『 き ょ う き 』
かち、かち、と時計の音がする。
誰かがそばにいるような、そんな気配もする。
身体は柔らかい場所で、仰向けだ。ベッドかなにかだろうか。
「《答えなさい》」
声がした。逆らえない。何か香りがする。気持ちがいい。声が頭の中に、ずるずると入り込んでいくような感じだ。それなりに不快ではあるが、なぜだかあまり気にならない。
あぁ、でも時々ちくりと痛む。
「あなたの母の名は?」
マリー。
マリー・オーリェス。
何だか、何度も問われたような気がする。声にも隠しようのないほどの、苛立ちと焦りが含まれているようだった。もしかすると覚えていないだけで、何度も問われたのかもしれない。
「違うわ。あなたの母の名は、アリエッタ・ライム・エル・トゥルーリア」
この声は何を言っているんだ?
俺の母はマリーただ一人。アリエッタ……誰だ。そうだ歌姫だ。彼女がどうして俺の母ということになっている。彼女の頭の中はおかしい。一度、医者に見てもらえばいい。
「いいえ《違う》のよ! それは腹を貸した女で、母ではないの!」
……意味がわからない。
彼女は何を言っているんだ。
誰か、彼女を黙らせてくれないか。
耳障りだし、うっとうしい。
「あなたは、アリエッタの《息子》なの。わたくしの《兄》なの。マリーなんて女は、わたくしたちには関係ない存在。だから《忘れなさい》。全部《忘れてしまいなさい》」
聞き捨てならないな。
お前みたいな女に母を侮辱される覚えはない。
そう言って、横っ面を張り倒したいのに、身体はまだ動かない。声も出せない。せめて怒鳴ることだけでもできたなら。そう思うが、まるで身体の支配権を奪われたかのようだ。
「どうして……どうして!」
声の主は、ダンダン、と床を踏み鳴らす。
まるで子供だ。
「こんなに深層心理が硬いなんて……どうにかして作り変えなければ。このままじゃ、《お母様》を生み出すことさえできない。もっと、もっと薬を強くしないと」
作り変える。
それはどういう意味だ。何を作り変える?
わからないけれど、嫌な感じしかしない。身体は動かない。
「さぁ……《お兄様》」
がさがさと音。そして香りがさらに強くなる。
甘えるような声だった。
「俺だなんて、乱暴な一人称はゆるしませんわよ《お兄様》? あなたは誰よりも優れ、洗練された方なのですから。そしてわたくしと交わりますの。何日でも、何ヶ月でも」
身体の上に誰かがのしかかっている。ゆっくりと、確実に。
重い。でも軽い。
かすかに花に似た甘い香りがする。
のしかかられて、ゆったりと寝そべられた。
「あなたの母は《アリエッタ・ライム・エル・トゥルーリア》」
飽きもせず、繰り返される暗示のような言葉の数々。
違う。母はそんな名前じゃない。
マリー・オーリェス。特別美しいというわけではなかった。でも子供ながらに、強く美しい人だと思った。魔術を教える時は厳しく、けれどそれは全て愛ゆえの行為だと知っていた。
優しい人だった。
大好きだった。
彼女はマリーだ。アリエッタ・ライム・エル・トゥルーリアなんて、長々しくて豪奢な名前じゃない。歌姫じゃない。違う、嘘を吹き込むな。俺の母はマリー、ただその一人。
「そう……あなたの母親は、マリーよ」
綺麗な声が聞こえる。
身体の上の重みが、消えていった。
浮き上がっていく感覚の中、誰かを見た気がする。
母じゃない。……義父でもない。女性だ。
彼女はただ優しく微笑んで、少しだけ泣いているようで。
「あなたは《わたしの子》だけど、《それは忘れてもいいのよ》?」
忘れないで、と言うかのように忘れろという彼女を、俺は確かに知っている。
微笑む姿も声もはっきりと覚えている。
けれど名前だけが出てこない。俺とよく似た、いやそっくりな容姿なら、名前をすぐに思い出せそうなのに。どうして出てこないんだ。こんな容姿、知る限り二人しかいないのに。
身体はさらに浮かび、彼女はみるみると遠ざかっていく。もう何も見えない。そこにたたずんでいることさえもわからなくなっていく。手を伸ばしたいのに、身体はまだ動かない。
――その時。
彼女が何かを口にした。
何かを言っているような気がした。
見えもしないし、読唇術も使えないのに、読み取ろうと目を細める。彼女ははっきりと俺を見ていた。まっすぐに俺を見ていた。だから俺に何か言っている。言っているはずだ。
あと少しなんだ。もう少しだけゆっくりさせてくれ。
何を言っているのか、何を伝えたがっているのか……あと少しでわかるのに。
視界が白い。もう上についてしまった。彼女は遠い。あの場所にいるのかもわからなくなってしまった。底はどろりと暗い。もがいても、もう沈むこともできない。
身体は自然と彼女に背を向けてしまう。
どうして。
