第十七話 ざわめく心
「……ある日、鷲頭獅子にその身を変えた太陽神リュロイは、黄金色の翼を広げ、空を駆け上っていきました。ところが、悪い狩人に毒矢で翼を射抜かれてしまったのです。リュロイはまっさかさまに地上に落ちていきました。翼からは血が流れています。痛くて苦しくて、リュロイは地面をのた打ち回りました。そこへ、優しい声がかけられました。『まあ、可愛そうに』。その少女はソルエという名の巫女でした。ソルエはリュロイを手当てし、三日三晩、看病を続けてくれました。やがて……」
「……つまんない。ディーケ、おへやにかえって、おにんぎょうとあそぶ」
ぷいっとそっぽを向いて立ち上がると、ディーケは本を読み聞かせていたリベアティアに背を向けて歩き出す。
「これ、ディーケ。せっかくご本を読んでもらっているのに、リベアティアに失礼でしょう」
向かいに腰かけていたロスヴィータが注意したが、ディーケはすたすたと歩き、扉の前で立ち止まった。まだ幼い王女は把手に手が届かないのだ。苛立ちを露わにして扉の向こうに叫ぶ。
「あけて! ディーケ、ここからでる」
扉を開けたのは近衛騎士ルエンだった。国王は妻子の安全を守るため、東殿の近衛騎士たちを交代で派遣し、離宮を警衛させている。国王の側近であるルエンも例外ではない。
ロスヴィータは立ち上がり、ルエンに声をかける。
「ルエン卿、悪いけれど、ディーケを部屋まで連れていってちょうだい」
「御意。さ、王女殿下、私についていらっしゃいませ」
ディーケはこくんと頷くと、ルエンに手を引かれ、去っていった。
「……ごめんなさいね。あの子、最近落ち着きがなくなってきて。やっぱり、父親と引き離したのがいけなかったのかしら……」
再び座り直したロスヴィータは、美しい手で頬を押さえた。ロスヴィータは頑なに国王と会うことを拒否しているが、彼がディーケと会うことだけは許している。それでも、一家の食事は別々だし、今まで通りに会えるわけでもない。子煩悩な父王に、ディーケはよく懐いていた。
ふと、リベアティアは母と別れたばかりの、十歳の頃を思い出した。悲しくて、誰を責めたらいいのかも分からなくて、リベアティアは毎晩一人で泣いていた。ただ、母に会いたかった。父を亡くした時のことは、もうぼんやりとしか覚えていないが、やはり自分は泣いたのだろう。
自分の経験をロスヴィータに話すのも憚られて、リベアティアは「いいえ、とんでもないことでございます」とだけ答えた。
室内の重い空気を取り除くためだろう、ロスヴィータは話題を変えた。
「そういえば、リベアティアは知っていて? 最近、枢密院で、女性の相続権を認める法案が審議され始めたそうよ。この法案が可決されて、議会でも決議されれば、あなたは晴れてピサエ女伯よ」
一瞬、リベアティアは言葉を失った。自分が爵位を継ぐ日がくるなど、夢でしかありえないと思っていたのだ。それが、もしかして現実のものになるかもしれない。
「……もしそうなったら、わたしは爵位と領地を王室に返上──」
そう言いかけて、リベアティアははっとした。父の遺産を返上してしまえば、もうレシエムは自分の後見人ではなくなってしまう。
「早まった真似はおよしなさい。爵位を継げば、もちろん悪い男も寄ってくるでしょうけれど、あなたが主導権を握ることができるのよ。それに、自分の思うままに領地や財産を管理することもできれば、産んだ子供が娘ばかりだからといって失望する必要もない。素晴らしいことよ。わたくしは、あなたが女伯になっても女官を続けてもらいたいけれど」
王子のいないロスヴィータは、我がごとのように瞳を輝かせた。
リベアティアは素直に喜ぶことができなかった。
男の人には頼るまい、と今まで懸命に働いてきた。自分に娘しか生まれなかったら、子供が可愛そうだから結婚はしない、と固く心に誓ってきた。だが、爵位と財産を相続してしまえば、もうそんなことで意地を張る必要はなくなる。
その時、一体自分の中に何が残るというのだろう。そう思うだけで、足元が崩れ落ちていくような気がした。
レシエムも爵位を継いだリベアティアの後見人を、いつまでも続けてはくれないだろう。彼はリベアティアの自立心に敬意を払ってくれている。リベアティアが領地や財産の管理方法を覚えたら、すぐに後見役を退くはずだ。
(どうしてわたしは、彼を失うことを恐れているの……?)
