第三話 ある王室の風景
「ねえ、リベアティア。あのあと、ラリサ伯とはどんな話をしたの?」
オティーリエが出し抜けにそう訊いてきたのは、王妃の部屋を掃除している最中のことだ。レシエムと喧嘩同然のやり取りをしてから、既に数日がたっている。先方からは何の連絡もこないし、リベアティアも彼と会う気はしなかった。
いずれ、きちんと話し合いをしなければならないのだろうが。
(確かに、わたしも悪かったけど……)
それにしても、あの態度はないだろう、と思う。まるで、秘書官に志願するついでに、リベアティアに会いにきたかのような言い草だったのだ。実際、そうだったのかもしれない。
(思い出したら、また腹が立ってきちゃった)
生返事をしながら、リベアティアは黙々と長椅子の肘当てを拭き続ける。オティーリエが、天井から釣り下がったシャンデリアを仰ぐ。
「そっかあ、あんまり上手くいかなかったみたいね。せっかくの機会だったのに」
「せっかくの機会って、何が?」
「もちろん、すてきな人とお近付きになる機会よ」
けろりと答えるオティーリエを横目に、リベアティアは嘆息する。
「あのねえ、オティーリエ。容姿や家柄も、確かに『すてきな人』の基準ではあるけど、人間、そればかりじゃないのよ? 顔や家柄のいい男の人は性格が悪かったり、女に好かれるから、調子に乗って浮気癖があったり。わたしは、何より性格が大切だと思うけどなあ」
「ラリサ伯って、そんなに性格悪いの? そうは見えなかったけどなあ。愛想は悪かったけど。でも、女になら誰にでも愛想のいい人って、何か裏がありそうなのよねえ」
リベアティアの頭に浮かんだのは、国王の笑顔だった。国中の女なら誰もが憧れる美青年だが、どうにも内心が掴み難い。リベアティアは相槌を打つ。
「そうねえ」
「国王陛下とか、いい例よね」
オティーリエも同じ考えらしい。急に声をひそめ、扉のほうを用心深く見やる。
「国王陛下といえば。知ってる? 陛下付きの女官に、イングリトって人がいるじゃない?」
「ああ、あの綺麗な人」
「そう。彼女、この前、国王陛下の『お相手』を務めたんですってよ」
リベアティアは、思わず手にしていた布巾を取り落としそうになった。オティーリエは顔をしかめて続ける。
「どうも周りに自慢してるらしいわよ。馬鹿だよねえ。自分の胸に、いい思い出としてしまっておけばいいのに」
「そうそう、ばれたら大変なことになるわよ」
「ほら、あの人って高慢なところがあるじゃない。王妃陛下と張り合ってるつもりなのかしら。容姿、家柄、性格、教養。どれを取っても勝てるわけないのにねえ」
「そんな人を相手になさるなんて、国王陛下も何を考えておいでなのかしら」
リベアティアが深く頷いたその時、置物を磨いていたオティーリエの動きが止まった。呪いにでもかけられたように、目と口を大きく開いている。
「どうしたの? オティ──」
問いかけながら、オティーリエの視線をたどったリベアティアも、動きを止めた。
「その話、わたくしにも詳しく聴かせてちょうだい」
いつの間にか扉の前に、王妃ロスヴィータが立っていたのだ。口元には女神さながらの微笑が浮かんでいたが、瑠璃色の瞳は全く笑っていなかった。
遅めの夕食を終えたロスヴィータは、居間へと続く扉の前で立ち止まった。壁に佇む近衛騎士のルエン卿が、いつもより一段と恭しく頭を下げる。ロスヴィータの不機嫌さを感じ取ったらしい。
この扉を開けば、いよいよ戦いの始まりだ。一度大きく深呼吸をすると、扉を控えめに叩き、入室する。
「あ、おかあさま」
長椅子に座っていたディーケが顔を輝かせる。
「いまね、おとうさまに、ひるまかいたえをみていただいてたの。とってもすてきだって!」
にこにこしながら語りかけてくる娘に笑い返しながら、ロスヴィータは極力その隣の人物を見ないように努めた。
「よかったわねえ、ディーケ。でも、もうおやすみの時間よ」
「ええー。おとうさまと、もっとおはなししたいのにー」
ディーケは抗議の声を上げたが、ロスヴィータは構わずに卓上のベルを鳴らした。間もなく現れた乳母に、娘を寝かしつけるように伝える。渋々ながら、ディーケは父親とおやすみの挨拶を交わす。ディーケの頬にキスをすると、ロスヴィータは彼女を居間から送り出した。
(さて)
顔を見るのも嫌だったが、ロスヴィータは「敵」の向かいに腰を下ろした。
「ロスヴィータは機嫌が悪いねえ。何かあったのかい?」
