3、不思議な少女
翌日。
朝食は決まって、寮の食堂で済ませる。その後寮生達は学校へと向かう。
学校は並木道を抜けた、すぐ近くの場所にあった。
ユーキはいつもブロウと一緒に登校していたが、たまにブロウは寝坊をして遅刻をする事がある。今朝もブロウは結局起きられず、ユーキも何度か起こそうとしたが、いっこうに起床する気配はなかった。
(ブロウは今日も遅刻かな)
ユーキは歩きながら、並木道をまばらに歩く生徒達に混ざっていた。
辺りは山々に囲まれていた。イムシリア校は、山間にできた広い土地に小、中、高、大各々の学年と校舎を有していた。各校舎にはそれぞれ四つのグラウンドがあり、校舎へ行くにはグラウンドを一つ通過しなければならない。
グラウンドを過ぎ、階段を上ると三階建ての校舎が四つ、大きな菱形を描くようにそびえ立つ。
校舎と校舎の間を通り抜けると、中庭にたどり着く。中庭は各校舎の間から、石を敷き詰めた道が、十字を印すように通っていた。所々にわずかな自然もあり、春という今の時期の花もそこらかしこで咲いている。
中庭を抜けた正面の位置に大学年の校舎と、ユーキの目指す高学年の校舎が二つ建っていた。
各校舎の一階となる部分には、七本の獅子が表された柱があり、計二十八本の柱が、喜怒哀楽様々な表情の獅子を象って支えている。獅子は全て中庭に向かって立っていた。
七本の柱は、校舎の支柱としての働きよりも、校舎を彩る装飾品の一部としての役割が大きい。迫り出した二階から三階までの校舎を支えながら、七本の柱の向こうには、廊下とそれを隔てて奥まった場所にある各教室を擁した校舎の外壁がある。
中庭の中央には、イムシン教を広めた、ジョクス・オンガムの銅像が空を指差して立っていた。
ユーキは、ジョクスの銅像まで歩いていった。
歩いていくうちに、銅像の裏側に誰かがいる気配を感じ取った。制服のマントの端っこが風で揺れているのが見えたからだ。
ユーキは銅像が五、六歩先くらいまで近づくと、今朝はやけに静かだなと思った。
いつもなら生徒達の往来で賑やかだし、中庭の至るところにある腰掛けに座ってくっちゃべってる女子生徒や、ボール遊びをする男子生徒が必ずと言っていい程いるはずなのに、今朝はやけに静かだ。
ひっそりとして、中庭の植物もただの置物でしかないように感じる。そしてどこか肌寒い。
春を迎えて、晴れてユーキも高学年になった。
春風の暖かさが、これからの前途を祝福するかのようで、長くて寒い冬を勝ち超えたありがたい季節のはずだが、ここはまだひんやりとしている。
中庭だけ春の到来が少し遅れているような感覚でもあった。
銅像の裏側辺りでヒソヒソと話し声が聞こえてきた。
ユーキはこっそりと顔を覗き込んだ。
「どこから来たんですか?」
という女子の声。その言葉に「にゃあ」と返事があった。女子が黒猫と会話していた。
「迷子になっちゃったんですか?」
「にゃあ」
「かわいいですねえ」
とその女子は言うと、猫を抱え上げ頬に擦り寄せながら、ユーキの方を向いた。
「あ……」
目が合った。
彼女は金色の髪が肩まで伸びており、青い瞳は青さ際立つ海が瞳の中に広がるような、どこか神秘的な生い立ちを感じさせた。色白の顔にそこから下はマントをしていたが、この学校の物ではないようで、裏地が赤い色をしているのが風になびく時に少し覗け、マント全体も茶色が混ざったような黒さだった。彼女がその下に何を着ているのか想像もつかない。
「こ、こんにちは」
ユーキは咄嗟に挨拶をした。
「こんにちは」と返す彼女。
「可愛いですね、猫」
とユーキが言うと、猫は彼女の手を振りほどき、地面を伝ってユーキの足に寄って体をひっつかせてきた。毛の長い黒くて割と大きめな猫だった。
「なついたのかな?」
ユーキはそう言って、猫を抱き上げようとするが、刹那、手を引っ掻かれてしまった。
「いたっ!」
すると猫は、女子の足元へすっ飛んで行き、彼女に再び抱っこしてもらっていた。
