第八話 国王との問答
二月に入ると同時に、レシエムは国王秘書官の任を正式に拝命した。三百名以上の志願者の中からただ一人選出され、誇りと希望に満ちた新しい生活の始まり──のはずだったのだが。
「ああ、美しいねえ。やはり私の妃はマレ王国一、いやいや世界一の美しさだ。そんな彼女に会うことができない私は、世界一不幸な男だよ」
世にも馬鹿馬鹿しい戯言を、国王シュツェルツは口ずさんでいる。今日何度目のことか、レシエムは既に数えるのをやめていた。
国王の執務机から見渡せる壁には、等身大に近い大きさの絵画が飾られている。王妃ロスヴィータの肖像画だ。扉を挟んで隣に位置する肖像画は、王女ディーケを抱きかかえる王妃が描かれたもので、これもまた馬鹿でかい大きさだ。その周囲には、額縁つきの形容不能な絵が数枚。どうも、王女が描いたものらしい。
「きっと、王妃の美しさに嫉妬した女神たちが、彼女と私の仲を引き裂いたに違いない。レシエム、君もそう思うだろう?」
秘書官用の机の前で、黙々と仕事をこなすレシエムに向かって、シュツェルツは同意を求めてきた。
「それは、神々のおぼし召しでも何でもございませぬ。単に国王陛下のお浮気が原因かと存じます」とは、さすがに言えず、レシエムは冷淡に相槌を打つ。
(というか、例え浮気をしなくても逃げ出すだろう。こんな夫では)
宮廷事情に詳しくないレシエムは、国王夫妻の別居騒動はおろか、主君となるべきシュツェルツの性格すらも知らなかった。一応、秘書官の最終試験でシュツェルツと顔を合わせはしたが、その時の彼は国王らしい威厳に満ちた振る舞いをしていたので、見事にだまされたというわけだ。
リベアティアから宮廷の情報を仕入れておけば良かった、と思いもしたが、今更後悔しても始まらない。目を通した書類に赤蝋を垂らし、その上に大小の玉璽を刻印していくという作業を繰り返す。押印をすませた書類は国王に手渡し、署名を賜るのだが、肝心のシュツェルツの手は大分前から止まっている。
「……陛下、ご署名を賜りませぬと、私が秘書長官に叱責されます」
レシエムは丁重に注意を促してみたが、シュツェルツはやる気のなさそうに、二、三枚の書類に署名しただけだ。就任僅か半年で辞任したという元国王秘書官に、レシエムは本気で同情した。
シュツェルツが行ったまともな行動は、レシエムの知る限りではふたつ。志願者の対象を広げた国王秘書官試験の布告と、その落選者の中から新たな志願者を募り、宮廷内外の職を紹介すること。
いや、この二点を実行しただけでも、もしかしたらシュツェルツはまともな国王の部類に入るのかもしれない。そもそも、歴代国王がもっとしっかりしていれば、両親のいない一人娘が親の遺産を相続できないなどという理不尽は、とっくの昔に解消されていたはずだ。
(まあ、よい。そうした理不尽を少しでも減らすために、俺は秘書官になったのだからな。……とは言っても、このくらいの仕事をきちんとしていただけぬようでは、先が思いやられる)
「初めて話した時にも思ったが、君は真面目だねえ、レシエム。最終試験では訊かなかったが、国王の務めとは何だと思う?」
こちらの思考を読み取ったかのようなシュツェルツの質問に、レシエムはぎくりとしながらも答える。
「……貴族、聖職者、郷紳(地主)、民衆をまとめ上げ、彼らに敬慕されることかと存じます」
「なるほどねえ。では、具体的に彼らをどうやってまとめ上げる?」
レシエムは不意を突かれた。貴族、聖職者、郷紳は、民衆から税を取る。民衆にしたところで、商工業者は奉公人を、自営農は小作農をいいように使う。階級や立場が異なれば利害が生じ、摩擦が生じる。そんな国民全てをまとめ上げる、最も手っ取り早い方法。それは。
言葉にするのも憚られる答えが思い浮かび、レシエムは口をつぐんだ。シュツェルツは軽く笑う。
「私の目に狂いはなかったようだ。この質問に嬉々として答えるような輩は、秘書官には相応しくないからね。だが、今回は特別に許そう。君はどう考える?」
「……国内か国外に『敵』を作ることです」
「その通り」
シュツェルツは一拍置いて続ける。
「だが、国内に敵を作れば、傷付くのは結局国民だ。ならば、国外に戦争をしかけたとする。勝てればいいが、戦争が長引くか負けるかすれば、人材的にも財政的にも甚大な被害を受ける。国王である私が言うのも何だが、国民という大集団を長い間まとめ続けるのは、事実上不可能だ。国王という偶像をいただくことで、辛うじて形をなしているのが国家というものだからね。決定的な亀裂が生じない程度に、それぞれがばらばらな方向を向いているほうが健全だよ」
レシエムは作業の手を休め、粛然と聞いていた。この国王、ただの女好きの怠け者ではないらしい。自分にしては珍しく、素直に頭を下げる。
「思慮が及ばず、申しわけございませぬ。失礼を承知でお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「聞こう」
「陛下は国王の務めを、いかようにお考えでおわしますか」
「国民を飢えさせないこと。これに尽きる」
即答だった。
国が戦乱に巻き込まれれば、田畑は焼かれ、家畜は奪われ、民衆は困窮する。戦に参加する貴族や郷紳たちにも補給がままならなくなる。その意味でも、敵を求めて戦争をするのは得策ではない。
二十五歳の若い君主の姿を、レシエムは眩しい思いで眺めた。
が、シュツェルツは椅子の背もたれに寄りかかり、軽い調子で言う。
「まあ、そういうことだ。私が書類を少しばかり溜め込もうが、国民の生活に支障が出るわけでもなし。君ももう少し、気楽に構えたまえ」
(結局は言いわけか!)
一時でも国王を見直したことを、レシエムは腹の底から後悔した。扉を叩く音が響いたのはそんなおりだ。シュツェルツが入室の許可を出す。扉を開け、恭しく一礼したのは近衛騎士のルエン・アスト卿だ。
「やあ、ルエン。あれ? 朝会った時、今日は東殿の警備担当だって言ってなかったっけ」
国王の彼に対する呼びかけは、自然な親しみが滲んでいる。ルエンはレシエムよりひとつ年下で、子供の頃からシュツェルツに仕えていると聞いた。その歳月たるや八年というから、レシエムはただただ唖然とするばかりだ。よほど、人間ができているのだろう。
ルエンは「さようなのですが」と頷きながら、レシエムに視線を送ってくる。
「ちょうど広間で、ラリサ伯にお目にかかりたいという方にお会いいたしまして」
「女の子だろう」
シュツェルツが指摘すると、ルエンは琥珀色の目を丸くした。シュツェルツはにやりと笑って、レシエムを見る。どうせ当てずっぽうだろう。「心当たりがございませぬ」と断じてやりたかったが、残念ながらレシエムには、誰が会いにきたのか見当がついた。
「陛下、恐れ入りますが、席を外してもよろしゅうございますか? すぐに戻ってまいりますので」
「遠慮しなくてもいいよ。君がいない分、私は羽を伸ばせる」
頬杖をついて薄く笑う国王に、仰々しいくらい丁寧な礼をしてみせると、レシエムは戸口めがけて歩き出した。途中、はらはらした様子で国王とレシエムとを見比べるルエンに、こう囁く。
「ルエン卿は我慢強いな」
「生活がかかっておりますから」
達観したように微笑するルエンに対し、レシエムは心の中で敬意を表した。