12、ブラクスン
ユーキと話した後、ダイガンは学校に戻っていた。
ダイガンには一つ気掛かりなことがあった。
学校の生徒であるユーキが、いかにイムイス使いへの道を再び順調に歩み始めたとしても、障特の施設が爆破されたことによって、その機関の長であるブラクスンという人物が、同時に”自殺”を図っていたという事実を伝えることはできかねていた。
ユーキ達に捜査を手伝って欲しいと言った手前もあるが、寺院直属の大層な役割を持った大人が、イムシンという誇り高き教えの中で、自身の人生そのものが追い詰められ、自害した事を伝えるのは、まだ成熟していない少年を無理矢理、現実の荒波の中へ突き落とすようで忍びなかった。
ブラクスンは褐色の肌に、恰幅のよい体型をしていた。ふっくらした彼の顔が破顔一笑すると、自殺をするなどとは考えられない程、親近感がわく。腹の中の脂肪はもしかしたら、優しさが詰まっているのではないかと話をする者もいたくらいである。
爆破があった直後、寺院の郵便物にブラクスンからの遺書となるものが届いていた。
この遺書によって、障特の施設の破壊が、ブラクスンによって行われたことが明らかになったのである。
遺書には次のような文章が書かれていた。
「私は自分を信じ抜く事ができなかった。
イムシンという崇高な力が体内にあるのなら、なぜこうも私は惨めなのか? 障魔の研究を重ねた私がある時、事故で扉の障魔の中に入り込み、そこで見たものは先の見えない真っ暗な世界だった。
闇の中から戻って来てから、私の心はその闇に侵されたようだった。暗い世界で得た私の見識は、元々は人の世も、音も光も臭いも何もない無の世界だったというものだ。
暗界より生まれるとされる生物、障魔。
源界、輝界、暗界の三つの世界が人の無意識下で繋がっているのなら、私が見た闇の世界は、その繋がっている一つの世界、暗界で間違いないだろう。つまり私は人の心の闇を垣間見たと言ってもよい。その世界で、私は数々の目を背けたくなる情景を見た。この情景こそが個々の人々が見たり、感じたりしてきたとされる、”恐怖”などといった感情だったのだ。そして私が知ったこの世の仕組みは、人が滅びれば、障魔も滅びるというものだった。
人の持つ負の心は、暗界で蓄積され、障魔の生命を支える根源力、ジャムシンとなるのだ。
誰しも心に闇を抱えている。悔しさ、辛さ、弱さ、凶暴さ、様々だ。イムシンがあるというのに、なぜ人は人を信じられず、恨み、妬み、罪を犯すのだろう?
そんな人間がイムシンを自覚し、障魔に挑み続けるという日常は途方もない。イムシンなどちっぽけなものに思えて来る。人は弱い。闇を抱えながらも、嘘をつき目先の利害に現をぬかし、寸陰の光に酔いしれる。常常、この世界の未来にあるのは暗鬱な風景なのだ。
私は私の持つ力全てを駆使し、人を脅かそうとした。人が弱く愚かであるという自覚を持たず、傲慢に障魔を殺そうとする行いが、私の怒りをさらに掻き立てるのだ。ならばこの際、私が人々に判定をくだそうと決心した。人が忌み嫌う障魔を使い、人を滅ぼすのだ。それがジャムシン教を作った理由だった。
私はイムイス使いと研究員の道を捨て、ジャムシンの使いとして、人間全てを殺そうとしたのだ。そうすれば障魔も消える。そしていつしか私の命も、肉体も消える。人も障魔も全て消え、世界に安寧がもたらされる。暗界の持つ”安息”というイメージがこの世に訪れるのだ。
私が暗界で知った音も光も臭いもない世界を、私は目指そうとしたのだ。その目的は私の頭で常に鳴り響いていた。暗界から聞こえてくる何らかの指示のようにも聞こえたが、私の心はもはや凡夫のそれとは一線を画していたのだろう。
だが私は、その道さえ歩むのを止めたのだ。
一筋の希望をある子供に託したからだ。この子の必死な生き方は、こんな私を恩人とまで言ってくれた。
この子の純粋な思いに、私は自分を愚か者だと結論付けた。そう、私も人が故、弱者であるからだ。
弱者に手を差し延べなければならないはずの、イムシンの信者であるこの私が、ジャムシンという悪に染まり、自分を愚かだと悟ったのだ。愚か者には、自ら鉄槌を下す。私は間違いなく愚か者なのだ。
