九、奇妙な家業
「誰だよ。ふれふれ坊主なんかを作っちゃったのは?」慶幾がふて腐れて言う。
これもある意味夏の風物詩かも知れないな、と思いながらも、少々うんざりした顔で、千央はテレビにうつる渦巻きを見ていた。千央たちの見ているニュースによると「南シナ海で発生した台風28号は徐々に勢力を増しながら南九州を北上」し、進路予想図は千央のいる「北九州をすっぽり覆って」いた。
場面が変わり、画面には背の高い椰の枝が一方に勢い良くふりきられるようすが映った、続いて堤防に波が体当たりし、打ち砕かれて大きな水しぶきをあげているところが映し出された。アナウンサーの黄色いレインコートが暴風雨に煽られバシバシ音をたてている。千央は大変な仕事だなぁ、と見ていた。そのうち彼の持っていた傘は紙切れのように暴風雨に吹き飛ばされてしまった。
驚いたことに後ろの堤防には人影が見える。千央が危ないなぁ、と思って見ていると、急に来た高波が数名を陸側に押し流した。
次に土砂崩れのようすが映しだされた。山の土の中が剥き出しになっている、まるで不自然な傷口みたいだ、黄色の土が膿か脂肪のように見えてくる。千央は突然とてつもなくグロテスクなものを見せられている気分になった。
どこかの山で土砂崩れが起き、川が塞がれ、行き場を失った土砂が下の町に流れ込み大きな被害がでたというニュースを伝えていた。ヘリコプターが町の上空を飛び、家屋が映ったが、完全に屋根上水没していた。
園さんたちはこれまでに植木鉢をすべて家の中にいれ、鎧戸をとじた。それのない小さな窓にはガムテープをとめた。これは、万が一窓が割れた時破片がとびちらないようにするためだ。そのせいで部屋は暗く、部屋はあかりがつき、まるで夜の様な雰囲気だった。千央が窓から覗くと、かろうじて木の影が揺さ振られるのが見えた。
千央は台風自体にはもう慣れきっていた。なにせ毎年何度も来るのだから。それでも直接の被害は酷くて停電程度、その時はせいぜい買い置きのアイスクリームの溶けぐあいを心配するくらいで、気にかけるだけ無駄だというのが台風に対する千央の認識であった。しかし、今回は違ったようだ。午後三時ごろ、千央のいる地域に避難勧告がだされたのだ。長雨の影響で、土砂崩れの危険性があるとのことだった。
避難勧告を受けて、増田家は一気に慌ただしくなった。水野さんがワゴン車で乗りつけ、霊能者たちを避難所へ先に送っていった(とても妙な台詞回しだ)。千央たちは持っていく荷物、懐中電灯やラジオなどをまとめた。このラジオはとても優れていて、手回し式の充電器がついていた。だから電池切れの心配がいらないのだ。他にマンガやゲームなども。それから親に電話をした。真琴は心配した母親からの電話をまるで厄介なもののように対応した。さっき公平にも電話がかかってきていたらしいが、その時母親ことをママと呼んでいたせいで、伊鶴とアンコにからかわれた。結果、伊鶴は公平のひじ鉄を食らっていた。 戸締まりの後、土のうを乗り越えて流れる泥水を横目に、千央たちは急いで車へと乗り込んだ。屋外はまるで脱水中の洗濯機のようだった。
千央は避難するような大事になったのは今回がはじめてで、少し不安になったが、それより興奮の方が優っていて、完全に遠足気分で上気していた。皆も同じらしく、いつもより元気で声が無駄にでかい。車内はぎゅうぎゅう詰めで騒々しかった。お菓子を回し食いしはじめた千央たちを運転席から振り返り、水野さんは言った。
「おいおい、君たち、騒ぎすぎだ。遊びに行くんじゃないんだぞ。お願いだから静かにおとなしくしといてくれ。じゃないと、運転を誤って車もろとも川に落ちることになってるからな。それでもいいの?」
皆はなぜかノリノリで、はーい!!と返事をした。……いいのか?
