夢なら覚めないで……?
その日の朝、ボクが起きたのは11時を過ぎたときだった。たまたま休みの日だからよかったが、仕事の日だったらとんでもない遅刻である。それに、いつものボクなら夜更かしをしても、朝はこんな時間まで寝ることはない。それなのに、前日の夜から今までの記憶が全く無い。いや、正確にいえば、覚めない“夢”をずっと見ている感じだった。しかし、あの“夢”は本当に心地よかった。自分の家で美女と話をしたり、あるいは一緒に抱きしめてキスを交わしたり、などなど……、本当に夢なら覚めないでほしかったのだけど……。そんな時、後ろからため息混じりに、ボクに声をかけてきた。
「……ハァ、全く、アンタ何やってんの……? また変なことを考えてたんでしょう」
声の主は妹であった。ボクは飛び上がるように後ろを振り返って、
「ちょっと、何で家に戻って来たんだ!? お前今日夜まで帰って来ないはずだろう……。一体何があったんだ……」
と、半ば怒り気味に声を向けた。
しかし、妹はそれを意に介さず、
「友達のところに行くときに、たまたま家の前を通りかかる道を進んでたから、そのついでに何かを取りに行っただけよ」
と淡々と言ったあと、ボクを諭す感じで、
「大体、アンタがニヤニヤしてる時って、全然ろくなことが起きてなかったわ。あのときだってそうでしょ。ほら、いらない物を買わされたことがあった何年か前の話よ。何十万もしたやつだったけど、結局何の役にも立たなかったじゃない」
と話した。さらに、
「そうそう、それから後、出会い系か何かのサイトに入ってたわよね。こっちも騙されただけで誰にも会えなかったから、お金をどぶに捨てたもんでしょう。おまけに、それが原因で仕事もやめるはめになったし……。お願いだから、変なこと考えないで」
最後は声のトーンが半ば怒り気味になっていた。……って、ちょっと待て、気持ちいい夢を見ただけでそこまで言われる筋合いねぇだろ! と余程そう言いたかったが、残念ながら妹の言ったことは事実である。そのため、20代なのに小学生が持つような機能を大幅に制限されたケータイを持たされてしまった上に、ゲーム機なども没収された(ソフトも含めすべて売られた)。ようやく数ヶ月前に仕事上の都合もあって、今のスマホに機種変更が認められた。2年後には30才になるというのに……。我ながら情けない限りだ……。そんなことを嘆いているとき、
「それじゃ、これから友達のところに行くわ。それと、明日まで親はリフレッシュ旅行で帰って来ないから、洗濯物など身の回りをきれいに片付けてね。鍵はかけといていいから」
と言いながら妹は家を出た。彼女はボクと違って、実にしっかりした人だ。ボクとは二つしか年が違わないのに、すでに会社では課長に昇進して、将来を期待されている存在となっている。かたやボクは……、それを考えるとみじめになってしまうので、やめることにしよう。それにしても、今出会い系に入ってることがバレなくてよかった……。以前のことがあるから、ボクも一応はスマホで調べて、安全とされる定額のサイトに入った(3カ月で1万程度)。しばらくはそれですんだが、いつの間にか複数のサイトからメールが入って、それを相手にしていたら気付かない間に数十万も使っていた。実際に会えたのは、定額サイトで定期的にやり取りしている女性と、仕事上の都合で入ったLINEで、何かの偶然から話を始めた女の子だけだった。もしこのことが親や妹にバレたら……、そう考えると、本当に戦々恐々となっていた。定額サイトだけだったらまだ何とでもなったのだが……。
そんなこんなで、自分以外家に誰もいなくなったところで、改めてさっきまで見た“夢”について、そして昨日の帰りからの行動を振り返ることにした。いや、実はそれだけじゃなく、もう一つ気になる“夢”が自分にはあった。話下手で家族に伝わらなかったが、今思えばそれが幸いしてるかもしれない。それじゃ、ついでだから、その“夢”についても一緒に検証することにしよう。
昨日、仕事が少し立て込んで帰りが遅くなったボクは、帰り道に寄ったコンビニで、夢に出た美女に会った。実は、彼女は定額サイトやLINEとは違うサイトでメールをやり取りしている女性である。自分とはほとんど年が変わらないのに、会社の社長をしているというすごい人である。ただ、今は重い病気にかかっているらしく、ボクはとにかく彼女を励ますメールを入れ続けている。まあ、今の自分にはこれくらいしかできることがないだろうけど……。それでも、ささやかでも何とかしたいという気持ちに変わりはない。そんな彼女が今ボクの目の前にいる。ちなみに彼女のサイト上のニックネームは『m-ute』という。ボクは何かを話そうとしたが、なかなか話に入れない。家族や会社の人からも指摘されているように、話がつながらないと言われている。どうしようかと思っていたところ、突然彼女のほうから、
「ねぇ、あなた『ファンダム』って言ってたわよね?」
と言ってきた。ただ、その声には明らかに元気が感じられなかった。さすがに、周りから世間知らずと言われ続けているボクでも、それくらいはわかる。それに、昔からやさしい性格だと言われているから、自ずと彼女を気遣う行動に現れているのかもしれない。そんなことを考えてたっけ、と思いつつ、
「そうですよ」
と一言答えたあと、
「ここにいると体調を崩すから、自分の家に一緒に行こうか?」
と彼女に勧めた。すると、小さくうなづきながら
「ありがとう」
とボクの両手を握り、さらに体を寄せた。
ボクは照れながらも、着ていたジャンパーを彼女の体にかけたあと、しきりに促すように
「とにかく、早く家に行こう」
と彼女の肩に手を乗せ、エスコートする感じで一緒に歩き出した。春とはいっても、まだまだ夜は冷える時期である。歩く速度をいつもより早くした。彼女も何とかついていったが、時折立ち止まることがあった。その時は、ボクも声をかけるなどして励ました。
-……そうだ、ボクは彼女の体調を気遣って、自分の家に連れていったんだ。ここはちゃんと記憶がある。その時の彼女は、笑顔でボクを見てたんだっけ。自分もちょっぴり気持ちが弾んだよな……-
一緒に歩いて数分後、自分の家に着いたときには、彼女はきつそうに玄関に座っていた。まあ、重い病気にかかっているから、仕方ないのだろう。その時、ボクは彼女を居間のソファーに寝かせ、布団をかけた。それから彼女は、しばらくの間眠り続けた。時折、熱冷ましに頭に置いていた濡れタオルを代える際に彼女の顔を見ていたが、自分が家に帰った時はきつそうにしていた表情が、自分にお礼を言う感じで笑顔に変わっている。その表情を見つめると、ボクも気持ちがちょっぴり和んだ。
