第七話 蝶の印章
卓の上には、香気を放つ碗が三つ置かれている。
「ヴェロナ伯、ご足労いただき感謝いたします」
レシエムは慇懃に切り出した。卓を挟んで、彼とリベアティアの向かい側に座るヴェロナ伯は、にこりともせずに応じる。
「いや、このような場を設けていただき、かえって手間が省けた。ちょうど私も、あなたと話をしたいと思っていたところだ。正直に申し上げると、あなたが正式なリベアティアの後見人となられる前に、話し合えれば良かったのだが」
相手をちくりと刺すような皮肉だが、レシエムは涼しい顔をしている。感情を表に出さない性分も、こういった場では役に立ちそうだ。
「確かに、あなたには相談すべきであったかもしれません。何しろ、ヴェロナ伯はリベアティア姫の義理のご父君でいらっしゃる」
レシエムは膝の上で両手を組み、ヴェロナ伯を見据える。
「ですが、あなたは彼女を養育なさったこともなければ、血縁でもない。姫君がご自分のことはご自分でお決めになれるご年齢である以上、とやかくおっしゃることでもないように思えますが?」
ヴェロナ伯も動じない。
「年かさであっても判断を間違うことはある。それに、あなたとリベアティアが知己となってから、まだそれほどたっていないのではないか? そう考えると、リベアティアが後見人にあなたを指名したのは、性急過ぎるとは思われぬか」
「ご指摘の通り、私が初めて彼女とお会いしてから、まだ二週間程度です。しかし、この際、時間は問題ではない」
「理由は?」
「私は亡父に、リベアティア姫の新しい後見人が決まるまで、後見代理人を務めるよう、遺言を受けております。むろん、私が代理人に相応しくなかった場合、父は別の者にその任を託したでしょう。死に際して、父はリベアティア姫のことを、とても気にかけておりましたから」
(おじさま……)
いつも、こちらを気遣う手紙を送ってくれた、先代ラリサ伯のことを思い起こし、リベアティアは目頭が熱くなるのを感じた。対して、ヴェロナ伯はそれほど感銘を受けなかったようだ。
「あなたのおっしゃることはごもっともだが、親は概して、我が子には甘いものだ」
意地悪い返答に、レシエムは言葉に詰まる。だが、それは本当に一瞬のことだった。
「当家には当てはまりません。私は養子だ。父にとっては妻の甥でしかない。適当でない者を後継者に据えた場合、どのような世評が流れるか、父は熟知していたはずです。むろん、後見代理人を任せるなど、もっての他と考えたでしょう」
「……レシエム」
リベアティアはうろたえずにはいられなかった。ヴェロナ伯を説得するために、レシエムが自身の傷を曝け出しているのだ。レシエムはリベアティアと目を合わせると、少し笑った。自信に満ちた笑みだった。
突然の暴露にヴェロナ伯も驚いたようだ。しばらく目を泳がせ、お茶を口に運ぶ。
「……知らぬこととはいえ、失礼を申し上げた。ご先代が篤実なお人柄であったことは、私も存じている。その方が後見代理人にと、あえて選んだのがあなたであれば、問題はない。問題はないが……ラリサ伯、あなたはなぜリベアティアの後見人を引き受けられた?」
その答えは、リベアティアもぜひ聞いてみたい。しばらく考えるような素振りを見せたあと、レシエムは語り始めた。
「最初は、仕方なく引き受けました」
(そんな、本当のことを)
「何とわがままな娘だ。早く後見役から解放されたい。そう思ったこともありました」
(……どうしてそこまで言うかなあ)
「ですが、押しと気が強いのは、彼女がご自分の意志をしっかりと持っていらっしゃるからです。そう気付いてから、本気で後見人を引き受けるのも悪くない、と思い至りました」
レシエムの鋭気に満ちた横顔をリベアティアは見つめた。
「彼女は一生王妃陛下にお仕えしたいとおっしゃいました。人に言われたからではなく、ご自分の意志でご主君を選ばれた証拠です。また、結婚による遺産相続という、無難に生きるための近道を、拒否しておいでです。私は自分自身の足で歩いていこうとする彼女を見て、手助けしたくなったのです。何しろ、危なっかしいものですから」
レシエムは、そのように自分を見てくれているのだ。リベアティアは気恥ずかしかった。最後の一言は余計だが。
ヴェロナ伯は掌を顎に当てる。
「あなたのおっしゃりたいことは分かるが、誰しも歩くのに疲れる時はあろう。私がリベアティアに結婚を勧めるのはそのためだ。なのに、リベアティアは縁談を突き返すばかりで、相手に会おうともせぬ。この前も、条件のよい大商家との縁談を即座に断ってきた」
大商家と聞いて、レシエムの瞳に興味の光が宿る。意外だ。
「ほう、商家ですか。確かに、近頃の商人たちの勢いはめざましいものがある。旧来の貴族より、よほど将来性も高い。家名は?」
レシエムの評価を聞き、ヴェロナ伯も微かに表情を和らげる。
「ホルテンジエ家だ。知っているならば、あなたからもリベアティアに勧めて欲しい。先方はまだ諦めていないようだからな」
「ホルテンジエ……」
呟くと、レシエムは眉根を寄せた。レシエムを信頼してはいるものの、リベアティアは内心ではらはらせずにはいられない。
「ホルテンジエ家のご当主やご子息方は、なかなかのやり手と耳にしておりますが、姫君が嫌がっておいでならば、無理やり縁談を進めることもありますまい。それに、結婚は一生の問題。まずはご本人がその気にならなければ」
