難民収容所
「そのあと、あなたはどうなったの?」
《この体になった俺のことか?》
「はい」
もしも俺に生身の身体があったら深いため息をついていただろう。
《母に命じられた使用人が俺を人里離れた沼の底に沈めた。娘の命を奪った刀だ。見るのも嫌だったんだろう……最後の記憶にある母は壊れていた。無理もない。夫も子供たちも死に、おまけに娘の命を奪ったのは自分の息子なんだからな》
「かわいそう」
カレン・オハラは静かに涙を流していた。
ミルクのような白い肌の上を卵型の輪郭に沿って幾筋も涙が流れ落ちていた。
少し垂れ目がちの優しい目は、涙に濡れて俺(刀)のことを見つめていた。
よほど共感能力が高いのだろう。
俺の記憶を自分で体験したことのように感じているらしかった。
不幸な境遇ということでいえば、彼女も俺には負けてはいない。
幸せを求めて家族で亡命してきたのにアレス共和国の人間に襲われ、両親を同時に失った。
しかし、彼女からは、俺の不幸と自分の不幸を比較するような心の動きは、一切感じられなかった。
《協力してくれるか? 俺の復讐に》
相手も心に傷を負っているのだから、もっと労わるべきだと頭の中で理解しながらも、俺は自分の都合を優先させていた。
「あなたは私を助けてくれました。私はあなたにどんなことでもすると誓いました。私は約束は守ります。私ができる限りのことは協力します」
カレンは質素なベッドの上で、茶色いチェックのスカートの膝を抱えていた。
カレンがいたのは難民収容所の個室だった。
狭く、調度類は味もそっけもないが、清潔で快適だった。
きちんと暖房が効いていたため、カレンはクリーム色のセーターを脱ぎ、白いブラウス姿になっていた。
入国審査は終わり、深層心理レベルでチェックした結果でも、彼女はスパイなどではなく、入国に問題なしという判定が出ていた。
そうでなければ、俺の過去を詳細に彼女に伝えたりはしない。
恐らくヴォガード卿は過去のどこかのタイミングで執政官を経験し、元老院議員か何かを務める政府の重鎮になっているだろう。
そんな人間に復讐するのが目的などという面倒な人間は恐らく入国審査ではねられてしまう。
だから、俺は入国審査を終えるまで、彼女に俺の過去を伝えなかった。
《礼を言う》
そう答えながら、この心優しい少女に復讐の手伝いができるのだろうかと少し不安になった。 荒事には全く向いていそうになかった。
ふわふわした金髪を肩のあたりできれいに切りそろえ、サファイヤのような青い瞳の小柄な少女。年齢より幼く見え、心優しく、剣術や格闘技の心得はない。
「出来る限りの協力はしますが、あなたの望みをかなえるのはとても難しいと思います」
カレンの発言は歯切れが悪かった。
口では協力すると言いながら、自分には無理だと言って逃げるつもりなのだろうか。
《難しいことはわかっている。ヴォガードは、恐らくこの国のお偉いさんになっているのだろうから》
「はい、ヴォガード卿は、他国民の私でも知っています」
《まだ、生きているんだろうな》
入国審査の際、日付を確認した。あれから十六年が経過していた。
一〇年以上は経過していると思っていたが、沼の底に沈んでいた年月は思いのほか長かった。
十六年も経てば戦争や事故、病気などでヴォガードはすでにこの世にいない可能性もあった。
殺したいと思う相手の無事を願うとは皮肉な話だ。
「はい、生きています。この国の今の執政官は、ヴォルフ・ヴォガード卿です」
カレンの青い瞳は弱々しい光を放った。
《今の?》
「はい」
おかしい、執政官の任期は基本四年。特別な事情で再任されたとしても最高八年しか在任できないはずだ。ということは、あのあとすぐには執政官になれなかったのか?
《奴は何年、執政官をやっているんだ?》
「少なくとも私が物心ついたときからアレス共和国の執政官はずっとヴォガード卿です。一〇年以上勤めていると思います」
カレンが言葉を濁した理由がよく分かった。
それにしても、この国はどうしてしまったんだろう。
権力の座は腐敗の温床ではなかったのか?