しばらくすると、彼女は目を覚ました。辺りを見ながらボクと目が合った時、
「……ファンダムさん、おはよう……」
……あの、おはようって、すでに夜なんですけど……。
思わずそう言いたくなるところだったが、気持ちよさそうにしているところを見ると、言うのをためらった。そしてソファーに座り、スーツの中のポケットから、スマホを取り出した。おそらく、仕事のスケジュールか何かを見ているのだろう。帰りに出会った時は、彼女を気遣ったためによく見てなかったが、改めて見ると、彼女は高級ブランドとおぼしきスーツ姿で、手で編んだ感じのラメ入りのデザインストッキングをはいていた。普通手編みと言えば、マフラーやセーターが定番なのだが……。ともかく、その装いは、トップモデルにもひけを取らない美女にふさわしい感じだった。
-……ん? 彼女は結構重い病気を患ってるんだよな……。でもよく病院側も外出を認めたよな。って、それ以前に入院先の病院って自分の街の所にあったのかよ……。そりゃ、あの時はそれ知ってビックリしたよ……。だって、自分の住んでる所は、人口で2、30万人程度の地方都市で、彼女は横浜在住って聞いてたから、こちらから会うには新幹線でも1時間以上はかかるし……-
彼女の電話が終わったあと、ボクはなぜここにいるのかを聞こうとしたのだが、どういうわけか、
「昨日のサッカーの試合、ほんとすごかったね」
と、明らかにその場面とはピント外れのことを言っていた。彼女は目を細めてあきれながら、
「あの、あなた何の話してるの……? 何が言いたいわけ……!?」
と少し怒り気味に言われてしまった。
-それは当然だろう。自分でも、なぜあの時こんな話をしたのか、今考えてもよくわからない。突拍子もなく話がつながらないことを言ったり、割り込む必要が全く無いのにも関わらず、無理に人の話に入ろうとしたり、とにかく周りからは“話下手”ということで通ってる。こんな様子じゃ、そう言われても仕方がないのかもしれない。もっとも、以前よりはかなりましになった方であるが……-
そういうわけでボクは、
「ご、ごめん。キミにちょっと聞きたいことがあったんだけど」
そう言って、改めて聞こうとしたが、
「あなたって、メールでのやり取りの時と違って、ずいぶんと話が下手ね……。あんまり人と会話してないんでしょ?」
と、いきなり強烈な先制パンチをもらう感じで、彼女にズバッと言われた。全くその通りだったために、言い返そうにも何も言えず、ただしばらくの間沈黙するしかなかった。そのあと彼女は、
「ごめんなさい。ちょっと言いすぎたかしら……」
と言って軽く頭を下げた。まあ、言われたことはたびたびいろんな人に指摘されていることだから、今更怒っても意味が無いけど……。それで、ボクは首を2、3度軽く横に振って、
「いやいや、全然気にしなくていいよ。これでも以前よりは結構ましになった方だしさ。そうそう、気分はよくなった?」
と彼女を気遣うように話した。彼女は、
「……ええ、少しは、ね……。でも、あなたってメールの時と同じように、本当にやさしいのね……。私が寝てる間にも、看病してくれてたみたいだし。本当にうれしいわ」
と笑顔で返した。
「いやいや、キミにはよくなってもらわないと……」
と答えた。そして、改めて彼女に聞こうとしたその時、
「……うっ……」
と、いきなり彼女はスーツのポケットから取り出したハンカチで、口を押さえた。
「……ど、どうしたの……!?」
ボクはあわてて彼女のそばに駆けつけたが、どうすればいいのかわからず、ただひとりでおろおろしていた。
-そうだった。こんな状況だったのにもかかわらず、あの時自分が何もできなかったのが本当に情けない。それに、そのあとはもう大変だったよ……-
ボクがただおろおろしていた時、彼女は苦しそうに胸を押さえながらうずくまっていた。その時の口元を見ると、赤いしずくがポタポタと垂れていた。
……これは……。早く病院に帰してあげないと……。
そう思うほど、彼女は大量の血を吐いていた。その様子を見て、ボクはゴミ箱やぞうきんを持ってきたり、彼女のそばによって背中をさすったり、一応は今出来る限りのことをやった。彼女の様子が落ち着いたあと、
「あの……、本当に大丈夫なの……? 今日はもう病院に……」
と続きを言おうとした時、彼女は突然怒り出すように自分を押しのけたあと、
「……あなたも、病院の人たちと同じことを考えてるのね……。やさしい人だと思ったけど、結局は私の気持ちなんか、何一つわかってないじゃない……!」
そう激しくボクに詰め寄った。すると今度は突然座り込み、そのままうずくまって体を震わせ、
「……だって私にはもう時間が無いのよ。今入院してる病院は、いろいろな人から『ここに入ればなんとかなる』と言われて入ったところなの。それなのに、当の病院から『あと1年持つかどうか』って言われて、あなたならどう思うの……!?」
-……あの時、そんなことになってるとは知らなかった……。メールのやり取りの最中にも、弱気になったことは幾度となくあって、その度に自分は彼女を励ましてきた。そう、出来る限り……。しかし、メールではそのようなことは一言も書いてなかった。ただ、そう見られてたということは、彼女にとっては、自分の励ましさえも重荷になってた、そういうことになってしまうわけか……-
ボクは、彼女の問いに答えられなかった。そんなボクに構わず彼女は話を続ける。
「せっかくなんとかなると思ってたところで、いきなり絶望の淵に叩き落とされたのよ。私はこれからどうすればいいの……? このまま病院にいたって、どうにもならない現実が待ってるわ。だったら……、そこから飛び出るしか……ない、でしょ……」
最後は、言葉が途切れがちになっていた。そして……
「今日はどうしても、ってことで、会社の役員と一緒に頼み込んで病院から夕方までの外出の許可は取れたわ。だけど……、もう、あんなところには……、戻りたくない……」
そう叫んだあと、突然彼女は泣き出した。そこでボクは……、
-……あ、ありゃ? ここで自分は何をしたんだっけ……!? ここから先がどうしても思い出せない……。うーん、何だったっけ……、ああ、本当にもどかしい……。いや、待てよ……。もう一つの“夢”って何だった……? ああ、そうか、確か彼女に似た感じの女性が『助けて』と言いながら、自分に迫ってきたな…。どうしていいかわからないまま戸惑い続けてると、途中で目が覚めた、なんてことが数日続いたよな……。で、3日前だったかな……、家族には変な説明をしたあとに見た時は、確か、逃げながらも彼女を抱いたかな……、
……ん? “抱いた”……!?
