七、頻客
降り続く雨のため、千央たちは室内で過ごすことを余儀なくされていた。
皆はじめのうちはゲームやマンガの類で時間をつぶしていたが、それにも限度があった。観念したのか、それともただ飽きたのか、やっとそれぞれドリルやら、プリントやらの宿題をはじめた。
一方千央は、8月に入るまでに大方の宿題をやり終えていた。残りは自由研究二つと読書感想文、ポスターだけだったのだが、これらは別格に厄介で、千央は毎年最後ギリギリまでやり残してしまう。しかし今年こそは早め早めにやり終えたいと、千央はいつになくやる気になっていた。なぜなら昨年の夏休み最終日、読書感想文をヒステリー状態で書き上げたからだ。これは千央にとってはほとんどトラウマになり、二度と繰り返したくなかった。
千央は傘を借り、ベランダから裏庭へと向かった。庭には鶏のボードがあり、他には太った十字の形のようなドクダミ派手な色のサルビア白いダチュワが咲いていた。脇でハイビスカスに似た花をつけているのは実はアオイであった。金属製のじょうろが垣根に逆さまにかけてあり、隣には深緑の園芸用ゴム手袋が乾かしてあった。それだけ見ればのどかな田舎の風景だったが、偶然なのか棒が中指に入ってしまっていて、それがまたなんとも下品な手の仕種になっていた。
生け垣から外へはい出ると、千央は水しぶきを思い切り浴びてしまった。 それから用水路をわたり、一旦道に出て少し行くと、山を一部開拓したような土地にあたる、そこが増田家の野菜畑になっていた。場所柄からいって、ここは野生動物にとって格好の食事場になっているんだろう、と千央は思った。
いくつかの畝が作ってあり、今が最盛期の夏の野菜がごろごろなっていた。
残りはまだ苗の状態か何も植えられていない、もしかしたら、種が蒔いてあるかもしれないのでむやみに踏み荒らしてはいけない。足元に気をつけつつ、千央は畑の奥へと向かった。
畑にふる小雨は、最近の強い日差しに耐える植物たちに与えられた夏の小休憩という感じがある、畑はどこかホッと一息ついたような雰囲気があった。
千央は傘を肩にかけ、ナスの葉を掻き分けた。千央は今年の夏の自由研究に酵母について調べることに決めた。野菜には天然の酵母がついていて、それを培養し、酵母をつくる。それがパンを膨らませるの元種になるのだ。先日、園さんがパンを作るというので千央たちはそれを見学させてもらった。
まず、園さんは台の上に粉類をあけ、山のように盛り、真ん中に窪みを作った。その中にお砂糖、水、卵を落とした。それから園さんは棚からビンを持ってきた。その中身をひっくり返し、窪みに入れた。
皆の見守る中、軽石のような色のでろでろしたものは、小麦粉の上に着地した。泡が始終ぶつぶつとしていて、気味の悪い代物だった。千央は誰にもわからないよう少しだけ眉を寄せて不信な顔をしてみせた。
次に園さんは生地をグルグルと混ぜてまとめ、台の上で体重をかけ、力一杯にこねていった。千央たちも途中で順番に捏ねさせてもらったが、とても力のいる仕事だった。生地を押し付けながら向こう側に滑らし、それをまた手前に戻す。これを何度も何度も繰り返していった。園さんの額には汗が光っていた。
千央が見ているうちに、生地にはしっとりとした膜がピンと張っているように見えてきた。そのうちに段々と濡れたようにピカピカしてきた。千央はパン生地がバニラ色をしたゴム鞠のように思えてならなくなった。千央はパン作りを見るのは始めてであったから、あのソフトグレイ色のべたべたしたものがなんなのか、分からなかった。
それを聞かれ、園さんはこう答えた。