「どうしたんでしょう? あなたの事嫌っているのかな?」女子が少量の笑みを見せる。
「何なんですかね?」
ユーキはきょとんとした。
すると、その女子はおもむろにユーキに近付いて来た。黒猫は女子の腕から飛び降りた。
彼女は微笑みを携えたと同時に、どこからともなく甘い香りを運んできた。
「よく見るとあなた、顔が痣だらけですね」
「は、はい。昨日、イムイスの授業の時にやっちゃって……」
昨日はブロウに回復させてもらった後も、泥人形を相手にした授業は続いた。ブロウも自身のパートナーの傷を治したり、また泥人形にこれでもか、と攻撃を受け疲労していた。授業が終わる間際になると、ユーキもブロウも、そして授業に参加した数十名の生徒達も疲れきっていたため、ユーキを含めたほとんどの生徒は痛みも癒えずに痣が残ってしまったのである。
彼女の顔が鼻先にある。ユーキは目を合わせられず、その目線は泳いでいた。
「じっとしていてください」
彼女はユーキを、そっと胸元まで抱き寄せた。彼女の胸の感触が、やり過ぎなくらいに伝わってくる。ユーキの顔は恥じらいと彼女の体温で真っ赤になっていた。
彼女から灰色の激しい気流が逆立った。イムシンを解放したようだ。
「スイヤース……」
ユーキの痣がみるみる治癒されていった。
「あの、この学校に転校して来た人ですか?」
彼女がこの学校のマントではないのを見て、やはり転入してきたと考えるのが妥当だろうとユーキは思っていた。
「はい。そうです」
「校内でイムイスの使用は、授業以外禁止されているんです。昔、イムイスで大怪我を負った生徒がいて、以来、攻撃、回復関係なく使用は禁止されていて……」
「そうだったんですね。知りませんでした。見た感じあなたの受けた傷は、”イムシンの戒め”で受けたもののように思えますが」
「まあ、そうですね。よく知ってますね。その痛みを知るからこそ、民の痛みが、より一層わかる。だから力ある我々が救うのだ、みたいな」
「傷を治すことだって、民の受けた傷を理解することに繋がるはずです。意味としては同じようなものですよ。イムシンの教義に咎められないという意味では、あなたが受けた傷も、わたしの回復イムイスもおあいこです。とりあえずそういうことにして、治した事は内緒にしていてください。わたしとあなたの秘密ってことで。ダメですか?」
「い、いえ、全然構いませんよ。逆にこっちは痣まで治してもらったんですから、それくらいどうってことないです」
「よかった」という彼女の傍で、猫はじっとユーキを見つめていた。二人とも猫のその仕種に気付いた。
「なんでしょう? あなたを見ていますね」
「また引っ掻かれたら嫌だな……」
ユーキと彼女は顔を見合わせた。そして小さな笑いから大きな笑いになって、二人は楽しそうに笑顔を見せ合っていた。
突風が吹いた。
麗らかな春の陽気が荒々しくも心地の好い風を運んで来る。
ユーキは突風に驚き、目をつぶった。風が止み彼が目を開けると、先ほどまで喋っていた女子がいなくなっていた。
中庭のひんやりした空気はすでになくなっており、いつも通り、生徒たちの往来と遊ぶ賑々しさが中庭に響いていた。
ユーキは消えてしまった女の子に、初対面でありながら、どこか違和感を覚えていた。
(なんでだろう? 綺麗な子だったけど、何か特別なものを感じる……)
その様子を、高学年の校舎の窓から窺う者がいた。ヨダットである。
昼休み。
昼食をさっさと済ませ、校内の食堂から出てきたユーキは、出入口のところでクラスメイトのラビーユに遭遇した。彼女のフワッとしたショートヘアはいつも通り、ラビーユっぽくてお似合いだ。
「あっユーキ。もうお昼済ませたんだ」
「うん。ラビーユはちょっとお昼遅いみたいだけど?」
「ダイガン先生と少しお話してたんだよね」
「勉強の事で?」
「そうだね。イムイスの事をちょっと教わりに」
ラビーユは、遠方に位置するルビデス国から留学させられていた。