「でも水野さん、これって重量オーバーじゃないんですかぁ?」季生子は周りを見渡して声をあげた。彼女はいつも部屋にいて、千央はあの夜以来、会っていなかったが、やっと顔が見れた。
「いや、その前に定員オーバーだよ。でも子供だから軽いし、多分大丈夫だろう。それに誰かを置いて行くわけにもいかないから」水野さんは首を振りながら、ハンドルを握った。水野さんは災害情報を聞こうとラジオをつけたが、しかし雑音しか聞こえてこなかった。
千央たちは顔を見合わせた。確かに雑業団のような車内だった、それでもなんとか全員が座席におさまってはいた。出発。総勢10名を乗せた車はゆっくりと動き出した。
台風の雨はまるで映画の撮影のつくりもののように強くなったり弱くなったりしながら、ボンネットを絶えず打ち鳴らす。
風の動きは速く、車窓越しに見つけた笑い顔模様の雲が千央の座った右側の窓に顔をだしたと思ったら、急速に様相を崩し、あっという間に見るも無惨な泣き顔に変化し、そのうちバラバラに散り、反対側の左の窓に出現した。
それでも避難するほどには大したことないかも、と千央は思った。途端、巨大な看板が完全に浮いたまま、道路を右から左へ渡っていき、何処かの家の椰子の木が倒れてきた、千央は血の気がひいた。
山肌に白いコンクリートで網を張ったように補強された継ぎ接ぎを見つける度、千央は土砂崩れが起きないだろうかと心配になった。
「ねぇねぇ、千央。あそこにあるのが米岩だよ」途中、毅が窓の外を指差して言った。
千央がそちらの方向を見ると、岩が崖の上にあった。米岩という名前の通り、細さといい、先の尖り具合といい、米粒そっくりであった。米岩は落とし穴を掘った際に、蝙蝠窟やバーガー岩などと一緒に地図に記してあったものだ。それは落ちるか落ちないかの、相当危ういバランスで立っていた。風に煽られて、崖の上から岩が転がり落ちてきやしないかと千央は冷や冷やした。ちょうど車は『落石注意』の看板の横を通り過ぎたのだ。
「これは本当に土砂崩れがおきるかもしれないな」慶幾は下の方で轟音をたて流れる川を眺めながら言った。川は完全にカフェオレ色だった。
「ものすごい雨の量だね。ほら、あんなにでっかい石が流されてきた」と真。
大岩がゴロンゴロンとすごい勢いで何十mも転がり落ちてきた、皆は感心してそのようすを眺めた。
「でもあそこでサーフィンとかしたら、すごく楽しそうだな」と公平。
「そうね。でもそのかわり……命を失うと思うよ」と、真琴。
不意に、ウワーッ!!という叫び声が後ろから聞こえてきた、千央は何事かとギクッと飛び上がった。見ると叫んだのは毅だった。蒼白な顔をしている。隣の慶幾も真もひどく驚いたようすだ。
「クソッ何だよ!!急にでかい声だして、脅かすなよ!!」
「どうしたの一体?」
毅は涙声で訴えた。
「大変だ。僕、昨日ゴッチを秘密基地のところに繋いでそれで……、そのまんまだ」 アンコはハッと息を飲んだ。あぁ、と公平が唸った。ゲッ、伊鶴が言った。そうなのだ。秘密基地の隣には川が流れている。今、川は増水して危険だ。もしかしたらゴッチは川に流されてしまうかもしれない。
「何だ、どうかした?」異様な雰囲気を感じとったのか、水野さんは言った。バックミラーに怪訝な顔が写っている。
「水野さん。すみませんけど、今から家に引き返して下さい」毅は身を乗り出し、必死になって懇願した。
「えっ、なんで。もうすぐ避難所に着くし、忘れ物なら悪いけど諦めてくれ」
「違います、忘れ物じゃないです。でも、すぐ帰らないと。じゃないとゴッチが死んじゃうかもしれないんです。すぐに行かないと、川が……」毅は堪えきれずにシクシク泣き出してしまった。
何のことやら、と混乱する水野さんに皆はことの次第を寄って集って説明した、それで水野さんは納得した顔をした。しかし、
「でも、今から行っても台風で危なくって山には入れないと思うよ。いつ土砂崩れが起こるかわからないし」と、とても気の毒がって言った。