「そう、《それでいいのよ》、ユディフォード……さぁ、あなたは《生きなさい》」
浮上しきる直前、最後にそんな声が聞こえた。
もう見えないはずの微笑が、なぜだかすぐそばに見えた気がした。
あぁ……もう会えない。彼女にはもう会えない。きっと、この光景も忘れてしまう。気づいてしまった彼女の名も、きっと忘れてしまう。仕方がないことだった、相手はあの歌姫だ。
彼女の言霊に逆らうなんて、きっと義父でもできやしない。
忘れたのは何だったのか、それすらも忘れていく。忘れたことさえ忘れ、忘れ、忘却に更なる忘却を塗りかされて、そして――どうして、ここにいるのかさえもわからなくなった。
今はまだ、忘れた何かがあることだけは覚えている。
でも、それさえ消える。完全に上へ出てしまった瞬間に消えてしまう。
忘れた何かの存在はその瞬間に、この世界から、永遠に。
赤子のように大声を上げて、彼女にすがって泣きたくなった。もう誰かのかもわからない彼女にすがって、まだ幼かった頃のようにすがって、そして頭を撫でて欲しかった。
そんな縁など、ないはずなのに。
*** ***
「このあばずれおんな! ユディさまになにしてますの!」
「離れるですのこのびっち! しっしっ、ですの!」
どたんばたんと、誰かが暴れる音がする。
何か――されていたような気はするが、ユディの意識は記憶していない。ただ、どうしようもない嫌悪と、感情が締め付けられるようにかき鳴らされたこと。それだけしかない。
だがどちらも思い出そうとするほどに、ぐいぐいと遠ざかっていった。
残されたのは、罵倒の声が聞こえる室内。
聞きなれた、かわいらしい双子の――少々アレな言葉の数々だった。
二人はユディを見つけたのだろう。
見えなくともわかるほど、ハデに息を呑んだ。
「し、縛られてますの! この女、倒錯趣味がありますの!」
「緊縛ぷれい最悪ですの! ヘンタイはあっちいけーですの!」
ずいぶんと、乱暴でアレな言葉ばかりが飛び出している。女の子がそんな言葉は、とユディは心の中で苦笑した。誰に教わったのやら。きっと義父だろう、そうに違いない。
うっすら開いた瞳は、歪んでいた。
泣いて、いたようだった。
「ど、どうしてここが……」
「お姉さんに案内してもらったですの。いつの間にかいなくなったですの」
「三人でユディさまを叱るですの。でもお姉さんいないから、二人でやりますの」
「お姉さん……? だ、誰ですかそれは! 屋敷の使用人はみんな外に出したのに!」
「そんなことはどーでもいいですの」
「そうですの。どうでいいことですの」
二人が駆けてくる音。途中で二手に分かれた。一人がきっと、彼女――ニィナをひきつけているのだろう。ユディやナリアとの追いかけっこでよくやる作戦だ。
音だけで光景が思い浮かぶ程度には、混濁していた意識もはっきりしてきた。
腕を動かす。姉妹が言ったように、腕は縛られているようだ。おそらくは、ベッドの足にでもくくりつけてあるのだろう。多少引っ張った程度では、どうにもならない感じだ。
しかも特別な加工が施された拘束具なのか、魔術を紡ごうとしてもできない。用意周到というべきか、その徹底された準備にぞっとすればいいのか。
歪んだ視界の向こう側に、黒い影。……夜宵だ。
「ユディさま、だいじょうぶですの?」
夜宵はすばやくユディの身体を戒めるものを、どこから持ってきたのか小さなナイフで切り裂いていく。どうにか片腕が自由になり、ユディは手の甲で乱暴に目元を拭った。
はっきりした視界の中、朝陽がニィナと向かい合う姿があった。
ニィナは髪を降り見出し気味に、何とかユディの元に向かおうとする。だが、すばしっこい朝陽に翻弄され、ただただ、苦しそうに息を荒げて疲労をためていくばかりのようだ。
彼女は起き上がったユディを見て。
「う、動かないでええええ!」
ただ、そう絶叫した。
かすれた声では言葉は力を持たない。感情こそこもっているだろうが。
ようやく動けるようになって、ユディはゆっくりと立ち上がった。
「二人とも、無事でよかった……だが、どうやってここに?」
「綺麗な女の人に案内してもらったですの」
「いなくなっっちゃったけど、綺麗な人でしたの」
「ユディさまが女の人だったら、きっとあんな感じですの」
「きっと今よりもってもてだったですの」
「……それは、褒められていると思って、いいんだよな?」
傍らに駆け寄ってきた二人と、言葉を交わす。そう長く離れていたわけではないが、ずいぶんと長時間――数日にさえ感じられる。二人がケガもなく無事で、ユディは心から安堵する。
二人が言う謎の女性が気になるが、今はそれど頃ではない。
それに変わり、ふつふつと湧き上がるのは、元凶であるニィナへの怒りだ。
