃないか。ラガティアの娘を袖にして何が悪い……)
シャルルは思う。王太子として、摂政として、父が外征中の国政を預かっていた彼にしても、国内の貴族たちが王権を軽んじる事は甚だしく見えていた。
帝国の外征に積極的に参陣する事でその地位を確保しているルイだが、それは国政を見る時間の短さも意味している。王の不在は貴族たちにとっては、自らの勢力を伸張させる絶好の機会だった。フランディアと言う国ではなく、自領、自家の繁栄だけを目的として時には暗闘、時には物理的な小競り合いを繰り返す彼らは、シャルルが事態を収めるために介入しても半ば公然とそれを無視していた。確かにシャルルの目が届くうちは大人しくしているが、そうでなくなればたちまち蠢動を始める。
そして、その最たるものが王家に次ぐ勢力を誇るラガティア侯爵家だった。ルイはこのラガティア侯爵家を味方に取り込むため、シャルルと侯爵家の長女であるマリーを婚約関係としていた。だが、それは次期王の外戚としてラガティア侯爵家がより大きな権威を手にする事も意味している。
王家の権威を背景にしたラガティア家の専横は甚だしく、宰相に就任したラガティア侯、つまりマリーの父であり将来シャルルの義父となるフィリップは、様々な国政上の決定や裁定を自家有利に誘導する事がしばしばあった。その中にはシャルルから見て王家の損になるものがしばしば含まれており、シャルルは決定を覆そうとしたが、フィリップの老練な政治力に叶うものではなく、憤懣と共に引き下がるしかなかった。
(だから、私はあの娘を……)
シャルルが思い出すのは、そんな貴族たちの専横を押さえようとする事に疲れ、息抜きのために視察と称して行っていた王都での微行の途中に出会った、一人の少女の事だった。
(アリアは……無事だろうか)
少女の名前を思い浮かべると、この落魄の身の中でも、心中に甘美な思いが湧き上がると共に、今どういう扱いを受けているのだろうか、という案ずる思いも浮かんでくる。アリアはシャルルが自ら選んで傍仕えとした侍女であり……
心から愛する人であり、将来を誓い合った運命の女性だった。
シャルルとアリアの出会いは二年前に遡る。微行ではなく正式な城下の視察の日に、ふとしたきっかけで下町で出会ったのが彼女だった。
それなら一度きりで終わった話かもしれないが、その後、シャルルが微行に出るたびに、まるで運命に導かれるようにしてアリアとの出会いがあった。やがて、アリアとの逢瀬こそが微行の目的となっていった。
アリアは美しい少女だった。それだけでなく、心優しく、他人の心を思いやり、一番欲しいと思える励ましの言葉を紡ぎ出す事が上手かった。政敵である大貴族たちとの争いに疲れたシャルルの心を癒し、時にはその一言が事態を打開するきっかけになった。
シャルルが自分の理想の女性であるアリアの事を愛するようになったのは、ごく自然な成り行きだった。もはや微行で時々会うだけの関係には満足できなくなったシャルルは、躊躇するアリアを熱心に説得し、侍女として城に上げた。そして、自分の部屋を担当する役として任命した。
このあたりまでは、権力者の私的な権力の行使としてはありがちな話である。シャルル自身はそういう権力を私する行為に良心の咎めを覚える程度には為政者としての矜持があったし、周囲もそういう堅物だとみなしていたが、アリアの件――つまり、実質的に愛妾と見做しうる女性を城に上げるについて事は、まぁしょうがないな、程度に思われていた。
なぜなら、シャルルと婚約者であるマリー・ド・ラガティア侯爵令嬢の不仲は有名な話だったからである。