口を開くなり、夫──国王シュツェルツはそう言った。ロスヴィータはぎろりと彼を睨み付ける。
「どなたのせいか、想像もつきませんの?」
「いやあ、つかないなあ」
シュツェルツは悠長に首を傾げた。空とぼけるつもりなのだ。素直に謝れば許してやろうかと心の隅で思っていたが、もうそんな必要もなくなった。
「今日、聞き捨てならない話を耳にいたしましたの。何でも、陛下がお付きの女官と懇意になさっておいでとか」
ロスヴィータが率直に話を切り出すと、シュツェルツは卓上に散乱しているディーケの絵を眺めるのをやめ、暖炉の中で踊る炎を見つめた。
「噂だろう」
「いいえ、事実です! わたくし、一日かけて徹底的に調べましたから。陛下は一昨日、急ぎの政務があるとおっしゃって、わたくしと寝室を別になさいましたよね。陛下が彼女と二人きりで何度もお会いになっていた、という証言もございます。それに、イングリト、といいましたかしら。件の女官にも会ってまいりました」
(本当に嫌な女だったわ)
イングリトはシュツェルツと一夜をともにしたことを認めたばかりか、王妃に相応しいのは自分だとばかりに、王子のいないこちらを嘲弄してきたのだ。それだけでも、ロスヴィータは悲しくて悔しくて、憤ろしい。
よりにもよって、どうしてあんな女を……。
「ああ……なるほど。それで君だけ夕食が遅くなったのか。それで、彼女は何て?」
シュツェルツはそっけない。
「……わたくしの口から、言わせるおつもりですの?」
怒りを通り越して涙が出そうになったので、ロスヴィータは慌てて目元を押さえた。
シュツェルツに嫁いでから、今年で四年がたつ。結婚前は女好きで鳴らし、とにかく女性にもてる彼は、結婚後も側妾の地位を狙う不埒な御婦人方から言い寄られることが多く、ロスヴィータを何度もやきもきさせた。
臣下から勧められても頑なに側妾を取ろうせず、庶子もいないシュツェルツを今まで信じてきたが、今度こそ裏切られてしまったのだ。
自分はこんなにも、ただ一人のお方だと決めた彼を慕っているのに。
「ロスヴィータ」
声の近さに驚き、ロスヴィータが顔を上げると、いつの間にか隣にシュツェルツが座っている。長い漆黒の髪、繊細な美貌を引き立たせる灰色がかった青い瞳。間近で見る夫の姿に、ロスヴィータは未だに慣れることができない。
この容姿に、自分も他の女たちも惑わされているのかと思うと、ロスヴィータの怒りは再び煮えたぎってきた。肩を抱こうとした夫の手をすかさず払いのける。
「わたくし、ご機嫌取りにはごまかされません」
「まあまあ。話を聞いてくれないか」
「話?」
ロスヴィータが反応すると、シュツェルツは何度も頷く。
「対面したなら君も知っているだろうが、イングリトは少々問題の多い女性でね。侯爵家の出身であることを鼻にかけてなのか、先輩女官の言うこともろくに聞かないし、同僚たちとも不和が絶えない。女官長や首席私室女官からも、私に苦情がくる始末だ。だが、辞めさせようにも正当な理由がない。下手に罷免すれば、ご父君である侯爵やその取り巻きとの間にも角が立つ」
「それで?」
「いかに侯爵令嬢といえども、適当でない者には辞めてもらう必要がある。日頃身辺の雑事を担ってくれている女官たちに、これ以上不愉快な思いをさせるわけにもいかない。そこで私は──」
「そこで、あなたが彼女に手を出して、わたくしを怒らせ、それを理由に罷免する。さすが陛下、完璧な筋書きでございますね」
「いや、ちょっと待ってくれ! どうしてそうなるんだ!? 彼女に会っていたのは、態度を改めるよう説教していたからで」
「──そう。是が非でもお認めになりませんのね」
潮が引くように頭が冷えてゆく。次の瞬間、ある決意が形を成し、ロスヴィータは椅子から立ち上がる。
「陛下、わたくしやっと悟りました。四年前、あなたと結婚した時は、どんなことがあってもこのお方と一生添い遂げよう、そう自分にも神々にも誓いました。ですが、考えてみれば、あの時のわたくしはまだ十七歳の小娘。一生など見通せるはずもなかったのです」
「ロスヴィータ、もう少し話を──」
「しばらくお別れいたしましょう、陛下。頭を冷やせば、お互いの進むべき道も、きっと定まりましょうから」
シュツェルツが何かを言おうとしたようだったが、ロスヴィータは聞く耳を持たなかった。ディーケのこと、側仕えの女官たちのこと、実家の両親にどう説明するか。考えなければならないことが山積していて、夫に構っている暇などなかったのである。