泣き石(2)
幽かな夏の匂いがアスファルトから香る。雨雲の匂いと混じり合うそれは今日の涼しさを予感させた。もう夏も終わるのだろうか。蝉の声が小さく聞こえる。北海道の夏は内陸のそれよりもずっと、短い。
雲が遠くに見える山々の中腹ほどまで根を下ろしている。編隊を組む鳥の群れがその中に吸い込まれるように消えていった。頭上に広がる薄い雲は、その袂を山々と同じにしている。海に近い平野の辺りでは、その切れ間から薄明が差しているのが見える。これを光のパイプオルガンと称したのは誰だったか、僕はそんなことを思いながら右手に目を移す。時針と分針は直角を成していた。時刻は午前九時、僕はまり子の家の前にいた。
峰時家の敷地は広く、そして古い。敷地内に放置されている一際古いあばら家などは、屋根は藁で出来ている上に蒲公英までもが生えている。初めてこの家を訪れた時、北海道には似つかわしくないな、と感じたことを覚えている。家の造りに夏の涼しさを求める内地とは違い、北海道では冬の温かさを重視する。そのためにこのような造りの家は、この辺りではほとんど見ることがない。戊辰戦争の折に、故郷を懐かしむ人々の憩いの場として建てられたらしいとまり子は言っていた。だからなのだろうか。僕は子供の頃から、そこに薄気味の悪さを感じている。
僕はチャイムを鳴らした。一呼吸置いてから足音が近付いてきて、ドアが開く。顔を覗かせたのはまり子の母、千尋さんだった。
「あら」
高い身長に浅黒い肌。彼女はどこか南国を思わせる快活な雰囲気を携えている。初めて会ったときから少しも変わらず、若々しい。確か今年で四十四になるはずだ。常に気だるい顔をしているまり子の母親とは思えない。
彼女は大きな目を一瞬大げさに見開いてからにこりとした。おはようございます、僕が口を開こうとすると遮るように彼女は僕の肩を掴んだ。
「巳扇くん」
彼女は悲痛な面持ちで言う。中年の女性特有の、どこか演技がかった物言いで。
「お父さん、本当に残念だったわねぇ……」
「なんて言ったらいいのかしら。お悔やみ申し上げます、かしら。いいえ、言葉なんかじゃ表せないわ。私ね、巳扇君のことがずっと心配だったのよ。お葬式の時は可哀想で本当に見ていられなかったわ。大学はちゃんと行っているの? またこっちに戻ってきたらしいけど、今まで寮だったんでしょう? 一人暮らしは大丈夫? 寂しかったりしない?」
僕は軽く頷く。口を開こうとすると、千尋さんはぎゅうっと僕を抱き締めた。彼女の目にはうっすら涙が浮かんでいる。触れる髪先から香水の匂いがする。
「えぇ、ええ。なにも言わなくても良いのよ。わかってるわ。一人は心細いものよね。何か困ったことがあればいつでも言ってちょうだい。巳扇君は家の息子みたいなものなんだから。まり子とは兄妹みたいに育ってきたんですもの。家に住んだっていいのよ。構いやしないわ」
千尋さんは一気にまくしたてる。僕はただ苦笑を浮かべる。彼女はこういうところも変わらない。人が良くて、心配性で。その上、口を開けば話し続けないと気が済まないらしい。
「とりあえず立ち話もなんだし上っていきなさい。ほら、遠慮しないで」
彼女はまり子と全く似ていない。外見ではなくその内面において。むしろまり子が彼女に似ていないと言った方が正しいのだろうか。千尋さんは不躾で不器用だが、どこまでも素直な真っすぐな心を持っている。その優しさを他人に対して発揮することを苦とは思わないらしい。まり子は違う。初対面の人などには礼節を保ち、言葉少なに選ぶ言葉は的を射ているがどこか慇懃無礼である。常に心の距離を保ち、不躾に踏み込んでくる者には否応なしに不快感を示す。他人に優しさを見せるのを弱さだと考えている節すらある。それはある意味彼女の持つ澄明さの一端でもある。
思い出したように彼女は続ける。
「ああそうだ、巳扇くん。朝ご飯も食べていきなさいな。今日は沢山余っていて困ってるのよ。どうせろくなもの、食べていないんでしょう?」
千尋さんは僕の腕を掴み、半ば強引に招き入れる。僕は靴を脱ぎながらこの一連の会話の中で一言も言葉を発せていない事に気付く。これもまたいつものことでは、あるが。
