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四、穴ほり

※虫や内蔵が苦手な方は閲覧注意※

 次の日の早朝、千央は窓の桟にもたれ掛かりそこから見える風景を眺めた。そこからは蒼い刃紋のようなかたちの山影がパノラマで見渡せた。昨日は三角に見えた藍色の山影は、今日は厚い雲がかかり、台形に見える。

 この時間帯、辺りは霧で満ちていて、全てのものに靄がかかっていた。この噎せこむほどの湿り気を帯びた空気は、吸っているだけでお腹一杯になりそうだ。

 仙人は霞を食べているらしいけれど、ここでしばらく修業すれば肺で食事が摂れるようになるかもしれない、わたあめに似た霞を食べている自分を千央は想像した。しかしとりあえず、まだ人間の千央達は食べなければならなかった。

 千央は服を着替え、食堂(多分この部屋は普段使われていないと思う)に入って行った。

 皆は先に来ていたが、揃いも揃って眠そうな目をして朝食のみそ汁を啜っていた。それを見て千央は可笑くなった。夏休みも8月に入り、すっかり朝寝坊の癖が染み付いていたのだ。時計の針は6時15分を指していた。唯一目が覚めているらしい歓喜は、夏休みの課題について生き生きと話しはじめた。

「ねぇ、皆はさ、夏休みの自由研究は何するつもり?」

「さぁ……、まだ決めてないな」公平が虚ろな声で言った。目が真っ赤だった。

「去年は何やった?」

「えーと、僕は昆虫採集をやったと思うんだけど……、今年もそれじゃ駄目だよね。だって先生が同じ人だし……、めんどくさいな」そう言う慶幾の頭は、寝ている間に何かに踏み荒らされたのかと思うほどぴんぴんとし、荒れ放題だった。

「へぇ、僕も昆虫採集をしたよ。蝶とか甲虫とか……、ちゃんと標本にもして額にいれたんだから。賞も取ったんだよ」

 そうして歓喜は近くにいた子たちに顔を寄せて、低い声で話しはじめた。遠くの席いた千央に話は聞こえてこなかった。

 しばらくして歓喜の隣にいた信が口を手で被い、ひどく驚いた反応をみせた。千央はそんなに面白い話なのかと思い、興味を引かれて歓喜にその話を聞かせてくれと頼んだ。歓喜はそれに応じて話し出した。

「うん。あのねえ、カマキリとかバッタの標本を作る時の話なんだ。まず、腹を開いて、内蔵を取り出すんだよね(千央はここで顔を歪めた)、そうなんだよ。その作業がすごくキモくってさ。ドロドロしてて汚いし、汚れるから。それが嫌いだった。でもそうやって乾燥させないとカマキリは内蔵の部分が腐りやすくて変色しやすいんだ。それにさ、割とでかいからスペースが稼げていいんだよね」

 聞かなきゃよかった。千央はそう思ったが、しかし、その話はまだ終わっていなかったようだ。歓喜は続けた。

「それである時に、すごく大きいカマキリが道路で轢かれそうになっているのを捕まえてさ。それで標本を作ろうと思った。でも僕、内蔵出しの作業をしたくなかったから、別の方法に変えることにしたわけ。まず餓死させてから乾燥させるって方法にさ」

 まぁ、カマキリにとっては内蔵を取り出されるより、ましかもしれないなと千央は思い苦笑いをした。歓喜はそれに応えるよう笑い、そして言った。

「それで、僕は両方をいっぺんにやってしまおうと思って、それでピンで留めたカマキリを晴れた日に窓際に置いて、しばらくの間放っといたわけ。そしたらいつかの夜。ゴキブリがたくさん……、10匹くらいかな、ぶわーっと群れで来てて、カマキリの腹をぼりぼり食ってたんだよね……」