(マリーともうします、でんか。ふつつかものではございますが、よろしくおねがいします)
まだ幼かった頃、初めてマリーと出会った時の事を、シャルルはおぼろげにではあるが覚えていた。それは決して愉快な記憶ではない。
彼を産んだ直後に、産褥熱で亡くなった母の記憶はないが、彼女を描いた肖像画は、今も城の玄関ホールに飾られている。穏やかに微笑む母の美貌を見ながら、シャルルは自分も母のような美しい姫君と結ばれる事に憧れていた。
しかし、マリーは決して美貌の持ち主ではないどころか、むしろ醜いと言い切ってしまっても良い少女だった。やや小太りで、固い質の髪は手入れをしているであろう傍仕えの努力を嘲笑うようにはねていた。その下にある顔も、小さすぎる目と団子鼻に、厚すぎる唇と、まるで子豚のようで、美しいと言える要素に欠けていた。
しかし、彼女は王室所縁の者を除けばフランディアで一番尊い血統を引く大貴族の娘であり、その一点で王家との縁を結ぶに足りる存在だった。絵に描いたような政略結婚というわけだ。
王族、貴族の結婚ともなれば、恋愛結婚などまず有りえず、まずは血統、そして家の力が重視されるのは当たり前であり、その点でシャルルとマリーの婚約関係は珍しくもなんともない、典型的なものと言えた。当事者同士の意志が無視されている、と言う点でも。
「ぼくはおまえなんてすきじゃない」
「私と君の婚約はあくまでも家同士の約束に過ぎない」
「私が君を愛する事などあり得ない」
初めて出会った五歳の時から、シャルルは繰り返しマリーにそう言い続けていた。マリーは幼い頃はそれを聞いて泣いたり、顔を曇らせたりしていたが、やがて受け入れたのか「殿下の御心のままに」と返すだけになっていった。
それでも、マリーは将来王妃となる者の義務感なのか、他の人間には言い難いシャルルへの諫言を、率先して言う役目を自分に課していた。アリアの件もそうだった。
「殿下、そのように権力を私してはいけません」
「あのような平民の娘をお傍に近づける事は、殿下御自身の権威を傷つける事にもなります」
そうした諫言を、しかしシャルルは聞き入れようとはしなかった。彼の寵愛が自分ではなくアリアに向けられている事への嫉妬。そのように解釈したからだ。マリーが自分に直言するたびに、シャルルは逆にアリアへの傾倒を深めていった。
そのアリアは、侍女であり平民であるという立場をわきまえ、決して出しゃばろうとはしていなかった。その事も、シャルルの彼女への信頼と愛情を深める元となった。それでいて、二人きりの時には、アリアは以前と同様に、役に立つ助言や慰めの言葉を彼に与えてくれた。
また、彼女の語る平民たちの暮らしぶりも、シャルルの胸を打った。貴族たちの横暴に耐え、懸命に日々の暮らしを続けている平民たち。彼らが望んでいるのは、自分たちを見てくれる優しい王なのだ。
(そう……英雄と言われる父でさえ、彼らの望む王ではない)
シャルルは遠征が多く、国を開けがちなルイの事を、尊敬しつつも決して理想の王や父ではないと思っていた。アリアに聞く庶民たちの想い……徴兵されて帝国のための戦に駆り出され、遠い異郷の地で傷つき、亡くなっていった父や子供たちへの嘆きを聞くに、シャルルの胸は痛んだ。
(確かに父上は帝国の覚えがめでたい。だが、父のしている事は王とは言い難い。あれでは帝国の将軍じゃないか)
王であるなら、むしろ常に国にあって、人々の暮らしに目を向け、貴族たちの専横を押さえるべきではないのか。もし、父がそれをできないというなら、自分がそれをすべきではないのか?