イムシンよ、そしてイムイス使い達よ、さらばだ。私は闇に飲み込まれ、もはや生きる術も見つからない。希望を託した少女が、いつしか幸福となるよう私は祈り、自らの生涯に幕を降ろす。愚か者の最後の悪あがきとして、憎き障特の施設を私の死とともに消させてもらう。私は、イムシンではなく、ジャムシンと共にあることを願い、死を乞うだろう。
ブラクスン・シャリザード」
ダイガンはその遺書の内容に驚くほかなかった。旧知の仲だったブラクスンの、障特の施設を巻き添えにした突然の死。遺書の内容はあらかた覚えていたが、ダイガンはブラクスンの死を受け入れることができなかった。
彼の死と、遺書が物語る真実を突き止めるため、ダイガンはいざ、捕まえたジャムシン教幹部、ドルフのいる牢へと向かっていた。彼なら何か知っているかもしれない。
会議で緊張感高まる校内を急ぎ足で歩き、彼は牢獄へと辿りつくのだった。
牢屋は校内の一角にあり、元々物置だったところを即席で牢屋にした。イムイス使いの幹部達は捕らえたドルフから今回の事件を様々聴取するために、彼をここに閉じ込めていたのである。
ダイガンはイムイス使いの警備二人に許しを得て、ドルフと面会した。
彼等は狭い牢の中で、二人きりで話した。部屋には出入口の扉があるだけで、他に逃げ出してしまいそうな窓は一つもなかった。埃の立ち込める室内の中心に机があり、向かい合わせで二人は座った。
ドルフは鉄製の手枷をしながら、不健康そうな顔をしていた。頬骨が出て、目の下に隈ができている。彼は痩せこけた顎を動かした。
「こんな罪人に何の用です? ダイガン先生」
「率直に聞きます。あなたは、亡くなったブラクスン氏と、ジャムシンとの関係を何か知っているのですか?」
「その質問は今まで散々聞いてきました。私には答える義務などないと思い、質問には応じませんでしたよ。ですが、障特のお偉いさんがジャムシンとの繋がりを自ら暴露し、死亡したと先程聞かされました。こうなれば、私のジャムシン使いとしての命運も尽きたと同じです。おまけに質問者が、千のダイガンと讃えられたあなたなら、私にも答えるかいがあると言えます」
「それで、知っているんですか? 知らないんですか?」
「もちろん、知っていますよ。私はルビデス国出身でしてね。ある組織に属していたんです」
ドルフは、ハキハキとした口調だった。自分がしでかしたことに臆面もなく、堂々としている様子だ。
「もしや、ジョクス派ですか?」
ドルフはニヤリと笑った。
「その通りです。ジョクス派にいました。つまり、ジョクス派とブラクスンは通じていたという事です」
「馬鹿な……! かつてイムシンと争ったジョクス派が、ブラクスン氏と手を組んでいたなど有り得ない……!」
ダイガンは驚嘆した。
「ジャムシン教とブラクスンを繋げる事はできても、ジョクス派そのものが、ジャムシン教の隠れみのになっていたと考える者はそうそういないでしょうね」
「あなたは、ブラクスン氏が何故、イムシンに牙を剥くようになったか、それも把握しているのですか?」
「そこまでは解りかねます。ですが、私の知っている事を少々お話することはできます」
ドルフの話によれば、障魔の研究に余念がなかったブラクスンは、研究者ゆえ、障魔の生態をあらかた知りつくしていたという。障特はイムイス使い達への、障魔に関する情報提供を義務付けられている組織だが、アドアゾンを筆頭に研究が遅れ、討伐に関するあらゆる情報が、イムイス使い全般に伝わっていなかったのである。
ダイガンもブラクスンが暗界から戻ってきたという話を聞いた事があるが、ドルフが”ブラクスンは暗界で何か力を得たのではないか”と話していた事に多少なりとも頷けるものがあった。なぜなら、ブラクスンが暗界から戻ってきた辺りから、彼が障魔を手なずけている所を目撃した者がいたからだ。
イムシン戦争から五十年で、障魔が現れるようになり、ジョクス派がなりを潜めはじめた時、ブラクスンはジョクス派に上手く取り入り、彼等と共謀したのだ。彼らが手を結べたのは、ドルフにも理解に苦しむ所があったようだが、ジョクス派とブラクスンが行動を共にする事ができた理由の一つに、”イムシン教への阻害”という目的が互いに一致したからだと考えられる。
イムシン教を憎むジョクス派が、イムシン教と深く通じている人物と手を組めば、ジョクス派にとって、これほど好都合なことはないはずだ。
