濡れたハンカチ
雨が降っていた。
薄い霧の中にいるかのように視界が曇っている。
ただ雨音だけが響く細い道を、僕は傘もささずに歩いていた。
流石に、この土砂降りの中わざわざ手ぶらで家から出てきた訳ではない。ただ道を歩いていたら雨が降ってきたのだ。
そして僕は傘を持っていなかった。
ただ、それだけ。
そう。ただ道を歩いていただけだ。
その前にあったことなんて全部、忘れてしまった。
……忘れてしまいたかった。
数分前のことを思い出してしまいそうになり、思わず大きなため息が漏れた。
ちょうど頭を冷やしたいと思っていたところだし、激しい雨を見ても特に焦ったりはしなかった。
雨に打たれるのは案外気持ちが良かった。
普段は、濡れたくないと思うから雨が嫌いだったんだろうな、と思った。
濡れてもいいと、濡れたいと思っていたら雨はこんなにも優しく心を癒してくれるのか。
そんなことを考えながら歩いていると、街灯の微かな光に照らされた小さな公園が目に入った。
大粒の雨が打ち付ける公園には人っ子ひとりいやしない。
僕は吸い寄せられるようにその公園に入って、小さなベンチに腰を下ろした。濡れたベンチは冷たく、じわじわと黒いジーンズに雨が染み込んで行くのがわかった。
なんだかもう、全てがどうでも良い気がした。
慌てて腰を浮かせることもせずに、ただ雨の音だけに耳を澄ませて、目を閉じた。
どれくらいそうしていたのか、ふと砂利を踏む足音が聞こえてきた。
始めは遠かった足音がだんだんと近くなり、やがて目の前でピタリと止まる。
閉じていた瞳をゆっくりと開けると、びしょびしょに濡れた小さな赤い靴が見えた。
「あの、大丈夫ですか?」
雨音にかき消されてしまいそうなほど小さな声。
顔を上げると、心配そうに眉をひそめた見知らぬ女性がこちらにハンカチを差し出していた。
年齢は二十代前半といったところだろうか。
控えめな目元と小さな口が印象的だった。
彼女の顔から目を離し、差し出されたハンカチに視線を移す。薄いピンク色のかわいらしいハンカチの上に、彼女の傘から雨粒が一滴落ちた。
どうして誰にも会いたくないと思っている時に限ってこんなことが起こるのだろう。ふとそんなことを思った。
僕は口を開かないまま再び顔を伏せた。それは弱り切った僕が力を振り絞って伝えた拒絶でもあった。
そんなことを分かる筈もない彼女はきっと、せっかく心配してやったのに、なんて腹を立ててこの場を去って行くだろう。
彼女には申し訳ないが、今はそうしてくれた方がありがたかった。
ひとりきりで、もう少しこのまま、この場所にいたい。
これからどうしようかとか、濡れた服の後始末とか、帰ったら真っ先に風呂に入らなきゃとか、考えなくちゃならないことを全部忘れて、僕は再び目を閉じた。
そのうち、今度は遠ざかって行く足音が聞こえてくるだろうと思っていた、その時。
ポン、と頭に手を置かれる感覚があった。
僕は思わず勢いよく顔を上げる。
「きゃっ」と小さな声を上げた彼女は目を丸くして僕から一歩身を引いた。
ふと目を落とすと、膝の上に先程差し出されたハンカチが乗っていた。どうやらこれで頭を拭こうとしていたらしい。
「すみません、勝手に」
彼女は軽く頭を下げてそう言ったあと、僕の瞳をまっすぐに覗き込んで言った。
「でも、風邪引いちゃいますよ?」
膝に手をついて前屈みになった彼女は、優しく、どこか切なく微笑んだ。
……優しいのだろう。彼女は、とても。
僕のような人間でも、見ず知らずの他人でも、放っておけないのだろう。
やがて、僕を打ち付ける雨が止む。
代わりに冷たい雨が激しく彼女を打ち付けても、彼女は笑顔を崩さなかった。
膝の上に乗ったハンカチは結局濡れてしまっていた。
僕が、冷たく濡れたハンカチにそっと触れると、彼女は小さく頷いて微笑んだ。
その顔が目に焼き付くようで、心に温かく光を灯した。
あぁなんて、神様は意地悪なんだろう。
僕はまた、心優しい人に出会ってしまったよ。