第十六話 決着
「海豚亭」は昼食時と夕食時に開店する料理屋で、今は昼食を食べにきた客で賑わっている。いつもの二階席は既に埋まっており、レシエムたち三人は厨房が見えるカウンター席に腰かけた。
気まずい空気が流れる中、三人が注文した料理をフリーダが運んでくる。がちゃん、とひときわ高い音を立て、彼女はリヒトの前に皿を置いた。リヒトは剣呑な眼差しでフリーダを見る。
「何だよ、その態度。俺は今日、客としてここにきてるんだぜ」
「あんたこそ、料理を運んでもらっておいて、ありがとうの一言もないわけ?」
覚悟はしていたが、いつもの喧嘩以上に険悪な雰囲気である。
「早まったかしら?」
リベアティアに小声で囁かれ、レシエムは肩をすくめた。この場を設けた責任がある以上は、後悔するよりも、二人の仲を取り持たねばなるまい。
「二人とも落ち着け。まず、二人から聞いた話を整理したい。訂正して欲しいところがあったら、遠慮なく指摘してくれ」
「望むところだ」
「店主、すみませんけど、わたし、しばらく仕事を抜けますから!」
リヒトとフリーダがその気になってくれたようなので、レシエムは話を続ける。忙しい時間帯にフリーダを拘束することになってしまうが、二人の将来がかかっている。やむを得まい。
「フリーダとの結婚が決まり、リヒトは旅の計画を中止し、この店を継ぐことにした」
「……そうだ」
レシエムに正確な事実を話していなかったことを思い出したのか、リヒトは渋い顔をした。レシエムはフリーダを見やる。
「ところが、それを聞いたフリーダは、リヒトが夢を諦めてしまうことに耐えられず、怒り出し、結婚は破談になった」
「……まあ、そんなところよ」
不承不承といった様子でフリーダが認めると、リヒトは目をみはる。
「おい、ちょっと待てよ。お前、あの時はそんなこと一言も」
「仕方ないでしょ。あんたの夢を断念させないためには、そうするしかなかったんだから」
「ふざけんなよ。第一、店のことはどうするんだよ」
「店のことはわたしと父さんの問題でしょ。それに、あんただって、ご両親に結婚のことを秘密にしてたじゃない。わたしはそういうの、嫌よ」
「親のことは関係ねえだろう。お前が引き合いに出す旅のことだって、了承を取ったわけじゃねえ。それに、俺の夢が旅に出ることだけだと? 勝手に決め付けるな!」
リヒトの瞳が、内面の激しい感情を映し出している。フリーダは絶句していたが、怒りを露わに言い返す。
「わたしは、見たこともない街や国や風景を見るために頑張ってるあんたが好きなの! 一人の女のために根を生やすあんたなんて好きじゃない。どうしてもそうしたいなら、野垂れ死にせずに帰ってきてからにしなさいよね!」
彼女の剣幕に、今度はリヒトのほうが押し黙る番だった。レシエムとリベアティアは、思わず顔を見合わせた。周囲の客の視線を痛いほどに感じる。フリーダの声が店内の喧騒に吸い取られてしまったあとで、リヒトはふと言った。
「俺はお前が思ってるほど、器のでかい男じゃねえよ。俺は怖いんだよ。何年もたって、旅から帰ってきた時、お前が俺のことを忘れずにいてくれているか、俺は怖い」
フリーダは怒りを消し、眉根を寄せて顔を伏せる。
「……そう。リヒトは信じてくれないのね。わたしのこと」
「違う、そうじゃねえよ。ただ、俺は今まで散々遊んできたから、確実なものが欲しい。それだけだ」
リヒトはやるせなさそうに、カウンター越しのフリーダを見上げた。フリーダは視線を合わせようとしない。
「……同じことよ、結局」
レシエムは半ば呆然として、ことの推移を見守っていた。これはもう、自分がどうこう言って収集できる問題ではない。そのことにようやく気付かされた。男女の機微に関して疎い自分が、今日ほど情けなく思えたことはなかった。
「だったら、先に誓いを立ててしまえばいいと思います」
思いがけないことを口にしたのは、レシエムの隣に座るリベアティアだった。レシエムを含めた三人の視線が、一斉に彼女に注がれる。リベアティアは背筋をまっすぐに伸ばして説明する。