「ああ、あれ?あれは天然酵母。普通はパンづくりにはスーパーとかで売ってるイーストっていう酵母菌を使うんだけど、今回は自家製の酵母を使ったの。その酵母菌は果物とか野菜にもついていて、それを培養したものがあの瓶にはいってたものよ。これは林檎から種起こししたから林檎酵母。――作り方?ええっと、まずは、林檎に砂糖、湯冷ましを消毒した瓶に入れてしばらくおいて置くの。その間毎日蓋を開けて、空気の入れ換えをしてやるの。そうすると林檎についていた酵母が糖分を餌にして増えてきて、そのうちガスで泡がぷくぷくとたってくる、まるでサイダーみたいよ。そしたら出来上がり。パンに入れるとそれがイースト代わりになって、膨らましてくれるの――イチゴやレーズンとかでも出来るらしいけど、私は林檎とバナナくらいでしか試したことがないから――野菜?いいんじゃない?トマトとかなら上手くいくかもね」と――。
「へぇー。すごいですね」アンコが感心した様子で言った。
ああそうだ、そういえば質問したのは千央ではなく猫の女の子だったっけか。彼女は夏梅杏子という名前で、アンコと呼ばれていた。料理や栄養についてとても詳しく、度々小講義を始めるのだった。たとえばトマトは肌にいいとか、豚肉はビタミンB1が豊富だとか、そのような話だ。それはもっぱら、今だ食事拒否状態の真琴のために行われるのだった。
とにかく、千央は出来上がったツヤのない、素朴な丸パンの旨さと、酵母を起こす話の面白さにすっかり感心して、これを理科の自由研究課題に決めたのだった。
千央は野菜をよく観察した、もったいないのであまり綺麗な物は使いたくない。なので形が変だったり傷がついている物を選び取っていった。
きゅうりとオクラはお化けの様に大きくなったものが見つかったので苦労もなかった。きゅうりは黄色に熟れて、熟れていないメロンの匂いがした。これが茶色だったら巨大生物の糞みたいに見えるな、と千央は思ったりした。オクラは大きさといい形といい、短剣みたいで武器になりそうだった。硬さも十分にあり、試したらスコップの様に地面に突き立てることができた。
また千央はトマトをもぐ時、とても面白いものを見つけた。普通に苗に実ってはいるのだが、ボールを風呂敷で包んだような、太った涙型をしており、良く見ると、中の果肉が完全に液体になっているのだった。触るとフニョフニョしていてちょっと気味が悪い。多分、なにかの原因で中の果肉が傷んだが、皮は破れず、ずっと毎日の太陽の熱で熱せられ、天然のトマトソースになったのではないだろうか。
畝にはカボチャがあったが、蔓のようなものが伸びているだけで、まだ身はなっていなかった。丸っこい葉っぱには、よく見ると産毛が生えていた、触るとしゃりしゃりしていた。
その隣ではスイカの実がなりはじめていた、しかしまだ小さかった。そして何故だか新聞紙が尻に敷いてあった。それの上をナメクジが頭を振りながらのんきに渡っていた。渡り終えるまで千央はしばらく待っていた。傘の上をハチが飛んでいった。
数十分後、千央は増田家の台所にいた。
部屋の真ん中には長方形の作業台があった。それは流行りのアイランドキッチンの様だったが、ここのはもっと古めかしく、学校の調理室のようだ。その調理台には野菜や葉っぱが所せましと並べられていた。
まず千央はいくつかの広口瓶を用意して貰い、それを熱湯で消毒した。その中に適当に切った野菜と砂糖を入れ水で満たす。それから蓋を開け空気を入れる、蓋を閉め振って全体を混ぜる、という作業を毎日一回繰り返す。うまくいけば泡がたち発酵してくるはずなので、その様子を観察する。ほって置けばできる楽な自由研究であった。
多分規定通りに作れば料理にも使えるちゃんとしたものが出来るはずだが、自然のものなのでそれなりに難しいらしい。うまくいくだろうか。
実のところ千央は、本当はビールがつくりたかったのだ。作り方も調べた、まず大麦を一定の温度時間で煮、大麦に含まれる糖を取り出す、そしてその液をこし、イースト菌を入れ、ポップを浸して、風味をつける。あとは待つのみで、時間が仕事をしてくれる。
ただ家では誰もビールを飲まないし、飲めたとしても、素人が錬金した得体の知れない発酵飲料を誰が飲んでくれるだろう、ビール酵母ではない謎の菌が繁殖していたら、それこそ大変なことになってしまう。それに、そもそも日本では家で酒を造ることは違法であった。
