第十二話 海豚亭にて
ホルテンジエ家をあとにしたレシエムは、まっすぐ屋敷に帰る気が起こらなかった。リヒトはリベアティアとの見合いはしないと約束してくれた。だが、どうにもすっきりしない。リヒトとフリーダが別れていたという話だけでも、心を掻き乱されるのに、もうひとつ考えねばならない懸案が発生してしまった。
(俺がリベアティアに惚れているだと? リヒトめ、でまかせにしても失礼なことを言ってくれる)
足の向くままに街路を歩きつつ、レシエムは心の中で悪態をつく。出会ったばかりで、しかも被後見人であるリベアティアを、自分が好きになるはずがない。
理詰めで否定しようとするが、処理しかねる感情に思い当たるのも事実だった。彼女と会う度に感じる、心地よいくすぐったさや胸の高鳴りは、レシエムがかつて体験したものと酷似していた。ひとつ年上のフリーダに対する感情は憧憬にも似ていたが、リベアティアに対しては守ってやらなくては、と思う。
要するに保護者意識だ。そう結論付け、辺りを見回すと、見覚えのある風景が広がっていた。港へと続く白い坂。質素だが温かい印象を受ける建物の数々。三時を告げる鐘の音が王都ステラエ中に響き、海風に運ばれて潮の香りが鼻腔に届く。レシエムは坂を下っていった。
接岸した帆船をはっきりと見渡せるほどに港へ近付く。船乗り向けに商売をする店が建ち並ぶ通りに入る。「海豚亭」という看板が掲げられた料理屋の前で、レシエムは足を止めた。微かに緊張するが、ここまできたからには迷うことはない、と自分に言い聞かせる。扉には準備中の札がかかっていたが、逆に都合がよいと思い、レシエムは店の中に入った。
「準備中のところ、失礼する」
声をかけると、若い女が奥の厨房から現れる。
「失礼だと思うなら、開店中に入ってきてくださいな。あら……レシエム?」
彼女──フリーダは栗色の目をみはったが、すぐに親しみをこめた笑顔になった。
「久し振りね。故郷に帰るって挨拶にきてくれて以来じゃない? 全然顔を見せてくれないから、心配してたのよ。でも、元気そうね」
「すまない。こちらに戻ってきてからも、色々と立て込んでいてな」
懐かしさとほろ苦さがレシエムの胸に滲んだ。その一方で、以前のように心が浮き立つような感覚はほとんどない。
(ああ、これが本当の意味での、失恋という奴なのだな)
結局、フリーダに告白することもなく、彼女への想いを誰かに示唆することもなく、それは灰のように崩れて消えてしまったのだ。
「レシエムが久し振りにきてくれたんだから、大盤振る舞いしないとね。父さんに頼んで、何か持ってくるわ。適当な席にかけてよ」
レシエムの返事も聞かず、フリーダは店主である父親の待つ厨房へと戻っていった。頭の上で結った彼女の栗色の髪が、元気に揺れている。レシエムは仕方なく、港を一望できる二階席へと向かう。リヒトと二人でよく座っていた席だ。リヒトに連れられ、初めてこの店にきてから、もう五年もたつ。
法学院生や大学生たちが利用する料理屋よりも、リヒトは船員や商人たちの生きた情報の飛び交うこの店を好んだ。他の女のことは誉めちぎるくせに、彼はフリーダの前でだけは毒舌を吐き、彼女をよく怒らせていた。
そんな二人が相思相愛だと知り、レシエムは驚きもしたし、落胆もした。それからは、リヒトとフリーダの誤解を解くように努める日々だった。敵前逃亡したようなものだが、自分を納得させるためにはその方法しかなかったのだ。
物思いに耽っていると、皿を食卓にのせる音がした。湯気を立てるスープ皿の横に、温めた葡萄酒の碗をフリーダが置く。
「はい、特別ご奉仕。蜂蜜入りよ」
「ありがとう。フリーダ、忙しいところすまぬが、少し話せないか?」
「いいわよ、まだ開店まで時間があるし」
フリーダは向かいの椅子に腰かけた。レシエムは重い口を無理やり開く。
「さっき、リヒトに会ってきた」
フリーダの顔から、みるみる活発さが失われていく。レシエムは息苦しくなったが、さらに続ける。
「結婚話が破談になったことを聴いた。余計な世話かもしれぬが、何が原因だ?」
フリーダは押し黙っている。レシエムはじっと彼女の回答を待った。
「レシエムって、時々、妙に面倒見が良くなるよね。嫌いじゃないよ、そういうところ」
微笑を含んだ前置きをしたあと、フリーダはぽつりと呟く。
「……あいつが、この店を継ぐなんて言い出したから」
初耳だ。どうやら、リヒトは肝要なことは教えてくれなかったらしい。レシエムが相槌を打つと、フリーダは平素の彼女に似合わない、小さな声で話し始める。
「あなたも知ってるでしょ? わたしが一人娘で、婿を取らない限り店を継げないってこと。そりゃあ、店は大切よ。でも、リヒトが店を継ぐってことは、あいつが夢を諦めるってことなのよ。夢のないあいつなんて、親のすねかじってるだけの、どうしようもない女好きじゃない」
