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山中の海  作者: 林 藤守
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プロローグ

 風が吹き抜ける。全てを攫って行くかのように。快音と共に水面を滑り、遠くの木々を揺らして消えていく。小波の上で何かが歪な水の冠を作り出した。この底はどれくらい深いのだろう。



 六月の事だった。僕たちは公園内にあるボートの上で、頭上に広がる青空を眺めていた。陽の中で遅咲きの桜が雪のように散っていて、遠くでは象牙色の雲が厚くかかっている。そこからじりじりと薄雪の様に淡い雲が僕らへ近付いていた。春の遅い函館とはいえども、こんな時期まで桜の開花がずれ込むのは珍しい。

「――少し寒いね」

 躊躇いがちにまり子が言った。


「もっと、別の日に誘えばよかったかな」

 風が吹く。追いかけるようにボートが揺らいだ。僕はまるで空が揺蕩っているかのような錯覚を覚える。それとも別の場所にすれば良かったかな、続けそうになった言葉を飲み込む。いや、口にすることが出来なかったと言った方が正確だろうか。


「いいのよ。そんなことよりも」

 左手で自身の髪の毛を弄りながらまり子は言う。

「お父さん、残念だったわね」

 風の中に磯の香りが幽かに紛れている。この風は港から運ばれてきたのかもしれない。



 僕は空を見上げて父を思い出す。僕が幼い頃に母を失って以来、男手一つで僕を育ててくれた父。彼の体は昨日焼いてしまった。白い煙になって空に還っていってしまった。手も足も声も、雲に紛れて消えてしまった。


 火葬場は見晴らしの良い場所だった。人一人を焼くというのに、こんなにも気持ちの良い場所で良いのだろうかと不安に思えるほどだった。骨になった父は小さく、どこか余所余所しかった。煙突から伸びる煙の方がずっと父らしくさえあったと思う。僕はそれを見ながら、父は母に会えるのだろうか、とばかり考えていた。そこに一種の羨ましさを感じなかったと言えば嘘になる。僕が五つの頃、目の前で死んでしまった母。もう記憶の何処にもその面影はないが、きっと僕は、未だに彼女の事を慕っているのだろう。昨日父に感じた嫉妬にも似た羨望は、そういうことなのだと思う。


 祖父によると骨は本家がある金沢に埋めるらしい。それを聞いて父にしばらく会えなくなるのだな、と思った。北海道からは遠すぎる、とも。どうやら僕は彼の死を真摯に受け止めきれていないようだ。今でも岸の向こうにその姿が見える気がする。いつもの調子で僕とまり子の名を呼ぶ声が聞こえるような気さえする。


「ごめんな」

 ふいに口からこぼれる言葉。いったい誰に向かって放ったのか。父かまり子か、はたまた僕自身か。まり子はそれを聞いて、困ったような顔をする。

「いいのよ。そんなこと、言わなくても」 

 僕は答えず空を見上げた。鳶が大きく弧を描いて視界の端へ消えていく。気付けば雲はもう陽を薄く覆っていて、その影が風と共に僕らを撫でた。




 ボートを岸に寄せて下りるように促す。まり子は黙ったまま僕の後ろをついてくる。人は少なく、僕らの足音と木々のざわめきの他は何も聞こえない。青々とした芝生の上で桜の花弁がインクを散らしたように鮮やかに映る。園内には枯れ葉一つ落ちてはなく、綺麗に清掃されているのが見て取れた。


 石造りの階段の傍らにある蔓のアーチを抜けると、桜並木が見えてきた。五稜郭公園にまり子といると幼少の頃の思い出が蘇ってくる。春になるとよく父は僕らを連れてここにやって来た。今となっては、父の目を盗んで二人で公園を探検し叱られたことも良い思い出のように感じる。先ほど通り過ぎた階段を上った先にある小高い休憩所や、橋と橋を結ぶ三角の小島。橋の手すりに昇り、堀に落ちてしまったときはひどく叱られたものだ。帰りには決まって僕らにアイスクリームを買ってくれていた父が、その日には奮発してハンバーガーを食べに連れて行ってくれたことも覚えている。優しい人だった。小さな僕らを一個の人間として見てくれていた、数少ない人だった。


 記憶を手繰っていると少しばかりの感傷が僕の胸を刺す。そして感傷に対する感傷もまた、芽生える。僕は思う。胸に去来したこの痛みもいつか消えてしまうのだろうか、と。父はどんどん遠くなり、やがて見えなくなってしまうのだろうか。僕らは互いを見失うのだ。成長だとか、聞こえのいい言葉で誤魔化して。無意識が僕の心から父の存在を追いたててしまう。強い人間を演じるうちに、無意識は演じていたという意識を過去へ置き去りにし、切り離してしまう。父のいない景色に慣れてしまうのだ。この淡い感傷だけが、僕と父を繋ぐ唯一の物であるというのに。