ルビデスにももちろんイムイス学校はあるが、ここイムシリア校が、イムシン教との深いゆかりの地でもあるので、ラビーユの留学はそれにあやかろうという彼女の両親の野心からくるものだろう。
「僕にもそんな才能や探究心があったらなあ」
「大丈夫、ユーキだって絶対あの頃みたく、イムイスを扱える日が来るって」
「だといいんだけど」
「大・丈・夫!」
ラビーユはユーキの背中を、手のひらでしたたかに叩くのだった。
「いてて。ラビーユの元気には敵わないよ」
と、弱々しくユーキは振る舞う。
「ラビーユがいつもそばにいたら、嫌でも元気になっちゃいそうだな」
「あはは。まあ、いつもそばにいて欲しいと言うのなら、あたしはどこまでもユーキについていくけど?」
ラビーユは、ユーキから目をそらしながら言った。ラビーユは、意味深な言葉を発しながら、はにかんでいる様子である。ユーキには彼女の言うセリフの真の意味までを読み取ろうとはしなかった。いつも一緒にいたら、逆に大変だよなあと思っていると、彼女はユーキの肩に手を添えて、笑顔を見せながら食堂の方へ向かおうとした。
「まあ、あたしにはそれくらいの覚悟はできてるって事で、頭に入れといてね。じゃ、お昼食べてくるから」
こうしてユーキは、ラビーユとの会話を後にすると、再び中庭まで来ていた。
中庭に敷かれた石畳は、昼時の真上に位置する太陽の陽射しを浴び、強く反射していた。
庭に生える緑樹の葉も照り返しでつやがでている。そしてその影は影らしく照り返しの反対側に色濃く伸びていた。
中学年から約三年間という月日は、ユーキが入学当初より抱いていた”イムイス使いになる”という目標を惰性に流れさせ、人生をあてもなく漂わせるには十分な月日だった。
彼をそうさせたのは、長い時間のせいだったのかもしれない。しかし、一番のきっかけは、中学二年の終わる少し前に体験した、友人ユフィーネが行方不明になるという悲しい出来事のおかげでもあるのだった。
以来、彼は一つの特技を得る。
イムシンの解放が出来なくなり、勉強も疎かになった今、休み時間はおろか、授業中も隙あらば思考を麻痺させ、ぼーっと景色をながめるだけの”特技”を得たのである。それは人の命を預かり、また人を救うという使命に生きるイムイス使いとは、やたら不相応な特技だった。しかもユーキ自身それを深刻に受け止め、無くしていかなければならない課題として、自覚すらしていなかったのである。
最近は多少腑抜けになってしまった事は認めてきていた。だがユーキはこの学校には相応しくない、このボケッとする行為を今の自分では直せないと、開き直りに近いものを抱いていた。
よく先生からも叱られることがあったし、ブロウやラビーユからも「怪我の元だ」と、忠告を受ける事もあった。
視線は空を見つめるようでも、頭の中ではユフィーネの顔を思い出す。
(もし、ユフィーネがひょっこり帰ってきたら、ぼーっとすることもなくなるだろうか……)
ユーキはあくびを一つしてみせた。
「にゃあ」
ふと猫の鳴き声が聞こえた。
鳴き声の方を見ると、朝方ここで見つけた黒猫が中庭の中央の方にいた。ユーキが近づいていくと、猫は怖がって離れる様子もなく、ジョクス・オンガムの銅像を見上げている。
「そういえば学校で、野良猫を見かけるのは初めてだな」
ユーキがそう言った直後、風が強く吹き荒れた。辺りの花や木立が激しく騒がしく揺れた。
「あ、また朝の猫さんが来てますね」
振り向くと、猫同様、朝方見かけた金髪の女子がマントを翻して立っている。
ユーキは「あ、どうも」と挨拶をした。
彼女は中庭から見える四つの校舎の内側をゆっくりと見回して、一つ溜息をついた。何やら疲れている様子である。そして今度は、校舎と校舎の隙間から見える風景をぼんやりと望見しているようだった。
「どうしたんです?」とユーキ。
「唐突に伺います。義務感と使命感、あなたはどちらでイムイス使いになろうと思いますか?」