レシエムの回答が意に添うものだったので、リベアティアは胸を撫で下ろした。ヴェロナ伯の表情が途端に気難しくなる。
「本人が乗り気ならば、幸せな結婚生活が送れるというものではない。リベアティア、そなたはそれを間近で確認したはずだが?」
どう考えても、ヴェロナ伯は国王夫妻のことを話している。まだ宮廷人ではないレシエムだけが話題についていけないようで、きょとんとしている。リベアティアはヴェロナ伯を軽く睨み付けた。
「それとこれとは話が別ですし、わたしは元から結婚するつもりはございません。そもそも、縁談の紹介というのは、紹介する側とされる側、お互いの信頼関係があってこそ成り立つものです。わたしと伯爵閣下の間には、それがございません。だから、この先いくらお話を持ってきていただこうとも、無駄でございます」
リベアティアがぴしゃりと言うと、ヴェロナ伯は溜め息をついた。
「……私とは必ずしも一致しないご意見だが、ラリサ伯のお考えは分かった。後見人を続けていただいても構わぬ。しかし、縁談については、まだまだ話し合う余地がありそうだな」
リベアティアは固く唇を結んだ。レシエムが後見人として認められたのは、大きな前進だが、ヴェロナ伯は何も変わっていない。
「お二人ともお疲れでは? そろそろ、お開きにいたしましょうか」
これ以上は話し合いにならないと読んだのか、レシエムがそう声をかけ、会談は終わった。
ヴェロナ伯を馬車まで見送るため、執事のヴィンフリートは他の使用人たちを連れて外に出た。広い玄関広間に残されたのは、リベアティアとレシエムの二人だけだった。
「ごめんなさい」
まず、リベアティアは謝った。レシエムはびっくりしたようだ。
「どうした、いきなり」
「ヴェロナ伯を説得するために、あの話題を持ち出すことになってしまったから」
リベアティアが神妙にしていると、レシエムは苦笑する。
「別に謝ってもらうほどのことではない。有効な方法だと思ったから、事実を明かしたまでだ。あとあとになって、ヴェロナ伯から、養子云々のことをなぜ隠していた、とうるさく言われるほうが面倒だしな」
「本当に? わたしに気を遣って言ってるんじゃなくて?」
「本当だ。君こそ、気を遣いすぎだ。第一、謝るのは俺のほうではないか? ヴェロナ伯に、縁談を諦めさせることができなかったのだからな」
「でも、レシエムが後見人を続けることは認めさせたじゃない」
「まあな。縁談に関しては俺が何とかする。いずれ……」
レシエムはそう言って高い天井を見上げた。僅かの間、遠くを見るような目をしていたが、再びリベアティアのほうを向く。
「それに、俺は逆に感謝したいくらいなのだぞ」
「感謝?」
「ああ。あの時、少しすっとした。父が俺を君の後見代理人に選んだのは、俺を信頼してくれていたからだと、ようやく分かった」
その表情や声はひどく晴れやかで、これまでのレシエムから受けた、どの印象とも違っていた。リベアティアは何だか面はゆくなり、冗談が言いたくなった。
「おじさまに頼まれた時は、面倒だと思ったんでしょ」
「その通り」
「そんなにはっきり言うなんて……ひどい」
リベアティアが両手で顔を覆い、泣き真似をすると、レシエムの呆れ声が返ってきた。
「芝居をするのなら、もっと上手くやれ。ばればれだぞ」
「やっぱり?」
リベアティアが両手を下ろすと、レシエムは大きく頷き、笑った。
ヴェロナ伯との会談から一週間近くがたった。そろそろ離宮での生活にも違和感がなくなり、毎日はつつがなく過ぎている。国王が王妃と話し合いをするために離宮を訪れたものの、面会さえかなわなかったという事件が何回かあったが、その光景にも皆、慣れつつあった。騒動の原因となった国王の浮気相手イングリトは、とっくに罷免されているのだが、王妃はまだまだ夫を許す気はないらしい。
(レシエムは無事、試験に合格したのかな……)
こちらから確かめに行くのも憚られるので、結果を未だ知らないリベアティアは、何となく落ち着かない。合格したら王都に留まることになるのだろうが、その逆の場合、レシエムはどうするのだろう。先代のラリサ伯は若い頃に官職を退き、それからはずっと領地で隠棲していた。同じように、レシエムも領地に帰ってしまうのだろうか。
帰郷しても、レシエムが後見人としての責務を果たしてくれることだけは、間違いないと思う。だが、彼が帰ってしまうことを想像するのは、とても寂しかった。
とりとめもなくそんなことを考えながら、リベアティアは王妃の私室を整える。
「リベアティア、手紙よ」
部屋に入ってきたオティーリエが、一通の手紙を差し出した。リベアティアは手紙を受け取り、差出人を示す封蝋の刻印を確かめる。赤い蝋に刻まれた蝶の印章。見覚えがあるような気もするが、どこで目にしたのかまでは思い出せない。
「この手紙、誰から?」
「さあ、誰かしら。開けてからのお楽しみよ」
オティーリエは意味ありげに笑い、弾むような足取りで立ち去った。
訝りながら手紙を開けたリベアティアは、驚いたあと、ほほえんだ。こう書かれていたからだ。
『合格したことをお伝えする──レシエム・エタイン・グライフ』