こうして、ブラクスンとジョクス派は、自分達をジャムシン教と名乗り、これまでイムシン教の施設や宗教活動を妨害してきたのである。
ジョクス派は水面下で、情勢を窺っていたのではなく、ブラクスンと結託し様々な妨害活動を行っていたのだ。
そんな悪の心を持ったブラクスンを、イムシン教内の人間は知らず知らずのうちに、障魔を研究する場に野放しにしていたのである。
ドルフから聞き出し、ダイガンは牢から出た。出ようとした間際に、ドルフからこんな事を言われた。
「私以外にも、ジャムシンを隠れみのにしたジョクス派は世界に散らばっています。私一人捕まえたところで、ジャムシンとジョクス派の息の根を止める事はできないでしょう」
ダイガンは校舎から出て、中庭まで来ていた。
ドルフの言っていた事を、再び頭の中で呼び起こす。
「……一年前に起きた、裏山の少女失踪事件より前から、ブラクスンはジョクス派と繋がっていましてね。少女がさらわれた事に対し、ブラクスンは誰でもよかったと言っていました。ユフィーネという少女を連れ去ったのも、ブラクスンにしてみれば、イムシンに対しての無差別な妨害だったんですよ。あの一件で世間が大騒ぎして、ブラクスンも喜んでいたはずです。自分の力によって、イムシン教を脅かす事ができたわけですから」
ダイガンはドルフが話すブラクスンの所業を、真っ向から否定したかった。
ブラクスンが、ユフィーネを行方不明にさせた張本人だという事実を、そうやすやすと信じることは出来ない。
ダイガンはブラクスンの悪行を信じがたいがために、彼がある時、暗界に行ってきたという話を思い起こした。
障特は、生きている障魔を捕獲し、生態などを調査する機関である。
ある時、ブラクスンは扉の形をした障魔を研究していた際、その障魔の中へ誤って入ってしまう。
そこで彼が見たものは、ひたすら暗い世界だったという。入口で見えた光もすでに見えなくなっていた。光一つない闇の中で彼が漂っていると、頭の中に、どこかの情景が入り込んでくるようになった。そして、讒謗のような沢山の声が、耳の中で蠢動するのだった。
暗闇の中だったので、瞼の裏側で見たものか、または眼前で起こっている事なのかはわからなかったが、その情景は矢継ぎ早に、自分の視界に入ってきたのだという。うっとうしい羽虫が耳元で飛び交うように、誹謗の声も続々と聞こえて来た。
八つ裂きにされた人の死体や、暴力を加えている情景、声も中傷やそれを言われた人間の泣き声のようなものまで聞こえて来る始末だった。ありとあらゆる酷薄な世界が彼の目と耳を支配した。
彼は、一人きりで真っ暗な世界にいたためか、そんな地獄絵図を見せられ続けたためか、この時、悲惨で苦い感情を持つようになっていた。
やがてブラクスンの心は闇と同化し、汚濁に浸かったような心一色になる。
最中、ブラクスンは気づいた。この情景は、人の人生の一場面を切り取ったものだと。ある人々の沢山の不幸な経験が、目の前で展開されているのだと。
とうとう人の暴虐極まりない部分を映し出していた情景は、群れとなってブラクスンの体の中で一塊になる。瞬間、彼はその塊の一部になったような気がした。そして情景の塊は、一つの生命体となって、ブラクスンの毛穴一つ一つから雫のように出ていき、ある固体を形成させたという。
個体がどんな形かは闇の世界では見えなかったらしいが、長年障魔の研究に携わっていた彼には、臭いや雰囲気で間違いなく障魔だと判別できたらしい。
ブラクスンは、障特の研究員として、そして、幼少の頃から教え込まれてきたイムシンの教えを保った人間として、ある確証を得るのだった。
――間違いなく、私は暗界にいる……。
しばらくして、彼はいつもの研究室に放り出されていたという。ブラクスンのこの話は、信憑性はないものの、当時研究室にいた誰しもが、ブラクスンが消えて、扉から出てくるのを目撃していたのである。
ダイガンはブラクスンが暗界に行ったという話を回想していたが、この話をそっくりそのまま話していたのが、先程面会したドルフだった。ダイガンは再びドルフの言っていた事を振り返った。