千央は持ってきたカメラを使って、それぞれの瓶を一つずつ写真に収めた。後々、比較写真にするためだ。
雨が降り止んだので、千央たちは散歩という名目(そうしないと園さんが許してくれないだろう)で川まで歩いて行った。その途中、こんな話をした。毅が言った。「昨日さ、公平が話してくれたじゃん。警察に捕まった先輩のこと」
「ああ、うん」千央はゴシップを聞くような気持ちで耳を傾けた。
「それで僕、気になって公平の台帳を調べてみたんだ。捜すの大変だったよ。そしたらどうも、公平の証言が決め手になってその人は捕まったらしいよ」
「へぇ」では、公平始め、千央たちのカルテはどこかにちゃんと保管してあるらしい。
「うん。公平は飛込の選手でさ、学校のプールに忍び込んでは毎晩練習していたらしい。それでその時ちょうど学校の教師の持ち物が夜のうちに燃やされる事件があったんだって」
「ふーん」
「もちろん警察には通報したらしいけど犯人は最初見当もつかなかったらしい。で、いくらかたったある晩、公平はとうとう学校の警備員さんに見つかってさ。先生にお前が犯人じゃないかと問い詰められたらしいんだ」
「えぇ!!そんな馬鹿なこと」
「だよね。多分先生も冗談だったと思うよ。そもそも放火なんてする動機がないんだから。なにせ公平は飛込のトップ選手らしいんだ、だから無断で忍び込んでも精々練習熱心過ぎるためだと思われるくらいだよ。でも公平はビビっちゃったのか、自分が疑われているのが嫌だったのか、喋っちゃったんだ。その日学校まで行く途中、その先輩たちとすれ違ったのをね」
「うーん」千央は、どんどんと話に引き込まれていった。
「その先輩は普段から不良っぽい人だったらしいから、目くらましというか、よいおとりになると思ったのかもね。で、先生は当然その先輩たちに話を聞いたわけ……そしたら次の日その先輩たちが警察に捕まったんだって!!」
「えぇっ!!」千央は間抜けな声を出した。しかし、学校側が生徒を通報するなんて珍しいことだと思った、多分よっぽど酷いいたずらだったのだろう。それから、千央はすぐあることに気づいた。
「でも、結局その人たちが犯人だったのなら話した方がよかったんじゃん」
「まぁね。でもどうやら公平とその子たちは仲良しだったらしいよ。なんか幼稚園から一緒の幼なじみだったんだって」
なるほど、と言いつつ、本当に彼らは仲良しだったのかなぁ、と千央は思ったのだった。不良の彼らがより疑惑の目で見られるようになるかもしれないし、濡れ衣を着せられる可能性もあるからだ。しかし、結局彼ら犯人だったのだから、特に公平が気に病むことではないような気がする。むしろ気にしてはいけない、誇りにしてもいいくらいだ、と千央は思った。偶然とはいえ、公平の行動は良い結果を招いたのだから。
「その後さ、公平は飛込台から滑って、背中を打っちゃって飛込ができなくなったんだよ」
「ふーん、……全然元気そうに見えるんだけどなぁ。可哀相。怪我の後遺症とかって聞くけど、本当にあるんだねぇ」気の毒だなぁ。怪我の程度は知らないけど、千央はとても同情した。
「いや、体の方は大丈夫なんだけど」と、毅は前置いた。しかし、「たださぁ……」毅はそう言った後、長く黙ってしまった。
どうやら、この件には窺い知れないような事情があるらしい。そして、あのカルテには色んなことが書いてあるに違いない。それらを見聞きして、毅はおそらくみーんな知っているのだ。千央はその事実に生理的な嫌悪を感じ、またそれを警戒した。つまり、あのカルテを見るかぎり、毅にとって千央はクラスの女ボスからいじめを受けた、いじめられっ子という認識になってしまうのだ。“友達にいじめられ、傷つき、悲しみにくれた11歳の女の子”こんなに本来の千央と掛け離れたイメージ像があるだろうか。なぜなら本来の千央は、それほど“温厚”でも“柔和”でもないからだ。攻撃的で勝ち気な面も持ち合わせている。そんな自分が同級生の攻撃くらいで打ち萎れているものか、畜生、もし不当な扱いをされようものなら迷わず一発お見舞いしてやるんだ、千央は歯痒く思う。いや、それは流石にやり過ぎか、でも胸倉を掴むくらいなら本当にやるかもしれない。ただ、いままで周りに良い人たちしかいなかったので、それを御披露する機会がなかっただけの話なのだ。