だから、執政官の任期は厳しく制限されていたのではなかったのか?
《確かに現役の最高権力者を暗殺するのは不可能に近いな。それでも俺はやる! 絶対にな》
「はい」
カレンはか細いため息をつきながらうなづいた。
しかし簡単な話ではない。しっかりとした計画と準備が必要だろう。
無理押しすれば目的を遂げられる自信はあったが、その場合、俺はともかくカレンが命を落とす。
最悪それでも構わないとも思ったが、犠牲は少ないに越したことはなかった。
《そう言えば警務部隊のポールとかいうチャラチャラした奴がおまえのことを誘っていたな》
「えっ?」
カレンは急に顔を赤らめた。何か勘違いしているらしい。
《入隊しないかと言っていたよな》
俺の心に嫉妬に似た感情が浮かび上がり、そんな自分に腹立たしさを感じた。
《馬鹿馬鹿しい》
「あっ、はい」
《誘いに乗ってやろう。明日の能力チェック頑張れよ》
警務部隊には犯罪捜査、治安維持、要人警護の仕事がある。
普通の仕事に就くよりは執政官の動静を把握しやすい。
また、執政官の警護の仕事が回ってこなくても、あの小隊はいろいろと面白そうだ。
小隊長は、あのジョン・リードだし、長身の女性士官メルゲン少尉は恐らくあの男に縁がある者だ。メルゲンの姓はそんなにありふれた姓じゃないし、体型もよく似ている。
俺は自分の考えに満足すると、再び眠りについた。
カレンの能力チェックの結果は良好だった。総合評価でAクラスの能力者と認定された。
中級貴族の位を与えられ、軍隊への入隊資格と参政権が手に入った。
そのあと難民収容所で一週間にわたって、アレス共和国で暮らすための諸注意がレクチャーされた。
特にマーズ連邦との違いに力点を置いて、法律や慣習、文化に関する座学が延々と続いた。
教師役は黒いスーツに身を包んだ小太りの中年の女性で、仕事に情熱を感じているようには見えなかった。
『生徒』はカレンただひとりで、五〇人くらいは入れそうな『教室』は寒々しい印象だった。
ただカレンの方は目を輝かせて熱心に『授業』に聞き入っていた。
「質問してもいいですか?」
「どうぞ」
教師役の小太りの女性は、木製の教卓に左手をつき、ウェーブのかかった栗色の長い髪を右手でかき上げながら物憂げに答えた。
こげ茶色の木の床と漆喰の白い壁、教室の正面には大きな黒板が掲げられ、木製の椅子と机が無駄に多く並べられた状況で、カレンは最前列に座っていた。
「兵役義務は二年間ということですが、配属場所の希望は聞き入れてくれるんですか?」
「希望を言うのは勝手だけど、期待はしないことね」
言ってることは間違っていないが、まるで親身になっていない。
俺は少しイラッとしながらカレンに助言した。俺はカレンの腰に下げられていた。
クリーム色のセーターにチェックのスカートといういでたちの女性が、黒い拵えの長い刀を下げているというのは何とも奇妙な姿だった。
《兵役ではなく、職業軍人になりたいと言え。それから具体的に第七警務小隊への配属を希望していると言ってみろ》
「あ、あの、私、兵隊さんになりたいんです。それで第七警務小隊に配属されたらいいなって思ってるんですけど」
小太りの女性は、目を丸くして、カレンの目をまじまじと見つめた。
「あなた、変わってるわね」
カレンは頬を赤く染めてうつむいた。
「警務部隊は人手不足だから歓迎されるかもね。でも、あなたみたいな娘に向いてるとは思わないけど」
小太りの女性はため息をつくと、急に母親のような表情になった。
「小説や演劇の世界では警務部隊は人気があるけど、実際は大変よ。大丈夫?」
表面的ではない心からの言葉のようだった。
「心配してくれてありがとうございます」
カレンは顔を上げるとにっこりとほほ笑んだ。