「義務感と使命感?」ユーキは確かに唐突な質問だなと思いつつ、
「そりゃあ、使命があると思ってやらなきゃ、イムイス使いになっても虚しいだけのような気がしますけど」
「そうですよね。あ、自己紹介遅れました。わたしムニ・ユイツって言います」
「僕はユーキ・ジャスウィンと言います」と軽く会釈し、ムニは再び話し出した。
「そうですよね。やっぱり使命に燃えるって大事ですよ」ムニは小暗い顔をした。
「どうしたんです? なんか落ち込んでるようですけど……」
ユーキは会って間もない、このムニという少女に対して、まるで友人のように話し掛けていた。ユーキは女性との色恋沙汰には疎く、今まで異性と付き合ったことはなかった。下心でムニを口説こうとしているのではないのだろうが、彼が初対面の女性にこうも仲よさ気に話すのを、もしブロウやラビーユが目撃したら、彼らも舌を巻くことだろう。
「いえ……。例えば、殺し合うのが普通だった、百年前のイムシン戦争があった時みたいな環境だったら、ユーキさんは同じく使命感で戦争に参加して人を殺しますか?」
ユーキは、安易に答えられない、酷な質問を投げかけるなあと思ったが、
「抵抗はありますよ。でもそれがその時代には当たり前な事だったわけですし、戦うことを拒んだら罪に問われるっていう百年前には常識だった事を受け入れなければならないのなら、渋々戦ったんだと思います。きっと昔の人もそうだったに違いないです」
「渋々……ですか。時勢や運命には逆らえないのも、人なのでしょうね」
ムニは、どこか孤独に苛むような目をしていた。ユーキは彼女の事が少し心配になり、冗談混じりで言ってみせた。
「どうしたんですか? まるで今から人殺しするみたいじゃないですか」
ムニは目もあやな笑顔になって、
「いえいえ! 会ったばかりなのに、こんなぶしつけな質問をしてしまってすみません。わたし、こうやって小難しいこと考えたり話したりするの好きなんです。イムイス使いやイムシン教って、極端な話をすれば、イムシンていう心の中の強い生命力みたいな物、つまり自分の心を信じろってことじゃないですか」
「まあ、そうですね」
先程までのムニは朝の強気な一面とは違い、しおらしさが漂っていた。だが、今の彼女は表情は綻び、満開の花びらのような笑顔だった。
「だから、百年前とは確かに変わったなって。いい事なんでしょうが、また、人と人との争いが起きたら嫌だなって、ちょっと怖くなってしまって……。でも、時勢や運命に逆らえないのなら、争いも仕方のないことなんでしょうね」
よく見ると彼女の雰囲気は、ラビーユのものに似ていた。顔つきや髪型などではなく、自分と年齢が近い、または同い年くらいのものを感じる。ユーキもラビーユも十六歳だが、この年相応のあどけなさみたいなものをムニから感じ取った。
しかし、なんだろう。彼女からは今朝方感じた”違和感”があるし、今こうして彼女と話すと、より一層違和感が際立つのである。
もしや恋とか愛とかそんなものかな? と思うユーキだったが、ちょっと違うような、でも間違ってもいないような気もしていた。
ユーキの心の中にもやっとしたものが生まれた。このもやっとした気持ちは、苦味があるものの胸を強く締め付けられるようで、どこか甘く、居心地のいいようにも感じるのだった。
この感覚は、錯覚だろうか? それにしては胸の締め付け具合が妙にリアルだ。
明瞭な答えが一瞬、脳裏を掠めたような気がした。だが、掠めたものがどんなものか後を追わずに、ユーキの中で徐々に曖昧なものと化していくのだった。
「時勢や運命に逆らえないって事はないんじゃないですか? 過去にやむを得ず沢山の人を殺す争いがあったとしても、もし今、昔のように戦争が起こったとしたら、僕なら、それなりに抵抗はするかと思います」
「世界がそうならないための若者だって、先生達大人は言いますが、そうですよね……。時勢と運命にあえて逆らうのも人の生き方としては有りなのでしょう」