しかし、“いじめの被害者”というレッテル(と、いうべきか)、これはこれで違和感を覚えて嫌だけども、大人から同情の目で見られても余裕で笑っていられる理由はこれなのだから、それには感謝しなくてはならない。以前学校のカウンセラーに優しく相談するよう促された時には、むしろ優越さえ感じたほどである。
「で、それがなんでだか知りたい?」
と毅が焦らしたそうな話のふり方をしてきた。
千央は考え事のせいでイライラしていたので、毅の申し出を即効拒絶しかけた。しかしその時、絹を裂くようなとまではいかないが、千央たちの歩いている道から脇にそれた方、つまり森の中から女の悲鳴が響いてきて、二人のお喋りはとりあえず中断となった。同時に、千央の“温厚”な面目は保たれたのである。
さらに、森の中から怯えた声が聞こえ、続いて誰かを呼ぶ声がした。千央たちが駆け付けると、真琴が以前掘った落とし穴の側で腰を抜かしへたり込んでいた。脇には湖水がいた。長い髪を振り乱し、興奮したようすでこう言った。
「今この中から、なにかおかしな声がしたの。誰かがいるみたい」真琴は落とし穴を震える指で差した。
どうやら落とし穴に本当に何かが落ちてしまったらしい。 千央が見てみると、確かに穴のかぶせた部分には穴が開いていた。しかし中は何のへんてつもないただの暗闇が見えるだけだ。悲鳴を聞いて、公平、慶幾、伊鶴、真、アンコたちも駆け付けて来た。何だろう?毅たちは談合した。
「めぇぇー、ってないたよ。めぇぇー」湖水はそう言って声まねをした。
その時“その通り”と応じるように、メェーと大きな鳴き声が穴から聞こえた。山羊だろうか。毅は勢い込んで穴を覗いて、ゴッチ、ゴッチじゃないか、と喜んでいた。千央が覗き込んで見ると、思った通り山羊が落ち込んでいた。それもとても大きく、表情のないあの横長の瞳でこちらを見ていた。千央は後ずさりした。
毅はまず上にのせていた枝や葉っぱをどかし、穴に飛び降りた。そして山羊の前脚をつかんで持ち上げようとした。しかしそれだけでは体は上らず穴から出られない。その間も山羊はメーメー鳴きまくっていた。そこで板切れを斜めに差し入れ、そこから登ってこられるようにした。何人かが後ろから押して手伝った。しばらく押し続けて、見事、山羊は上陸した。湖水は拍手して喜び、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「そろそろ現れる頃だと思ってたんだけど、まさか穴の中にいるとはね」毅は嬉しそうに言った。この山羊は去年の12月ごろに突然現れ、今まで数ヶ月置きで何度か行方不明になっていたという。そして、数ヶ月前にも同じように姿を消していたらしい。
「じゃぁ、この山羊は毅の家で飼ってるんじゃないの?」と真。
「そうだよ、どっかから来た野良山羊さ」毅は答えた。
はじめはもちろん毅たちも飼い主を探そうとした。しかし近所に山羊を飼っている住人はいるが、自分の山羊が行方不明だいう人はなく、また他に名乗りでる人もいなかった。それで、しばらく世話するつもりで家に連れ帰ったのだが、
「それが一晩たったら、いつの間にかどっかに消えているんだよね。とにかく煙りみたいなやつだよ、きっと自由にしてるのが好きなんだ」毅は山羊の頭を撫で摩った。
それで、今でもこのゴッチという山羊は山を好き勝手に歩きまわり、野草を食む、生粋の放浪山羊だということである。
ここまで言い、毅は急に笑い出したので、何ごとかと皆の注目を浴びた。毅はまだ笑いながら言った。