 歓喜は神妙な顔で話終えた。聞かなきゃよかった、千央は気分が悪くなってしまった。ゴキブリに生きたままかじられるなんて、恐すぎる。歓喜はその時カマキリが死んでいたか生きていたかは言わなかったけれど、千央はもう詳しく尋ねる気にはなれなかった。

「食べてる途中なんだけど。止めろよ、そんな話」

 本気で神経に触ったようで、公平は怒鳴った。まぁ当然だろう、と千央は思った。

「生き物じゃなくて植物を標本にすれば殺さなくてすむのに、私は毎年毎年押し花作ってる、手抜きだけど……」猫目は言った。

「いや、植物にも感情はあるよ」歓喜はそう言った。動物も植物も平等というのだ。どうやら歓喜の中ではずいぶん植物のランクが上らしい。いや、むしろ動物の方の位が下がっているのかもしれないが。

「じゃあ、写真に収めるだけにしとけば解決じゃん」猫目は妥協案をだした。

「いや、駄目駄目。写真は魂が吸い取られるからな」慶幾は小さな声で歓喜の口まねをした。「それに、葉っぱじゃ殺し甲斐ってもんがないものな」


 千央はその時、去年自分がやった自由研究「塩の結晶づくり」を鯵の干物を食べながら思い返していた。

 まず、塩を溶かした水に星型やハート型に作ったモールを浸しておき、を思い出していた。これを繰り返していくと、まるで砂糖衣のような塩の結晶ができてくる。 これは、自由研究の本の中で“クリスマスのオーナメントに使ってね!!”縦長の目をしたキャラクターが言っていたのだが、数ヶ月後、いざそれを使うころには乾燥剤を入れなかったせいか、変色してしまっていた。それで少しガッカリしたのを覚えている。

 そういえば、千央のクラスでタコ焼き屋をやっている家の子が“おいしいタコ焼きの作り方”という課題で研究してきた子がいた。美味しそうだという感想の他に、家業で課題すませられるのだからうやましいものだと思った。 千央の家は歯医者だがどうすればいいのだろう、患者からとった歯型でももっていけばいいんだろうか。不気味だけど。歓喜も虫など無駄に殺さず、自分の家業について研究すればいいのにと千央は思う。

 また昨日話した年上の女の子は旅先で拾った貝の標本を作ったと言い、慶幾は変わっていて、カビの研究をしたと言っていた。

 千央が慶幾にその話を詳しく聞こうとしたところ、信が「俺、でかいイノシシがみたいな」とつぶやいた。「あの昨日おじさんが言っていたやつ」

 男の子がやんやと賛同するなか、女の子たちからは「やだよ怖いもの」とか「見つかるわけないじゃん」などと声があがった。

「でも、おじさんが子供の時の話なんだから巨大イノシシがいたのは何十年も前なんだろ?もうとっくに死んじゃってると思うけど」五右衛門頭は断言した。

「でもさぁ、普通のイノシシは今もいるんだよね」信は歓喜に聞いた。

「うん、いるはずだよ。僕は死んだのしか見たことないけどね、秋に狩猟会の人が捕ってくるやつ。結構大きかった」

 猫目は言った。「もしかしたらさ、イノシシの赤ちゃんもいるかもしれないよね、それだったら私も見たいなぁ。カワイイんでしょう?名前なんだったっけ」

「ウリぼう」と慶幾は答えた。

「もし捕まえられたらさ、それ、俺たちで飼おうよ」と公平が笑いながら言った。

「飼ってどうすんのさ」歓喜も笑って言った。「あ、わかった。さては太らして食う気だろ?お前イノシシの肉気に入ってたし」「違うよ、そうじゃなくて。デカく育てた後、調教して乗るの、馬みたいにしてさ。なんか楽しそうだろ?」

