五、川つり
「8月5日、今日私は用水路に釣りに出かけた。――」
しかし千央はシャープペンをおき、これを消しゴムを使って消した。
この日午後から皆で、近所の川へ釣りに行く予定だった。なので午前中のうち、近所の商店に買い物に行き、道具を揃えた。毅と慶幾、五右衛門頭には自分の竿があったが、その他千央たちは店で300円で売ってある、安いのべ竿を買った。毅は糸ミミズも購入していた。餌にはパンとご飯粒が家にあるのに。案の定、皆に気味悪がられていた。
一度家に戻り、昼食の後、千央たちは釣りに行くため買った道具を携え、部屋から玄関へ行く廊下を歩いていた。そこへ、いきなり千央の前を何かが勢いよく横切り、壁にぶちあたって足元に落ちた。よく見るとそれは何かの本だった。続いてスリッパがひゅんと音をたてて飛んできて、またびっくりさせられた。毅はスリッパを、千央は本を拾いあげた。
側の部屋からは何か言い争う声が聞こえた、この本はそこから飛んできたらしい。 千央が中を伺うと五右衛門頭が園さんを怒鳴りつけていた。側では三歳くらいの男の子が泣いていて、真琴が男の子を慰めていた。その後ろに慶幾がポケットに手を入れてつっ立っていた、慶幾は途方に暮れた顔をしている。
彼の話によると、このようなことがあったらしい。
五右衛門頭は、慶幾に用水路ではなく上流まで釣りに出かけようと言った。五右衛門頭の本名は伊鶴というのだが、彼は竿まで持参しているくらいの釣り好きらしいのだ。しかし危ない上に難しいからと園さんに止められた。伊鶴は猛反発したが、もちろん認められず、そのうち毅の小さいいとこが自分も行きたいと駄々をこね、一行に加わることになった、そうして結局渓流釣りは不可能になった。伊鶴は不満そうにしていたが、とりあえずは納得したように見えた。
最後に園さんはいずれにしろ、子供だけの渓流釣りは毅の家では禁止されているわ、と駄目押しで言った。その言葉がどうやら地雷だったらしい。
直後、伊鶴は急に園さんに殴りかかり、園さんは彼を羽交い締めにして止めた。それが気に食わなかったのか。伊鶴は周りにあったものを投げまくり、このような対峙する格好になったのだ。
千央は伊鶴の体に火がついたような錯乱ぶりに、度肝を抜かれてしまった。彼の顔は紅潮し、歯を剥き出して、まるで野獣のようだった。彼の腕は妙に筋張って、肩を怒らせゼィゼィと荒い息をしていた。
伊鶴は唸りながら拳をあげ、園さんにまた殴りかかった。園さんは素早く手首を捕まえて、伊鶴の攻撃を封じた。さらに激高した伊鶴はキック攻撃に切り替え、今度は腹を狙いだした。園さんは膝を曲げて避けようとしたが、ズドンと2発蹴りを食らった。これはマズイ。
加勢しようと千央たちが動きかけた時、吠えるような声が聞こえ、男の人が部屋に飛び込んできて伊鶴を抑えつけた。
「おい、やめろ!!何してるんだ!!お前は!」水野さんは伊鶴の腕を掴んで言った。
ものすごい剣幕に千央たちはびっくりして固まった。伊鶴はしばらく抵抗していたが、手と足を押さえ付けられ、やがて敵わないことが分かったのか大人しくなった。
「お前、さっき人の腹を蹴りよったよな!?」伊鶴の肩を掴み、水野さんは凄むのを、千央たちはは動揺しながら見ていた。
当の本人はふて腐れたような顔をして、そっぽを向いている。そっぽを向いている。千央は伊鶴のようすをヒヤヒヤして見守った。あんなに怒っている人を前にしてよくそんな態度がとれるな、と伊鶴の根性に千央はある意味感心した。これが自分だったらすぐに怖くて泣いているだろう。と同時に意地を張らないでさっさと謝ってしまえばいいのに、とも思った。
「人の腹を蹴って、下手したら怪我さすっぞ。おい、こっちを見ろ」は説教した。
しかし伊鶴は、めんどくせぇという顔をしていて、どうやら聞き流しているようだった。
「何で園さんを蹴ったりしたんだ?」
両者の間の空気はだんだんと張り詰めてきた。千央ははやく伊鶴が折れてくれるよう祈っていた、じゃないと大変なことになりそうだ。