直後ムニは呟いた。「わたしにもできるかな……」そして、気を取り直した風にこう述べはじめた。
「話は変わりますが、この学校の施錠イムイスって、この中庭だけなんですか?」
「え? いや、この中庭に施錠イムイスが張られてるなんて初めて聞きましたけど」
「そ、そうですか? わたしの勘違いかな……。せっかくこれからここに転入するのに、施錠イムイスが弱まって、障魔が攻めてきたら嫌だなって思いまして」
「大丈夫ですよ。この学校には、イムシリア国とか周辺各国にある町や村にあるのと同じ、強力な施錠イムイスが施されていますから」
施錠イムイスとは、障魔が立ち入ることができない、魔よけのイムイスを学校や病院、町などの建物の外周などに張る事をいう。人間の目には見えない壁が、障魔にとってやすやすと侵入できないように、この世界では一般的に使われるイムイスだった。
ムニははっと胸を突かれたようで、
「そうですよね。きっとわたしの思い過ごしだな……。ですから気になさらないでくださいね!」
ムニは何か誤魔化すように、自分から持ち掛けた話題を、早々に終わらせて苦笑している。
施錠イムイスが掛けられているのも解ってしまうくらい、彼女は洗練された技を持っているのだろうか? どうも彼女からは、急に現れたり消えたり、同い歳のような容姿でありながら、ユーキとは掛け離れた技を持っているように思えた。
ユーキはムニが苦笑する向こう側、――高学年の校舎の獅子を模した柱の間――からヨダットがこちらを見ているのを目撃した。
「にゃあ」
鳴き声に気づき、ユーキは一瞬、黒猫の方を見たが、すぐに視線をムニの方へ返した。ムニはまたもや消えていた。ユーキの前髪を、穏やかな風が撫でている。今、見かけたヨダットもいなくなっていた。
(また、いなくなっちゃった。ムニってなんか不思議な存在感持ってるなあ……)
ユーキはそう思いながら、中庭の真ん中にいる、ジョクス像に目をやった。
翌朝。
不思議な少女ムニが、ユーキと同じクラスへ転入してきた事は、彼にとってかなり衝撃的な出来事だった。
ムニとはそこはかとなく、運命的な物を見出だそうとするユーキだった。だが、見るからに容姿端麗で、イムイスのスキルも上位に位置しているという、先生からの紹介もあり、今の自分とは不釣り合いだと、萎縮してしまうのだった。
しかもムニの席は、ユーキの隣の席だったのだ。
異性への好きだの嫌いだのという感情の前に、中庭で出会って会話をしたなどという、偶然なる出来事がこうまで度重なると、ユーキにはやたら彼女が不思議に思えてならなかった。
「よろしく。ユーキさん」
と、ムニは笑みをこぼして言う。
「う、うん、よろしく」
相変わらずユーキは自分の瞳の中に、彼女の紺碧の瞳を映しだすのは困難だった。
イムイス学校の制服を着ているムニだが、制服は基本、黒いマントを羽織るため、中庭で会っていた時も彼女は黒に近い色をしたマントを纏っており、初めて会った時の印象とは文字通り遜色はなかった。
ムニとユーキが仲良く喋っているのを、そわそわしながらどこか落ち着きなく後ろから見ているのは、ラビーユである。
「ラビーユ! 恋敵! 恋敵!」
と、ラビーユの前にいる女子が楽しげにちょっかいを出す。
ラビーユは無理矢理笑顔を作った風で、その女子のやんちゃぶりを手で振り払うような動作をして、不安げにユーキとムニの方を見るのだった。
ムニが転入した次の日の事である。
ムニのいる席を男子達が数名囲んで、何やら話をしていた。
「得意科目は全般て先生は言ってたけど、中でも特に好きな科目とかある?」
「好きな食べ物、よかったら教えてください。今度一緒に食べに行きませんか?」
などなど、クラスで一、二を争う美形男子が、ムニを口説いていた。
ムニは質問一つ一つに笑顔を向けながら、丁寧に答えている様子だったが、男子からの間髪入れずに来るお誘いや具体的にいつ行くかなどという質問には、にこにこしたきり応じようとはしなかった。