ううむ、僕は心の中で唸った。何回会ってもこの人は慣れない。しかもこの一方的な会話にいつも苦笑を浮かべる僕を遠慮がちな子だと思っているらしい。母親を早くに亡くして可哀想に、そんな無言の憐みを僕に向けている気がする。
――お母さんはね、あたし達とはきっと人種が違うのよ。質というか、核というか。性格の相違なんて生易しいものではなくて、あたし達には根本的に理解できない感覚で生きているのよ。暗がりを好むなんてことはしないの。アムリタを飲んだ人みたいに生きる力ってものに包まれているのね。
昔まり子が言っていた言葉を思い出す。ただ僕は葬儀の際に誰よりも泣いてくれたこの人を嫌いでは、ない。
「今日はまり子?あの子ったらまだ寝てるのよ。休みだからってぐうたらしちゃって、女の子なのにねぇ。起きても相変わらず本ばかり読んでいるの。あの子ったら寝るか読むかしかしないのよ。ほんとにしょうがないんだから。大学に入ったって友達の一人も連れてきやしないのよ。あの子は人見知りも治らないわねぇ。あんなに寝てばかりじゃいつか体にカビが生えてしまうに違いないわ。あ、これとね、この料理が今日は特にお勧めなのよ。それでね、最近じゃ私に部屋の掃除もさせないの。私の作ったご飯すら食べないのよ。嫌になっちゃうわ。遅い反抗期なのかしらねぇ…」
絶え間なく話しながら千尋さんは三人暮らしとは思えないほど大きなテーブルに次々と料理を並べていく。どうやらこのパンは手作りのようだ。ここにあるピザの生地も市販の物ではない。中央のバスケットの中には果実が積み上げられている。あそこの皿の上にある鴨肉は昨日の残りだろうか。この大きなパイは何が入っているのだろう。こんな量を僕が食べれると思っているのだろうか。青年が皆大食らいだと思っているとしたら、大間違いだ。
僕がとりあえずサラダに手をつけると千尋さんはにこにこしながら中に入っている野菜の説明を始めた。どうやら自信作らしい。ドレッシングどころか、陶器ですら自分で焼いたというから驚きだ。
僕はそんな説明を聞きながら、僕の母親も生きていればこうだったのかな、と思う。母という存在を身近に感じたことのない僕にはわからない。世の母親とはこういうものなのだろうか。口うるさく、心配性で。その愛情を余すところなく我が子に注ぐ。そういうものなのだろうか。まり子もいつか千尋さんのようになるのだろうか。
箸で一かけらの野菜をつまむ。彼女の自信作は美味しかった。
母性を得た女性は美しい。千尋さんの声を遠くに聞きながら僕はぼんやりと思う。女性において、若さに打ち勝ちうる唯一の手段は母性の獲得以外ありえないのではないか、と。精神の熟成からでしか生まれない芳醇な魅力。若さを拠り所にする美しさはしばしば僕らを狂わせるが、母性の持つ魅力には到底敵わないだろう。
男性とはいつも心の拠り所に飢えていると言ってもいい。例えるなら砂漠の様なものである。いつもからからに乾いていて、茹だる様な熱をその中に持っている。甘く上等な酒よりも霧の様な小雨の方が心地良い。揮発する一瞬の喜びではこの永遠の乾きは収まらない。
しかし悲しいことに、誰しもがその小雨を享受し留めておくことができるわけではないのだ。それどころか出会うことすら容易ではないだろう。互いに思いあうことなどというのは、ほとんど奇跡に近い。
そしてより一層男女の関係を複雑にしているのは、ほとんどの女性もまた同じように飢えているということだ。ただ、彼女らは包まれることに飢えている。男性がコップに水を入れるように心の内を愛情で満たされることを望んでいることに対して、女性はその水の中に飛び込むことを望んでいる。この違いは大きい。
僕は今、まり子の持つ永遠の小雨を慈しんでいる。しかしその先で、上等な酒を味わいたいとも思ってしまっている。その成長の軌跡の傍に寄り添って生きたいと思ってしまっているのだ。これはエゴイズム以外の何物でもない。まり子の持つ仄かな母性で満たされることを望んでいながら、彼女のありのままを曝け出してほしいと願っているのだ。僕の中で彼女の心の成長を急かす思いと、彼女の一瞬ごとにおける輝きを眺めていたい思いが同居している。過去から、未来まで。その全てを。この矛盾は結局のところ一言に尽きてしまう。僕は彼女に愛されたいのだ。何もかもを余すことなく。