そうか、思い出したぞ。あの時ボクは、彼女を抱いたんだ……! でもその前に、親がいるかどうか聞いたんだよな……。しかし、なぜそっちの質問の方が先に出てくるんだ……??-
その時、改めてボクは彼女に
「……あの……、親はいるの……?」
と聞いた。すると彼女は
「……親なんてもういないわよ……。何年か前に、私のことをほったらかしにして、どっかに行ったわ……! どうしてあなたまでそんなこと聞くの……!? 私をどうしたいわけ……」
と、わめいた上に、突然ボクにつかみかかった。その時、ボクは彼女を抱き締めた。その上で、
「……大丈夫だよ」
とそっと呟いた。もし誰かがこの場面を見ていたら、『何を言ってるんだ』とか突っ込まれたり、冷やかな目でみられることは必至だろう……。しかし彼女は、
「……離して。もう誰も私にかまわないで!」
とボクを振りほどこうとした。それでもボクは
「ボクは信じてるよ。キミが病気を治して、いろんなところで活躍する姿を……。だから、メールでずっとキミを励まし続けてるよ」
と言い、必死に彼女を止めようとしたが、結局最後は振りほどかれてしまった。
-……本当になんて強さだよ……。あれが病人か……? 全く、どれだけの力の持ち主だよ……、って、いてて……。左腕の傷がうずくな。そうか、あの時に左腕を痛めたんだった。……にしてもあそこまでしなくてもいいだろう……-
振りほどかれたあと、ボクは彼女に近づこうとしたが、彼女はすべてを拒むかのように自分と距離を取り続けた。ただ、どういうわけか、自分の家から出ようとはしなかった。
「なんで自分を避けようとするんだ? 何か自分がキミの気に入らないことを言った……!?」
と怒り気味に彼女に叫んでみたが、
「だから、私にかまわないでって言ってるでしょ! これ以上、私に近づかないで。もう誰も信じられないわ……」
さっきよりも大きな声で、怒鳴る感じで言った。そしてスマホを取り出して電話をかけようとした時、改めてボクは彼女を抱き締め、
「そんなことを言わないでよ。親や他の人が信じてなくったって、ボクはずっと信じてるよ。メールで書いてたこともすべてボクの本当の気持ちだよ。だから、もう自分から希望を捨てるようなことを考えないで……。そんな気持ちになったキミなんか望んでないよ」
そう言って、今の自分のありったけの気持ちを彼女にぶつけた。彼女は、なおも抵抗を続けようとしたが、ボクは、
「まあ、偶然とはいえ、こうして会うことができたし……。せっかく楽しみにしてたのに、これじゃお互いに悲しいだけだよ。だから、これからもずっとキミの病気が治るように願い続けるよ。それとできる限り、キミの所にお見舞いにも行くよ。それに、そこまで自分をいじめても全然意味が無いから……」
と、説得する感じで彼女に語りかけた。すると彼女は、
「……それ本当なの? 口だけじゃないでしょうね……」
と、疑いの目で見つめた。その時、ボクは自分のスマホを取り出して、彼女とやり取りをしているサイトの中にある、彼女が自分に送信したメールの一つを見せ、
「ボクは、キミが重い病気を抱えてるのを知ると、すぐに見捨てるような人間にはならない。これは自分の本心だ。たとえ本当にキミがあと1年しか生きられないとしても、ボクは最後まで応援するよ」
と、きっぱりと宣言した。それを聞いた彼女は、
「……あなたを疑ってごめん……。ここまで私のことを想ってくれてるなんて……。やっぱり、あなたって本当にやさしい人なのね……。ありがとう、あなたのお陰でまた生きる希望がわいてきたわ……」
と、涙を流しながらボクに抱きついてお礼を言った。ただ、どういうわけか、ボクは照れを隠せないまま、しどろもどろになっていた。
-……しかし、あんな場面でそこまで慌てるものかな……-
そういったことがあって数分後、ひとまず周りを片付けて、それから互いのアドレスと電話番号を交換した後に、彼女が現在入院している病院の場所を教えてもらった。念のために、アドレスと番号については複数のメモ帳に書き記した。その後に一旦2階の部屋に戻り、服を着替えてからリビングに戻った。その際に、メモ帳を一冊部屋のどこかに隠しておいた。
-……ちょっと待てよ……。スマホの方は……、……ああっ、あの人のアドレスが載ってない! いったいどういうことなんだ……!? それに自分が持ってたはずのメモ帳までが無い! 何があったんだ……!? 落ち着いて……、まだどっかに、彼女のアドレスを書いてたメモ帳があるはずだ。……ってて……。なぜだかわからんが、頭が痛い……。とりあえず、メモ帳は後回しにして、しばらく休もう……-
そう言って、彼は横になった。それから時間が過ぎて、次に目が覚めた時は、針は午後の2時を指そうとしていた……
……あ~、またいい夢を見たな。今度はあの人と未来を語ったり、一緒に戦って、二人の愛が深まって……。ああ、夢なら覚めないで欲しいね……、って、もうこんな時間か! どうしようか……、あの人のお見舞いに行かなければ……。でも、アドレスとか消えてるし……。どうしよう、どうしよう……
彼がスマホのメールボックスを見ながら迷っていると、サイトの方から、『m-ute』の名前で1通送られていた。しかし彼は、そのメールを見るのを一旦後回しにして、約10通あった他のメールを見たり、返信を行ったりした。その中には偶然がきっかけで、今でもLINEでやり取りをしている、あるアイドルグループのメンバーの女性から来たメールもあった。実は、彼女は現在人気急上昇中であるが、彼はそのことを知らないようだ。
……どうしようか……、あの人を少し問い詰めようか……。いや、メールを見てから決めよう……。
そう思いながら、彼は『m-ute』が送って来たメールを見た。そのメールには、こう記してあった。
-本当にごめんなさい…。あなたから生きる希望を、病気と向き合い闘う力をもらっておいて、あなたに大変ひどいことをしてしまって…。でも、あなたの私を想う気持ちは、十分に私の心に伝わったわ。本当にありがとう。でも、やっぱり病院にはひどく怒られたみたい…。考えてみれば当然よね…、ある意味、病院を脱走した形になるし…。だから、明後日まではお見舞いは遠慮して欲しいの。私も今後を考える時間が欲しいから…。もちろん、あなたからの励ましのメールは、いつでも喜んで読ませていただくわ。だって、私の命の恩人となる人からのメールですもの…。だから、あなたにはいずれお礼をするわ。そして絶対に受け取ってね…。最後に、必ず病気に、そして弱い自分に打ち克って、あなたのもとに戻って来ます。その時は、あなたのパートナーとして、あなたをサポートしていきます-
……はぁ? 脱走したぁ……?? いやいや、先に気にするのはそっちじゃないだろう……。でも、本当によかった。あとは元気になることをひたすら願おうか……。ボクもあの人の本当の笑顔を見たいし……。だけど、その前にメモ帳を隠したあとがどうなったのか、ちょっと思い出せないな……。……ん? ちょっと待てよ、一旦部屋に戻って探してみよう!
