第二十一章 枢密院会議
(レシエム、ごめんね。あなたの言うこと、間違ってなかった)
ヴェロナ伯に謝ったほうがよい、と訴えるレシエムの顔を、リベアティアは思い出していた。いずれ、ヴェロナ伯に謝ろう。もっと時間がたてば、彼はリベアティアの知らない、母との思い出を語ってくれるだろう。そのためには、時間神であり運命神でもあるロサシェートの加護が必要だ。
王妃の部屋に戻ろうとして、リベアティアは立ち止まった。扉の中から、耳をつんざくような子供の泣き声が聞こえてくる。ディーケ王女に違いない。今日の彼女は、朝からご機嫌斜めだった。扉の脇に立つルエン卿も、困り果てているようだ。
「以前のように国王陛下と暮らしたい、と王女殿下がだだをこねられたのです。王妃陛下がおたしなめになると、ますますお気に障られたようで……」
リベアティアとルエンが恐る恐る扉を開くと、ディーケがわんわんと泣いている。ロスヴィータはその横で、途方に暮れたように座り込んでいた。
「王女殿下、可愛いお顔がだいなしですよ」
リベアティアはディーケの両肩に手を添え、そっと顔を覗き込む。それでも泣きやもうとしないディーケを、ルエンが「失礼」と言うなり、ひょいと抱き上げる。びっくりしたのか、ディーケは泣くのをやめ、大きな目をぱちくりさせてルエンを見上げる。リベアティアは胸を撫で下ろした。
「さすがルエン卿」
照れたようにルエンは微笑する。
「まあ、子守りには慣れておりますから。何せ、私は八人兄弟の四番目なもので」
「八人……」
「賑やかそうでいいですね」と、続けたものか。リベアティアが迷っていると、我に返ったようにロスヴィータが辺りを見回す。
「……ああ、ごめんなさい、二人とも。わたくしったら、すっかり放心してしまって……。ルエン卿、またお願いして悪いけれど、しばらくディーケをあやしてくれる?」
「御意。王女殿下、お部屋を出ましょう」
ルエンが促すと、ディーケは蒼い瞳をくるくるさせる。
「もしもわるいひとがきたら、ルエンきょうがまもってくれるの? おとうさまがルエンきょうはとってもつよいって」
「はいはい、必ず守って差し上げますよ」
笑い出しそうになるのをこらえた顔で、ルエンは答えた。二人が廊下に出ていってしまうと、リベアティアはロスヴィータを長椅子に連れていき、休ませた。
両手で顔を覆って、ロスヴィータは呟く。
「さっき、ディーケに言われてしまったの──『お母さまなんて大嫌い』──って」
ロスヴィータは相当参っているようだ。
「……わたくし、母親失格だわ。国王陛下がご不在でも、わたくしさえいれば大丈夫だと思って別居したのに、いざという時に娘一人宥められないなんて……」
「戻られますか? ……国王陛下の御許に」
主君の隣に腰かけ、リベアティアは控えめに尋ねた。ロスヴィータの瞳が揺れる。
「……そうね、それがいいかもしれないわ。本当はね、迷っていたの。陛下がこちらにいらっしゃる度に。東殿にいた頃は、女性たちが陛下に群がることに腹が立って仕方がなかったけれど、いざ離れてみると、物足りないものね……」
リベアティアは、自分とレシエムのことを思い出さずにはいられなかった。
(自分の意地を優先させるべきなの? それとも、彼の気持ちを受け入れるべきなの?)