アリアを城に上げ、常に傍に置き、その言葉を聞いているうちに、シャルルはそう思うようになっていった。
国を顧みない王。王権を軽んじ、自分たちの勢力を拡大するだけで、それを国家に還元しようとしない貴族たちと、こうして彼を健気に支える平民出の彼女と、どれが本当にこの国に必要か? 答えは聞くまでもない。
(だから……私は、彼らと共に決起すると……そう誓ったのだ)
シャルルには同年代の貴族の子弟で、将来国を共に支えていくであろう有為の人材からなる側近サークルがあった。
ラガティア家に比肩するもう一つの大貴族、アスティア侯爵家の嫡男フランソワ。政治家としてはもちろん、芸術家としても優れた才能を持っている。最近ではまるで本人を写し取ったようなアリアの肖像画を描きあげ、彼女を喜ばせていた。
伯爵であり軍の重鎮でもあるカドモア将軍の長男オスカル。剣をはじめとする武術の腕において、シャルルと同年代で最も優れたものを持ち、勇猛果敢な気質の青年だ。騎士としても将来を嘱望されている。
一代貴族の男爵の息子ながら優れた頭脳を持つ官僚のマティアス。既に王国の行政機構、その改革案を幾つもシャルルに献じている。
そして、王立図書館司書という目立たぬ職責にあるが、政治の助言役として並々ならぬ知識を持つオレニア子爵クローヴィスの四人だ。
このうちクローヴィスはアリアの推薦でサークルに加わった人物であり、他の三人もシャルルと天下国家を論じる中で、同席するようになったアリアの見識を高く評価していた。
「この国のより良い未来のためには、父上のように戦争偏重ではだめだ。貴族たちの多くは国政を委ねるに値しない者ばかり。我らの手でこの国を改革しなくてはならない」
シャルルの熱弁に、四人は大いに頷く。
「特に、腐敗したラガティア家は除かねばなりませんな」
フランソワが言う。
「忠誠を持たぬ者たちを除くためにも、王家の直属軍は掌握しなくては」
オスカルが言う。
「わが父は成り上がり者と言われますが、このような平民出を蔑む風潮は廃しましょう」
マティアスが言う。
「図書館に智を閉じ込めていても役には立ちません。これを広く開放すべきです」
クローヴィスが言う。
「そうだ。腐敗した貴族たちの既存権益を取り上げ、有為の者たちに再配分するのだ。これからのこの国は、平民たちの力も大いに拾い上げなくてはならない」
シャルルは言い、愛する人の顔を見た。
「この国の未来のためにも、わが伴侶となる人は変化の象徴であらねばならん」
決意を込めた口調で、シャルルは言葉をつづけた。
「マリーとの婚約を破棄し、君を正式に私の妃に迎えたい。君を側室や愛妾と言った日陰の存在にはしない。私には君が必要だ」
「シャルル様、それはあまりに思い切り過ぎなのでは……?」
さすがに驚いたのか、アリアはそう答えた。これまで彼女の助言を大事にしてきたシャルルなら、あるいはここで考え直すべきだったのかもしれない。だが、決断してしまった――もはや引き返せない道に踏み込んでしまった彼は考え直しはしなかった。四人の側近たちがその決意を祝福してくれたことも、拍車をかけた。
(……愚かだった。貴族たちを甘く見過ぎていた。父上の事も……)
シャルルの後悔はそこにある。それを――婚約破棄を行う事は、ラガティア家、ひいては多くの貴族たちを敵に回す事。しかしシャルルは強気だった。というより、舞い上がっていて周りが見えていなかっただけなのかもしれない。マリーを出仕させ、シャルルは言った。
「マリー・ド・ラガティア。私は君との婚約を破棄する」
本来王である父にしかできないはずの宣言を彼は発した。既にある程度察していたのか、マリーは微かに顔を曇らせ、それでも気丈に答えた。
「殿下、そのような事を殿下の独断で決めてよろしいのですか? 今ならわたしの胸の中に今の言葉は仕舞っておけますが」
子豚を連想させた幼い頃と比べ、今も美女とは言えないながらも気品のある容姿に成長したマリーの、自分に臆さない振る舞いがシャルルを苛立たせた。
「構わぬ。この決定に変更はない」
断ち切るように言うシャルルに対し、マリーは顔を伏せ、絞り出すような声で言った。
「せめて……理由をお聞かせくださいますか」
シャルルはその質問を鼻で笑った。