僕は黙々と食べ物を口に運ぶ。千尋さんはその様子をにこやかな顔で見ている。
並べられた皿があらかた空くのを見届けて千尋さんは家を出ていった。先々週から料理教室に通い始めたのだと言っていた。この大量の料理はそのお披露目だったというわけだ。それを聞いてまり子が起きてこないことにも合点がいった。珈琲とパンとほんの少しの野菜で生きているようなまり子が、大量の料理を目にして嫌気が差さないわけがない。
僕は空いた皿を水に浸けてから二階にあるまり子の部屋へ向かった。階段の窓からは庭先で洗濯物が干されているのが見える。この一時間の間に雲はその身を大きく二つに割っていた。強く風が吹いてはいるが、辺りは燦々と降り注ぐ陽で包まれている。僕はまり子の部屋をノックして扉を開けた。
まり子の部屋は殺風景だ。ベッドと、机と、積み上げられた本。床には塵一つ無いが、大学の地下書庫にある様な古い洋書や和書も無造作に散らばっていて、お世辞にも綺麗だとは言い難い。カーテンも開いたままだ。遠くの家からはきっとまり子の姿がありありと見えるに違いない。窓から差す陽による暑さのせいか部屋の中に本の匂いが立ち込めていた。
「まり子、起きろよ」
ドアの方を向いて、横向きになって布団を抱くようにしてまり子は寝ている。窓から差す陽が不快なのだろう。髪の隙間から顔をしかめているのが見える。そこから覗かせる高い鼻と布団を握りしめる指先に官能を覚えるのは僕がまり子を好いているからか。
「なあ、まり子。起きてよ」
もう一度声をかけてみる。彼女は微動だにしない。体を揺さぶっても反応はない。その寝息は静かだが、体にはじんわりと汗が滲んでいる。僕は顔に張り付いた髪の毛をはらってやろうと手を伸ばした。その長い睫毛を見たかったというのもある。その柔肌に触れたかったというのも当然、ある。
「――髪に触ったら、張っ倒すわよ」
僕の手がピタリと止まる。静かに、目も開けずにまり子は言う。
「あんた」
眉間の皺が深くなる。声色に怒りが混じっている。
「あたしが髪を触られるの嫌いなこと、知ってるでしょ」
低血圧、まり子は寝起きの機嫌が特に悪い。僕は下心を見透かされてしまったようでひどく気恥ずかしくなる。そんなに怒らなくたっていいじゃないか、やり場のない気持ちを口にするより先に彼女は言う。
「暑い。ちょっと暑い。なにしてるのよ。窓、開けてよ」
こんなに締め切っているからだよ、そう思いながらしぶしぶと窓を開ける。飲み込んだ言葉たちが背中で汗に変わる。湿った背中が少しむず痒い。
「とりあえず珈琲を淹れて。冷たいのね。砂糖とミルクはいらないから。私のコップで、氷は三つ浮かぶように。熱いのを冷やしてくれればそれでいいわ。サーバーと冷却機はレンジの横にあるから。使い方がわからなかったら適当に説明書を探して」
彼女もまたまくしたてるように言った。千尋さんと違うのは、言葉の中に少女特有の我がままというべきものが潜んでいるということである。開いた窓から弱弱しい蝉の鳴き声が聞こえる。取り付けられた風鈴が涼やかにその音を鳴らす。早く出て行けと、彼女の表情が言っている。
わかったよ、僕は小さく返事をして扉に手をかけた。
「――夜は晴れるらしいわね」
振り返って彼女を見ると気だるそうに肩を浮かせながら大きな欠伸をしているところだった。気だるさは彼女の持つ色を際立たせる、僕はそんなことを思う。彼女は寝返りを打ってこちらに背を向けるとこう続けた。
「やっぱり石を見に行くのは夜になってからにしましょうか」
風が吹き込む。風鈴がりん、と一際大きく鳴った。彼女の髪が大きく揺れる。部屋のあちこちにある本の山が崩れ、僕の足元へ函館民俗史と題された古い本が転げてくる。そのページがぱたぱたと捲れて、止まった。
「夜の方が、泣きやすいものね」
僕の目に飛び込む文字。泣き石、そこにはそう記されていた。