そう思い至り、リベアティアは呆然とした。
「どうしたの、リベアティア。顔が真っ青よ」
ロスヴィータの心配そうな声が、遥か遠くから聞こえてくるように、リベアティアには思われた。
それからというもの、リベアティアの頭の中は靄がかかったようになってしまった。ヴェロナ伯からの手紙が届いたのはそんなおりだ。手紙には、話があるので明日屋敷にくるように、とだけ書かれていた。
こんな時にヴェロナ伯に会うのは気が滅入ったし、母の臨終の場所である彼の屋敷を訪れるのも嫌だ。しかし、認めたくなくともヴェロナ伯は自分の義父だ。手紙がきている以上、知らん顔をするわけにもいかない。
(せめてレシエムが同行してくれたら……)
リベアティアはそこまで考えてやめた。今、レシエムに会うのはひどく辛い気がした。なぜ、自分にとって彼の存在が、短い間にここまで大きくなってしまったのか。彼の性格や生い立ち、交友関係を知ったことや、何度も助けてもらったこともあるだろう。だが、それだけでは説明できない何かがある。それがリベアティアには分からない。
悶々としている間に、翌日はやってきた。リベアティアはヴェロナ伯がよこした馬車に乗り、屋敷へと足を踏み入れた。母が死んだ時のことを思い出したくなかったので、リベアティアは何も考えないように努め、執事に案内されて応接室に入った。
一礼しようとして、リベアティアは驚いた。室内にはヴェロナ伯の他に、もう一人の人物がいたからだ。
(レシエム……)
リベアティアと目が合うと、彼の瞳が微かに揺れる。レシエムも、リベアティアが呼び出されていたことを知らなかったらしい。礼儀を払うことなどどうでも良くなり、リベアティアはヴェロナ伯に詰問する。
「どういうことです。ラリサ伯までお呼び立てなさって」
「……その理由を先に話せば、そなたはここにはこないと思ってな、あえて別々に招くことにした。とりあえず、そなたもかけなさい」
ヴェロナ伯は腹の上で手を組みながら、淡々と答えた。レシエムはヴェロナ伯と向かい合って、長椅子に腰かけている。少し迷った末、リベアティアはレシエムから距離を置いて座った。
ヴェロナ伯は彼にしては珍しく、言いにくそうに何度も口を開閉させる。
「……実は最近、宮廷内で妙な噂がある。ラリサ伯とリベアティアが親密に交際している、という噂だ」
リベアティアは咄嗟に何かを言い返そうとしたが、言葉が出てこない。こちらを一瞥したあと、レシエムが冷静に応じる。
「確かに男女が頻繁に会っていると、そのような噂が流れることもあるでしょう。ですが、私たちは後見人と被後見人として、もしくは最近親しくなった友人として会っているだけです。やましいことは何もしておりません」
あまりにも淀みない否定の仕方に、リベアティアは鈍い衝撃を受けた。レシエムの言っていることは正しい。正しいが、何かが違うような気がする。
リベアティアの分のお茶を淹れに執事が現れ、話は中断した。執事が退出すると、ヴェロナ伯は思い出したようにお茶を飲む。
「それならよい。ラリサ伯がそうおっしゃるのなら、事実なのだろう。だが、二人とも妙齢なだけに、噂の対象になりやすいことだけは覚えておいたほうがよかろう」
「……それでは、わたしたちに、もう会うな、とでもおっしゃるのですか」
身内から出た暗い声を聞き、リベアティアは予想以上に自分が苛立っていることに気付いた。ヴェロナ伯は眉をしかめる。