「それで、喧嘩になったのか。だが、リヒトは君が怒っている理由を分かっていないようだったぞ。なぜ、きちんと説明しようとしない」
「だって、そんなことしたら、あいつは本当に地に足を着けちゃうわよ? 安心しろ、東方見聞なんてどうでも良くなった、とか何とか言ってさ。しかも、あいつったら、婿入りのことをご両親に相談してなかったのよ。いくらステラエが広いって言っても、いつかばれるに決まってるじゃない!」
フリーダの声は、いつもの調子に戻っていた。レシエムは苦笑を漏らした。こうやって怒っている時のほうがフリーダらしい。だからこそ、彼女と本気で喧嘩をし合えるリヒトが、フリーダの傍にいる必要があるのだ。
「それでも、俺はもう一度リヒトと話し合うべきだと思う。奴には奴の言い分があるだろうし、このまま、お互いにそっぽを向いているのは良くない。俺が話し合いの場を設けてもよい。頼む」
レシエムが軽く頭を下げると、フリーダは「やめてよ」と言う。
「レシエムがそこまでする必要はないわよ。かえって、これで良かったのかもしれない。元々リヒトとわたしとじゃ、釣り合わなかったのよ」
「何が。家柄のことを言っているのなら、それは間違いだ。家柄や身分の差は、大した問題ではない。問題があるとすれば、人々の意識だ。自分たちとは違う者を認めたがらない偏見こそが問題なのだと、俺は思う。俺の実の母は農民だ。実父と出会って結婚するまでは、本当に貧しい生活だったと聞いている」
自分自身に言い聞かせるように、レシエムは説いた。
(父上と母上は身をもってそれを証明してくれた。そうだ、俺は誇りに思っていい。土を耕す血が、自分の中に流れていることを)
卑屈になる必要はないのだ。
レシエムが息をつくと、沈黙が訪れた。やがて、フリーダは盆を手に、ゆっくりと立ち上がる。
「……冷めちゃうわよ、料理。早く食べてね」
「……ああ」
レシエムが返事をすると、フリーダは階段の前で立ち止まった。
「もう少し、時間をちょうだい」
彼女が階段を下りていく音を聴きながら、レシエムは窓の外を眺める。日の短さを惜しむように、夕陽が地平線を赤く染めていた。
窓から差し込む夕陽が、白い壁に赤い光を投げかけている。王妃の私室で、主の話し相手をしていたリベアティアは、うっとりとその光を見つめた。
「綺麗ですね。自然のものって、どうしてこんなに綺麗なのでしょう」
「それは、神々がお創りになったものだからだと思うわ。人の作ったものが及ばないゆえん。ね、話は変わるけど、リベアティア。あなた、恋人ができたのですって?」
思いもかけないロスヴィータの質問に、リベアティアは赤面するよりも唖然としてしまった。もしかして、最近レシエムと会うことが多いからだろうか、と思い至り、慌てて否定する。
「ち、違います! 彼にはわたしの後見人を務めていただいているだけで……どなたです? そのような見当違いなことをおっしゃったのは?」
ロスヴィータは口元を押さえ、吹き出した。
「女官たちの間では、ちょっとした噂よ。あなたが新しいラリサ伯と仲睦まじく話しているって。何でも、手紙までもらったとか」
(オティーリエだわ! 全く……)
犯人が分かってしまうと、急に恥ずかしさがこみ上げてくる。一度は険悪になったレシエムとの仲を、そんな風に見られていたとは思わなかった。レシエムが知ったら、どう思うのだろう。
ロスヴィータはいたずらっぽく笑う。
「今まで浮いた噂ひとつなかったのだもの。たまにはいいのではなくて? それに、あなたは結婚しないつもりのようだけど、恋だけを経験しておくのも悪くないわよ」
「え、でも、わたしは器用ではないので……」
リベアティアが口ごもってしまうと、ロスヴィータは「そうねえ」と同意する。
「そういえば、ラリサ伯は先頃、国王秘書官に任命されたそうね。明日の夜、幻影宮では彼の歓迎会が開かれるそうよ。わたくしは出席しないけれど、リベアティアは出なさいな。他の女官たちにも、あとで同じように伝えておくから」
「ありがとうございます、王妃陛下」
内心で冷や汗をかきながら、リベアティアは頭を下げた。ロスヴィータは国王を許す気はおろか、積極的に顔を合わせる気もないらしい。
それにしても、一昨日に会った時、レシエムは歓迎会のことなど一言も口にしていなかった。単に言い忘れただけかもしれないし、彼の性格からして、言う必要はないと思ったのかもしれない。
(まさか、歓迎される本人が知らないってことはないわよね……)
その疑念はすぐに消えてしまい、リベアティアは夕食の時間がくるまで、ロスヴィータと歓談を続けた。