「ブラクスンが暗界から戻ってきてから、人が変わったという話を古参の仲間から聞きましてね。暗界へ行ってブラクスンは何かが変わったんです。我々ジョクス派と組んだのも、暗界へ行ってからだと聞きましたしね。以来彼は徐々に食欲も失せていき、彼の個性を際立たせていた膨らんだ腹も次第に萎んでいきました。かつてのジョクス派は、ブラクスンに協力し、イムシンに関わりのある施設や催し事を妨害できさえすればそれでよかったんです。ジョクス派の中にブラクスンを疑う人間もいましたが、私には彼の人間性や健康状態など二の次でしたよ」
ドルフは他に何かを隠していそうだったが、果して彼が今後、ジャムシンに関する情報を提供してくれるかどうか、解りかねるものがある。
暗界でブラクスンは何を見たのか? ダイガンはドルフの話と、ブラクスンの話とを分けながら繰り返して考えていたが、当の本人も死んでしまい、真実を暴き出す事ももはや不可能になってしまった。
少なくとも、ブラクスンがジャムシンと通じていたという話は疑う余地がなくなったのだ。
遺書にも書かれていたが、ある時ブラクスンは、暗界に迷い込んだ特異な体験を元に、こんなことを言い出したのである。
「暗界も源界も、人の無意識下で繋がっていると、過去の学者は提示した。ならば私は、そこにもう少し踏み込んでみる。障魔はこの無意識下で繋がるとされる、暗界、すなわち人間の負の生命力から生まれたのだ。であれば、障魔を絶滅させるには、人が絶滅しなければならない。負の生命力、負の感情は誰しもが持っている。人間が負の感情を持つ限り、障魔は消えない。これこそ暗界を巡ってきた私の結論なのだ」
ダイガンは、深刻な面持ちだった。
(ブラクスンは狂気に駆られていた。あの人のいい彼が、人間の命そのものを度外視した説を講じたのだ。私からすれば、彼は間違いなく暗界に行ったのだ。そして彼は、得意げにそのことを私や身近な人間に吹聴していたが、彼にもあったであろう、善の心を暗界で蝕まれてしまったのではないだろうか? でなければ、イムシンの教えに親しんでいた人間が、なぜこうも簡単に人を危めようとする行動を起こしたか、理解に苦しむ)
ダイガンの中で、ブラクスンの悪行と、彼の唱えた暗界と障魔との関係が、だんだん一本の線になっていった。
ブラクスンは直接的、あるいは間接的に人に危害を加える事で、人間の滅亡を目指していたのだ。そして、同時にそれは障魔の滅亡をも意味していたのである。
ブラクスンは何を追い求めていたのか?
人間と障魔、両方滅ぶ事が最終的な着地点であれば、彼は自分自身も殺そうとしたのだろうか? 彼の遺書にはこう綴ってあった。
「私はイムイス使いと研究員の道を捨て、ジャムシンの使いとして、人間全てを殺そうとしたのだ。そうすれば障魔も消える。そしていつしか私の命も、肉体も消える。人も障魔も全て消え、世界に安寧がもたらされる。暗界の持つ”安息”というイメージがこの世に訪れるのだ」
そして次のような記述もあった。
「私が暗界で知った音も光も臭いもない世界を、私は目指そうとしたのだ」
ダイガンはブラクスンのこうした思いや行いに、戦慄を感じずにはいられなかった。そしてダイガンは自分の心の中を見つめた。
(ブラクスン、君は気付いたんだ。人間誰しも弱点を持っているということを……。人はそれを隠そうとして、自分達で争い、悩み苦しみ、また時として、自他と戦う事すら避けてしまっているのだ。その矛盾を見抜けた君はむしろ賢いと思いたい。だが、君のしでかした行いは、到底理解できない。残された私達が暗界のせいにすれば、君が救われるという話でもないだろう。それとも君は、我々人間と障魔との戦いをやめさせ、いずれ全ての生命が暗界へと帰結しなければならないと、指し示そうとしたのか?)
全く持って、傲慢な話ではあるまいか?
一人の人間が、この世の全ての生命を推し量り、一切を自らの手で断罪しようとしたのだ。
これらは現状から導き出されたダイガンの推測による、ある一つの結論でしかない。ドルフが言っていた事を鵜呑みにしていいか判断はしかねるが、彼が言っていた事を偽りと定めてしまうのも、危機感がないようで浅はかに思える。立証が急務だが、もし彼が言ったことを公表すれば、誰しもがブラクスンを蔑み、彼を人として見ないだろう。
悪を糾弾するために、心の中に潜む凶暴さをひけらかそうとするその時の人々を、ブラクスンの目で見れば、弱者や愚者と見えてしまうのではないだろうか?