「そうは言っておらぬ。噂は一人歩きしやすいものだから、気を付けろと言っておるだけだ。もし手に負えなくなったら、私を頼ってくれても構わぬ」
他の人がこの言葉を聞いたら、感謝したかもしれない。だが、リベアティアはそうすることができず、かえって苛立ちを強めた。自分と血が繋がっているわけでもないのに、母の再婚相手にすぎないこの男が、どうしてここまで差し出がましい口をきくのか。そのことが、ただただ無性に腹立たしい。
「偉そうなことをおっしゃらないで。父親でもないくせに」
いつも喉から出かかり、その度に呑み込んでいた台詞を、リベアティアは口にした。
ヴェロナ伯の顔に動揺が広がり、やがて彼は呟くように「そうだな」とだけ言った。
「リベアティア」
隣を見ると、レシエムがこちらを見つめている。深い碧眼には、厳しい光と悲しみに似た光が、まざり合って交互に揺れていた。
「気持ちは分かる。だが、言い過ぎだ。ヴェロナ伯に謝ったほうがよい」
頭を殴られたような衝撃が、リベアティアを襲った。
(レシエム、あなたはわたしの味方じゃなかったの──?)
言葉にならない問いかけが、リベアティアの中で溢れた。リベアティアは立ち上がった。足元が少しふらついたが、気にせずに扉のほうに歩いていく。
「リベアティア! どこへいくつもりだ?」
うしろから聞こえるレシエムの呼びかけには応えず、リベアティアは把手に手をかけ、廊下へと出た。すぐに扉が開く音が響き、部屋の中からレシエムが現れる。
「リベアティア、ここで逃げても何も始まらない。ヴェロナ伯と話し合おう」
リベアティアはレシエムを見上げ、震える声を絞り出す。
「──レシエムは、どうして、わたしよりヴェロナ伯の肩を持つの?」
「別に、伯の肩を持っているわけではない。ただ、俺は聞き捨てならないだけだ。実の親ではないからといって、あのようなことを言うものではない。きっと、あとで後悔する」
「どうして」
リベアティアが重ねて問うと、レシエムは長い睫毛を少し伏せた。
「……俺も昔、君と同じようなことを養父に言った。『どうして伯父上は、私を養子になさったのですか。私はラリサ伯位など望んでいなかったのに』と」
レシエムはそこで言葉を切った。彼は今でも後悔しているのだ。亡き養父に言ってしまった、取り返しのつかない言葉を。
「今思えばひどい言葉だ。養父母が俺にかけてくれた愛情を否定するも同然の言葉だった。例え、跡継ぎが生まれていても、養父母は俺を引き取り、実子と同じように育ててくれただろうに」
気後れしそうになりながら、リベアティアは必死の抵抗を試みる。
「……でも、ラリサのおじさまとヴェロナ伯は違うわ」
「俺にとっては違うが、君にとってはどうだろうか。養父も実父も、俺にとっては掛け替えのない存在だ。だが、君は俺の養父には感謝しながら、ヴェロナ伯のことは嫌っている。君に対する心遣いの上では、二人の間にそう差異はない。だから、素直になったほうがよい」
「素直になんてなれないわよ! レシエムにはわたしの気持ちなんて分かりっこない。形がどうあれ、レシエムみたいに家族にも友達にも恵まれて育った人には──」
ひどいことを言っている。レシエムは傷付くだろう。言い終えないうちに、リベアティアはそのことに気付いたが、止められなかった。大きく目をみはり、立ち尽くしているレシエムに背を向けると、リベアティアはその場から走り去った。