 千央はその光景を想像した。まるで戦記もののファンタジーの一場面みたいだと思った。歓喜は吹き出して言った。

「無理だよ、イノシシにそんなこと覚えさせるのは」

「知らないのか?お前、豚は犬並に頭がいいんだぞ」

「それはイノシシじゃなくて豚の話だろう」二人で盛り上がっていた。

イノシシって何食べるんだろう

 そこへ、園さんが千央の分の味噌汁を装って持ってきてくれた。千央はお礼を言った。味噌汁の身はスナップえんどうとジャガ芋だった。さっきの話が聞こえていたのだろう、園さんは歓喜達に注意した。

「あなたたち、イノシシを捕まえるなんて、無茶だから絶対やっちゃ駄目よ」

「大丈夫ですよ」笑いながら公平は言った。しかし園さんは目を三角にして、怖い顔になった。

「笑い事じゃないわよ、怪我するよ。イノシシに襲われて怪我した人がいっぱいいるんだから」

 園さんは“いっぱい”のところに特に力を入れた。確かに、毎年秋頃にはイノシシが人を襲い、怪我をさせたとニュースを必ず耳にする。それも普通サイズのイノシシを相手にして。極まれだが、人が死ぬこともあるのだ。

「嘘だぁ、そんなの聞いたことない」と歓喜は呑気なようすで言った。

「本当だって」

「じゃあ誰?名前言ってみてよ」

「ああもう」園さんは呆れていた。



 「ねぇ」向こうの席で猫の高い声が聞こえた。「ご飯全然食べてないじゃん」

 千央は注意を惹かれ、そちらを見た。貝の子の御膳に乗った食べ物は全く減っていなかった。ただ掻き回されているだけだ。彼女は鯵の背骨を恨めしげに突いた。

「何で食べないの?食べないと体を壊すよ、それに栄養が偏るよ」貝の子は明らかに迷惑そうな顔をしていた、しかし猫はまだ話しかけている。

「お腹すいてないんじゃない?昨日焼肉だったし」生来少食の千央は庇うような気持ちでつぶやいた。

「いや、あの真琴って人、昨日何も食べていなかったよ」近くにいた慶幾が目を細めて言った。ということは二食も抜いているのか。

 五右衛門が鼻で笑いながら言った。「拒食症とかじゃない?今流行ってんじゃん、そういうの」そんなの流行ってねぇよ、と慶幾は突っ込み、二人の間に笑いがおこった。

「ねぇ、拒食症って何?」極力小さな声で喋っていたのにも関わらず。五右衛門頭と慶幾が楽しそうに話しているのを見て興味をもったのだろう、よりにもよって真琴に近い席にいた、真がそう聞いてきた。しかもとてもよく通る声で。どうやら彼はものすごい聴覚の持ち主らしいのだ、真琴はこっちを見た。

 千央たちの間に大変気まずい空気が流れ、またもあの沈黙が訪れた。

「とにかくやめなさいね、危ないから」その反対側では、園さんが歓喜たちに念を押していた。しかし、それは多分聞き入れられないだろうな、と千央は思ったのだった。



 昼前、千央はイノシシ狩りのようすを見に山に入った、四方八方から波音が聞こえてきた。千央ははじめてここの林に足を踏み入れた。

 この山は杉が多く、当然ながら杉は落葉樹なので、地面全体には痩せたリスのしっぽのような枝が落ち積もっていた。それがこれでもかというほど厚く大量にあり、そこを歩く時はまるでスプリングベッドの上を渡っているようだった。またそれを突き破るようにしてイネに似た葉が生えたり、わずかなすき間から蔦のような植物が這い出してきていた。千央が物音のする方へ行ってみると、歓喜が一心不乱に穴を掘っていた。

「あれ?皆はどこへ行ったの」歓喜以外誰もおらず、たった一人だった。

 歓喜に聞くと、彼はそっけなく答えた。「川」……に行ったらしい。なるほど。

 千央は近づいて訊ねた。

「何を掘ってるの?」

「落とし穴、直接捕まえるのは無理だから、落とし穴作戦に変更したわけ」

 いい考えだと千央は思った。少なくともイノシシのキバに突かれて死ぬ危険は減る。千央はそばに行って地面に開いた穴ぼこを覗いた。穴は割と深さがあったが、ツボみたいな形をしていて、先細りしていた。

