やりたいこと
五月の寒さを忘れるほど僕の身体は滾っていた。これで終わらせたくない。
「南高、ファイトォォォ!」
冷たいフェンス越しに浴びる熱い仲間の声援がさらに僕の気持ちを昂らせる。
「15-30」
審判台から僕たちがテニスラケットを強く構えたことを確認した審判がコールをする。
それにより、一面に沈黙が波打ち、コート周辺が無に包まれる。
一切の音が消え、時が止まったかとさえ錯覚する。
しかし時は動いている。
相手が遠心力を生かして左腕でテニスボールを高く上げる。
そして頂点に達した時、振りかぶった。
「っ!」
僕のコートを鋭い打球が抉る。
「ナイスファイトォォォ!」
「一本集中!」
コートに声援が轟く。
「15-40」
そして審判がコールをしたことで静寂に包まれる。
僕は相手をじっと窺い、見逃すな。感じろ、と脳に命令をした。
この時の僕の感情は解放されていた。
これで終わりたくない。負けたくない。勝ちたい。
僕はそう願った――。
♧
「よっ!」
後ろから懐かしい声がして振り向く。
視線の先には桜舞う坂道を笑顔で登るかつての部活仲間の姿があった。
身長が高い分、腕も長くスタイルが良かった。そのため、スーツがよく似合う。
「なんだ、慎也か」
「なんだよ、その反応」
僕の反応が不満なのかわざとらしいがっかりとした声を漏らす。そして僕の横に並び、大学の敷地内に同時に入った。
「今日から大学生かぁ」
大きな敷地にいくつものの棟が立ち並び、広大な大学のキャンパスが大学生になったことを突きつける。
「そうだなー、ところで体育館はどこだろう」
キャンパス内を慎也は見渡した。
「自分たちと同じスーツの人たちについて行けばどうにかなるでしょ」
そう言いながら早速見つけたスーツ姿の学生らしき若い人たちのグループについて行った。
♧
「おわったー」
ネクタイを緩め、腕を思いっきり伸ばす。
「よし、帰ろうぜ」
入学式と説明会が終わり、鞄に適当に書類をぶち込んで慎也は立ち上がる。
「そうだな」
周りの学生の様子を窺い、僕たちも岐路についた。
「演劇サークル興味ありませんか」
「和太鼓やりませんか」
スーツの学生を狙い、各サークルが一斉に話しかける。
「話だけでもどうですか」
その勢いに圧倒されつつ進んだ。
そんな僕たちにあるサークルが話しかけた。
「テニスサークルどうですか」
今風のチャラい私服に身を包み、ワックスで髪を整えた青年がチラシを突き出す。
「あ、俺は運動できないので」
慎也はその言葉通りテニスどころかスポーツ全般ができないのだ。
イケメンの新入部員でも入部させたかったのだろうが、残念だな、と心で笑う。
「運動が苦手でも大丈夫ですよ」
テニスサークルの人はそれでもぐいぐいと迫る。
「ごめんなさい、ちょっとこの後に用事があるので」
僕はそう言い残してその場から逃げる。慎也は急いで僕について来た。
しかしその手にはビラがあった無理やり最後に渡されたのだろう。
「テニスサークル入らないの?」
慎也が駅までの道のりでたずねる。その道沿いにはスーツを着た新入生で列ができていた。
「関東大会逃したのは相手が悪かったって」
「負けたからじゃないよ、ただなんかもういいかなって」
自分でもよくわからない。
小、中、高、とテニスを続けてきて全国大会にも出場した経験もある。
テニス人生だった。
しかしよくわからないがあの試合以来冷めた。情熱、やる気が起こらないのだ。
「ふーん」
残念そうな表情を友達は浮かべる。
僕はそんな友達に負い目を感じてしまった。
そんな感情を抱きながら僕たちは押しつぶされながら電車に乗り込んだ。
電車の中はスーツに身を包み、キャンパスライフに期待を膨らます新入生でごった返し、スマホすら操作できなかった。