ふと、何かに気づいたのか、突然彼は自分の部屋に急いで向かった。そして、辺りをくまなく探した。そして……
「あったあった、これだ!」
昨日、あらかじめ彼女のアドレスなどを記したメモ帳を、いざという時のために、1冊だけ別の所に置いてたんだ。今思えば、本当にそうしておいてよかった……。バックアップは複数しておかないと……。さて、着替えてからの行動を振り返ってみよう……。
着替えをすませたあと、ボクは彼女の所に戻った。そして彼女に
「そうそう、体調は大丈夫? それと、何か食べたいものや飲みたいものはある? もし何かあったら、近くまで買いに行くけど……」
と尋ねてみたが、
「ううん、食べ物の方は遠慮するわ。またさっきみたいなことになったら、あなたに迷惑がかかるし。それに、今は何も食べる気がしないから……。だから、麦茶だけでいいわ。ありがとう」
と、やんわりと答えた。
「わかった。それじゃ、お菓子も持っていくよ」
と言って、台所から麦茶とお菓子を持ってきた。
あの、食べ物はいいってさっき言われたはずだけど……。
その後、互いの近況報告や何気ない話で時間が過ぎていったが、しばらく経ったあと彼女が、
「ねえ、あなたって、あまり周りのこと意識してないんじゃないかしら? 私、あなたの行動や周りを観てから気づいたの」
と問いかけられた。ボクは、
「ええ? それどういうこと!? 何かおかしい所があるの……」
と、不思議そうな感じで問い返した。
すると彼女は、
「そうね、まず帰りに、あなたが私と一緒に家に行った時のことね。いろいろと私のことを気にかけてくれたのは、本当にうれしかったわ。だけど、私から言うのもなんだけど、もう少しゆっくり歩いてほしかったの。あなたが早く家に帰って私を休ませたい気持ちは、十分見て取れたけど、まだ足りない部分があると思うわ。やさしい性格なのだし、そこのところはもっと意識した方がいいわね。そうすれば、あなたはもっといい人になるわ」
こう答えた。
-……早速痛いところを突いて来たよね……-
さらに彼女はこう付け加えた。
「あとは、家のカーテンを開けたままにしてたり、着替えたあとの服だって……。私はいいけど、他のお客さんが来たときに、なんて思われるかは考えた方がいいわ。おそらく、家族の人にも言われてると思うけど……」
ボクはどう答えていいかわからず、ただ
「いや、でも……」
と、言葉に詰まった感じで、とりあえず何かを言おうかとしたら、
「ほらね、あなたって言い訳が多いでしょ。それ今すぐにでも直した方がいいわ。この家に来たときにも、会話が全然つながらなかったことがあったし、あまり人とは会話が無かった、という感じがしたわね。他にもあるけど、あなたの身だしなみも含めて全体的に感じたのは、もっと一般教養や世間の常識を知ること、それと、意識して物事を考える必要がある、ということよ」
と諭す感じで言われた。
-……いくらなんだったって、初対面の人にここまで言われなければいけない自分って……。そりゃあの時も怒りたい気持ちは相当にあったよ。でも、これまで家族に幾度となく言われても変わらなかったし、仮に妹がここにいたら、一緒になって言われただろう……。でも、今考えれば、まだ見捨てられたわけではないことを、自分のためにここまでしてくれる人に巡り会えたことに感謝しないといけないな……。昔何かの本で読んだ時に載ってた『人生の師匠』がいたんだ……-
ボクはただ、黙っているしかなかった。そうしていると彼女は、
「どうしたの……? そのまま黙ってて……。私はあなたをサポートしたくて言ったのよ。あなたが私に『希望を捨てないで』と言ってくれたように、私もあなたに『もっと成長して欲しい』という気持ちから、ね……。あなたが私の命の恩人になるように、私もあなたの力に、そして、心の支えになりたくて……」
と、こう付け加えた。
ボクは、本当にうれしかった。家族からは“結婚は無理だ”とか、“誰がお前のところに来るのか“など、さんざんに言われた身である。ここまで自分のために考えてくれる人がいるなんて……。今の自分の年なら、何年も同じことを言われて変わらないのであれば、見捨てられたとしてもおかしくない。いや、そうされるのが普通だろう。
ボクはただ一言、
「ありがとう」
そう言って、彼女の両手を握りしめた。すると彼女は、
「別にそこまでしなくてもいいわ。好きなのはお互い様でしょう。だから、好きな人のために協力するのは当然じゃない」
と笑顔で言って、ボクの手をそっと離した。ボクは、ただうなづくだけだった。その後、麦茶を飲んだり、お菓子をつまんだりでしばし時間が過ぎて行く中、彼女が何かに気づいたように、
「そういえば、あなたの名前って、何と言ったかしら……?」
と聞いてきた。
……普通、名前って、会った時に聞くよね……。仮にそこで聞かなかったとしても、家に着くまでには聞くはずだけど……。まあ、自分も言えたことではないけど……。その点も彼女と“お互い様”なのかな……?
ボクは普通に
「ボクは和矢。豊川和矢と言うんだ。“トヨカズ”って呼んでいいよ。それで、キミの名前はなんて言うの?」
と話した。すると彼女は、ボクに名刺を差し出した。ボクはそれを受け取り、それをしばらく眺めた後、
「すごいんだ、音無さんって……。ボクより年下なのに、急成長してる会社の社長を務めてるんだ」
と感心しきりであった。それを見た彼女は、
「美貴でいいわよ。それと社長と言ったって、そんなに大したことじゃないわ。むしろ、この間テレビ番組で見た……、えーと、誰だったかしら……。そうそう、豊川セリカという、私と同い年の彼女の方がすごいと私自身は思うの。すでに彼女は世界や未来が注目する存在として、『未来を動かす日本人60人』の中にも選ばれてるわ。だから、私も彼女を目指してがんばってるの」
と、謙遜しながら語った。ボクは、彼女の話を聞いて、しばらく何も言葉が出せなかった。
-ええ!? まさか妹が、セリカがそれほど注目されてるなんて……。あの時は、本当にビックリして言葉が出せなかったよ……。それにしても、いつテレビに登場してたんだ? アイツそんなこと全く言ってなかったし……。雑誌の取材が来たというのは聞いてたけど……-
しばらくの間、黙り続けるボクに対し、美貴さんは、
「トヨカズさん、一体どうしたの……? 何かショックを受けたような感じでいるけど……」
と、首をかしげた。それに対し、ボクは
「実は、アイツはボクの妹なんだ……」
と一言だけ答えた。すると美貴さんは、
「えー、それって本当なの……!? 冗談でしょ、それ。あなた私を笑わせたいわけ……?」
と言いながら笑っていた。ボクはちょっとムッときて、
「笑わないでもいいだろ。本当のこと言っただけなのに……」
と怒りぎみに話した。それを聞いた美貴さんは笑いながら、
