第十九話 久々の面会人
窓からは蕾を付けた木々が見える。だが、咲いている花はひとつもない。今年は、幾分か春の訪れが遅いようだ。リベアティアは窓に背を向けると、寝台の上に横たわった。
今日は午前中で仕事が終わってしまい、することがない。国王と別居して以来、ロスヴィータは公務以外の行事を全て欠席している。加えて、彼女の私生活は元々派手なものではない。女官たちも自然と暇になってしまうのだ。仕事がないと、かえって色々なことを考えてしまい、気が滅入る。
(あれから、もう一ヶ月がたつのね……)
レシエムにひどい言葉を投げかけてしまったあの日以降、リベアティアは彼に会っていない。彼からこちらに連絡してくることもなかった。無理もない、当然のことだ、と思う。
「結局、彼と会ったばかりの頃に戻っちゃった……」
口に出して呟いたあと、それは違う、とリベアティアは自嘲まじりに思い直した。あの時も、リベアティアはレシエムを傷付けてしまい、自己嫌悪に苛まれたが、立ち直ったあとは彼に会う勇気を出せた。今は、どうしてもそれができずにいる。多分、あの頃よりもレシエムと親しくなってしまったせいだろう。
深い溜め息をつきながら寝台の上を転がる。と、扉を叩く音がした。面倒だったが、リベアティアは起き上がる。
「リベアティア、面会のお客さまよ……って、すごい頭ね。ちゃんと髪を整えてから会ったほうがいいわよ」
扉の陰から現れたオティーリエは、ぎょっとしたようだ。指で髪を梳きながら、リベアティアは尋ねる。
「面会人って誰? ヴェロナ伯なら、居留守を使って構わないわよ」
「違うわよ。ヴェロナ伯よりずっと若くて美形の人。応接室でお待ちだから、早く会ってあげなさいよ」
「え、それって、まさか……」
リベアティアが訊き終わらないうちに、オティーリエはいたずらっぽく笑いながらいってしまった。彼女の言う「若くて美形」で自分に面会にきそうな相手は、一人しか思い付かない。姿見の前で髪を梳り、服の皺を伸ばすと、リベアティアは駆け足で応接室へと向かった。
勇気を総動員して応接室の中に入ったリベアティアは、予想通りの人物を目の当たりにし、ぎこちなく一礼した。
「お久し振り……」
「……ああ、久し振りだな」
椅子に腰かけたレシエムの態度も、こちらに釣られたかのようにぎこちない。にもかかわらず、やはりレシエムは美しかった。秘書官の仕事に慣れてきたのだろうか。要職に就く者に特有の、自信と威厳を纏っているように見える。頻繁に会っていた頃には、全く気付かなかった彼の変化だ。
レシエムが遠い人になりつつある。
「少し長い話になると思う。かけてくれ」
レシエムに勧められるまま、リベアティアは彼の向かいに腰かける。この前のことを、まず謝ったほうがいいのだろうか。そう考えもしたが、なかなか決心がつかない。結局、リベアティアは無難に問いかける。
「……話って?」
「ふたつある。ひとつ目は朗報だ。リヒトとフリーダがじきに結婚する」
レシエムはほほえんだ。これにはリベティアも気まずさを忘れて興奮した。
「本当に? 式はいつ? リヒトさんの旅のことはどうなったの?」
「そう慌てるな。式は来月の予定だ。そのあとで、リヒトは航海に出る。リヒトは結婚と旅のことで相当両親とやり合ったらしいが、勘当同然で承諾を得たそうだ」
「え……それで良かったのかしら」
「本人は清々した顔だったぞ。元々、自力で道を切り開いていく性分だしな」
自分自身も清々した、とでも言いたそうに、レシエムは笑った。
もうひとつ気になることがある。リベアティアは少しためらいながら訊いてみる。
「……女性の相続権を認める法案が審議中だと聞いたわ。そのことをリヒトさんとフリーダさんは知っているの?」
「耳が早いな、リベアティア」
レシエムは驚いたようだった。彼が法案のことをどう思っているのかは、一見して判断がつかない。
「まだ一般には知られていないことだからな、可能性があるということだけは、リヒトに教えておいた。『フリーダには教えるなよ。せっかく、結婚する気になってるんだから』と言っていたぞ、リヒトは」
結婚しなくても店を継げると知れば、フリーダの決心が揺らぐかもしれないと、リヒトは心配しているのだ。本人と対面した時にも思ったが、彼には案外繊細なところがある。レシエムと気が合うのもそのせいだろう。
レシエムは笑顔で続ける。