「なんで、何でですか……ねえ《お兄様》。ニィナのどこがいけませんか? あなたのためならどんなことでも耐えますのに。どんな仕打ちも、耐えてみせますのに。ねえ、どうして」
いやいや、と子供のように喚く彼女は、明らかに正気ではない。最初こそ取り繕っていたようだが、予定が盛大に狂ったことで、混乱の中、その本性がさらけ出されている。
「いやぁ、いやぁ《お兄様》ぁ! どうしてですかどうしてですか! あなたが望むままにわたくしは淫らに振舞ってみせますわ何人でも《お母様》を産みますわだからだからだから!」
双子を自分の背後に隠し、ユディは暴れ始めたニィナを見る。
最初は歌碑に関すると思い、そしてワケがわからなかった『自分が呼ばれた理由』。
それは、『コレ』なのかもしれない。
アリエッタの娘を自称し、気の触れたとしか言い様のない令嬢。
もしかすると――トゥルーリアの目当ては、彼女をどうにかすることだったのか。アリエッタの娘を自称するこの少女は、感情で威力が変わる言霊を使うのに、完全に狂っている。
ならば、同じような存在に何とかしてもらう。
部外者ならば、重要な魔術師を失うこともない……と。
実に吐き気のする、醜悪なやり方だ。
トゥルーリア家らしい。
「《お兄様》! 《お兄様》ぁ!」
喚き散らす気の触れた少女に、ユディは刺し殺すような視線を向ける。振り乱されるその黒髪も、無駄に派手な色合いの衣服も、全てが目障りだ。歯軋りさえしてしまうほど不快だ。
それらの全てが、彼女に、まるで『似合っていない』。
「――《消えろ》」
するりと出てきたのは、自分でも驚くほど、冷たい声だった。
こんな声を、自分は発することができるのかと思うほど。
「え、あ……あああ」
数歩後退し、ニィナはうずくまった。自分を抱きしめて震えている。その動きにあわせ、まるで砂が零れ落ちるように――彼女から何かが剥がれ落ちた。
それは黒であり、銀色であり、そのほかのいろんなものが混ざっていた。
彼女が自らに施した施術を、あの一言が砕き散らせたのだ。
「……すべては虚像、か」
しばらくして、ユディの前には一人の少女がいた。
くすんだ色合いのこげ茶の髪は、かなりキツめの癖がついている。ゆっくりと見上げた瞳は他愛のないブルー。トゥルーリアの血が強ければ誰もがそうなる、極めて典型的な容姿。
どうしてあんな姿かたちをしていたのか、興味もないしどうでもいい。だが、理由は何となく推察できた。結局、かの公爵家は誰よりも歌姫に縛られている、という他愛のない話だ。
歌姫を忌避し、しかし第二の《最高傑作》を求め、いずれ歌姫へと至る。
そんな、くだらない堂々巡り。
第二の《最高傑作》を求めるが故の厳しい教育の過程でニィナは壊れ、自らを歌姫の娘と思い込むに至ったのだろう。そしてどうにもできなくなり、ここに幽閉することになった……。
屋敷中の肖像画も、本人からすると『鏡』のつもりだったのかもしれない。
自分の容姿はまさしく、アリエッタと同じだと思い込むための。
「ユディさま、これ……」
「だれ……ですの?」
双子は目をぱちぱちさせ、驚いた様子だった。
いきなり、目の前の少女の容姿が変貌すれば――当然の反応か。
ユディは呆然とした彼女の前に歩み出る。
「ニィナ、あなたは《アリエッタの娘でもなんでもない》、《ただの気が触れただけの小娘でしかない》。《今後、我々に関わってきたなら、その時は命はないと思え》」
「あう……おにい」
「《黙れ》」
徹底的に言霊を連ね、相手の行動を縛り上げた。抗えない言葉に心底怯えてがたがたと震えるその姿は、先ほどまでの自信に満ち溢れた少女と同一とは思えない。
全て虚像だったのだ。彼女の自信は、アリエッタの娘だと思い込んだ結果、作られていた幻のようなもの。それを憧れというべきなのか、ユディはわからないし興味もない。
唯一つ、次に会えば容赦なく、自分は彼女を殺すだろう。
彼女に何をされていたのかは思い出せない。
ただ、不快感と嫌悪が残る。
「これは……」
そこに駆けつけた執事は、惨状に言葉を失った。
「トゥルーリア卿にしっかりと伝えておけ。――次は無い、と」
動けない男にそうはき捨てて、ユディは双子を連れて部屋を出て行く。
ふと、視線を向けた先にやけにへたくそな、アリエッタの肖像画が飾られていた。黒の外套を羽織った姿をしている。着飾った他と比べて、かなり地味なものだった。
そこには、書き手のサインに変わって、二つの詩が綴られている。
我が最愛の花嫁へ。
僕は君だけを愛している。
一つ目は見覚えのある筆跡だった。
おそらく、これを描いたのは彼なのだろう。
最愛の子。
あなたはどうか、幸せに。
二つ目の詩。
美しい字体で綴られたそれに、暖かくて強い言霊を感じる。
思わず伸ばされたユディの指先が触れる前に、肖像画は砂のように崩れて、消えた。