 

 並木の中を歩いているとベンチを見つけた。僕はまり子にも腰かけるように促して、煙草に火を点けた。彼女は少し顔をしかめるが何も言わない。父と同じ煙草、ピースライト。バニラの香りと謳われているが僕にはラムの香りにしか思えない。



「一人ぼっちになってしまったよ」

 自嘲気味に僕は言う。

「親父が倒れた時に何となく覚悟はしていたさ。だけど、こんな気持ちになるなんて」


 風の音、桜の匂い、いつも通りの日々。世界は変わらず流れる。絶え間なく変わっていく。その全てに、嫌気がさして。


「こんなにも実感がないなんて、思わなかった」

 ラムの匂いが鼻につく。僕は大きく煙を吸って惨めさと共に吐き出した。この感情が何処から来ているのかはわからない。


「うん」

 大きく風が吹いて彼女の髪を揺らした。煙草の煙が広がり遠くに攫われていく。この空虚な気持ちもいっしょに攫われてしまえばいいのに、そんなことを思う。父が死んだことを受け入れられない僕なんて、いなくなってしまえばいい。



 僕らはしばらくの間黙っていた。沈黙を誤魔化すようにして、沈黙を重ねた。視線こそ遠くにやっているが、何も見てはいなかった。甘い感傷に陶然していたのかもしれない。気が付けばいつの間にか煙草は燃え尽きている。もう一本に火をつけようか迷っていると、まり子は言った。

「やっぱりもう少し、歩こうよ」




 今度はまり子が前に立って歩く。華奢で小柄な体に長い髪。足元に見える黒地に金の柄のツモリチサトのハイヒールは、去年の誕生日に父が買ってあげたものだ。それを履いて彼女は振り返りもせずに進んでいく。


「昔さ、三人でよくこの道を歩いたよね。あんたのお父さん優しくてさ。よく三人で手繋いで歩いたよね。覚えてる?」


 うん、僕は心の中で呟く。木々のざわめきが遠くに聞こえる。並木は少し遅れて揺れる。桜はその色を広げ、花弁を小雨のように降り注いだ。そこかしこで奏でられている小気味の良い音は、落ちた枝によるものに違いない。


「あのさ」

 まり子が歩みを止める。僕もそれに合わせて止まる。僕らの距離は五メートルほど離れていた。彼女は背中をこちらに向けたまま、声を強める。

「さっき一人ぼっちだって言ってたけどさ。あたしが――」


 まり子は言葉を切った。その直後、芳しい香りが僕の鼻孔をくすぐる。桜のそれではない。女性特有の官能的な匂いだ。森の中で生きる可愛らしい小鳥の様に、生きる強さと儚さを持つ甘い匂いだ。


 僕はここで初めて、彼女の体の中に一種の興奮が隠されていることに気付く。それは父の死を悲しむことに端を発しているものではなかった。いや、それも幾らかはあるかもしれないが、大部分を占めるのは僕に対する悲哀だった。憐憫だとか同情だとか類のものではなく、僕が父に対して感じるべきものを、僕に対して向けている。僕はそれでやっと、どうして彼女が今日の誘いに乗ってくれたのかを理解する。


 急に木々のざわめきが消える。遠くに聞こえていた小波もその声を潜める。彼女の肩が僅かに震えているのが見える。押し殺すような息遣いだけが聞こえる。


 彼女は振り返った。その目は真っすぐに僕を見つめていた。僕は予感する。その瞳から、手足から、黒髪から。彼女が押し殺していたであろう感情が、澄明な殻を突き破り、どっと溢れ出ることを。彼女の目に映る僕がゆらりと歪んで頬を伝う。彼女は掠れる声で言った。


「――あたしがいるじゃない」

 僕は思う。世界に二人だけみたいだ、と。




 僕は静かにまり子の手を握る。あの頃みたいにそっと、握る。 彼女は拒まない。いつしか風は止んでいた。僕たちはまた歩き出した。


 半ばに差し掛かる頃まり子が立ち止まる。雲が小雨を連れてきたらしい。彼女から小さな水滴が滴り落ちている。辺りが土の匂いで満たされていく。僕は確信する。きっと雨は強くなるのだろう、この生命の香りも更に力強く香ることだろう。


「お父さんも、連れてきたかったね」

 僕は答えない。頬を伝う涙を拭うことも出来なかった。


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