「おい、聞いてるのか!?お前に話してるんだぞ、目を見ろ」水野さんが声を荒げた。
伊鶴がフンと鼻をならし、水野さんはため息をついた。続いて舌打ちの音が聞こえた。
水野さんは千央たちが持っている、釣り道具を見て言った。
「こいつと話があるから、君たちは、先に釣りに行ってきて。湖水も連れていって。お前にはちょっと話がある」
それを聞いて伊鶴は、はぁ?と言い大いに異存のある顔になった。
「お前は行かせん、ずっと家におれ。わかったな」水野さんは静かに言った。
嫌だ、伊鶴はそう言って腕を振りほどこうとしたが、水野さんは掴んだ手を離さなかった。むしろ掴む力が強まったようだ。伊鶴の腕の色が白くなっていた。伊鶴はみるみるうちに涙目になり、わんわんと泣き出し、児童虐待!!と喚いた。水野さんは違う、教育だと低い声で言った。
早く行ってきなさい、と水野さんはまた癇癪をおこしだした伊鶴を押さえ付けて、千央たちを急かした。もうどうしようもなく、千央たちはそろりそろりと後ずさりして部屋から出ていった。ごめん、伊鶴。
背後から何でだよーっ!!と伊鶴の泣き声が聞こえてきて、千央の肌は泡立った。隣を見ると、公平も慶幾も暗い顔をしていた。千央は堪らず、耳をふさいだ。
高い位置に昇った太陽が、黒いアスファルトの上に益々濃い影を作っていた。ひどく蒸し暑い空気の中、千央たちは全身を炙られながら、ゆっくり山を下っていった。用水路は大分歩いた、町に近い場所にあった。深さは2mほどあり、U字型のコンクリート製であった。周りには白い柵が備え付けられており、それを触ると手に白い粉がつく。千央たちは持参したお茶を飲み、少し休憩をとった。
突然、慶幾は誰にともなく聞いた。
「伊鶴、大丈夫かな?」
「園さんもついているし、大丈夫だよ。多分」と言いながらも、毅は不安そうな面持ちである。
「でも、釣りぐらいでさ、ちょっと騒ぎすぎでしょ。びっくりしたよ」彼女は乱闘騒ぎを直に見てはいないのだ。猫の子は大きな麦わら帽子をかぶってきていた。多分、日に焼けるのが嫌で、本当はきたくなかったのだ。
「あの子、ひどい癇癪持ちなんだよね。まぁ暴れてる間は別の人と考えるしかないよ」と毅はいう。
さて、皆は横一列に並び糸を垂らしたが、全く楽しくなかった。側の木ではたくさんのセミがやかましく鳴いていた、しかし千央の耳には伊鶴の何で!?何で!?というのとギィィィイィ!!という必死な叫び声がしばらくついて、離れなかった。
この釣りに行かせない、というのが伊鶴に対する制裁なのが千央にはわかった。伊鶴が暴力を振るった罰なのだ。
しかし千央は何だかすきっとせず、気分が悪かった。大人に挟まれ、暴れまくる伊鶴がとても非力で哀れに思えたのだ。伊鶴は今ごろ一人で待っているのだろうか、千央はなんだかいたたまれない気持ちになった。そして、この釣りを楽しまないことが伊鶴への唯一の助けのような気がするのだ。しかし、それがやりすぎだということはわかっているけれど。
「……全然釣れやしない」しばらくの沈黙の後公平がいった。
「ウンともスンとも言わないね、本当にこんなところに魚がいるの?」と猫目。
確かに、千央はゆっくりとした川の流れを見て思った。この用水路の水は藻が大量発生していて、これでは魚が酸欠になりそうだ。底も全く見えない。従って生き物の気配も感じとれなかった。山の清んだ川の水とは大違いなのだ。ここでは何がとれるのだろう。
「案ずるな、僕たちには秘密兵器がある」 毅はそう言うと、朝商店で買った糸ミミズを取り出すと、川にぶちまけた。ミミズは次々と暗黒の川に沈んでいった。
「なんか、沈んじゃったけど」と千央。
「意味あるのか?これ」と公平は聞いた。
「多分ね」どうやら、ミミズの匂いで魚を呼び寄せるという作戦らしいのだ。毅は答えた。