「ずいぶん小さいけど。これでちゃんと捕まえられるの?」千央は聞いた。これではむしろニ足歩行の人間用だ、とても四つ脚のイノシシなどは落ちそうになかった。

「うん、それは……無理だろうね。でも、あっちにはもっとデカい穴もあるよ。みんなとちゅうで飽きてきちゃってさ、それでこんな中途半端になっちゃったんだよ」と歓喜はしきつそうに答えた。汗が吹き出してうなじには髪がべったりと張り付いている。

 千央は手伝おうと思い、側にあったスコップをとった。縁に足をのせ、体重をかけて地面にめりこませた。

「ああ、そう頑張ったって無駄。無駄なんだよ。本当はイノシシがこんなのに嵌まるわけがないんだ。普通猟をする時はこんな罠は張らないし」

 毅によるとイノシシの罠はカウボーイの投げ縄のように金属製の縄を結び、通り道に仕掛けておくのだそうだ。さらにイノシシが万が一穴に落ちたとしても、この程度なら楽々跳び超えていくと。

 そして、ならなぜこんな意味のないことをやっているのか、という千央の質問に毅はこう答えた。

「えっ、ウーン。それはお客様へのサービス的な気持ちからだよ。これは。うちは一応自営業で客商売なんだからね」「でも、僕がこんな風に思っているなんてことは他の子には黙っておいてね。きっとガッカリすると思う」ともつけくわえた。

 客商売も大変だなぁ、と千央は思った。千央の家の歯医者も、一応客商売ではある。だが少なくとも、子供が表に出て患者さんのご機嫌取りをする必要はない。千央はクラスメイトさえ鷲崎歯科に誘ったこともないのだ。しかし、それよりも面倒な仕事を押し付けられる気弱な毅の態度に千央は少しばかり腹が立った。

「そんなこと必要ないよ」少々非難めいた調子で千央は言った。「面倒臭いからって歓喜一人に押し付けていったやつらなのに?そんな風に気遣いするとかさぁ。馬鹿らしいよ、いいように利用されとるだけじゃん」 

 思いがけず辛辣な言い方になってしまい、千央はすぐさま後悔し、首を竦めた。歓喜はそこまで悪くはないのだ。むしろ被害にあっているので、これでは踏んだり蹴ったりである。

 しばらく歓喜はぽかんとしてこちらを見ていたが、そのうち笑いだした。

「そうか、そうだね。でも僕こういうの好きだし、楽しんでやっているから、別に怒らなくていいよ。それに、朝変な話しちゃったから、それの罪滅ぼしでもあるのさ」

なにそれ!?「そんならそれを早く言ってよね」千央はまた怒った。これじゃ怒り損じゃないか。

 ごめん、と歓喜は謝ったが、次第にまたおかしそうな顔になっていった。「でも、前から思ってたけど、君ってさ、ヘンな所で気が強いんだ。最初におばあちゃんに見てもらってた時も、唸るし、引っ張りっこはするし。すごく抵抗してさ。僕はもうおかしくって、散々笑ったよ」

 千央は今思い出した、霊視中に笑い声が聞こえてきて、とても妙に思ったことを。笑ったのはあの場にいた眼鏡の女の子の可能性が高い、と思ってたが、ということはあれは歓喜だったのか。