そう言われた毅は、みるみる憔悴してしまった。毅とて今さら引き返すのは無理だと分かっているのだ。皆は色々な言葉をかけて慰めにかかった。
「山羊は半分野生動物みたいなもんなんだから平気だよ。前にテレビで見たもん。泳ぎもきっと上手いよ」とよく分からないことを言ったり、
「ゴッチは縄抜け名人なんでしょ」と思い出させたり、
「絶対上手く逃げてるって。そんな予感がする」と根拠もなく請け合ったりした。
「あの土地の形からいって、山が沈むくらいの雨が降らない限り、そんなことは起きっこないよ」唯一納得できる意見を水野さんが言った。
その時車が樹木のトンネルから抜け出て、障害物が無くなったのか、雑音が消え、ラジオアナウンサーの淡々とした声が急に鮮明になって聞こえてきた。その情報に皆は言葉を詰まらせた。
“…………XX川上流で起きた土砂災害の影響により堤防が決壊、XX川が氾濫し、付近では一般の家屋4棟が半壊、16棟が床上、床下浸水しました。現在70世帯134人に避難……”
「…………」なんて間の悪い時に治るラジオなんだろう……。
千央は心配して後ろを振り返った。毅はもう泣いてはいなかった。ただ肩を落とし、沈痛な表情で黙っていた。慰めの言葉も尽き、車内は一転静かになり、風がびゅうびゅう吹く音と雨のバチバチした音だけが響いていた。
山からおりてしばらく走った後、いくつか通行止めに引っ掛かりはしたが、車は無事目的地に到着した。毅の通っている小学校の体育館と向かい側にある公民館とが避難所になっていた。門柱には開知小学校と書いてある。
千央たちが体育館に入ると、すでに地元の人たちが数人集まっていて、災害情報を聞いたり、横になったり、知り合い同時でお喋りしたりしていた。中は橙色の毛布がしかれ、オレンジ色のライトが煌々としていた。
千央は毛布を貰い床に敷いて、その上に座った。千央たちは暇つぶしに、ゲームをしようと持ってきていた。周りを見ても子供のほとんどがゲームをしていた。
その間に、人が続々と集まってきた。急に慶幾がむくりと起き上がり、そのうちの一人におーいと声をかけた。
「あれ、ヨシクじゃん。なんでいんの?」少年がこちらに走って来て言った。「わっ!!それにキもいるし」
まぁね、と毅は鬱陶しそうに頷いた。まだ山羊ショックから回復していなかったのだ。むしろ、そのさなかといえた。
少年は慶幾の知り合いらしかった。
「来る途中、お前のお父さんに会ったよ」
「へぇ、いつごろこっちに着くかな」
「消防団の服着てたからこっちにはこれないと思うぜ。俺のお父さんも呼ばれたから」彼はこちらをジロジロ見ながら言った。
そのうち誰かが舞台にカーテンをしき、その中で備えつけのボールを蹴りっこして遊びはじめた。賑やかな声に惹かれたのか、慶幾はゲームをやめて、その友達と連れ立ってそちらに行ってしまった。向こうからはボールの跳ねる音、楽しそうな歓声が聞こえてくる。
「ねぇ、私たちも行かない?」そう言ってアンコは立ち上がった。
「私は疲れることはパス」真琴はマンガから目を離さずに言った。
「毅は行こうよ」アンコは元気のない毅を、無理矢理立たせようとして腕を引っ張った。
「まぁ、毅はいま廃人状態だから、いくら誘っても無駄さ」と公平が冗談を言った。
毅はそうそう、と頷き少し笑って千央たちにバイバイと手を振った。
千央は知らない子たちに混じって遊んだ。そのうち伊鶴がオーバーヘッドキックをしようとして肩から落ちを痛めた。また身体の大きな男の子がけり上げたゴムボールが天井に当たり派手な音をたて、ライトが割れた。直後かなり怒った顔のおじさんが乱入してきて、千央たちは雷を落とされた。結局この即席ボール蹴り部は即解散と相成った。後から慶幾に聞いた話によると、彼はなんと、この学校の校長らしかった。
運動をして汗だくになった千央たちは体育館に戻って、用意された長いテーブルの周りに座った。それから、お茶や茶菓子を貰った。