「私と君の婚約という関係を良い事に、君の実家が国政に口を挟み王家を蔑ろにする事は実に甚だしい。このような国にとって有害な関係は断ち切るべきだ」
マリーは顔を伏せたままその言葉を受け止めた後、一息ついて質問を返した。
「私個人に対する感情は理由ではないのですね?」
その奇妙な質問はややシャルルの虚をつくものだったが、しばらく考え、シャルルは答えた。
「いや……私が憤りを感じているのは、君の実家の問題だ。君自身に含むところが無いわけではないが、それは理由ではない」
マリーはすぐには答えなかった。じっと顔を伏せたまま、十数回呼吸するほどの時間をおいて、彼女は顔を上げた。
「承知しました。殿下のご意向は父に伝えます。返答は正式に使者を立てさせていただきます」
しかし、マリーが言うようにラガティア家の使者は来なかった。翌日、ラガティア侯フィリップは城へ出仕せず、家族と家臣を連れて王都の屋敷から領地へ引き上げていった。同時に王都に上がっていた貴族の多くが領地への引き上げを開始した。それはシャルルが止める間もない素早さだった。
「連中……先手を打って叛乱でも起こす気か……」
シャルルは引き上げた貴族たちへ王都への召喚命令を出す一方、国内の王家直属軍に出陣待機を命じた。しかし、王都から各貴族領へ向かわせた使者たちが帰命するより早く、婚約破棄の一週間後に、二ヶ月はかかる遠方の戦場にいたはずのルイが電光石火で帰国し――そして、シャルルは全てを失ったのである。
今思えば、自分と側近たちの動きは、ルイや各貴族が抱える密偵たちによって筒抜けになっていたのだろう。マリーとの婚約破棄――ラガティア家への明確な敵対が引き金になったとはいえ、そうでもなければこれほど早く事態が進むとは考えられなかった。相手はシャルルの動きを見て、決定的な事態に備えて水面下で動いていたに違いない。
(結局、我々のやっていた事は子供の遊びだったのだ……それでも……)
父の武勇により、帝国の後ろ盾を取り付ける。ただそれだけで国を持たせるようなやり方は改めなくてはならない。やり方はまずかったかもしれないが、自分のしている事は、しようとしたことは間違っていない。シャルルのその信念に揺らぎはなかった。
ただ案じる事があるとすれば、それはアリアと側近たちの事だ。
(無事だと良いが……)
自分がこうして幽閉されている今、アリアと側近たちもそうなっている可能性は高い。自分がどのような罰を受けるかはまだわからないが、できる事があるとすれば、自分が一身に罪をかぶって、彼らの減刑を嘆願するくらいだろう。それすら父に通じるかはわからないのだが。
その時、扉をノックする音が聞こえた。シャルルが立ち上がり、扉の方へ向かうと、顔の高さにある細い隙間が開けられた。そこから声が聞こえる。
「お目覚めのようですね……食事をお持ちしました。その場でお待ちください」
シャルルが立ち止ると、扉の横にある小さな棚の中からごとりと何かを置くような音がした。
「中に食事を入れております。食べ終わりましたら、同じ場所へお戻しください」
シャルルは言われるままに棚を引き出した。そこには金属の皿に盛られたパンとシチュー、同じく金属のカップに入れられたワインが入っていた。食器はスプーンのみ。陶器やガラスの食器、ナイフやフォークなどは自決の道具に使われる可能性がある。それを防止するための措置だった。
ベッドのシーツなどもロープに加工して脱走や自決の道具として使われる可能性があるが、この部屋にはロープを掛けられる場所は全くないため、縊死を試みる事すら不可能だった。
(ここまでしなくとも、自決するつもりはないのだが……)
と思いつつ、シャルルは扉の向こうの見張りに礼を言うと、食事にとりかかった。ふと思いついて、スプーンの柄で壁の石材をこすり、跡を付ける。日数を知るためだった。
しかし、結局シャルルがスプーンで壁をこすったのは五回だけだった。三日目の朝食を取り終えた後、扉が突然開いて二人の騎士が入ってきたのである。
「殿下、国王陛下がお呼びです」
「……わかった」
シャルルは二人を観測し、一瞬胸中によぎった「脱走」の可能性を打ち消した。優れた武人でもある父、ルイの血を引くだけあって、シャルル自身も剣の腕に覚えはある。並みの騎士なら一対一で打ち倒すだけの自信はあるが、この二人は父の護衛役であり、一対一でも手こずるだろう相手だ。まして、向こうは完全武装なのにこちらは丸腰である。