「じゃあ、あの時聞こえた笑い声はそれだったのか。やっと謎が解けたよ。ねぇ、いつもああやって部屋を覗いてるの?」

「ううん、違うよ。そんな趣味はない」歓喜は首を振る。「ただ……僕、ご飯前に腹が減ったら、あそこでお菓子を食てるんだ。だから、話がたまに聞こえてきたりするんだよ」

「ふぅん……、それならさ、他の子の対談とかち合わせしたことはないの?」千央は自分だけ皆の弱点がわかっているなんてずるい、なんて思い聞いた。

「ないこともないけどさァ……」

 歓喜は笑って手を後ろにまわし、背中をボリボリ掻いた。背中が泥まみれになった。

「そういえば、私てっきり笑ったのは側に座ってた女の子だと思って、その子と睨み合っちゃったよ。本当に不気味だったから、嫌がらせかと思った。あれは誰なの?」

 千央は思い出し笑いをしながら言った。

「季生のこと?違うよ。僕だよ。あの人はいとこ。そんなことはしないよ。いつも無表情ってゆうか、わりと無感情だしさ。って、ちょっとまて、不気味って失礼だな」

「だって、本当に不気味だったんだもん。幽霊が出てきたのかと思ったよ。おかしいけど、きっとあの空気にあてられたんだね」

「アハハ、幽霊なんているわけがないだろ、可笑しいんだ」歓喜は笑う。

 千央は謎が解けてすっきりしたが、歓喜はこの家業についてどう思ってるんだろう、という疑問が新たに生まれた。こうやって手伝う反面、幽霊はいないと言う。またこれは完全に専業なのだろうか?家族は他に誰がいるのだろうか?他に働いて稼ぐ人はいるのか?などと。

 しかし、実際いたとしても、働きに出る必要はないかもしれない。千央はそう思った。この間千央は、父が毎回報酬として渡すはずの封筒の中身を見た。それには三〇〇〇円が入っていた。一回の霊視は30分弱である。仮に時給六〇〇〇円とし、一日8時間働くとする。これを暗算すると、……6×8、48で48000円。週休二日とすると一月で百五万六千円になる。一年間の収入は、軽く一千二百万を超える、なんてボロい商売なんだろう。いやまて、それだと、一日十六組しか捌けない。いつも客の数は絶対それ以上はあったぞ。ここの収入の青天井ぶりに、千央は一時唖然としてしまった。



 千央はその後毅を手伝い、細い木を穴の上に交互にのせ、上から葉っぱを被せた。土を振り掛けて、境をわからなくした。土を振り掛けて、境をわからなくした。その真ん中に慎重に餌をのせ、周りにもまいた。イノシシをおびきよせるエサは、米せんべいだった。仕上げに毅は枝でバッテンを作り、地面においた。そして持っていた紙に何か書き込んだ。それにはいくつも×印があった、千央はそのことを尋ねた。

「この×印は何?お宝か何か?」

「違う、違う」毅は笑って否定した。

「掘った落とし穴の目印、君達が帰ったら、うめもどさないと、誰かが落ちたら困るだろ?」

「ずいぶんたくさん掘ったんだね。あれ、歓喜ってさ、地図がわかるの?」

 それは上からみた山の地図で、いびつな水の波紋のように山のがかかれているだけだった。

「いや全然読めないんだけどさ。でも目印のそばに掘っているから大丈夫。ほら、よく見てよ」

 確かに印はシュロ竹、米岩、コウモリ山などの字の側にあった。これらの文字は全て手書きで、バーガー岩、ナイアガラなどもあることから、これらが正式の地名や名称ではないことは明らかだった。おそらく歓喜が遊びで付けていった名前だと思う。

「ここの名前は……、“ハート”の森なの?なんでハートなの?」

「うん、よくぞ聞いてくれた。その訳はね。上を見るとわかるよ」

 歓喜は最高にうきうきしたようすで腕まくりをして、真上を指差した。それを見て、千央はわぁと声をあげた。幾つもの杉が空に向かって真っすぐに伸び、重なり合って青々と繁っている。そのすき間の一つがくっきりとしたハートの形をしていた。濃緑の縁取りが水色に白の模様を浮き上がらせていた。