「なんか、夏コミみたいだな」
そんな状態の中、どこからか楽しそうに話す声が聞こえた。
「ところで慎也はどっかサークル入るのか?」
「俺か? 俺は……うーん、どうしようかな」
慎也は電車に揺らされながらしばらく考える。
「俺はいっかな」
「そっか、じゃあ、バイトでもするのか」
「そうだな、バイトでもするか」
友達はぼんやりと答えた。
♧
「俺もなんかバイトしようかな」
先に電車を降り、慎也と別れた僕は歩きながらふと考える。
テニスばかりでバイトなんてしたことがなかった。
大学生となりテニスをやめた僕には何があるのだろうか。
そんなことを考える僕に浮かぶのはやはりテニスのことだった。
それも高校最後の試合だった。
あの試合はゲームカウント3-0。完敗だった。今まで積み上げてきた自信が崩れた。どんなに足掻いても相手は平然と返球し、その一球、一球は深くて鋭かった。
「っ」
悪夢が蘇り、胸が苦しくなる。その苦しみから逃げるように早足で家に向かった。
♧
「ただいま」
「おかえり」
ソファでのったりと過ごす妹の舞が目に入る。
「またお兄ちゃん、死んだ目してるよぉ」
「そうか?」
「してる、してる」
何が楽しいのだろうか舞は笑い出した。
そんな妹をほっといて自室に入って着替える。
「死んだ目か……」
外側だけを映す鏡は内側が死んでる僕をどう映すだろうか。少なくとも目は死んでいるのだろう。
♧
「バイトどうだ?」
大学が始まり、しばらく経ち、新しい環境に僕は慣れつつあった。
今も講義のない時間を利用して慎也と食堂で昼食を摂っていた。
最初の頃は昼休みの混んでる食堂に悩まされたが今は大学生活に順応していた。
その間に慎也はファミレスでバイトを本当に始めていた。
「覚えることで大変かな」
安くて学生に人気のカレーを頬張りながら答える。
「それとバッシングするとき、醤油差しの向き揃えなきゃいけないし」
「バッシング?」
「片付けのことだよ。こうやって拭いたりする」
そう言いながら僕の前で近くにあった台拭きで軽く拭く。
「ちゃんとやっているんだな」
「当たり前だろ」
慎也に笑われたしまった。
「働かないとわからなかったことだらけだよ、それとね」
そのまま疲労した声で次々と漏らす。それを僕は牛丼を食べながら、相槌を打ったり頷いたりした。
慎也は相当大変だったのかしばらく話を続けた。
そんな慎也を僕は羨ましい、と感じてしまった。
僕には苦労することがない。何もせずに生きている。
このままでいいのだろうか。そんなことを考えてしまった。
「あ、ところでさ」
友達が何かを思い出したのか自分の苦労話を切った。
「今週の土曜日、壁打ちいかないか」
「え……」
それは突然すぎる提案で困惑した。
「定期券内にさ、壁打ちができる良い場所見つけたんだよ、
やっぱりお互い身体動かさないと変な感じだよね」
「けど、大丈夫なのか」
「大丈夫だよ、何年前の話をしているんだよ、それに壁打ちくらいなら大丈夫だよ」
腕を回して大丈夫なことをアピールする。
「それで土曜日行こうな」
真剣な表情で僕のことを友達はじっと見る。
「けど」
僕は悩んでいた。僕はテニスをして良いのか。
「なんかさ、余計なお世話なのかもしれないけど昔の俺を見ているみたいで放っておけないなんだよね」
慎也はあまり言わないことを言ったからなのか恥ずかしいのか落ち着かない様子だった。
「まあ、たまにはいいかな」
悩んでいた僕の心はなぜか高鳴った。
♧
久しぶりのラケットを握った感触に嬉しさを感じながらボールをラケットの面で弾ませる。
久しぶりのはずなのに全く違和感はなくそれどころか安心する。
土曜日。僕と舞は慎也に案内されて壁打ちがある高架下に来た。