(そうだ。逃げても意味はない。堂々としていよう)
そう決意し、シャルルは前後を騎士に挟まれて城の廊下を進んでいった。他に誰とすれ違う事もなく、シャルルは父の居室まで連れて行かれた。
「陛下、殿下をお連れしました」
「うむ。お前たちは下がってよい。シャルル、入るが良い」
騎士の報告に答えてルイが言う。騎士たちはでは、とシャルルに一礼し、去っていった。シャルルは意を決するとドアに手を掛けた。
「父上、入ります」
シャルルはドアを開け……そして、そこにあったものに言葉を失った。部屋の中央に立つ父と、その横に置かれた小さなテーブルの上には、酒の入った小さな杯が置かれていた。
賜杯――毒酒による自決、と言う体裁をとる死刑の用意だった。
「どうした? 入ってくるがいい」
事もなげに言う父に、シャルルは内心の動揺を隠しつつ入室すると、父の前に跪いた。
「おはようございます、父上。お呼びにより参上しました」
シャルルの挨拶に答える事もなく、ルイは事務的な口調で言った。
「うむ……お前の処遇を伝える。まぁ見ての通りだ。シャルル・ド・ブリガンド。そなたを廃嫡し、杯を授ける」
何かの間違い、あるいは脅しであってほしいという希望は打ち砕かれた。
「ち、父上……それは……」
「黙れ。反問は許さん」
シャルルの上げかけた声を、ルイはぴしゃりと遮った。そして、ため息をついてから言葉を続けた。
「……貴族たちの力を抑えたいなど、どこの国の王もそう思っているものだ。その意味ではお前の志は間違いではない。だが、やり方が最悪だ」
ルイは窓の傍へ歩み寄ると、そこから見える王都の街並みを見渡した。ここから見える光景は王都の中でも一番貧しい人々が住む一角だ。
「お前が平民の力を背景に貴族と対決するつもりだった事は、お前の側近たちから事情聴取で聞きだした」
ルイは王都を見ながら言った。
「確かに、平民の中にも優れた人材はいる。下手な貴族より富んでいるものや、知識のある者もいよう……だがな、ほとんどはあのような、その日暮らしの、先の事を考える余裕などない者たちだ」
ルイはシャルルの方に向き直った。
「そのような者は力にはならぬよ。それが力になるというのはお前の願望に過ぎぬ。あの者たちは、今が平穏無事ならそれでよいのだ。乱を起こそうとするお前にはむしろそっぽを向くであろうよ」
シャルルは絶句した。ルイがこの部屋を自らの居室に選んだのは、貧民たちの事を忘れず、国を発展させるための戒めとして、彼らの暮らしを見るためだったと、ルイ自ら言っていた事だったからだ。そのルイが、民衆を軽んじるような事を言うとは……
「軽んじない事と、重んじる事は違う。お前にはその区別がつかなかったのだな」
ルイの言葉に、シャルルはようやく反論の声を上げた。
「そんな事は……彼らは我らが思っているより、ずっと賢い者たちです」
その息子の言葉を聞いて、ルイは鋭い目を息子に向けた。
「それも、アリアとか言う娘の入れ知恵か?」
その名前を聞いて、シャルルは大事な想い人の名を思い出した。そうだ、彼女の無事を確認せねば。
「いえ……入れ知恵などと。それより、アリアはどうしているのですか? 手荒な真似などはなされておりませんでしょうね」
シャルルは気迫を込めて言った。大事な女性を傷つけたりしていれば、父でも容赦はしない。そのつもりだったが、ルイはそれを聞いて、それまでの怒りとは一転して、憐れむような表情で息子を見た。
「そんな事はしておらぬ。できるはずもない。あの娘ならば疾うに城から逃げたわ」
「……え?」
シャルルは間抜けな声を上げた。
「お前が微行に使っていた、秘密の抜け穴を使ってな。愚かな事をしてくれた。いくら愛人とは言え、あの存在を教えるとはな。あれはもう埋め戻して新たに抜け道を作らねばならぬ」
ルイは言った。他の多くの城の例にもれず、この王城にも落城時などの備えとして、王族だけに位置が伝えられる抜け道がある。当然シャルルもそれを使っているが……
「馬鹿な……アリアにそれを教えた事などありません。なぜ彼女が知って……」
呆然と呟くシャルル。確かに彼は抜け道を使ってはいたが、流石にまだアリアにはその存在を教えていなかった。
それよりも、アリアが逃げたという事が衝撃だった。自分は見捨てられたのだ、という想いが、彼の気力を根こそぎ奪いつくしていったようだった。