ユーキは彼女の隣の席だったが、群れをなす眉目秀麗男子達に押されて、自分の席を奪われてしまった。
次の授業の鐘が鳴るまでまだ多少時間はあるようだ。いい加減ムニをいじくるのはそこら辺までにしてもらいたいと、ユーキは腰に手をやりながら、しかめっつらをするのだった。
ムニも何やら無理に笑顔を作っているようだった。
「コラ、アホ男子ども!」
男勝りな顔つきのラビーユが、女性と大差ない顔をする男子達を一喝した。
「ムニが嫌がってるのがわからない?」
ムニを取り巻く男共の一人が反発する。
「なんだよ、チビーユ。ムニさんのこのお顔のどこが嫌がってるそぶりだというんだ?」
ラビーユは男子特有の無神経さを、時々叱り飛ばしたりする性格でもあったので、一部の男共からは煙たがられていた。ラビーユは割と小柄な背丈でもあるため、彼女の態度が気に食わない男子は、チビーユと言ってからかうのだった。
「あら、あらあら、あんたら女性の扱いには長けてるんでしょ? それなのに、女の表情を読み取る事ができないなんて、単に女々しい面した、下心丸出しの畜生なんじゃないの?」
「なんだと?!」
ムニを取り囲む男子達が、一様に動揺した。
「ム、ムニさん、俺達おじゃまでしたか?」
ムニは笑顔を崩さず、しかし、軽微に眉をひそめて、
「そんな事ないですよ。あの、わたし、次の授業の準備をしたいですし、皆さんも用意しないと先生に注意を受けてしまうんじゃないですか? お話はそろそろお止めになった方が……」
「優しいなあ、ムニさん……」
麗しき少女のわずかな気遣いに、格好よさを見せ付ける事が日課の彼等は、涙目になりながら、その気遣いをありがたがっているようだった。
「ありがとうムニ。また話そうぜ」
「俺は諦めねぇっす。いつか食事しましょうムニさん!」
などと言い残し、男子達は席へと戻っていった。中には他の教室からムニの噂を嗅ぎ付けてきたのか、廊下への扉に向かう男子もいた。
「ラビーユさん、ありがとうございます」
ムニの礼にラビーユはあからさまに仏頂面をした。
「あんたも自分が男子にモテるって自覚があるなら、適当にあしらう方法考えた方がいいよ」
「モテるだなんて、そんな……」
「フン、あんだけ男子に囲まれて、そうやってしらばっくれるのも、優等生のあんたらしいって事なのかね?」
ラビーユは腕組みをして、険しい表情をしたが、ユーキの方を見ると豹変した。
「ユーキ、もう大丈夫。あんたの席空いたから、もう座れるよ」
ラビーユは自分の机に戻っていった。
授業が始まり、しばらくしてムニは小声でユーキに話しかけた。先生は黒板に何やら書き込んでおり、少しの会話なら出来そうだった。
「ユーキさん」
「どうしたの、ムニ?」ユーキも声を霞めていた。
「ラビーユさんを怒らせてしまったみたいで、どうすれば、あの方と仲良くできるんでしょうか?」
「ラビーユはルビデス国の出身なんだ。ルビデスの人って、怒りっぽい反面、すぐ忘れるたちみたいだから、大丈夫。ラビーユもいつまでも怒ってたりしないよ」
「そうですか、それなら安心です」
ユーキはムニからそう言われると、教科書に目を通そうとしたが、後ろの生徒が肩をつついてきたので、振り向くと紙切れを渡された。
紙切れを見ると、
”授業中は、隣の人を見るより前向いてた方がいいよ” と書いてあり、教室を一巡すると、ラビーユが手をひらひらさせている。彼女はウインクをして微笑みを見せていた。
どうやら彼女から廻ってきたようだ。ユーキは今日は何かとお節介なラビーユを訝むが、授業に再び集中するのだった。
明くる日の午後。
授業を受けていたユーキは、朝から妙な視線を感じていた。
ユーキの右隣の方から、断続的に見られているような気がしてならないのである。
右隣のクラスメイトとは、そう、ムニである。
ユーキは思い切ってムニの方を向くと、同時に彼女は正面を向く素振りを見せた。