それが見たこともない渋いお菓子ばかりなので、千央はどれに手をつけたらいいものやら迷ってしまった。真は挑戦的にも、鮮やかな赤い立方体のお菓子に手を出した。まず一口かじり、それから首を傾げていた。
結局千央は最も無難だったお菓子、最中に噛み付いた。隣のおばさんたちの会話が、自然と耳に入ってくる。
「そいで、うちの孫が言うと、パパとママは行けんけんが、ジージとバーバにお願いするとーて、私はもう可笑しゅうして」
「まぁ、偉くませとんさっねぇ。来年の春からはもう幼稚園になりんさっとでしょ?」
「そうそ。来年の春に4つになるけん」
「もうそがんなりんさっね?ついこの間まで赤ちゃんやったのに、早かねぇ」
「本当、子供は成長が早かけんねぇ」
「――、今度新しか病院のできるていいよるけど、さんたちが反対しよんさっごたるよ」
「へぇ、そがんね」
「でくっとは病棟のごたっですよ」
「予定地はどこやったかね?」
「バルーンの店の東側て私は聞いたです」
「ああ、西さんのところのご近所やろう?国道から一つ入った道の…………――、」
「――、いつなったらここから帰れるとやろうか」
「台風はどうやら逸れてくれたごたっけん、明日には家に戻れるとやなかね?」
「帰ったら屋根の修理ば急いでせんばいかん、じゃなかと雨の漏っけん」
では、台風は逸れたのか。千央は口には出さなかったが、やっぱり心配することなんてなかったんだ、と思った。そして、毅とゴッチには願ってもない朗報であった。この情報で多少気分が上向いたのか、豆菓子を食べながら毅は聞いてきた。
「なぁ、さっき誰かに怒鳴られてたみたいだけど、なにがあったの?」
カーテンの向こうで起こったことなので、毅は一部始終をしらないのだ。
「うん、なんかでかい男の子の蹴ったボールがライトに当たって壊れちゃってさ。それで怒られていたの。でも、私たちは完全にとばっちりだよ」
「そりゃぁ、災難だったね」と毅は言った。
「それにしても、あの校長の怒鳴り方。超怖かった。毅の学校の校長ってめちゃくちゃ怖いね」と千央。
「えっ!!じゃ、あのジャージが校長なの!?」毅はびっくりしていた。「いつも英国紳士みたいに決めてるのに、信じられないよ」
毅の話によれば、いつもの校長は紺色のスーツの中に揃いのベストつけ、鼈甲のタイピンをして、かなり洒落ている人らしい。だから、ラフな格好の校長などまるで想像がつかないという。
いやいや、校長がジャージを着たくらいで驚いてはいけない、と公平は横から言った。公平の通う学校の校長は、いつも作業着姿で庭にいるせいで、来客に用務員だと必ずと言っていいほど間違えられていた。それどころか本当に校長かさえ、信じてもらえていないことも度々あったそうである、皆はその話に笑った。毅も可笑しいと笑っていて、大分普段のようすに戻ったみたいで、千央はホッとした。
お茶を飲み終え、毅の手引きで千央たちは体育倉庫に行った。そこは打ちっぱなしのコンクリートの壁で、冷たくジットリと湿っていた。木で作り付けられた棚にボールやネット等の備品が収められ、マットレス置場は電車の寝台のようになっていた。
「病院建設に反対って、どういうことだろうね?」と公平が呟いた。さっきおばさんたちが話していたことを言っているのだ。
「よく知らない、地価が下がるからじゃないの」と毅。
皆はマットに並んで腰掛けた。それは石灰の匂いがした、千央は鼻がツンとし、むず痒くなった。
「病院の建設で地価が下がるなんておかしな話じゃない。それに建設じゃなくて増設って言ってたよ、もうあるものなのに」と、アンコ。
「いや、出来るのは普通の病院じゃなくて精神病院らしいよ」真琴は言った。そういえば真琴(と毅)はおばさんの側にいたから、ずっと話を聞いていられたのだ。
皆はギョッとしていた。しかし精神病院なら反対の声があるのも仕様がない、と千央は思った。
「そういえば、千央はそこ行ったことあるはずだけど……」と毅は言う。