「ごめんなさい。だって、ギャップがあまりにも激しいから、すぐには信じられなくて……。でも、実際『トヨカズさんとセリカはきょうだいです』と聞かされても、信じない人って多いんじゃないかしら……」
と、さらに突っ込んできた。ボクはただうなだれて、
「……あのぉ、美貴さん、それないですよ……」
とポツリと小声でつぶやいた。すると、
「それでも、私は信じてるわ。セリカが『未来を動かす』人なら、あなたは『やさしさで人を勇気づける』人よ。だから、トヨカズさんがやるべきことは、あなたが持つ“やさしさ”を活かせるように、まずはあなたが持ってる欠点を少しでも克服していくことね。もちろん、私も協力は惜しまないわ」
と、逆に美貴さんに励まされた。ボクは、持っていたメモ帳を取り出して、彼女が言ってくれたアドバイスを、覚えている部分をできるだけ書き出した。それを見た美貴さんは、
「ねえ、書くのはいいんだけど、読み返したり、それを実行しないことには何の役にも立たないのよ。それだと、単なる“授業ノート状態”にしかならないわ」
と、ちょっぴり冷ややかにボクを見つめた。ボクは、下をうつむいてうなづきながら、ただメモ帳を見ていた。そのあと美貴さんは、ボクの左肩を軽くトントン、と叩きながら
「ねぇ、あなたにどうしても聞いて欲しい話があるの。今ここで聞いてくれる?」
と頼むような感じで話してきた。ボクは身を乗り出すように、
「ん? どうしたの?」
と答えた。すると彼女はビックリした感じで、
「ちょっとトヨカズさん、そんなに近づかなくてもいいでしょう? 別に私は逃げるわけじゃないし……」
とボクを押し止めた。
「ごめん、話が聞きたくてつい……」
とボクは謝った。その後彼女は
「わかったわ。それじゃ、あなたには特別に話してあげるわね、私が今考えてることを」
と、カバンから何かの資料を取り出した。そしてボクにそれらを見せて、顔をほころばせながら話しはじめた。
「あなたなら、これを見てくれれば、きっと私のやろうとすることを理解してくれると思うわ……。だって、あなたは相当にやさしい人だもの。それに、あなたにも関係があると思うから……」
そう言いながら、ボクに資料の一部を手渡した。そしてさらに
「そうそう、話す前に一つ言っておくけど、これは決して他人には知らせないこと。これだけは絶対守って」
と付け加えた。ボクは
「わかった。それは守るよ」
そう答えた。そして、彼女から渡された資料に目を通した。
……ん? 彼女って、自分の入ってる出会い系とは違うサイトを運営する会社の社長だったのか……。……ああ、こういうのがもっと出てくれば、ボクもあそこまでお金を使わずにすんだかも知れないのに……。
しばらくして美貴さんは、
「それじゃ、準備はいい? これからあなたに話すことは、会社の役員にも正式には出してないプランなの。この件で近日中に会議を開くことは決定したけど、私があんなことになってしまって……」
そう言ったあと、『極秘』と書かれた新プランをまとめたと思われる別の資料を取り出した。それから、美貴さんの話が始まった。
「まず、私が目指してるのは、『“互いを成長させる出会い”をもっと増やす』ということ。だから、“多くのお金をかけなければ誰かと会えない”というのは、私はどうかな、と思うの。まして“そこまでお金をかけたにもかかわらず、出会うことさえままならない”って、それはひどいと思うわ。それでは私たちにとっても、自らを否定してることにつながりかねないし、『詐欺だ』と取られても仕方がない、と私自身はそう考えてるの……。それに婚活じゃないけど、真剣に出会いを考えてる人たちに対して、大変失礼な話ね」
……思い当たる節は山ほどあるよ……。最初にその手のサイトに騙された時が、まさにそれだった。『完全無料』と言いながら、お金だけ取られて誰とも会えず、仕事まで……。今だって、なかなか会えそうで会えないもどかしい状況が続いてるし……。でも、『互いを成長させる出会い』って、いい考えだな……。ボクももっとそんな出会いが欲しいし、それがもっと増えれば、日本が抱えるいろいろな問題の解決の糸口の一端になると思うけど……。
などと、ボクがいろいろ昔のことなどを考えながらメモを取っていると、美貴さんは、
「どうしたの、トヨカズさん? 私の話を聞いてる……? 聞くつもりがなかったら、話をやめようかしら……」
そう言いながら、首をかしげた。ボクは首を横に振り、
「いえいえ、そんなことは全くありませんって。ただ、以前別のサイトに騙された時のことを思い出して……」
ボクが話を続けようとすると、彼女は
「そうだったの……。その手の話は以前からあったわね。だけど、私の運営するサイトでは、会員の人たちに『こういったサイトに気を付けて』という形で、日頃から注意を促してるわ。もちろん、会員以外の人たちにも、別のサイトを立ち上げて、そこでいろいろと知らせてるの。あとは誰それ構わずに勧誘することはせずに、できるだけ出会いそのものだけでなく、そのあとのことも考える、それが私たちのコンセプトなの。言い換えれば、私たちは“人と人との橋渡し”をサイトでよい方向に活発化させようとしてるわけ。当然、“お金をつぎ込んでも会えない”などという状況はこのサイトではほとんど無いわ。もしその人たちがいれば、何らかの形で、互いにとってよい出会いを提供するのが私たちの役目よ。もちろん、サイトにおける“ストーカー対策”などもたててあるわ」
そのように、いろいろなことを詰め込みながら話した。
“ほとんど”というのが気になるけど……。
そんなことを考えつつもボクは、
「いいね、その話。ボクもそこに入ろうかな……。ところで、“ほとんど”ってどういうこと……?」
と答えた。すると彼女は
「あのね、それくらい考えればわかるでしょう? 婚活だって、すべての人がうまくいくとは限らないのよ」
ため息をつき、あきれながら答えた。ボクは申し訳なさそうに
「そうだった。ごめん……」
と謝った。すると彼女は、
「そこはあなたの悪い癖ね。よく考えた方がいいわ」
と笑顔で諭した。
いやいや、それは微笑みながら言う言葉ではないと思うが……。むしろ逆に怖いぐらいだよ……。
そうは思いつつも、ボクはただ頭をさするしかなかった。美貴さんは『ごめん』と軽く言って少し間をおいたあと、改めて真顔になり、
「それじゃ、ここから本題に入るわね。さっきまでの話は、ホームページなどに公開されている内容よ。これから話すことが私がやろうとしてることなの」
そう言って、改めて『極秘』と書かれた資料を開いて話を進めた。
「まずこれを見て。これが私が考えた『エリア橋渡しプラン』よ」
と、ボクに見せた。ボクは資料を手に取ろうとしたが、
「ダメよ。これは誰にも渡せないわ。たとえあなたが、命の恩人だとしても……」
と、資料を抱えて渡すのを拒んだ。