ユーキは視線を前に戻し、すぐに右へ向けると、ムニと目が合うのだった。
ムニと視線が交わったものの、彼女の碧眼を見てしまうとどうも胸騒ぎがするので、なるべく目は合わせないようにした。
ムニはどことなくしおれたような顔をしていた。
次いで彼女は床に目をやり、そろりと黒板の方に顔を向けるのだった。
彼女の元気のない顔は、何を意味するのか疑問符が頭に浮かぶユーキだったが、その後ムニからの視線を感じる事はなかった。
そのまた明くる日の昼休み。
ユーキは中庭に来てベンチに腰掛けていた。何かするというわけでもなく、ただいつも通りぼーっとして、中庭に植えてある植物に目を据えているだけだった。
木や草花を見ていると、どうしても今注目の転入生、ムニ・ユイツの事を思い出し、彼女に感じてしまう不可解なものまで心の底から浮上してしまう。
「相変わらずぼーっとするのが好きなんだな」
ヨダットが近寄りながら声を掛けてきた。
「ヨダット……」
「お前とはもう顔も合わせたくなかった。イムイスの才能もあったお前が、ユフィーネの一件以来その才能を見せ付ける事さえなくなってしまったんだからな。一生お前とは話すまいと決めていたが。……かつての友達と毎日会って話さないことがこうもめんどくさいとは!」後半、ヨダットは独り言のように言ってみせた。
「僕という存在は、少なからずユフィーネが行方不明になったことの一番の原因だと思ってる。ユフィーネがいなくなった代償が、僕のイムイスの喪失だったんだ。あの頃、ヨダットと競い合っていた時の僕は、もう幻でしかないんだよ」
「だが、オレは今回、あいつが転入してきて、失っていた希望を取り戻せたぞ」
「ムニが? なぜ?」
ユーキにはヨダットの台詞の真意が、解ったような解らないような気でいた。いや、ユーキにも解っていた。ム二と出会ってから感じていた違和感の正体がなんなのか。その自分の本心すら自分で隠そうとするユーキは、ヨダットが希望を持てた理由が、ムニにイムイスの才能があるのなら、ユフィーネを失った復讐が障魔に対してはたせる、というものだろうと考えていた。
ヨダットは冷たい目つきを眼鏡の奥からユーキへ飛ばした。そしてその冷酷なる瞳の色を、烈火の如く怒りの色に変えて、ユーキの胸倉を掴んできた。
「お前、忘れたとは言わせないぞ!」
ユーキにも解っていた事だった。しかし、どう考えても有り得ない事なのだ。ヨダットは大声で言った。
「ムニ・ユイツが、ユフィーネの面影そっくりなんだよ!」
「ただ似てるだけじゃ……」
「オレは……!」
ヨダットは堰を切ったようにこう言い放った。
「オレは信じたい。ユフィーネがまだ生きてると!」
「でも、あの子がユフィーネであるはずがない」
「あいつの存在は、オレにとってユフィーネとの再会と同じだ! ユフィーネは死んだわけじゃない。行方不明になっただけなんだぞ?」
――そうかもしれない。
ユーキはヨダットの言動に対して、自分の感情を偽った言い回しをした。だが、ヨダットの言い分もわからないわけではなかった。
ずっと気になっていた。
ムニが来てここ何日かは、彼女の表情一つ一つによって、まるであの一年前からなんら変わってない日常を、そのまま過ごしてきたかのように感じさせていたのだ。
だがそれは有り得ない話だ。ユフィーネのいない閑寂な日々が、これまで普通だったのだ。
あの時、間違いなくユフィーネはあの光の中へと消えていった。いや、もしくは飲み込まれてしまったと言った方がいいのかもしれない。
二度と思い出したくはない。
けれど、ムニはユフィーネの顔をしてユーキの隣の席で、息をする。笑顔を見せる。
できれば、思い出したはくない……。だが、ムニの顔を見る度に、あの時の過ちが、一回指でつつけば変えられたかもしれないあの瞬間が、静かに息を吹き返すのだった。
ユーキは怖じける瞳の奥で、この一年封印していた、厭わしい過去と対面した。