「あのね、おかしいんだよ、鷲崎……あ、うちに耳の目立つ庭師がいるだろ、そいつがいつだったかとても熱心なようすで手紙を書いてたわけ。だから何してるか聞いたんだけど、そしたらゴッチの飼い主に手紙を書いて、ちゃんと山羊を繋いで飼ってくれるようにお願いするんだって言ってさ」
「へー、それってやさしいかも」一体何がおかしいのかわからなく、千央は感心して言った。
「いやでもさぁ……、それって、飼い主がどこにいるのかわからないのにその手紙はどうやって渡すんだよ」公平がしかめっつらで言った。
おかしそうに頷き、毅は言った。
「うん、いいとこに気づいたな公平。だから、そのことを言ったわけ、そしたら次の日ゴッチの首にその手紙が巻き付けてあったんだよ」
これには千央を含む皆が吹き出した。きっと彼はヤギの郵便屋を思い出してやったに違いないのだ。
「何それ、すごく変!!」アンコは笑った。
「ちょっと抜けてるな」と公平。
「というかすごくだろ。あの人、見た目もなんか……ちょっと変だしさ、いやかなり変だな」伊鶴は言った
確かに彼の容姿はずいぶんと風変りだった。始めて顔を見た時、千央はびっくりして二度見してしまった。そしてあまりに得体の知れない感じなので、やたら怖かった。皮下に木材を滑り込ませたようなやけにはっきりとした鼻梁に、大きな耳はパラボラアンテナのように全てがこちらを向いている。目はよく見るとなかなかよい形をしているのだが、如何せんサイズが小さすぎる。それに、白目部分が黄色いのでよく焼けた肌との境がはっきりせず、目が黒い丸点だけのように見えるという始末だった。彼は一見、他の人たちとはあまりにも違っている印象をあたえるのだ。例えば千央たちが水墨画なら彼は点描、こちらが版画ならあちらはメゾチントという感じだ。容姿だけでいうなら、彼はまさに異次元の人であった。
しかし、何度か顔を合わせるうち、その奇妙な目に穏やかで優しそうな光りを感じることができた、それ以後は特に怖がることもなくなった。彼は大変働き者で、午前は庭仕事をやり、昼は千央たちと一緒にご飯をもりもり食べて、午後からは山仕事に行くのだった。彼は昔から増田家の庭や、近隣の森の手入れを任されているのだ。
「それで、結局手紙はどうしたの?」真琴は聞く。
「知らない。多分ゴッチに食われちゃったんじゃないかな?山羊だしね。ねぇ、お前は笑いすぎだよ」毅は慶幾に言った。慶幾はまだ笑いこけていたのだ。
「でも、いつ穴に落ちたんだろう。可哀相に」アンコは山羊の白い前脚を撫でて土をた。
「真琴が見つけたから良かったけど、もし何日も気づいてなかったら飢え死にしてたかもしれないね」真がセーフ、とジェスチャーをしながら言った。
「まさか本当に落とし穴に何かかかるとは思わなかったなぁ」公平は言った。それでは公平もあんなに乗り気だったのにも係わらず、無理だと考えていたらしい。千央は内心ずっこけた。
「でも、ちゃんと戻って来たんだから。ねぇ、お前、お腹空いたかい?」毅は優しくゴッチに話しかけた。
ゴッチは前脚に泥を付けていたくらいで、他は元気で興奮が落ち着くと毅が差し出した草をおとなしく食べはじめた。
「千央は触んないの?大人しいよ」公平は薦めた。
「いいよいいよ。私山羊嫌いだもん」千央は遠慮した。
皆興味深げにゴッチに群がっていたが、実をいうと、千央は山羊を苦手に思っていた。横長の瞳を不気味なのも一因だが、それとは別に、あのむっくり膨れた腹を見ると、以前飼っていた出目金のことを思い出して胸が悪くなるのだ。
千央は以前、黒出目金を飼っていた。それは夏祭の金魚すくいでとったもので、水槽には他にも色々な種類が混じっていた。その中でも黒い出目金が一番のお気に入りであった。大きな目玉と一際でっぷりした腹でゆらりゆらりと泳ぎ、なんとも面倒臭そうな、鈍いユーモラスな姿が好きだった。ただ少し気になったのは、いつだったか父に「出目金はすぐ死ぬよ」と警告されたことだった。
