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山中の海  作者: 林 藤守
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泣き石(1)

 


 まり子と初めて会ったのはいつの頃だったか。確か母が消えたのと同じ頃だったと思う。十五年前の九月だったはずだ。僕が六歳になる前で、まり子は六歳になったばかりだった。

 

 


 あの頃、母の遺体も見つからず途方に暮れていた父は、僕を連れてとある山中にそびえる神宮にお百度を踏みに行っていた。室町の時代から続くその神宮は僕たちの街を一望できる位置にあり、昔から探し人において特に霊験あらたかであるとして知られていた。


 記憶を振り返れば、幼心ながらその神宮の持つ静謐さに畏怖の念を覚えたことを思い出す。まるで夜の色が深いかのような、気を抜けば自分がぼうっと溶けてしまうかのような静謐さがそこにはあった。

 

 最初の頃、僕は泣いてばかりいた。お百度を踏む父の悲痛な横顔、その機械的な動作。静謐さに溶けていくような背中。一心不乱に祈るその姿は獣のようにすら見えた。今思えばそれは母を思う一人の男性としての振る舞いだったのだろう。ただ幼い僕にはそれがわからなかった。その振る舞いは父が遠くへ行ってしまうかのような寂しさと、えもいわれぬ恐ろしさを感じさせた。


また風が吹く度に語りかけてくる、あの木々。無常な自然の咆哮を幼子は容易に聞き分け恐れる。その存在の大きさの中に永遠の螺旋にも似た美しさを感じとる。そして流れる雲や眼下の海、風に舞う葉の中にもそれが潜んでいることにも気付いてしまう。そうするといつか自分もその中に溶けてしまうような、そんな錯覚を覚える。大きな何かの一部となって自然に還っていくことに対する畏れや、命の無常な儚さが無意識のうちに芽生えていく。僕はかき消すように泣いて立ち尽くす他に抗う術を持たなかった。




 しかし父曰く、あるときを境に僕はピタリと泣くことを止めて、共に見よう見真似のお百度を踏むようになったという。


 不思議に思った父が僕にその理由を問いかけると僕はこう言ったらしい。――縁の下から、母が顔を覗かせているから。

 



 僕は今ではもう母の顔を覚えてはいない。写真を見てもしっくりとはこない。覚えているのは月に照らされて光るあの白い鼻先と、肩ほどまであった黒髪のみである。その目や声などはどうにも思い出すことが出来ない。

 



 通い始めて二月程経った頃だろうか。いつものようにお百度を踏んでいると境内を取り囲む森の奥で声がした。誰かと話している風ではない。しかし独り言のようでもない。男性とも女性ともつかぬその声に引き込まれるかのように、僕は森の奥へ入って行った。

 

 草木が僕の背丈を少し越える程の深さまで進むと、急に視界が開けた。不思議と恐ろしさはなかった。そこには小さな沼があった。木々の隙間から幽かに漏れる月の光が辺りを淡く照らしていて、そこら中で鳴いていた虫達がその息を潜めていた。


 やけに静かなその場所で、まり子は沼を覗き込むように屈んでいた。今と変わらないあの大きな目で、沼の底を凝らすようにして睨みつけていた。彼女の周りは一層闇が濃いように感じられるのに、その白い肌と滑らかな曲線ははっきりと見えた。


 僕は立ちつくした。目を奪われていたと言った方が的確だろうか。彼女は僕と同い年程度に見えたが、その美しさは官能的にすら感じられた。超自然的な美しさすらであった。月光と濡羽色の闇の中で生と死が彼女の存在の中にいっぺんに同居していた。彼女はふいにこちらを向いて大きく目を見開いた後、これまた官能的に、にこりと微笑んだ。

 

 僕はそこから先を覚えていない。ただ急にいなくなった僕を探していた父が僕らを見つけたとき、僕らは揃って沼を覗き込んでいたという。底の見えぬ沼を、まるで何かを探すかのように。そんな僕らに父は声をかけた。どうしてこんなところにいるのか、と。


まり子は答えた。――女の人がここで泣いているの。

 



 それから父とその神宮に行った記憶がない。まり子と出会ってから父はお百度を踏むのを断念した。その理由はただ恐ろしくなっただけかもしれない。しかし僕はこう思っている。何かを見てしまったのではないか、と。

 

 まり子は父によって交番へ連れられて行ったらしい。彼女が僕らの家とそう遠くないところに住んでいるということを知ったのは、僕が小学校に上がってからのことである。

 



 小学生の時に一度、僕はまり子に僕と初めて会った時のことを覚えているか、聞いてみたことがある。彼女はもちろん覚えていると言っていた。あのときと同じ目をして、僕の底を覗き込むように。ただ彼女はじっと縁の下から僕を見ていたのが始まりだったと言った。そしてあの沼では僕が先に話しかけてきた、と。

 

 その真偽はわからない。ただまり子の言う通りならば、僕は縁の下で何を見たのだろう。あれはまり子だっただろうか。そうだったとすれば彼女はいったい何をしていたのか。


 僕はそれから他人に対してこの話をすることを止めた。話すたびに僕の中にある何かの境目が消えていくような気がしてならないからだ。

 



 いっしょにボートに乗ったあの日から二月が経った。あらかた単位を取り終えた僕は、教授に気に入られて一足早く研究室に顔を出すことになった。教授の勧めもあり、僕はキャンパスの近くに家を借りた。札幌から函館へ。まり子の住む家へ車で十五分、僕らが生まれ育った街へ戻ることにした。

 

 今僕はまり子に対して以前とは違った感情を抱いている。あのときまり子に会わなければ僕の胸の内には、未だに夜の海の様な悲哀や喪失感が渦巻いていたことだろう。あの左手の温かさは記憶の残滓に感触として残っている母性愛と呼ぶものを彷彿とさせた。

 

 一遍に去来した悲しみと喜び。胸の内で誰かが囁く。ああ、あれこそが、あの瞬間こそが。短い人生の中における数少ない永遠なのだと。

 



 僕はこの感情を噛み締める。僕はまり子に恋をしている。





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