7、黒き獅子
高学年の校舎にて、意識不明のブロウを運ぶ、ムニとユーキだった。
シタターグから逃れてきた入口の真向かいに、廊下を挟んで教室がある。ブロウをそっと教室の奥へと運び、ユーキはシタターグの大きさの事をムニに尋ねた。
「あの中庭の大きいので全部かな?」
「だと思いますが……。他に小さいのが潜んでいてもおかしくはありませんね」
一時の沈黙の後、ムニが口を開いた。
「ヨダットさんが、ファーツイを武器に仕込んだようですね。的確な判断です」
「うん。炎系が弱点だしね。炎イムイスを剣に仕込めば、確実にダメージを与えられる。ユフィーネやラビーユにもあのイムイスはまだ習得できないでいたんだ。ヨダットは剣術が得意だから、どうしても戦いの中に剣を交えたかったんだろうね。ブロウは主に格闘系が得意なんだけど……」
「あの……。さっきわたしのこと、別の方のお名前で呼んでませんでした?」
「あっ! そういえばそうだったね。ゴメン、ムニ……」
「いえ、いいんです。ただユフィーネってお名前結構珍しいですよね?」
ユーキはムニの今の一言を、重く感じた。
やはり彼女は、ムニであって、ユフィーネではないのだろう。
ヨダットは一筋に彼女をユフィーネだと信じているようだが、ユーキには、ただ相貌が似ているだけかもしれないという思いがあった。だがムニ自身がユフィーネという名前が珍しい、という会話をしてくる時点で、彼女は”自分はユフィーネではない”と言っているようなものだった。
ユーキの頭の隅で、やるせない思いが通過した。
(ダイガン先生はムニはムニでしかないと言っていた。でも、僕の思いとしては、ヨダットみたいにムニとユフィーネが同一人物じゃないかと思ってしまうところがあったのかもしれない……。ユフィーネはユフィーネ、ムニはムニ。なら、僕は僕としてムニにしてあげられる事って一体何なのだろう……)
「ユーキさん、あなたはここでもうしばらく休んでいてください。わたしはヨダットさんの手伝いに行ってきます!」
ムニは走って校舎を出ていった。
呼び止める間もなく、あっという間にムニはヨダットに加勢していた。中庭からまっすぐに繋がるこの教室で、ユーキは彼等の戦う姿を遠目に見ながら、寒々しい想念が心ににじり寄ってくるのを感じていた。
(イムシンを解放できない時点で、僕は二人に加勢する事もできない。僕がこんなところにいて、何の意味があるというのだろう……)
「何をわなないておるのじゃ?」
しわがれた老人の声が、ユーキのいる教室にこだました。
「イムシンを解放できない悩みに押し潰され、好意を寄せていた友のことすら、純粋に思えなくなっておるようじゃな」
「だれ?」ユーキは四方八方に残響する声に話し掛けた。
「ふぉっふぉっふぉっ。わしじゃよ」
黒猫が教室の入口でお座りしている。何日か前に中庭で見かけた猫である。
「あ、いつぞやの黒猫……」
ユーキは黒猫まで歩み寄った。
「ダメだよ。こんなところにいたら、障魔にやられちゃう」
ユーキは猫を抱き上げた。
「大丈夫じゃよ、ユーキとやら」
ユーキは一瞬耳を疑った。さっき室内に響き渡った声が、今、胸元から聞こえた気がしたからである。
「わしじゃよ、わし」
明らかに抱きかかえた猫が喋っている。
「えっ? ね、猫?」
「ふぉっふぉっふぉっ! わしは猫ではない獅子じゃ! 以後覚えておくがよい。どうやらわしが人語を話すのを驚いたようじゃな。ま、無理もない。わしは特別じゃからのう」
己を獅子と言い張るこの動物だが、見た目は毛の長い可愛らしい猫としてしか見られないユーキだった。
「猫が、喋ってる……」
「じゃからわしは獅子じゃと言うておろうが! また手を引っ掻かれたいか! さて、ユーキとやら。驚くのもそこそこにしてもらおう。早急にあの液体ブヨブヨの輩を共に倒してしまおうではないか?」
「シタターグをですか……?」
ユーキはまだ唖然とした様子だったが、猫からシタターグを倒そうと言われ、はっとした。
「は、はい。ですが、僕、イムシンが解放できないんです」
「ふむ。それはわかっておる。しかし、誰しもイムシンを宿しておる。おぬしにもできないわけではないぞ」
「コツみたいな物を、忘れてしまったみたいで……」
「コツがどうの言う前に、自分を信じ切れておらんからじゃよ」
小動物に諭されてしまった。猫はつづける。
「わしには、何故おぬしがイムシンを解放できんのか、手に取るようにわかる。じゃが今のおぬしには、解るものも解るまい。自分のことを自分が一番解っているというのは、詭弁でのう。見抜かれたくない人間の言い訳に過ぎん」
「は、はあ……」
「イムシンとは、勇気の異名とおぬしも習ったじゃろう? なぜおぬしにイムシンの解放が出来なくなったか、よく自身を見つめてみることじゃ。時間は切迫しておる。あまりのんびりはできんぞ」
ユーキは、胸元から猫の声を聞きながら考え込んでいた。
(イムシンを解放できない理由。それは勇気が出せないのと同じ。勇気、勇気……)
幾度も心の中で考えるユーキだった。
(ユフィーネを不幸にしてしまった事をずっと悔やんでいるから? あの出来事から、イムシンの解放ができなくなってしまった。僕はそれでずっと自分を責めてきた。過去さえなんとかできれば、今の僕が何とかなる。でもこの“今”という時間は何もできない。何もかも手遅れだから。僕はそう思うから何もできないのだろうか……)