しばらくたった朝、黒出目金が水槽の底に沈んでいるのを千央は見つけた。でも単に眠っているのかと思い(魚にはまぶたがない)特に気にするまでもなく、そのまま学校に行った。午後、下校した千央は水槽を見て息が止まってしまった。出目金が水面にポカリと浮かんでいのだ。酸素ポンプの作る流れに身を任せ、出目金はグルグルと対流し続けていた。灰色の変なものも一緒にグルグルしていた。それは、肉を煮る時に出る灰汁のようだった。千央はそれはカビだと思い掬った、死んで半日くらいしかたっていないのになぜカビなんかが浮いているのだろうと不思議に思った。
それが何であるかは埋葬する時にわかった、水から掬い出す際、ある拍子に体がこてんと反転し反対側の腹が見えた。出目金の腹は爆発したように破られていた、あの灰色のものは内臓だったのだ、どうやら、仲間に食い荒らされて散り散りになってしまったようなのだ。
以来千央にとって、大きなお腹というのは短命の印のような気がし、そのうち爆発でも起こしそうな気がするのである。
とりあえず、千央たちはゴッチを散歩に連れ出した。
まずゴッチを川に水を飲ませに行き、草が沢山生えた場所を探すことにした。途中で道端に生えた雑草を摘み、食べさせた。山羊は柔らかい草が好きかと思ったが、意外と硬い繊維のある草もよく食べた。まるでファックスみたいな動きで草は飲みこまれていく、ゴッチが草を噛み飲み込むのをじっと眺めていた。そして噛む時はきしきしと言う音が口元から聞こえてくるので面白い、千央は耳を澄まして聞いた。
しばらく歩いた先に崖のようなところが見えてきた。高さは数メートルはあるだろうか、下をみるとそこは窪地になっていて沢山の廃品が置かれていた。ソファーや四角くて白い家電がいくつも。千央は奥の崖になっている所をのぞいた。そこには川を挟んだ向こう側に、川原が見えた。ここに来た初日、皆で焼肉をした場所だ。
皆で周り道をして、下に降りていった。千央はまわりを見渡した。ここにはクローバーに似た小さい草がそこら中に生えていた、ゴッチはそれを旨そうに食べた。他にも蔦のような草や、ドクダミ等がはえている。見覚えのある形の葉だなとよく見てみれば、それは大葉だった。なぜか赤しそもあちらこちらに生えていた。
辺りにはベッドのマットレスやら電子レンジ、冷蔵庫などがあった。千央は冷蔵庫を開け閉めした生活に使えそうなものはほとんど揃っているのではないだろうか。ただ電気がないしあっても古くて使えないだろう。アンコがマットレスにすわって、お尻が濡れたと言って悲鳴をあげた、それ以前にここにあるものは雨ざらしなのだから故障しているか。伊鶴がホッピングを持ってきて跿ぼうとしたが、はじめのジャンプでぬかるんだ土に足を取られて転び、悪態をついた。薄情にも、皆笑っていた。誰かがここは素敵な秘密基地になりそうと言った。確かにここは豪華なままごと場になりそうである、ただ残念なことに、もうそんな歳でもないけれど。
湖水はぬかるみの泥でだんごを作っていた、それがとても面白いやり方だった。
まず、湖水は下の方にある黄色い粘りのある粘土を掘り返し、棒のように細長く伸ばした。次に焦げ茶色の土をそれに被せ、また黄色の土を被せる。そのようにしてタラコくらいの大きさになったら、竹で作ったナイフでのり巻きのように切る。それを丸めると表面が黄色と茶模様のだんごが出来上がるのだ。
千央が褒めるつもりで、湖水に美味しそうと言ったら、これ食べるの?と不審気な目で言われてしまった。男の子はままごと遊びはしないということを千央は忘れていたのだった。
しばらくゴッチに草を食べさせた後、急に冷たい空気が落ちてきて千央は身震いした。何事かと空を見上げると、一拍おいて雨粒が千央の頬を濡らした。
「家に帰ろう。多分これから大雨になるよ」毅は空模様を眺め言った。誰かが残念そうな声を出した。それに応えるように毅は言う。「家に帰ったらさ、てるてる坊主を作ろうよ」