テニスコートのラインが引かれ、本来ネットがある位置に高い壁が設置されていた。
つまり向かいあって壁越しに二つの反面コートがあるのだ。
「いいね、ここ!」
嬉しそうに準備を始める舞。
「ごめんな、舞がどうしても来たいってうるさくて」
「大丈夫だよ、気にしなくて」
準備運動をしながら僕は慎也に礼を言う。
慎也と舞は仲がいい。舞が僕の試合に応援に来た時に初めて顔を合わせたが
その後も慎也が僕の家に来た時に三人で一緒にゲームで遊んだものだ。
「ありがとね」
いろんな意味を込めて礼を言う。
「急にどうしたんだよ」
素直な僕に困惑気味だった。
「さてと、打ちますか」
準備を終えた僕は約一年ぶりに軽く打ってみた。
ボールは弧を描き、壁にぶつかる。それと同時に鈍い音がしてボールが帰ってくる。
その打球を左に返球したり、右に返球したり回転かけたり、感触を確かめる。
「鈍っていないようだな」
「そうみたいだね」
そんな僕をみていた二人が当たり前のことをぼやく。
それを聞き流しそのまま何回か繰り返す。
もう少し腰を落として、打点はもう少し前。
自分が望むショットになるようにイメージをして返球する。
「なんか、ラリーもしたくなるよね」
壁打ちを終え、ベンチに座り二人に話しかける。
「それわかる! 壁打ちしたそうなるよね」
同意した舞はラケットを回しながら移動する。
軽くボールをラケットの上で軽く弾まして狙いである壁を見る。
「よし」
小さく気合いを入れてボールを打つ。
「舞ちゃん、やっぱり上手いね」
「この間、大会で優勝したって」
「すげえな」
慎也が舞の壁打ちを見ながら素直に感心する。
「お前も負けるなよ」
慎也の言葉に分かっているよ、と答えて立ち上がった。
「おい、俺の番は」
「あ、ごめん。素で忘れてた」
「ははっ。よかったな、戻って」
慎也が安心したような笑顔になった。
そして立ち上がった。
也は昔の出来事でテニスどころか運動すべてができなくなっていた。
テニスで身体に負担をかけすぎて壊したのだ。
しかし今、壁打ちをする友達にはその出来事を一切感じさせることはなかった。
次々とテニスボールを鮮やかに返球する。すべてが一つの細い糸のように滑らかに次の動作に移る。
すべてが計算されているように見えた。
「ほんとラリーしたくなってくるな」
楽しそうに笑う。
「ほんとうに明日、どこかのコート借りるか」
壁打ちを終えた慎也が提案する。
「わたしもいく!」
「よっしゃ、行くか」
「その前に慎也どうしてテニス続けているんだよ、けがは?」
「もう治ったって。それにやっぱりテニスは離れられないよ、こんなに楽しいのに!」
「ははっ、そうだな」
慎也の考えと僕の考えは全く一緒だった。
僕はなんで忘れてしまったのか。いつから勝たなきゃ、と考えていたのか。
その後、三人で日が暮れても壁打ちを続けた。
「もう、打球がみえないよ」
「見えなくても感じるんだ」
「第六感ってやつ?」
「それだよ」
「んなのねーだろ」
僕たちは笑った。もう僕は悩まない。これからも僕はテニスを続けたい。続けるんだ。だって楽しいから。
♧
「お兄ちゃん、ほんとできるのぉ?」
玄関で固く靴ひもを結ぶ僕に舞は話しかける。
「合格したんだし、問題ないよ」
僕の肩にはテニスバックがかかっていた。
「まぁ、お兄ちゃんはうまいけど」
「バイト遅れるから行くね」
立ち上がった僕は扉に手を掛けた。
「うん、頑張ってね、テニスのインストラクター」
「ありがとね、行ってきまーす」
そして僕は扉を開いた。
外側だけを映す鏡は今の僕をどう映すだろうか。少なくとも目は輝いていることだろう。
ここまで読んでいただきありがとうございました。