「お二人が結婚式を挙げてしまえば、フリーダさんはお父さまのお店を手放さずにすみます。結婚式は証人と神官がいれば成立するし、フリーダさんのお父さまは賛成なさってるんでしょう。そのあとでリヒトさんが旅に出れば、お二人とも少しは安心できると思います」
リヒトがおずおずと口を挟む。
「いや、でも、結婚したばかりの相手と何年も離れるのって、嫌じゃないか?」
「それはそうかもしれないけど、実際、家族と離れて任地に赴く人だって、たくさんいるのだし、お互いの覚悟の問題だと思うわ。そもそも覚悟を持てないようなら、最初から結婚すべきじゃないんだし」
「その娘さんの言うこと、一理あるな」
いつの間にかフリーダのうしろに立っていた店主が、大きく頷いた。フリーダが驚きの声を上げる。
「父さん」
「フリーダ、お前も意地を張ってないで、もう一度考え直したほうがいい。お前みたいな鼻っ柱の強い娘を嫁にもらってくれる相手なんざ、そうそういるもんじゃない」
それだけを告げると、強面の店主は厨房へと引っ込んだ。夢から醒めたような顔をして、リヒトとフリーダは見つめ合っている。
(やれやれ、どうやら俺の出番はなさそうだな)
レシエムは苦笑しながら、料理を食べるよう、リベアティアに目配せした。
あれから、リヒトもフリーダも毒気を抜かれたように大人しくなってしまった。リヒトは店に残ってフリーダと話し合うことに決め、レシエムとリベアティアは二人だけで帰路に着く途中だ。リベアティアを王宮へと送る道すがら、レシエムは彼女に言った。
「まさか、君が人に結婚を勧めるとは思わなかったぞ」
「わたしは自分が結婚するつもりがないだけ。人にまで独身を奨励するつもりはないわよ」
リベアティアは不服そうだ。彼女を可愛らしく思う反面、その答えは鉤のようにレシエムの心に引っかかる。
「本当に結婚するつもりはないのか? 過去に結婚後も女官を続けた女性もいたと聞いたことがある。結婚後に女官になる女性もいるだろう。ヴェロナ伯の勧める縁談はともかくとして、将来、好きな男でもできたらどうする気だ」
「できないわよ、そんな人」
リベアティアの口調は、どこか投げやりだ。レシエムは落ち着かない。フリーダに続き、またも脈のない相手を好いてしまったのだろうか。もし、この場で告白したら、彼女はどんな反応をするのだろう。結果を考えると、少し、いや、かなり怖い。まだその時ではないと思い直し、心の中でレシエムはかぶりを振った。
リベアティアが呟くように訊いてくる。
「……わたし、偉そうにあんなことを言っちゃったけど、リヒトさんとフリーダさんはちゃんと仲直りできるのかしら」
「それは二人次第だ」
「淡白ねえ。前は仲直りして欲しいって思ってたんでしょ?」
「そうだ。だが、今日気付いた。俺は自分の描く理想像を、彼らに押し付けようとしていただけだった。二人には幸せになって欲しい、という理想をな。元々、俺が差し出がましい真似をするようなことではなかったのだ。だから、結果がどうなろうとも、これからは彼らの選択を受け入れたい」
自分の恋がかなわないのなら、フリーダとリヒトには幸せになって欲しいと思った。その考えこそが、今思えば傲慢だったのだろう。王宮の門が見え始めると、レシエムは立ち止まった。
「だから、君も気にするな。今日はありがとう。君がいなかったら、俺にはどうしようもなかった」
「いいえ。少しでも役に立てたのなら、それでいいの。色々なところに連れていってもらえたし、わたしのほうこそお礼を言わなくちゃ。ありがとう」
リベアティアはほほえみながら手を振ると、小鳥のように身を翻し、門に向け歩いていく。途中で一度だけ振り返り、彼女は大きく手を振った。少し恥ずかしかったが、レシエムも手を振り返す。
レシエムはしばらくの間、その場に佇んでいた。名残惜しさを振り払い、自宅を目指し歩き始める。街は既に、透明な橙色の光に包まれていた。