ブラクスンの残した物は大きい。彼の死を持ってしても、潰えたわけではない。
ドルフが属していた、ジャムシンの人々と話し合いの場を設けなければ、この一件が引き金となって、さらに大きな事件へと発展しかねない。ダイガンの顔は憂色の表情だった。
(話し合いの場を設ける……。それが、温厚な現国王ガーウォンの意向だったとしても、ジャムシン側が、何も抵抗しないで我々に従うわけがない。人と人が殺し合う……。そんな愚かで恐ろしい出来事が今再び行われるかもしれないのだ……)
かつて百年前のイムシン戦争の時も、人は人を人と思わず、殺しに殺し合った。悪逆非道な行いを堂々と行っていた歴史が、過去に歴然と存在している。
(結局は障魔も人も同じではないか?)
ダイガンは山間の中心から、その言葉を声を限りに叫びたかった。世界に響き渡らせたかった。
学校の中庭で、彼はどんよりとした空を見つめ、人の愚かさを切実に感じていた。
(それはもしかしたら、私にも有り得ることなのかもしれない……)
人が人を恐怖たらしめた大戦争から百年が経ち、障魔という難題に人と人とが手を取り合い、立ち向かわなければならない時代に、ブラクスンのような人間がいたのだ。しかも人々を救わなければならない、宗教という聖域の中で……。
ダイガンはブラクスンの悪鬼のような思念や行為が、宗教という同じ場所から発せられてしまったという事が信じられなかった。そして、その悪鬼は自身の内側にも潜伏しているのではないかと寒気がするのだった。
だが、ダイガンは我に返った。
(人のイムシンを信じるのだ――。このいつでも戦争が起きてしまいかねない今だからこそ、イムシンの教えに従い、崇高なるイムシンを信じていかねば……!)
ダイガンは第二の人生として、イムイス使いから学校の教諭の道を歩き出した。彼が訓導として進み始めた時、こう胸に秘めていた。
――全ては教育からだ。未来を担う子供達に、人としての正しき道を教えていくのだ――。
初心に戻り、ダイガンは今再び、立ち上がったのである。
(イムシンは勇気の異名。勇気を出すことは簡単なことではない。だが一人、私が勇気を奮い起こし、再び人を信じて行かなければ、何のためのイムシンだというのだ!)
人の心にはイムシンという大いなる勇ましき心がある。しかし、それならブラクスンも同じだったはずだ。ならばダイガンにも、少なからずブラクスンのような邪悪な心が存在していてもおかしくはない。
それがもしダイガンの思い違いなら、やはりブラクスンは暗界でイムシンを奪われ、悪の心を植え付けられたというのだろうか?
遺書にはこういった文面もあった。
「その目的は私の頭で常に鳴り響いていた。暗界から聞こえてくる何らかの指示のようにも聞こえたが、私の心はもはや凡夫のそれとは一線を画していたのだろう」
ダイガンは解らないことだらけだったが、一番の疑問は、ブラクスンの遺書にあった”希望を託した子供”が一体誰なのかという事だった。
イムイス学校の生徒達の事を言っているのか、どうにも解りにくい遺書の一文である。
ブラクスンが死んだ事は、まだ一部のイムイス使いや上層部しか知らない。民衆の前で発表すれば、今よりも忙しさは増すだろう。
ダイガンの身に、障魔討伐の最前線で戦っていた時よりも、多忙な日々が訪れようとしていた。
(ブラクスン。君は何故、こうまでして人を恐怖たらしめたのだ? 君が自分を見抜いたように、単に人が弱者であったからか? 君はそれが許せなかったと言いたいのか……)
ダイガンには結局、ブラクスンの真意が解らなかった。
ブラクスンの笑顔の裏には、いつも笑顔とは正反対の魔が隠れていたのだろうか?
ブラクスンとダイガンが、仕事や能力的な部分で差はあったにしろ、同じ人であることに違いはない。
ブラクスンは闇の中で何を見たのか?
彼の人間性を最後まで信じ抜こうとするなら、ブラクスンは暗界で悪の実がなる種を、埋め込まれてしまったのだとダイガンは思いたかった。
雲間から光が差し込んできた。ダイガンのかんばせを明るく照らす。
知り合いの死を、そして罪をどうしても認めなくてはならない。ダイガンは晦冥をさ迷っているかのようだった。しかしこの陽光は、自分の気持ちが漆黒の世界から、次第に暁暗へと近づいていくかのように思えて来る。
「今一度、イムシンを信じるのだ。それしか他に道はない」
ダイガンはそう力強く自分に言い聞かせ、校舎の中へ戻っていった。