「……例えお前が教えていなかったとしても、もうそれはどうでもいい事だ。この一事をもってしても、お前は私の信頼を失った」
ルイは言った。
「そして……貴族たちからも。対立する事があっても、彼らの協力なくして国は動かせぬ。その負の面だけに目を奪われ、いたずらに彼らを敵に回したお前には、王太子の資格はない」
そう言って、ルイは手を二回叩いた。それに応じるように扉が開き、シャルルの知らない男性が入ってきた。帝国様式の礼服を纏った、威厳ある男性だ。彼は恭しくルイに礼をとった。
「お話はお済みですか、陛下」
「ええ。お手数をかけ申し訳ない」
ルイもまた丁重に答える。ようやく茫然自失から覚めたシャルルは尋ねた。
「父上、この方は……?」
問いかけながらも、シャルルはその正体を悟ってはいた。父が丁寧に応対するほどの人物と言う事は……
「こちらは帝国より派遣されて来られた、コルベルク伯爵だ。今回の件について、見届け人として来ていただいた」
「帝国において、副外務卿の席を預かっております、コルベルク伯アウグスト・フォン・クラーゼンと申します、シャルル殿下。このような形でお目にかかりますこと、誠に残念至極ではございますが、事の次第をつぶさに見留け、皇帝陛下に報告させていただきます」
コルベルク伯がシャルルに一礼する。やはり、宗主国である帝国の高官だった。帝国の征旅、その最前線にあって一翼を担っていたルイが急遽帰国しなければならないほどの、国元の一大事である。帝国が関心を持っている事は間違いなく、ルイがそれをどう決着させるかも、今後帝国がフランディアとの関係をどうしていくかの材料となる。
内乱を引き起こしかけるような愚か者が次代の王では、帝国はフランディアを重要な従属国とはみなしてくれず、下手をすれば制圧して直轄領にしてしまう事もあり得る。ルイは息子を絶対に切り捨てなければならない立場にあったのだ。彼は杯を手に取った。
「あらためて申し渡す。シャルル・ド・ブリガンド。そなたを廃嫡し、杯を授ける」
シャルルは頷いた。もはや逃げ道はない。逃げたところで、共に歩むはずだった愛した人は、自分を捨てた。もう自分には何もない。未来も、希望も――シャルルは頭を下げ、跪いて拝命の言葉を述べた。
「謹んで杯を賜ります。一つだけ――願いがあります。死にゆくものの願い、聞き届けていただけましょうか?」
「最期の頼みとあれば、聞くのもやぶさかではない。申すがよい」
ルイが頷くと、シャルルは最後の気がかりについて聞いた。
「フランソワ、オスカル、マティアス、クローヴィスの四人はどうなりましょうか。罪あらば、我が命に免じて彼らの罪を減じていただければ、思い残すことはございませぬ」
ルイは首を縦に振った。
「王家として彼らの罪は問わぬが、それぞれの家で彼らをどう遇するかは、当主の差配次第。が、軽い処分で済むよう伝える事はできる」
「わかりました。陛下の恩情に感謝いたします」
シャルルはもう一度頭を下げると、ルイの手から杯を受け取った。半分ほど注がれた酒の表面には、恐怖で歪んだ自分の顔が映っていた。
(……これが私か。無様だな)
自嘲の笑みを浮かべる。自嘲であっても、最後くらいは笑って死のう。王太子としての最後の矜持で笑みを呼び起こし、シャルルは酒を一気に飲み干した。酒が通り抜けた喉と胃が灼けるように熱くなり――激痛に変わった。
(!?)
顔を歪め、シャルルは胸を抑え――次の瞬間、その口からぶーっと言う異音を立てて鮮血を迸らせた。彼が好んで着ている青い騎士服が血の赤に染まる。吐き出した血と共に身体の熱が抜け、引き換えに激痛と脱力感が全身へと広がっていく。もはや声を出す事もできず、彼は床に倒れ伏した。手から投げ出された杯が砕けるが、その音ももうシャルルには聞こえなかった。
(――苦痛なく死ねる毒では……なかったのか……?)
全身を苛む激痛に痙攣し、その度に口から血を吐きつつ、シャルルは思った。こうした賜杯で、こんな即効性のある猛烈な毒を使うなど、聞いたこともない。
シャルルは必死に顔を動かし、父の顔を見ようとした。しかし、急速に暗くなっていく視界の中、最後に見たのは、その場から一歩も動かない父の足と、慌てたように駆け寄ってくるコルベルク伯の足だけだった。