ユーキが自分の心を信じられない理由を一つ挙げれば、過去の失敗に臍を噛む思いがあったからである。
自分の愚行によって友人一人を無くしてしまったのだから、少なからず自分を責める事があっても、自分のイムシンを信じて進もう、という気持ちにはなれなかった。無論その怒りややるせない気持ちを、他人や障魔にぶつければ何とかなる問題でもなかっただろう。
ユーキは自分を責め続けた結果、自らの勇気という強い気持ちを見失ってしまった。人と自分を比較し、一人の人を不幸に追いやった最低な人間だと低く見立てることで、他人ともあまり仲良くなれなくなってしまったのだ。
イムシンの解放とは、勇気を引き出す事と同じ意味合いである。
だが、勇気という心は、普段滅多に引き出される心ではない。イムイス使いの間では、障魔との戦いの時こそ、引き出されることが義務付けられているものだが、自分を最低と見定めてしまった以上、勇気という偉大な気持ちを引き出すことはユーキには非常に困難だった。
だがユーキは今、それを引き出そうともがいていた。
「ユーキとやら、自身の中でもがいておるようじゃな。それでよい。それこそ自身と向き合っているということじゃ。自分の弱さと向き合うことはなかなかできん。しかしその弱さを見抜いてこそ、強いということでもあるのじゃ」
ユーキは黙っていた。
この焦燥を余儀なくされる時間の中で、ユーキは答えを見つけるべく、さらに心の奥深くを見抜こうとした。
(僕も皆も全員イムシンを持っている。ならどうして僕は、イムシンを解放できないんだろう? 僕がイムシンの解放ができない愚か者だから……、いや、それは違う。それじゃあ堂々巡りだ。イムシンを出すのにイムシンが出せない愚か者と認めたら、そこで廻ってしまう)
ヨダットとムニが捨て身の覚悟で戦っている。ブロウもラビーユも戦った。こんなところで自分を卑下していていい場合ではないはずだ。
(ブロウ達は皆、僕を元気づけてくれた。そしてダイガン先生も、僕なんかに励ましを贈ってくれた。そして皆、今戦っている。イムシンの解放もできない僕にできること、それは……)
――過去に犯した過ちを、今は捨て置く。
ユーキにはそれしか考えられなかった。
(それができないでくよくよしていたけど、今僕ができること、それは自分にとって一番の失敗だと思っている、一年前のことを考えないことだ)
それを戦いに置き換えれば、どういうことになるのか?
――全力で戦うしかない。
(ダメならダメなりに戦うしかないんだ。僕だって皆の手伝いくらいできるはずだ。剣だって振れないわけじゃない。励ますことだってできる。それでもヨダットから厳しいこと言われるかもしれないけど、何もしないよりはマシだ)
縁によって様変わりする心は、ユーキの中で諦めと臆病という形に変わり、彼はその二つの下撲と成り果てていた。
しかし今こそ、イムシンを奮い起こし、戦いを開始するのだ!
ユーキはそう決断した。
だが、彼の心は黒くくすんでいた。臆病と諦めは今をもって具現化し、彼の足を束縛して、自由を奪っていたのである。
ユフィーネの顔が、何度も瞳の奥に呼び起こされる。そして、彼女らしき影がユーキの目を覆い隠す。そこから逡巡という錆がつま先までを侵食していき、彼の体を動けなくしていた。
ユーキの戦うべき貴重なこの瞬間は、粗末な時間の経過へと変貌していたのである。
「ユーキよ、臆病風に吹かれる原因を、何か見つけられたかのう?」
「どうしても僕の中にイムシンを見出せません。一年前、ユフィーネがいなくなってから、僕の中は空っぽになってしまったみたいです」
「フム、そうか。ならばここは一つわしの力で、おぬしの役に立ってみようではないか」
「どういうことです?」
猫はユーキの胸元から床へ飛び降りた。そしてユーキの目の高さくらいまでジャンプし、縦に激しく回転し始めた。
紅と漆黒のラインが円を描きながら、次第に色濃くユーキの顔を照らしだした。眩しい旋回にユーキは目を背けようとしたが、回転はすぐに止まった。
すると剣が宙に浮いていた。刃の部分は、あらゆる生物を焼き尽くさんとする、溶岩が噴出したような色をし、柄の部分は、そこから吹き上がる黒煙のように見える。まるで自然の荒々しさが、剣として表されたようだ。
「わしは源界からの使者、名をケンという。そしてこのわしの姿は、源界の根源的な力でもって暗界より生まれし悪しき生物、障魔を討ち、輝界へといざなう”ブレイガイオン”という武器じゃ」
鍔となる部分はケンの顔になっており、口を動かして喋っていた。それがさも当然であるかのように、ケンと鍔はうまく溶け込んでいたので、どこか滑稽にも見えてくるのだった。
「ブレイガイオン……」
ユーキは驚きのあまり、その名称を繰り返した。
「このブレイガイオンを、おぬしの眠りしイムシンに託す。もしおぬしがイムシンを解放することがあれば、おぬしの力と共鳴し、この剣の力は真価を発揮する事になるじゃろう。さあ、わしを手に取り障魔を倒すのじゃ」
ユーキは思った。
(そうだ。今は考えている場合じゃない。とりあえずこの猫を信じてヨダット達に加勢した方がいいのかもしれない)
ユーキの目つきが変わった。彼の目からはひたむきさが伝わってくる。
「お借りします! ケンさん!」
ユーキはブレイガイオンを手にし中庭へと走り出した。