考えてみれば至極当然だ。会社の今後を決めるプランを、会社とは全く関係が無い人間に見せること自体、普通は考えられないことだ。いくら彼女がボクを“命の恩人”と慕ってくれてても、それとこれとは別の話であることは、さすがにボクでもわかる。
ボクは「そうだね」と言いながらうなづいて、彼女の話の続きを聞くことにした。彼女は改めて資料を開き直し、
「改めて話を続けるわね。このプランは、“人と人”ではなく、“人と地域”、もしくは“地域間同士”での人の出会いを促進させるものなの。これは、『“互いを成長させる”出会いを提供する』というコンセプトのもとで考え出したわ。真剣な出会いを求める人の想いに応えるだけでなく、ひいては地方の活力を取り戻すという、私なりの答えがこのプランなの。これで人材配分のミスマッチが少しでもなくなれば……。それに、今後はそういったことを考えないと、私たちがこういったサイトを運営していく意味が無くなるでしょう」
と、段々と話が熱くなった。ボクは
「あの、美貴さん……、話は伝わってますよ。ですから、ここは一旦落ち着いた方が……」
と、彼女をなだめた。すると、
「ごめんなさい。つい熱くなって……」
そう言って、一度深呼吸をしたあと、
「そのためにも、まずはサイトの中で、会員の人にアンケートを取ることにするの。もちろん、ゆくゆくは、サイトを知らない人たちや、人口減少に悩む地域の自治体などにも参加を呼び掛けるわ。その中でも、私が気にしてるのは“国境”に位置する島々、つまり離島のことよ。ほら、現在でもいろいろもめ事があるでしょう。それに、あそこに暮らす人たち手助けをしたいの」
と、話しを続けた。さらに、
「さっきのアンケートや、近日中に行う会議で話がまとまれば、先行して何人かを、本人が行きたい地方へ派遣するプロジェクトを立ち上げようと考えてるわ。もちろん、このサイトで、行きたい地方の人たちとのメールのやり取りによって、互いの意見が一致するのは当然だけど……」
すると、彼女は
「なんだか、のどがかわいちゃった」
と言い、一旦話を止めた。それを聞いてボクは、
「わかった。それじゃ麦茶をつごうか」
そう言って、台所に行った。
-なんだかんだ言っても、やっぱり美貴さんは社長だからね……。話に情熱がこもってたのは自分にも伝わったよ。この話は心の中にも焼き付いてるよ。それに、彼女なりに今後の未来を考えてるのを見ると、自分も見習うべきことは山ほどあることを、嫌でも思い知らされるな……-
そして、台所から麦茶を持ってきたあと、美貴さんはそれをいっぺんに飲み干した。そして
「ありがとう、トヨカズさん。とてもおいしいわ、この麦茶。これって、私がいつも飲んでるものとは違うわね……。どこのものなの?」
と聞いてきた。ボクは、
「これね、田舎の親戚の人が作ったものなんだ。今は大体この麦茶を飲んでるね。仕事場の人にもすすめたいぐらいなんだ。あ、でもこれは店では売ってないよ」
最後はちょっぴり残念そうに語った。それを聞いた彼女は、
「ねぇ、せっかくだから、それを商品化しない? それだったら、私が運営するサイトで、その親戚がいる地域に人を送ってあげるわ。私もこの麦茶をずっと飲みたいし、もっと多くの人にも飲んでもらいたいと思ってるの。それに、これも地域の手助けの一環になるでしょう?」
目を輝かせながら、彼女はそう言った。ボクは
「そう言ってくれるとうれしいね。親戚の人にも“商品にしたい”人がいることを伝えようか……。……あ、麦茶持って行こうか?」
と言いながら、また麦茶を取りに行った。リビングに戻ったあと、突然美貴さんは、
「ねぇ、トヨカズさん、あなたに会えて本当にうれしかったわ。私を絶望の淵から助けてくれて、私がやろうとしてることを後押ししてくれて……。それと、あなたがついだ麦茶、すごくおいしかったわ。今はこれくらいしかできないけど、私にお礼をさせて」
と言い、ボクを抱いたあと、自分の口元に唇をあてた。ボクも彼女を抱き締め、しばらくの間キスを続けた。その間、ボクも彼女も笑みを浮かべながら、穏やかな表情をしていた。そのあとボクは、ちらっと時計を見ながら、
「そういえば、もうこんな時間か……」
とつぶやいた。そして、
「あの、時間は大丈夫?」
と言うと、彼女は
「ええ!? もうこんな時間なの……。時間が過ぎるのが早いのね……。でも、もう少しあなたと一緒にいたいわ。この時間をずっと大切にしたいし……」
と、ボクにお願いする感じで、そばに寄ってきた。ボクも、一つうなづいたあと、また話を始めた。しばらく話をしている時、ボクは段々意識が無くなって、そのまま眠りについていた……。
-……そうか……、ボクはいつの間にか眠ってたんだ……。……ん? “眠った”……!? まさか……-
彼はそう言って、辺りを探し始めた。そして……
「なんだ、棚の上に置いてあるじゃないか……。それにしても母さん、他の家族はみんな丈夫だし、母さんももう少し睡眠薬の置場所を考えた方が……」
その時、ボクは大変なことに気づいた。
「ん? “睡眠薬”……!? まさか、ボクは美貴さんに眠らされた、ということか……!? まずい、ひょっとして……」
そう言いながら、彼は再び辺りをくまなく探し始めた。しかし、とくに家を荒らされた形跡が無く、消えたのは自分のメモ帳と、スマホに入っていた美貴のアドレスと電話番号だけだった。それと、何故かテーブルにあったはずのコップなどが片付けられていた。
「よかった、何も取られてなくて……。しかし、一体あのあと何があったんだ……!?」
そう言いながら、彼は首をかしげた。しかし、家ががら空きであったにもかかわらず、何も物が盗まれなかったのは、ある意味奇跡と言う他にはないだろう。ここが日本であることを、程なく彼も実感することだろう……。
さて、前日の夜に話を戻す。話の途中で豊川和矢が眠りについた(正確に言えば何らかの理由で眠らされた)あと、独り残った音無美貴は、急いで資料を直し、誰かと連絡を取り、テーブルの上を片付けた。その際に、例のメモ帳もカバンの中に入れた。そして、和矢のスマホを見て、自分のアドレスと電話番号のデータを消去した。そのあと、メールの着信履歴を見ると、ある一通のメールに目が止まった。それを見た美貴は、
「まさかトヨカズさん、あの人気急上昇中のアイドルと、メールのやり取りをしてたの……!? 私という大切な人がありながら……。許せないわ、私に見せた“やさしさ”って嘘だったの……」
そう怒りを見せながらも、メールを読んでみると、すぐに考えは変わった。そのアイドルが送ったLINEのメールの内容を以下に記す。
-お元気ですか、和矢さん。シェリアです。偶然がきっかけとはいえ、あなたとお会いできたお陰で、私はここまで来ることができました。思えば、私がアイドルを続けようかどうか悩んでた時に、ただ私のために、ずっと励ましてくれたのもあなたでした。時には怒られもしましたが、あなたがいなければ、今頃はこの国にもいなかったのかもしれません。ご存じかもしれませんが、私が所属するアイドルグループは、男女交際禁止で、もし見つかればアイドルをやめるしかありません。幸い、マネージャーも私の状況を見て、このことを黙認して、理解をしてくれてます。ですから、私にできることがあれば、その時は、あなたの力になります。たとえ、どんな些細なことだったとしても…-