「君のお陰で決心がついたと、二人は言っていた。その礼もかねて、君に結婚式の立会人になって欲しいそうだ。俺からも頼む」
「でも……わたしは大したことをしたわけじゃないわ。というより、言いたいことを言っただけ、というか」
「二人が君に感謝しているのだ。それでよかろう。……俺も同じ立会人として呼ばれていることだしな」
レシエムが付け加えた情報に、リベアティアは戸惑った。自分がレシエムと一緒に、彼の親友たちの立会人を務めるなど、許されることなのだろうか。こちらの気持ちを見透かしたかのような真剣な面持ちで、レシエムが口を開く。
「……この前のことを気にしているのなら、その必要はない。俺に謝る必要もな。ただ、くどいようだが、ヴェロナ伯には謝ったほうがよい。いや、謝って欲しい。今すぐにとは言わない。時間がかかってもよいから……」
前回とは違い、リベアティアもむきになろうとは思わなかった。ヴェロナ伯がこの場にいないせいかもしれない。だが、どうしても、たとえ演技でも頷くことができなかった。代わりに、レシエムに向かって頭を下げる。彼にこうして謝るのは何度目だろう。
「それだけはできないわ……ごめんなさい。この前のことも謝るわ。ひどいことを言ってしまって」
レシエムは少し落胆したようだった。表情を消し、左手の窓を眺める。
「俺は、リヒトの選択を奴らしいと思うし、応援もするが、自分も同じことをしようとは思わない。……俺は結婚するなら、周りから祝福されて式を挙げたいと思っている。特に身内からは。肉親がいないからだろうか、そう思うのは」
リベアティアはわけが分からなかった。リヒトが結婚するからといって、どうして彼はそんな話をするのだろう。レシエムの顔付きは、いつの間にか穏やかなものに変わっている。何かよいことを決心したような、満ち足りた表情。
(ああ、そうか。レシエムは、結婚したい相手ができたんだ)
そう思い至った瞬間、リベアティアは目眩を覚えた。仕方ない。レシエムは美青年だし、頭もいいし、性格だって表面上はともかく、本当は優しい。おまけに地位も身分もある。宮廷の女性たちからも人気があるし、結婚相手は引く手あまただろう。
自分を納得させようとして、リベアティアは無理やり明るい声を振り絞った。
「ふたつ目の話も朗報じゃない! そんな話をするってことは、結婚が決まったのね。おめでとう、レシエム」
「……は?」
レシエムはこれ以上ないほど、目を丸くしている。驚くのはこちらのほうだ。
「違うの……? じゃあ、どうしてあんな話を」
「……当たらずとも遠からず、と言うべきか。俺はまだ相手に求婚さえしていないし、相手がこちらをどう思っているのかすら分かっていない。いや、この分だと、先行きは不安か……」
肩を落とし、額を押さえるレシエムを前に、リベアティアは目をしばたたく。レシエムは恨みがましい視線をこちらに向けた。
「君だ、リベアティア。俺は、君に、結婚を、申し込みたい。理解できたか?」
「──嘘──」
そう言うのがやっとだった。
口元を押さえ、リベアティアは椅子の背に倒れ込んだ。まるで腰が抜けてしまったかのように、体が動かない。壊れそうなほどに心臓が高い音をたてている。
レシエムは気恥ずかしさのためか、白皙の顔を紅潮させる。
「嘘なものか。このような恥ずかしい冗談を言う趣味は、俺にはないぞ。どういうわけだか自分でもよく分からぬし、出会って月日も浅いが、俺は君が好きだ。君が独身主義だということは知っているし、お父君の遺産を継げるようになれば、君が焦って結婚する必要もないことは分かっているが……」
一気にまくし立てて疲れたのか、レシエムはそこで言葉を切った。
「最後に会った日から、ずっと考えていた。将来、君の後見人を辞す時がきても、俺は君にとって特別な存在でいたい。君は不快に思うかもしれぬが、ヴェロナ伯も俺の意向を承知なさっている。順序が逆になってしまったが、あとは君の答えを聞くだけだ」
リベアティアは頬を熱くして、頭をめちゃくちゃに振った。
「……待って、待ってよ。そんな急に言われても……」
レシエムは残念そうな表情を浮かべたが、その答えを予想していたようだ。
「……まあ、そうだろうな。俺たちは付き合っているわけではないのだし。だが、いつか答えは欲しい。どのような答えでもよいから」
それだけ言い残すと、レシエムは立ち上がった。彼が部屋から出ていったあとも、リベアティアは椅子から身を起こせずにいた。