いきなり名指しされ、千央はギクッとした。千央の記憶では精神病院にようがあったことは今までなかったはずなのだ。だからこれは完全な言い掛かりで、なぜ毅がそのようなことを言うのか、千央は一瞬憤った。毅は一拍おいた後、続けた。
「ほら、釣りに行って熱中症になった時行ったところがあるだろ。あそこが精神病院。病院の名前は確か、よしば病院だったかな」
千央は自分の腕に残る点滴の跡を見た。ほんの数日前の出来事なのだが、もうほとんど消えてしまっている。そうか、あそこは精神病院だったのか、と千央は思った。自分のことで精一杯で、その時は全く気づかなかった。「えー、どうだった?なんかやばそうな人いた?」
こういうことになるなら、もっとちゃんと観察しておけばよかったかな、と千央は思った。
「そうだねぇ、言われてみれば元気が無い人が多かった気がするけど」貧弱な記憶を懸命に千央は辿り、答えた。しかし、それに笑いが起こった。
「それ、当たり前じゃん。病院なんだから」
それはそうなのだが、千央は体じゃなく気分が落ち込んでいる人、という意味で言ったのだ。しかし千央はもう説明するのが面倒臭くなり、適当に答えることにした。笑われて気に障った、というのもあるけど。
「私は寝てたからあんまり他の人はよく見てなかったの!!」
「ふぅん」つまらない、といった表情だ。
千央は改めて病院でのようすを思い出した。具合が悪くてそれどころじゃなかった、というのは半分は本当のことだ。しかし、治療後にはそれなりに周りのことを気にする余裕ができていたのだ。それで、そんな風にいわれてみると、千央はそれらしい人物に出くわしたのに覚えがあった。
点滴が終わり、廊下の長椅子に少しの間座って待っていた時、千央の前を車椅子の女性が通って行った。彼女は今にも泣きだしそうなようすで千央は何事かと思ったのを覚えている。女性は付き添いの人に車椅子を押されて、細い腕を撫でさすっていた、千央はこの女性が重い病気でたった今余命宣告でもうけてきたのかもと考え、なんだか怖くなったのだ。
またその後、水野さんが受付で精算するのを待合室で待っていた時、隣に座った中年男性はむくれたようすで下唇を突き出していた。きっと彼はワーカホリックかなんかで、病気で仕事に行けないのが悔しいのだろうと千央は思った。
思いつくことといえばそのくらいで、他の病院と比べて違いを感じることは特になかった。待合室には爺婆もたくさんいたので、多分内科も兼ねているような気がする。だいたいほとんどの患者は見た目ではわからないんじゃないのかと千央は思うのだ。そのように振る舞うことが義務ということもないだろうから。でも、はじめから精神病院だとわかって周りを見ていたら、全然違って見えたかも知れないな、と千央は思った。そして惜しいような、惜しくないような気がしたのだった。
「ところで、おばさんたちがが話してたバルーンの店ってなんだろう?バルーンの専門店があるの?」アンコは言った。
「そんな店近所になかった。それにこれからもできないと思う、多分永遠に」季生子は言った。
「こんなにすぐ潰れそうな店ってないよな。一体誰が買うっていうんだ、バルーンフェスタの時に急に膜が破れた選手とかかよ?」と公平は言った。
千央たちのいる県では毎年11月にバルーンフェスタが行われるためか、バルーンといえばアドバルーン(広告気球)より、人間が乗るバルーンの方がより思い出された。田んぼと平地だらけの土地だから、バルーン競技にはとても都合がよいのだ。とはいえ、県民総出でバルーンを飛ばすというイベントではない。国内や海外から選手がやって来るのだ、もちろん各自道具はちゃんと持参してやって来るから、多分替えのバルーンは必要にならないだろう。
不意にガラガラと音がし、次に千央は顔面に猛烈な風と水しぶきを受けた。千央たちの目の前には横長の窓があったのだが、それがなぜか開いていたのだ。ここは半地下になっており、そこからは横殴りの雨でさざ波がたち、霧が吹き上がる地面のようすがちょうど向かい合って見えていた。
「うわっ、ちょっと!!まこと、早く閉めて!!」