聞けば、この辺ではフナのような形の魚がつれるそうである。これはモロコという。また、鋏で挟めるような大きな餌を使えばアメリカザリガニが釣れることもある。たまに地味な色の小さなザリガニが10分の一くらいの確率で揚がるが、それはまだ赤くなっていない子供ではなく、ニホンザリガニという種類のものであるとか。そして春には大きなオタマジャクシがみられるという、やがてガエルに変体すると、雨の降る日はいつも夜中うるさくなくらしい。つまりモロコしか釣れない、ということがわかった。
隣からカチャカチャと物音がするので見ると、さっきまで泣きじゃくっていた湖水が今はすっかり泣き止んで、毅の擬似餌コレクションをずらり地面に並べていた。ギラギラ光る鮮やかな色のものからゴム製のグミのような派手な色ものまでずらりとある。
「危ないよ」すっかりお世話役になった真琴が優しく言った。擬似餌には針がついているのだ。
「ウン。わかった」湖水は子供らしい、かわいい声で答えた。彼、湖水は髪が短いのと、肌が浅黒いこと以外では毅に本当に似ているなと千央は思うのだった。湖水の襟足は汗でびっしょりだった。時間がたつほどアスファルトの照り返しが益々ひどくなってきていたのだ。蜃気楼がおこりそうなほどだ。背景でセミがミィミィ、ジヮヮヮと鳴いていた。
炎天下の元、千央はぼんやりと緑色のチョークを溶かしたような緑白い水面を見ていた。緑の羊毛みたいな水草がゆらゆらと動めいていた。その水面の色は否応なしにあのアブラコウモリのような霊能者の瞳を連想させる。千央は不意に、今があのことを聞く絶好の機会ではないかと思いたったのだった。
「ねぇ、あのさー」千央は糸を弛ませて言った。緊張のため声が少し震え、不自然に大きな声になったが、皆に聞こえていない方が困る。
「なに」誰かが答えるのが聞こえた。
千央は浮きをじっと見ていた。しっかり見ていないといけない。
「そういえば、皆はなにが憑いてるって言われた?私はお祖母ちゃんと同級生の子だけど」千央は一気に言い切った。さりげなく聞こうと思っていたのに、内容がおかし過ぎたせいか全然さりげなくなれなかった。
「僕は先輩だって」誰かがどこからか笑いながらこう答えた。千央は顔をあげた。意外にも口火を切ったのは公平だった。
「二ツ上の。最近警察に捕まったらしいけど」
警察!?千央はびっくりして公平を凝視した。
「えーと、僕は飛び込み競技をしてるんだけど、成績がめちゃくちゃ落ちちゃってさ。とにかくそれの原因がその先輩の恨み……なんじゃないかと言われ……た。うん」公平はちらりと毅を見た。
「なんでその人は公平さんを恨んでるんですか?」慶幾が聞いた。
「まぁそれは、僕が捜査に協力したからだろうな」
…………。
「その人はなにをしたんですか?人殺しとか?テレビにでた?」猫目が言った。
公平は笑った。「まさか、不法侵入と放火だよ。それぐらいじゃ多分テレビはこないよ。いや、地元の新聞ならきてたかもな……」公平は思い出すためにしばらく黙り込んだ。結局こう言った。「どうだったかな……あんまり覚えてないや」
「協力ってどんなことをしたの?」千央はスパイ映画のおとり捜査のような壮絶なものを想像していた。
「その人がそこにいたと証言しただけ、目撃証言ってやつ」
「でも、そのぐらいで恨まれるなんて、たまったもんじゃないっすね」猫目は言った。
そうすね、と公平はハハハと笑いながら答えた。
公平の話を皮切りにして、皆は憑きものたちを次々に話してくれた。
慶幾は「僕にはおばあさんの霊が憑いているらしい、江戸時代の人なんだって」と言い、
真は「犬とヘビが憑いてるってさ、嫌になる。僕犬もヘビも苦手なのに」と言った。
そして猫目は「私は死んだ弟が憑いてるって言われたけど」と言う。
皆の話すようすは一様に明るかったので、千央はよかったと思った。しかし、公平の先輩に、江戸時代の老婆、犬にヘビ、猫目の亡くなった弟に……と、千央がそれぞれの姿を想像すると、空気が一気に混雑し始めたように思えた。
「ねぇ、まさかとか思うけど、皆はそれが見えたことはないよね……」千央は好奇心から面白半分でそれを聞いた。
「ない」皆は首を横に振るなどして、それぞれの方法で否定した。逆に公平は千央に聞いた。「君はどうなの?」