これを見た美貴は、驚きながらも
「本当にトヨカズさんって、やさしい人なのね……。あの葉月シェリアを“やさしさ”でここまで導いていくなんて……。自分のことじゃないけど、本当に涙が出てきたわ……。うれしくて……」
そう言いながら、彼のスマホをテーブルの上に置いた。その時の彼女の目は、涙で溢れていた。直後に、家の近くに1台の車が止まり、一人の男性が入ってきた。そして、中の様子を見て、
「社長、これは一体……」
そう言って一瞬たじろぎ、後ろに下がった。それを見た美貴は、慌てて涙をぬぐったあと、
「いや、別に何か事件を起こそうとしたわけではないわよ。そうそう、この資料を渡すから、明日には会議を召集して、このプランの検討を始めて……。私はしばらく会議には出られないから……。これから病気と闘う覚悟を決めたの。だから常務のあなたに社長命令として、一番下にある紙の内容をすべての社員に伝えて……」
と話したあと、常務に資料が入ったカバンを渡した。さらに、
「それと悪いけど、このゴミも片付けてあげて。そうしないと、あの人に迷惑をかけることになるから……」
と言い、ゴミがつまった袋も渡した。これを見た常務は、
「これは……、まさか社長……」
青ざめた表情でそう述べた。美貴は、
「気にしないでいいわ。病気のことでしょう? さっき言った通り、すでに覚悟を決めてるわ。だけど、病院にはしかられるわね……」
そう言ったあと、苦笑いの表情を浮かべた。
「……はあ……」
呆然とする常務を尻目に、美貴は、
「それともう一つ頼みがあるわ。さっきあなたに渡したプランが正式に採用された場合、そこにいる彼、トヨカズさん……、いえ、豊川和矢を必ずプロジェクトに参加させてほしいの」
そう常務に依頼した。常務は
「社長、内容はわかりましたが、なぜ彼をプロジェクトに参加させる必要があるのでしょうか……? 彼はまだ、サイトの登録も済ませてないはずですが……。それに、社長がそこまで彼にこだわる真意が、私にはわかりかねます……」
そう言って、首をかしげた。美貴は
「彼のことは何も気にしなくていいわ。私の方でなんとかするから。いえ、間違いなく、彼はサイトに登録してくれるわ。彼は私を助けてくれた“命の恩人”だし……。それに、どうしても彼のような人が必要になると感じてるの」
そう答えたあと、さらに、
「あとの話は、病院に戻るまでの車内で行うから、先に戻って。すぐに私も戻るわ」
と、車内に戻るように伝えた。それを聞いて常務は一言、
「わかりました。しかし、すぐにこちらに戻ってください」
そう言って、家から出た。残った美貴は、ぐっすり眠りについている和矢のもとに近づき、
「本当にごめんなさい。あなたに睡眠薬を飲ませて……。さすがに、大切なプランを外部に知られるわけにはいかないから、申し訳ないけど、あなたのメモ帳は預からせていただくわ。一旦、私のアドレスなども消して……。もちろん、アドレスの方は、数日内に私のスマホからあなたにメールを送って知らせるから、それで許して……。その代わり、あなたへのお礼はたっぷりとはずむわ。それにあなたなら、あの国境の島を変えることができる可能性を持ってるし……。だから、あとであなたにプロジェクトの参加をお願いするわね。家の鍵はちゃんと閉めておくから、そこは安心してて。たまたまあなたの家の鍵が、私の所と合ってたし……」
そのように述べた。後半のところで意味深なことを言いながら……。ちなみに、この“国境の島を変える”という言葉が、後々、和矢たちのみならず、日本やその周辺の運命を大きく変えることになるとは、この時点では、誰も想像がつかなかった。その後美貴は、少し周りを片付けて、和矢の家の鍵をかけたあと、常務が乗っている車に乗り込み、家を後にした。
再び、和矢が睡眠薬の件で首をかしげた所に話を戻す。
ボクはしばらく考えたものの、結論は出ないまま、考えが堂々巡りになってしまった。まあ、家は荒らされてなかったし、美貴さんのアドレスも一応無事だったし……。スマホに入ってたデータの方は消えてたけど、再び登録すれば問題はないか……。そう思いつつ、考えるのを止めた。本当にここが日本でよかったよ……。もし外国だったら、家の中を荒らされた確率は高くなってただろう……。
それから、ボクは辺りを見た。すると、いつの間にか時計の短針は3のところを指していた。
「しまった。早く片付けなければ……!」
慌てて洗濯物を取り出したり、掃除機をかけたりした。予報では、昼前から雨が降りだすと言っていたが、幸い、外は雨模様のままだったので、濡れずにすんだ。その後、メールを見ると、新たに着信が入っていた。今度は、美貴さんの名前で送信されていた。ボクはすぐにそれを読んだ。その内容は以下の通りである。
-あれから、私もいろいろと考えてみたわ。でもやっぱり、今すぐにあなたに謝ってすべてを話さないといけないって、そう思ったの。サイトを通してではなく、私自身のスマホから直接あなたに…。正直に告白すると、あなたに睡眠薬を飲ませたのは、実は私なの。あなたがプランの内容をメモ帳に書いてるのを見て、外部に知られてはいけないと思って…。あなたを“命の恩人”だと言っておきながら…。しかも、あなたがスマホに登録しておいた、私に関するデータを消してまで…。それだけでなく、シェリアがあなたに送ってきたメールまで勝手に読んでしまって…。だから、もしあなたが私を嫌いになったとしても、それはそれで私も受け入れます。どんな回答でもよいですから、今のあなたの気持ちを私に伝えてください-
ボクはこのメールを見て、不思議と怒る気にならなかった。むしろ、正直に言ってくれてほっとした。そして、再びアドレスをスマホに記憶させて、こう彼女に返信した。
-ボクは全く怒る気はありませんよ。それにすべてがわかって、とくに被害もなかったから、ほっとしてます。メモ帳を持っていかれるのは、ある意味当然だと思っております。ですから、一刻も早く病気が治ることを願ってます。ボク自身、もっとあなたから学びたいことがたくさんあります。それに、あなたが好きです-
そして、改めてシェリアから来たメールを見た。それを見て
「そうだったんだ……。シェリアって、あの人気急上昇中のアイドルだったんだ……。今まで全然知らなかった」
とビックリした。
普通は、多少なりとも、シェリア自身や彼女の属するグループに関心を持つはずだろう……。まして、向こう側から『力になります』と言ってくれてるのに……。