「なんで開けてんだよ!!馬鹿」
「えっ!?ごめん、ごめん」非難囂囂を浴びた真は謝りながら、平均台に跳び乗り窓を閉めた。しかし時既に遅し、皆は全身に霧吹きを浴びたように湿っていた。
「あーあ、濡れちゃったよ。もう」と不満な声があがった。
真はなにがなんだか意味が分からないんだけど、という顔をしていた。それも当然で、窓を開けたのは真ではなかったのだ。本当の犯人である真琴は、この勘違いの成り行きを面白そうに見守っていた、いつ気づくかなと思いながら。その時の千央だが、全然別のことに気を取られていた。伊鶴が濡れたTシャツを使い、一人ジャミラの物まねをやっていたのを見るなり、思わず吹き出してしまったのだ。
夕方、“校内のものは仲良く使いませう。なお、おトイレは混雑やケンカのないように”と物凄い年のお婆さんからのお達しと同時に、校舎が解放された。
そこで千央は皆と一緒に図書室で読書をした。読んだのは“ヘレン・ケラーの生涯について”という本だ。ヘレンがサリバン先生にウォーターの単語を教わってからしばらくたった頃、千央たちは部屋を誰にも気づかれないようこっそりと抜け出した。校内を抜き足差し足歩いて、見てまわった。子供は図書室とトイレ以外使ってはならないと最初に注意されていたのだ。
開知小学校は白壁に水色の柱という、ごく一般的なデザインの外観をしていた。中も千央の通っている学校と同じような感じだったが、真っ暗なのでどこかの市庁舎のようにも思える。毅は、一人さっさと階段を昇っていってしまい、千央たちは慌ててそれを追いかけた。二階にいると思ったのに毅は階段の踊り場にいた。
そして、壁にかけてある大きな姿見を睨みつけているのだ。
「それがどうかしたの?俺かっこいいー、ってか」と最初に階段を昇りきった伊鶴がからかった。
「いや違うよ」毅は少し怒って言った。「この鏡には噂があってさ。この鏡を夜、2時ごろ覗き込むと、なにか恐ろしいものが見えるらしいんだ」
千央はそれを見た。しかし何の変哲もない普通の鏡である。ただ少し古く、木製の額縁はひらひらとした濃緑で、まるで昆布みたいだ。
「それって、すごく嘘くさいな」と公平。
「どこにでもあるんだね、そういう怪談話って。私の学校の鏡は3時33分だって話があったよ」と千央。「しかも、3月3日限定で」
アンコは言う。「私の学校ではトイレに泣く女がいるんだって、でもそれ、多分生きている人だったと思うんだよね」
「一体、なにが出てくるんだろ。私見てみたいかも」と季生子。
「どうせ怒り狂った雛人形とかだろ」と言った後、公平はその光景を想像したようだ。少しして顔を歪め、呟いた。「かなり恐いな……」
急に真がシッと人差し指を立て、千央たちの会話を制した。「ねぇ、何か物音がするよ」
「ちょっともう、変な事言わないでよ。さっきのことはもう謝ったじゃないの」と真琴は怒って言った。
「そうじゃないよ、本当に音がするんだってば!!」真は鋭く囁いた。
本当だった。それから数秒後に、上の階からスリッパをパタパタさせる音が聞こえてきたのだ。誰かが階段を下りてきているようだ。
「逃げろ!!」誰かが言った。
皆はそれを合図に階段を転がるように駆け下り、蜘蛛の子を散らすように散り散りになって逃げた。千央は手近な部屋に飛び込んだ。
声を潜めてドアの影に張り付いていると、音の主はずりずり引きずる音をたて、直に遠ざかっていった。
アンコはドアの隙間から外を覗いた。
「危ない危ない。さっきの校長だったわ」「あの校長、怒り方がまじでギャグやで」いきなり関西弁になって伊鶴は言った。
毅はすぐに鍵を閉め、誰も入ってこられないようにし、一息ついた。「あれ?真たちはどこに行った?」
部屋に隠れたのは伊鶴、毅、アンコ、千央の4人だけだったのだ。
「さっき体育館に入るのがチラッと見えたよ」アンコは口を覆った。「ねぇ、何だろう?ここ。すごく埃っぽいけど」