「そんなもの見えるわけないでしょ」千央は急いで答えた。
有り難いことに、とりあえず千央には世間一般で言われている霊感のようなものは多分備ってはいなかったのだ。本当の目で直接それらを見たり、話したりすることはない。だがわざと頭の中で幽霊や妖怪を具現化することはあった。そうしてご機嫌を取ったり、仲良くなることを試みたりする。しかしそれは、霊能者のところにあちこち連れて行かれているうちに、むやみに怖く感じるのを回避するため生み出した方法だった、もちろんそれらは千央の一人芝居で、彼らは実際に存在してはいないのだ。
一瞬だけだが、不思議ちゃんかのような目で見られたので千央は少し慌てた。しかしすぐにそれを帳消しにするようなことが起こったのである。千央の問いに、名乗り出た人物がいたのだ。
「私は見えるよ。ちょっとだけなら」真琴は虚ろな表情で言った。
皆はギョッとして黙っていた。千央もなんて言ったら良いのか、分からなかった。まさか霊を信じる、信じない以前に自ら見えると主張する人がいるとは思わなかったのだ。慶幾はクククと笑った。彼はいつも詰まった笑い方をする。
「あっ、なんかいる!!」
ナイスタイミング、その時ちょうど猫目が声をあげので、上手いこと真琴の微妙な答えに反応せずにすんだ。千央たちの前に一瞬黒い影が水面に姿を見せたが、すぐに潜っていってしまった。とりあえず真琴の問題発言はうっちゃっておき、皆は大声を出した。
「なんだろう、ものすごくでかかったぞ」と慶幾。
「鯰かもなぁ」公平は首を傾げる。
「大きさからして、雷魚じゃあないかな」毅は言った。千央の見た影は、間違いなく軽く20cmは超していた。
「そんなら、これじゃとても釣りあげられないよ」と千央。
問題は竿にあった。千央たちの使っている竿はリールがついていなくて、初心者には使いやすかった。しかしまるで縁日の水風船釣りに使うような物だった。あまりにも細くて軽いので、千央はこんなおもちゃみたいなものでは、おそらく釣り上げた時にボッキリ折れるだろうと思った。
あの大きな影がまた現れやしないかと、千央は息を詰めて水面を見守った。皆も黙りこくっていた。千央には虫の音とたまにする水の音以外は何も聞こえてこなくなり、首が太陽にジリジリと焼かれ、痛くなってきた。
しばらくして、不意にプープーいう音が聞こえてきた。続いてヒューヒューという喘息のような掠れた囁く音。
千央はある箇所に目を留めていた。その水面には、とても小さな穴が二つ開いていたのだ。なぜ水に穴が?、千央がそう思った時、大きなカメの頭が水面を突き破って浮上してきた。
「あっ、ミシシッピアカミミガメだ」と毅は言った。
このカメはその名の通り、目の横に赤い線が走っている、灰色の大きなビワのような頭、そしてブタのような上向きの鼻をもっている。あの謎の穴はカメの鼻の穴であったのだ。カメは、慶幾がパンをちぎり、投げてやると喜んで食いついた。無表情だったが、状況からみて千央はそう思ったのだった。
「おいしーか?」と真琴はカメに聞いた。
「こいつ、よく食べるなぁ。全部なくなりそうだよ」慶幾はカメへ次々パンを投げながら言った。
「いいよ、全部やってしまえよ」毅は言った。放り込んだパンは川の水を吸い込み、瞬く間に緑パンになってしまっていた。
“ギュゴ”不意に不自然で大きな音が自分の中から聞こえた。それは、千央が唾を飲み込んだ時の音だった。この時千央はなんとなく嫌な予感がしたのだが、しかしそれが何なのかはよく分からなかった。途端、急に辺りが静かになりはじめた、いや、セミは依然やかましく鳴き続けていたが、なぜか音が小さくなってしまったようだ。誰かに千央の耳を塞がれたみたいだ。なんなんだろう、千央は思った。
カメは今だ川にぷかり、浮かんでいた。鋭い爪のついた前足を握ったり、また開いたりしていた。カメの目は出目だった、瞳の形は波打つナマコのようだ。あれ。そして、カメは言った。
もしもし、そこのお若いの。
“えっ、私ですか?”
