第十八話 リベアティアの過去
何とか呆然自失の状態から回復したレシエムは、再びリベアティアのあとを追おうとした。だが、走ろうと一歩を踏み出しかけたところで思い直す。今、自分が何を言っても、彼女の心には届かないだろう。
(リベアティアの言葉で傷付いたのは俺ではない。むしろ彼女自身だ)
逡巡した末、仕方なくレシエムは応接室の中に戻ることにした。ここを去るにしても、ヴェロナ伯には挨拶をしておく必要がある。
扉を開けるなり、長椅子に腰かけたままのヴェロナ伯と目が合う。ヴェロナ伯は気まずそうに目をそらした。自分たちのやり取りが聞こえていたのかもしれない。レシエムは先程まで腰かけていた長椅子に、体を預けた。何を話したものか考えあぐねていると、ヴェロナ伯がぽつりと口を開く。
「ラリサ伯は死んだ私の妻──リベアティアの母親のことをご存知か?」
そういえば、リベアティアが家族について語ることはなかったような気がする。彼女が養父の後見を受ける前、祖父と暮らしていたこと。リベアティアの父親である先代ピサエ伯が養父の友人だったこと。夫の死後、夫人がヴェロナ伯と再婚したこと。その夫人も一昨年に亡くなったこと。そのくらいしかレシエムは知らない。
レシエムが首を横に振ると、ヴェロナ伯は視線を落とす。
「……あなたにも思い出話すらしていないということは、リベアティアは母親の死から立ち直れずにいるのだな」
(そうだ。リベアティアは、故郷にはいい思い出がない、と言っていた)
レシエムの脳裏に、寂しげにステラエの海を見つめるリベアティアの面差しが蘇る。彼女はなぜ、あんなことを言ったのだろう。レシエムも両親を亡くした生まれ故郷、サロネに対しては複雑な思いがあるが、時々なら懐かしむこともある。話したくないことは話さなければよいと、自分の経験からレシエムは思っていた。だが、その考えは間違っていたのかもしれない。
「辛いことをお伺いするようですが、奥方はなぜ?」
「……病死だ。病に気付いた時には、もう手遅れだと医者に言われた。本人も、もう長くないということが分かっていたのだろう。初めて、娘に会いたいと頼んできた。それまでは、私に遠慮して会おうとしなかったのだろうが、もっと早くに会わせていれば、と後悔したよ。……リベアティアには、病み疲れた母親の姿がひどい衝撃だったようだ。それから間もなくだ。妻が亡くなったのは」
リベアティアの記憶の中の母親は、幼い頃に別れた時の、若く美しいままだったはずだ。その母親が時計を一息に進めたような死に瀕した姿で現れ、ろくに語り合う間もなくこの世を去った。
リベアティアは二度母を失ったのだ。
ようやくレシエムは、リベアティアがヴェロナ伯を嫌う、本当の理由が分かったような気がした。
「リベアティアはこの屋敷で、お母君を看取ったのですか」
今日リベアティアは、ヴェロナ邸に訪れるのをさぞ嫌がっただろう。少し批難がましい口調で、レシエムは問いかけた。ヴェロナ伯は深い溜め息をつく。
「……確かに配慮が足りなかったとは思う。私とて、未だに妻の部屋には、足を踏み入れることさえできぬよ。だが、あなたがたを呼びつけるには、王宮は適当でないと判断した」
「それは──失礼を申しました」
レシエムは恥じ入った。リベアティアは母親を亡くしたが、ヴェロナ伯は妻を亡くしたのだ。リベアティアに感情移入するあまり、公平さを欠いてしまっていた。
驚いたことにヴェロナ伯は微笑した。
「いや、よい。あなたは先代のラリサ伯によく似ておいでだ。実直なところがそっくりだ」
そうだろうか、とレシエムは苦い思い出を噛み締める。
リベアティアと出会った時、レシエムは自分の都合を理由に、後見人を引き受けることを断ろうとした。身寄りを失い、リベアティアにとって数少ない味方だった後見人まで失った彼女の願いを、無下にしようとした。あの時、リベアティアは強烈に味方が欲しかったのだ。損得なしで、彼女を尊重してくれる味方が。
少なくとも、養父はその役目を果たしていた。養父はそういう人だった。困っている者を見捨てられない。自分も、実の両親も、養父の尽力によって、何とか貴族社会の末端に留まることを許されたようなものだ。
(俺は、どうなのだろう)
彼女にとって、味方に値する人間なのか。
ヴェロナ伯は天井を仰ぐ。
「慣習などには従わず、妻と再婚する時に、私はリベアティアとともに暮らすべきだったのかもしれぬ」
前夫との間の子供を婚家には連れて行かない。レシエムもその慣習のいわれは知らないが、おそらく、血縁による相続を徹底するために、昔から取られた措置なのだろう。あるいは、連れ子が義父の家で冷遇されることを防ぐためなのかもしれない。ヴェロナ伯の場合は後者だろう。彼とリベアティアの母親との間に子供はないが、先妻との間には何人か実子がいるはずだ。
「ですが、当時のあなたはあなたなりに、リベアティアの将来を考えておいでだったのでしょう。彼女の祖父君や、後見人であった私の父が、それから数年後に亡くなるなど、思いもよらなかったはずですから」
「気持ちはありがたいが、結果的に私は、あの子から母親を取り上げ、置き去りにしたのだ。あの子は短い間に、多くのものをなくしすぎた。その上、父親の遺産はすんなりと彼女のもとには入らない。理不尽ではないか……」
リベアティアの故郷での生活は、たった一言で集約される。失うこと。
だから、リベアティアによい縁談をと、ヴェロナ伯は躍起になっていたのだ。それは単なる罪滅ぼしなのかもしれない。再婚数年で亡くした妻の代わりに、その娘の世話を焼いているだけなのかもしれない。だが、リベアティアにいくら嫌われようと、ヴェロナ伯は彼女を心配し続けている。これだけは事実だった。
「枢密院で女性の相続権が見直されているというが、期待してもよいものなのか?」
ヴェロナ伯の表情は半信半疑だ。秘書官としてその法案に関わるレシエムは、苦笑まじりに答える。
「少なくとも、国王陛下は本気でおわします。秘書官として、リベアティアの後見人として、私も微力を尽くさせていただきますよ。成立にはまだ時間がかかりますが、以前のように希望が皆無でない分、遥かにましです」
「それを聞いて少しは安心したが……あなたはそれでよいのか? 法案が成立すれば、リベアティアの後見人を続ける必要もなくなると思うが」
思いがけないヴェロナ伯の指摘に、レシエムは絶句した。法案が提出された時から、いずれ、後見人としての自分の役目が終わりを迎えることは、重々承知しているし、覚悟もしている。しかし、ヴェロナ伯はどうして知っているのだろう。レシエムがリベアティアの後見人を辞すことに、名残惜しさを感じていると。
レシエムが返答できずにいると、ヴェロナ伯は納得したように何度も頷く。
「……やはりそうか。私が二人の関係を訊いた時、ラリサ伯は文書のように模範的な答えを返してこられた。普通はリベアティアのように動揺するものだ。しかし、あなたは冷静すぎた。いつ問われても取り乱さぬよう、普段から答えを準備なさっていたのだろう?」
レシエムがリベアティアに好意を持っていることは、とっくにばれていたというわけだ。レシエムは黙りこくって俯いた。ヴェロナ伯は人の悪い笑みを浮かべる。
「やれやれ、私の目はとんだ節穴だった。リベアティアの縁談に最適なご仁を、選び損なっていたのだから」
レシエムは赤面し、ますます俯いた。