振り返ると、色々な形のフラスコとビーカーが山と置かれた黒のテーブルがあった。青銅色の棚があり、内側にカーテンがひかれていた。その隙間から、色々な展示物が見えていた。全てがたっぷりと埃をかぶっていた。多分ここは理科準備室として使っているようだ。何やら分からないホルマリン漬けや、耳のような色形をした大きな貝殻が置いてある。 真綿にガラガラヘビのしっぽが恭しく包まれている、これには何故かマラカスと書いてあった。脇に説明書がついていて、「ガラガラヘビは一つ歳をとるごとにしっぽの節がふえていきます。このヘビは何歳か数えてみよう」とある。千央が数えてみると、ごく小さいものも含めて九個だった、つまりこのヘビは九歳ということになるわけだ。
そして、胎児の成長のようすを象った模型が棚一段を占領している。着床後から臨月まで、全部で12体の模型だ。ごく初期の赤ん坊は、肉の色をした、車に轢かれて頭の吹き飛んだ川エビや、特別下手な人が作った餃子の中身のようであった。それでもよく見ると、目の兆候のようなものや、背骨の節のようなものをそれぞれ所定の位置にを見つけることができた。腕はまだなく、その場所にはマグマのような肉の凸凹があるのみだった。どの部分が手になるのだろうかと千央は思った。
一番大きいのをよく見ると、外国製なのだろうか、ちょっと欧米人風の顔立ちをしている。それはどこか慶幾に似ていた。彼は友達と遊びに行ってしまったきりだ。
いきなりドアを強く叩く音がし、オイ開いてねぇぞ、と声がした。かすれてはいたが、子供の声だった。その子も大人から隠れているのだろうか、そう思い千央は、開けてやろうと鍵に手をかけた。しかし横で毅は一瞬それを止めようとした。 だが間に合わずドアは開いて、どやどやと男の子たちの集団が入ってきた。千央はその中に慶幾の姿を認めた。目で合図を送ったが、しかし彼はこちらを見て一瞬顔を歪めた、だがすぐ普段の顔に戻った。
「あれ、お前ここで何してんの?また泥棒か?」一人が毅に嘲るように言った。大きな体躯をした男の子で、脚が長かった。
また?泥棒?千央は混乱した。
「いや、ただ見てただけだよ」毅は低い声で答えた。
男の子はえりたち3人を面白くなさそうに見、嘲笑うように呟いた。それには千央たちへの冷笑も間違いなく含まれていた。「へぇ。こいつらが新しいカモかぁ、天才占い師の孫ともあれば商売熱心なんだな、関心関心」 取り巻きたち数名が占い師が水晶を覗くような仕種をして冷やかし笑いをした。
千央は少し驚いた。毅の家の家業は、同級生の間で周知の事実らしいのだ(そういうことはあまり考えたことはなかったが)。しかしそれでは色々と双方やりにくいだろうなと千央は思った。
「俺、さっき体育館で見たけどもっといたぜ。だいたい8人はいたよな。なぁ?」言ったのは、慶幾の友達である。慶幾はウンと頷いた。
「そんなんじゃないよ」毅は笑って言った。
「お前の意見は聞いてないんだよ」毅を見もせず、男の子は突き放すような調子で言った。そして彼は大声で威嚇するように言った。顔はこちらを見ていたが、敵意は確かに毅の方へ向かっていた。「君たちにはあらかじめ忠告しとく、他のやつにも伝えろ。こいつに騙されるな。親切そうな顔して近づいてくるけど、こいつの家は一家総出で詐欺してやがるからな」
「いきなり出てきてあんた何なのよ」アンコは負けじと猛り立って言った。
「だってお前ら、あの頭のおかしいばあさんの客なんだろ?違うか?あのクソババァのアブラカタブラで病気が治るなら本当世話ねぇんだけどよ。でもそいつは詐欺師だから関わるな。やることなすこと全部嘘っぱちだからな」
その通りかも、と千央は思った。脇で毅は息をしづらそうにしていた。
「たとえ今はよくても、そのうち金を根こそぎ持っていかれるぜ」彼はドスを利かせた声を出した。
千央は毅が反論するのを、やきもきしながら待っていた。しかし毅は何も言わず、ただ黙っていた、千央も同じだ。相手が中学生くらいに見える男の子であるということもあったが、毅と親しくなった今も、霊能者のことや仕事のことは好いていなかったからだ。ともあれ千央は、今公平がいてくれたらいいのにと強く思った。口達者な彼なら上手い切り返しができるだろうから。