そうそう、あなたですよ。あなた。あなた今ここにいるのはとてもマが悪いですよ。
“間が悪い?なぜ?”
ええ、とっても間が悪いの。なぜなら南西の空に悪い兆候があるからです。今に大嵐がやってきますよ。そしてその後には大きな波がやってきます。
“南西の空から大嵐と大きな波がですか?”
そうです。大嵐と波です。このままここにいれば、どちらも避けがたいものです。“……そうですか。ご忠告どうもありがとう”
どういたしまして、それにしても今日は暑いですね。全く。さっきから喉が渇いてたまらない。
そのうちカメのお喋りの声は消えて無くなった、そして千央には太鼓のようなドンドンいう音しかもう聞こえてこなくなった。やかましいなぁ、静かにしてくれよ。一体何の音だろう、こんなに耳元で騒々しく鳴っているのは。千央はとっくり、考えこんだ。
ああ、そうか。それは千央自身の心臓の音だった。すると、いきなり千央の体の心棒が気持ち悪く揺れだした。まるで、新体操のリボン競技のように、それか縄跳びでヘビの動き作った時のような感じで。しかし、それはすぐに収まった。
「ああ、そういえば。カメって卵の時の温度で性別が決まるってこと知ってた?」公平が言った。
「へぇ。知らなかった」と慶幾。普通知らないよね、と千央は言う。
「確か温度が高い方がオス……、いや逆だったかな?」公平はうろ覚えなようすだ。
「高い方がメスだと思う」猫目が短く言った。「だって、女は体を冷やしちゃいけないってよく言われるもの」
「なるほどね、もしかしたらそんなだったかも知れない」と公平は言った。
でも千央は、カメは爬虫類なのだから人間とは少々勝手が違うような気がするのだ。
千央たちは、その後しばらく糸を垂らしていたけども、結局釣果はなく、帰ることになった。しかしそれなりに良い時間だったと思えた。なぜなら、少しだけだが皆と憑き物について話せたし、大半が気楽に受け止めているらしいということが分かったからだ。千央は、立ち上がろうと足に力を入れた。しかし、途中で腰が抜けて立ち上がることができなかった、柵をつかもうとしたがつかみ損ね、そのままぐらりと崩れ落ちた。まるで首の感覚が無く、頭が浮いているような感じがした。千央の視界には青と紫の斑点が現れては消え、現れては消えしていた。千央は自分がとても気分が悪くなっているのに気がつき、その場にへたりこんだ。千央の腕が引っ張りあげられて、側で誰かが話している声が聞こえた。あのカメの声だ。
「ガゴゴゴゴ、ガゲゲゲゲ、また、かえるのもやむなし…………なんちゃって……ガググググ……」
次に千央が目を覚ましたのは、とうに夜のとばりの下りた、深夜二時頃であった。窓の外ではカエルたちがうるさく鳴いていた。