「今年見つけたんだ、すごいでしょ。ただ、時間がたったら枝が伸びて、形が変わっちゃうかもしれないけど」

 本当だ、千央は感心して言った。杉の木は時折吹く風で、ザワリザワリと揺れたが、そのハートの形は全く変わることはなかった。ただ向こう側で白い雲が流れて行くだけだ。それを千央と歓喜はしばらく眺めていたが、また質問した。「ところで、もし、イノシシが捕まらなかったら、っていうか多分捕まらないんでしょ?そうしたら宿題はどうするつもり?」

「その時はまた適当にやるよ、何かの観察でもやって、提出するよ、写真とかもとったりしてさ。ここにはそういうものだけはたくさんあるし」

 ゆっくりと言い、歓喜は周りを見渡した。確かにそのとおりだった。千央は側にあった朽ち木に生える色鮮やかな茸群を見た。明らかに毒茸だったが、その見た目から誰も食べようとは思わないであろう、だからむしろ安心であった。

「君はどうするの?」

「私は酵母を育てる」千央は答えた。歓喜は訳がわからないという顔をした。

「さっき園さんたちと一緒にパンを作ったんだけど、それの……」不意に千央はあることを思い出した。

「ああ、わかった、わかった。あの泡立つやつね。それいいかもしれない、パクらせてよ」

「別にいいけど」違う学校なのだから、どうせばれないだろう、千央は思い承諾した。それよりも、千央は忘れないうちに聞きたいことがあったのだ。

「ねぇ、そういえば。真琴って背の高い人がいたでしょう?あの人はもしかして拒食症なのかな?全然ご飯食べないんだけど」

 歓喜はしばらくの間、黙っていた。みんなの所へ行こうか、急に言い、立ちあがった。千央はそれを引き留めた。

 歓喜は眩しそうな表情で言った。

「さぁね、そんなことは知らない。そんなに知りたいなら、台帳を見ればいい、誰でも勝手に見られるんだから」

 台帳とは多分、父や霊能者が書いていた紙のことだ、と千央は分かった。相談内容や家族構成など個人情報満載なことが色々と書いてある。しかし、だれでも見られるとはどういうことだ、一体どういう管理をしているんだ。千央はこのことを聞いて、かなり不安になった。

「ちょっと、誰でも見られるって、まさか公開しているわけじゃないよね」千央はあわてて聞いた。

「いや、そんなことしてないよ。ほら、君が来た控え室。そこの戸棚にまとめて置いてあるんだ。ただ鍵もしてないし、誰でも見ようと思えば自由に見られるんだ」

「ああ、そうなの。よかった。でもそれは必要ないよ。その子に悪いもの」千央は遠慮した。

 霊能者の仕事の物にどんな形でも関わりをもつのは嫌だった。それに自分が同じことをされたら、とんでもなく不愉快だろうと思ったからだ。長らく黙った後、歓喜は急に振り返って言った。

「ねぇ、千央、だっけ?さっきからかんきかんきって呼んでるけど、それ、間違ってるよ。僕の名前はかんきとかじゃない、僕は喜屋武毅(きゃんき)っていうんだ。喜屋武は名字なんだよ」

 千央はびっくりした。今までずっと歓喜と呼んでいたのだ。それに今さら言うなんて。遅いよ。それに何て変な名前なんだ。「え、でもさ、おばあちゃんは増田って名前じゃん。何で名字が違うの?」

「それは、母方のおばあちゃんだから。僕の名前とは関係がないんだ」

「なんでもっと早くに教えてくれなかったのさ?」

「だって、どうでもよかったから」毅はひょうひょうとした調子で答えた。

「……ふぅん。わかった、でもこれからはちゃんと毅と呼ぶよ」千央は言った。でも、毅も相当変な名前だと千央は思うのだ。

「うん。そうして、言いにくいけどね」

 毅はふふと笑って軽く肩を竦め頷いた。そして再び歩き出した。千央は歓喜改め、毅の後を小走りで追って行った。

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