口達者といえば、慶幾はどちらにも加勢せず、手持ち無沙汰な感じで、終わるのをただ待っているようだった。
「あんた、言いがかりも大概にしなさいよ!!毅、もう行こう。校長も遠くに行っちゃったよ」アンコは毅の手を引いた。「嘘つき!!」 言いがかり、これは言いがかりだろうか。答えはわかっていたけども、千央は激しく自問した。
「おい待て」男の子は毅たちを引き留めた。「嘘つき!?嘘つきだって!?俺をこいつと同類にするな。なら言ってやる。俺や家族もこいつら一家の犯罪被害者なんだからな」
ではあの子とその家族も元々信者だったのか。えりは興味を惹かれた、これは単なる言いがかりでも冷やかしでもなく、実際の被害者の訴えなのだ。毅は大きなため息をついた。それに刺激されたのか、彼はさらに声を荒げた。
「こいつら家族にうちの弟は殺されたんだよ!!」
「はぁ、何言ってんの!?それ」アンコが反応した。アンコは毅を掴んでいた腕を緩めた。なんだかとんでもない話になってきた。千央は二人を見比べた。
「殺してなんかないよ」ようやく毅は反論した。
「殺されたも同然だろ、お前の親父とばあさんにな」
「そんなことない」毅の握った手が白かった。
「なんなら警察に通報してもいいんだ。殺人罪には無理でも詐欺罪にはなるだろうからな」
「お前の弟が勝手に死んだのがいけないんだろう。そんなのまで人のせいにするな!!」毅は叫びかえす。
「なんだとお前!!」男の子は毅の首に手をかけた、千央たちも取り巻き連中も止める間がなかった。しかし彼は顔を歪めてはいたが、手に力を入れるのは我慢しているようだった。
毅は男の子の手首を掴み、うう、と唸りをあげた。
正に一触即発の事態であった。その時、机の上にあったビーカーとバットの山が雪崩のように落ちてきた、伊鶴がその一つを慌てて受け止めた。しかし大半はそのまま床に落ち、ビーカーはほとんどが割れてしまった。盆は大きな音を立てて転がった。
その音で、千央たちの周りからは緊張の醸す独特な覆いが破られた。いきなり遠くの音がより鮮明に聞こえだした。皆はシーン黙った。そして、雰囲気が変わっていくのがわかった。周囲から人の動く気配がするのだ。明らかにこちらに近づいてくるようだ。まずい、どこかに逃げなければ。千央は慌てて周りを見渡すと、薄暗がりの中にもう一つ出口を見つけた。全員がそちらへ殺到した。
数分後、千央の背後で理科準備室の扉が開けられ、電気がついたのがわかった。しかし明かりをつけた人物が見たものは、もぬけの殻の室内と散乱したガラス類だけだったはずだ、外で雨に降られながら、千央は思ったのだった。そしてこんなことを考えていた。
“思い出してみると、毅は最初の辺りから変に馴れ馴れしいようだった。そのわけが今日わかった、と思うよ。そういう性格なのかと思っていたけど、違うみたい。毅本人も学校でいじめられていたから。それで私に親近感を持ったというわけなんだ。”がっかりな上に、誤解なのだから千央はかなり複雑な気分だった。
“それにしても、殺しただなんて本当にひどい言いがかりだよ。毅もおかしなことでいじめられて可哀相になぁ。それもこれもあの奇妙な家業のせいだ。毅がいじめられているのも、今私たちがこんなに雨に打たれて寒がっているのも、全部あの妙ちきりんな商売のせいなんだよ。ああ、本当に憎ったらしい。あんなのさっさと滅んでしまえばいいのに”
千央は心の中で拳骨を振り回していた。
隣から伊鶴のクシャミが連発して聞こえ、アンコは歯の根が合わないほど震えていた。風邪をひかなきゃいいけど、千央は肩をすぼめ、強風に身を切らせて、体育館に向かいながら言った。
“毅にとって今日は最悪の日に違いないな。ヤギは死んだかもしれないし、私たちにいじめられていることはバレちゃうし、友達にも裏切られてさ。せめてゴッチが生きてりゃいいんだけど”と――