ただひとつ、はっきりしていることがある。あの話を断ってしまえば、もう今までのように、レシエムと話すことはできないだろう。想像するだけで、リベアティアの胸は、楔を打ち込まれたように傷んだ。
「ピエンティアの間」という、智慧の女神の名を冠した一室で、本日の枢密院会議は行われている。国王シュツェルツが上座に座る、長く延びた机の前。そこには、枢密顧問官の中から選び抜かれた、国王秘書長官を含めた二十名と、枢密院書記官長、議事録をつける書記官、そして、国王を補佐する秘書官として、レシエムが座している。
レシエムはシュツェルツの近くで、必要な書類を卓上に差し出すなどの補助役を務める一方、会議の行方に神経を集中させていた。議題は先日から引き続き、「女性の相続権を認める法案の是非について」。
現在の状況としては、国王を除くと、賛成派九名、反対派十名、中立一名というところだ。反対派は相続権の拡充よりも、親が財産すら残せないような貧しい民への保護を手厚くするべきではないか、と主張し、会議は難航している。
「ひとつはっきりさせておきたいのですが」
この法案に否定的な大神官がそう発言し、一同に緊張が走る。シュツェルツは頷くことで、彼の発言を許可した。
「では、申し上げます。此度の法案、本当に議論する必要がございましょうか? 私には甚だ疑問でございます」
シュツェルツは謹厳な眼差しを大神官に向ける。
「もう少し具体的に申せ」
「は。陛下はこの法案を可決した上で、女王即位の土壌をお作りになるご意志かと存じます。お世継ぎがディーケ王女お一人でいらっしゃることを危惧なさるあまり、この法案をお考えになったのであれば、いささか性急であらせられる」
「早すぎるということはなかろう。予とて、神ではない。いつ命を落としても不思議はない身だ」
「さようにお思いなら、何人かご側妾をお迎えなさいませ。王子殿下がお生まれになれば、全てが解決いたします。さすれば、古くからの法を変え、世の秩序を混乱させる必要もございますまい」
大神官とシュツェルツの視線がぶつかり合う。火花が散らないのが不思議なくらいだった。シュツェルツは皮肉っぽい笑みを口元に滲ませる。
「聖職者たるそなたが、そのような口上を用いるとは、世も末だな」
「私は大神官であると同時に、枢密顧問官でもございますゆえ。僭越ながら、王妃陛下の最近のご行状、目に余るものがございます。法律を変える以前の問題ではございますまいか」
痛烈な批判に、シュツェルツは黙り込んだ。
歓迎会のおり、娘である王妃の行動が槍玉に上がることを、ベティカ公は危惧していた。その懸念は正しかった。
ベティカ公は枢密院の一員ではない。王妃の父親であるがゆえに、要職には就いていないのだ。それをいいことに、ベティカ公に対抗意識を燃やす枢密顧問官は、こぞってベティカ一門を批判することがある。
レシエムはかつてシュツェルツに質問した。即位後に枢密顧問官を選任する時、どうして顧問官全てを、自分にとって都合のよい面々にしなかったのか、と。シュツェルツはにやりと笑って答えたものだ。
──君は、自分の意見に「はいはい」としか答えない人間を部下にしたいと思うかい? 有用な反論を抱えていても、保身のためにそれを口に出さない人間ばかりを。それなら、首振り人形を部下にしたほうがまだましだ。何せ、維持費がかからないからね。
(陛下は聡明なお方だ。……普段は不真面目だが)
シュツェルツの出方を、レシエムは息を詰めて見守った。
「予は本来、家政と政務は切り離すべきだと思っている。とはいえ、王位継承の問題だけは、そうそう割り切れるものではないことも承知している」
よく通る声で、シュツェルツは語り始めた。
「早々に王子が生まれていれば、予は女子の相続権や王女の王位継承について、これほど頭を悩ませることもなかったかもしれぬ。ゆえに、これは娘が予とこの国に与えてくれた課題だと、今はそう思うことにしている。考えてもみよ。近い将来、予が男児を授かったとしても、その子が無事に成人できる保証はあるのか? 仮にその子が成人したとして、彼も男児を授かる保証は?」
答える者は誰もいなかった。
「現在審議中の女子相続の法案には『家督の継承は男兄弟を優先すべし』とある。女子が長子の場合は、弟が優先的に家を継ぐことになるが、これは予にとって最低限の妥協だ。法案を制定したところで、娘に弟ができれば、彼女は女王にはなれぬ。将来、時間と労力の無駄だったと思う者も出るかもしれぬ」
シュツェルツは一同を見渡す。
「だが、あまねく民を対象にこの法を用いれば、救われる者は必ずいる。この法を制定することによって、遥か未来の王室が、いらぬ紛糾を避けられるやもしれぬ。我々は、今現在のためだけに政治を行っているわけではない」
水を打ったように議場は静まり返っている。シュツェルツは咳払いをした。
「……それと、王妃の件だが、今日中に予自ら迎えにいくつもりだ。戻ってきた彼女に、間違っても嫌味など申さぬように。──以上だ」
秘書長官が吹き出したのをきっかけに、一斉に笑い声が溢れる。いつもの枢密院会議にそぐわない、温かい笑いだ。レシエムもこらえきれずに笑ってしまい、口元を手で覆った。
「よくも笑ってくれたな。罰として、あとで私の供を命じる」
珍しく、シュツェルツが少しむくれている。笑うのは好きだが、笑われるのは好きではないらしい。レシエムはさらに吹き出しそうになったが、何とか笑いをおさめた。
「供とおっしゃいますと?」
「決まっているだろう。離宮への供だ。良かったな、君の愛しの姫君にも会えるぞ」