ボクは、シェリアにメールを返信した。その後、すぐにメールが入って来た。美貴さんからだ。そのメールを見ると、以下のように書かれてあった。
-本当にありがとう。やっぱり、あなたはやさしい人なのね…。私もそんなあなたが好きよ。だから、そんなあなたに今できるとびきりのお礼をするわ。あなたを私が運営する出会い系サイトの『永年会員』として迎え入れることにしたの。詳しくは、あとでサイトから送ってくるメールにアクセスして。もちろん、変なことはしてないわよ。あともう一つあるけど、こちらはあとのお楽しみとして待ってて。必ず、あなたのお役に立つから…-
ボクのためにそこまでしてくれるなんて……。そう思いながら、スマホを閉じた。そして片付けを済ませ、夕飯を作り、美貴さんが運営するサイトから来たメールにアクセスして……、などとやっていくうちに、1日が過ぎていった……。
あの1日が過ぎてから、しばらくたった。その日を境に、和矢も変わっていった。これまで、なかなか会えない状況が続いていたのが、あのあとに立て続けに何人もの女性に会うことになった。そして彼は懸命に出会う女性たちに学んだ。楽しむことも多かったが……。彼が変わっていく様子に、妹のセリカも驚くほどであった。ある休日、彼は美貴のお見舞いに行くついでに、お金を引き出そうと銀行に行った時、
「ええ? 本当……!?」
と、言葉につまった。それもそのはず、彼の口座には多額の現金が振り込まれていた。前日に美貴から来たメールで、その旨はわかっていたが、いざ残高を見ると、その多さに圧倒された。彼は
「これって夢じゃないんだ……。覚めない“夢”が本当に現実になったんだ……」
思わずそうもらした。その後、美貴が入院している病院に行き、彼女がよくなっていくのを見て、
「本当によかった……。自分でも人の役に立てるんだ……。そうだ、せっかくだから、シェリアにこのことを伝えよう。そして彼女にも協力してもらおう。シェリアが見舞いに来たら、美貴さんも喜ぶだろうな」
そう考える彼の表情は晴れやかになっていた。
そして、またしばらくたったある日、彼の運命は大きく変わることになる……。
その日、ボクは仕事が早く終わり、美貴さんが入院する病院に行った。実は、しばらく前に彼女が出したプランが採用され、正式にプロジェクトとして発足することとなった。そのこと自体はサイトで告知されていたが、今日はそのことで、彼女から直々に話があると言う。ボクの方でも、彼女を喜ばせようと、あの人を呼んできた。ボクが病院に入ったあと、その女性が現れ、
「ひさしぶりね、トヨカズさん。あなたのメールを見て私もビックリしたわ。まさか、あなたがあの社長の“命の恩人”であり、豊川セリカの兄だとは思わなかったわ。でも、私もあの社長には、少なからずお世話になってるから、お互い様ね……」
そうボクに話した。その女性の名前は葉月シェリアである。ボクがLINEで励まし続けてきたアイドルであり、現在は、美貴さんが自分の家に来た時よりもさらに人気が上がっている。今日は彼女も仕事がない日なので、ボクの提案に喜んで応じてくれた。しかしボクは、彼女の話に多少複雑な表情をした。まだそう思われてたんだ……、と。そうはいっても、ここまで来てくれたのだから、早く美貴さんの所に向かわなければ、と思い、
「それじゃ、早く美貴さんの所に行こう。キミが来てくれたら、あの人もきっと喜ぶよ」
そう言って、美貴さんがいる病室に向かった。さすがに『シェリアが来た』とわかれば、病院中が騒然となるので、受付でシェリアには本名で書いてもらうことにした。そのあと、美貴さんの病室に入った二人を見た彼女は、
「トヨカズさん、来てくれたのね……って、まさか……」
と、声を詰まらせた。ボクにもそうなる気持ちがわかる。何せあの葉月シェリアが目の前にいるからだ。その時シェリアが、
「いつもお世話になってます、葉月シェリアです。お体の調子はいかがでしょうか……?」
気遣うような感じで言った。すると美貴さんは、シェリアを抱きながら、彼女の頭を撫でて、
「ありがとう。わざわざあなたまでお見舞いに来てくれて……。私、喜びで涙が溢れそうよ……。トヨカズさん、あなたって本当にやさしい人なのね……、本当にありがとう」
そう言って、二人にお礼を述べた。ボクは『シェリア』の名前が出た時、一瞬焦ったが、幸いにも、他の入院患者が彼女を知らなかったようで、ひとまずほっとした。そして、美貴さんは、何か資料を取り出し、
「まずは、二人に大切な報告ね。私は、半月後に無事退院することが決まったの。二人の、とくにトヨカズさんの深い励ましがあったからこそ、無事に病気に打ち勝つことができたわ」
と言いながら、自分のほおに軽くキスをした。シェリアも喜んでいたみたいで、ボクに一言『よかったわね』と言ってくれた。その後、彼女はボクに資料を見せて、
「それじゃ、ここからが本番よ。今度のプロジェクトで、あなたの派遣先が決まったわ。例の“国境の島”よ」
と話した。
「国境の島」……? たとえば、対馬とか……。あそこなら親戚がいるから、どうにでもなるか……。いや、待てよ……、与那国島という可能性もあるな。ボクは海が好きだから、泳ぎ放題だし……。いずれが派遣先でも彼女のサイトのコンセプトと合致してるな……
そんなふうに勝手な想像を巡らせていると、彼女から、
「そうそう、資料には書いてなかったけど、派遣先は『中海島』という所よ」
『中海島』……!? 何であそこなんだ……??
ボクがあっけに取られていた時、彼女は
「あなたの力がどうしても必要なの。そして、あなたが行ってもらうのは、その中でも北西の地区よ。派遣時期などの詳しいことは資料に書いてあるわ。数日後にサイトでも知らせるわね」
と、笑顔で頼んできた。
あのぉ……、笑顔でそんなこと頼まれても……。
ボクは、言いようが無い不安に襲われた……。あの島の北西の地区といえば、隣国とのいざこざが絶えない、日本の中でも最も危険といわれる所だ。そこに派遣するなんて、一体何を考えてるんだ……!? ああ、どうすればいいんだ……。そんな頭を抱えてる時、シェリアが
「中海島ね……、私もその島には興味があるわ。それにあなたなら大丈夫よ。私も力になるし」
と言った。本当なら、ここで大きな声で叫びたかったが、一旦はこらえて、シェリアに
「ありがとう」
と、そう告げた。美貴さんには
「わかりました。一旦家族と話し合って、数日後に知らせます。今の仕事の兼ね合いもありますし……」
そう伝えた。彼女は、
「わかったわ。それじゃ、いい返事を待ってるわね。今日はこれで終わりよ。二人ともありがとう」
と言った。その後、ボクとシェリアは病院を後にした。そして、しばらくシェリアと話をしたあと、彼女と別れた。最後に一人になったボクは、辺りに誰もいないのを確認したあと、大きな声で叫んだ。
「何でこうなるんだよ……!? これじゃ“悪夢”だよ……!! 夢なら覚めてくれ---!!!」




