三十二、夏の夜の日(終)
睡眠途中、千央は何者かの物音でハッと目を覚ました。足音と床を摺っていくような音。おそらくは誰かが、千央の上を跨いでいったのだ。しかし周りは暗闇と静寂に包まれていて、人が動いている気配は無かった。この感じから言って、今はまだ深夜のはずだ。千央はぼんやりした意識の中、考えた。多分さっきのは誰かがお手洗いだか麦茶を飲みに台所へ行った音だろうな、と。
千央はタオルケットを手繰り寄せ、頭からそれを被ると、うつらうつらしつつ、また眠りにつこうとした。だが、それができなくなってきた。周りがどんどんと騒がしくなり、カチリと音がしたと思ったら、部屋の電気が付けられたからだ。千央の視界は強い蛍光灯の明かりのせいで、瞼の中を流れる血が透けて見え、全体が赤くなった。こうなってはおちおち寝てもいられず、千央は渋々目を開けた。と同時に千央は名前を呼ばれ、肩を揺すられ、平手で叩かれた。
「……千央。千央!大変!起きて!」
千央は言われた通り、上体を起こすと、無茶苦茶に体からタオルケットを引きはがした。そして、急に浴びた光の眩しさに、目を細めた。蛍光灯の輪郭がドーナツ型に薄ぼんやりと見えた。声からして、大騒ぎしているのはアンコのようだった。
いきなり起こされて、千央はひどい仏頂面をしたが、アンコはそれを無視し、言った。
「大変!山が火事!山が燃えてるよ!」
千央は腕を抱えられ、強引に立たされると、病人のように支えられ窓辺まで引きずられた。窓辺のベランダには紺色の寝巻き姿の真琴が既におり、心配そうな顔で二人を迎えた。
外はまだ真っ暗であった。風が強いようで、耳の脇でヒューヒューと音がした。真琴は黙ったまま向かいの山を指で差した。その方角を見た千央の眠気はいっぺんに吹き飛んでしまった。
アンコの言う通り、前方の山が赤く燃えていた。しかし、炎自体は木に隠されてこちらからは見えなく、どうにかすると、山の中をオレンジ色の光でただライトアップしているしているようにも、そこだけ朝焼けかおきているようにも、あるいは火山口のようにも思えた。だが、そこから黒煙が立ち上り、山肌からは枝が折られていくような不吉な音が続けざまに聞こえてくるので、山が燃えているのは本当なのだと千央は思った。
今夜は満月で明るかったので、注意深く火口を見てみると、姿の無いマグマが着々と周囲の木を食っていくのが分かった。まず、もともと緑濃色をしていた樹木は炙られて、青紫に変化していき、だんだんとバターみたいにだらーっとだらけてくる、葉っぱがそれに堪えられなくなると、フッと一瞬で体積が小さくなる。まるで花が咲くのを逆回しにするような感じだ。これが連続して起こり、木は確実にやせ細っていく。
千央がふと目を横にやると、もともと草原だったところが目に入ってきた。その草原は真っ黒に焦げて、群青色一色の山肌の中、人のほくろくらいに異常に目立っていた。どうやら山火事はこの草原からはじまったらしい。しかし燃えるものが無くなると、火事はおそらくコソ泥のように身を低くして、森へと移動していったのだろう。かたや丸裸になった草原からは、白煙が静かに上がるのみだ。
「スゲェなぁー!」
隣からは興奮した囁き声が聞こえてきた。右手にある窓を見ると、隣室の公平たちが柵から身を乗り出して、同じように火事に見惚れていた。仄赤い光は彼や彼女たちの頬を不安定なリズムで照らし続けていた。まるでそれは音の無い和太鼓の演奏のようだ。
さて、最初は木の影に姿を隠していた炎も、千央たちが見ているうちにどんどんと勢力を伸ばしていた。火は黒い杉の影を赤と橙に完全に縁取り、背丈を伸ばし、葉を嘗めとろうとしていた。もし、杉の葉まで炎が及べば、火事はあっという間に大きく拡がってしまいそうだ。あのリスの尾のような形状の乾燥した葉っぱを思い出し、千央はゾッとした。ただ一つ救いがあるとするなら、見たところ近くに全く人家が無いことであろうか。
「ねぇ、消防車はまだこないの?誰か呼んだの?僕ら消防に通報した方がいいんじゃないかな?」
巨大化していく火柱を見て不安になったようで、慶幾が言った。彼は半ズボンに半袖姿で体育の授業の時ような格好だった。
「大丈夫だよ。さっき園さんが電話してたけど、もう消防車は出発したらしいから」真琴は隣の窓を見て言った。「山奥だから少し到着が遅れてるのかも」
慶幾は急に不審気な表情になり、こう言った。
「もしかして、また放火じゃないよね?」
「いやでも、アリジジはもう捕まったんだから。誰もそんなことやる必要はないでしょ?ねぇ?」真琴は言った。
公平は首を傾げた。「さぁな。ただ、こんな風に自然に山火事が起こるとは思えないな。もし冬だったらそういうことが起こるのもまだ分かるんだけど。……もしかしたら煙草のポイ捨てとかで出火したのかもねぇ」
「雷が落ちたってセンは?」と伊鶴。
「無いことも無いかもしれないけど、今の天気は思い切り晴れだよ」
千央たちは空を見上げた。夜の空は雲がほとんどないくらいの晴天で、満天の星が見渡せる状態だった。
「違うんだよ、そういうのが言いたいんじゃなくって。まさかアリジジ。また病院を脱走してたりしてと思ってさ……」
つまるところ、慶幾の言いたかったのは、今まで悪事をアリジジの仕業に見せかけていた犯人がまた活動を始めたのではないか、という意味ではなく、今度はアリジジが本当の放火魔となって戻ってきたのではということだったのだ。慶幾は冗談ぽく言ったが、その場はどよめいた。真琴なんかはとんでもないと言うように鋭い声を出した。
「いくら何でもそれはありえないよ」
千央は言った。もちろんアリジジが今病院に大人しく寝ているという確証は全然ないが、だからと言って……、「病院から逃げて山に火を点けたって言うの?物騒だな」
「あ。そうか。確かに、山を燃やすくらいなら、むしろ病院に放火してるよね……」
「つか、放火は端からしてないだろ。空き巣はしたけど」と伊鶴。
「冗談でもそんなこと言わないでよ。ビックリした」アンコは言った。
そして、しばし沈黙の時間が訪れた。とは言いつつも、全員が一抹の不安に襲われていたのだ。
「ねぇ」
アンコは心配そうに言った。「ここまで火が来て、家に燃え移ったりはしないよね?」
彼女がそういう気持ちになるのは千央にも理解できた。火事の現場からこちらまでは百メートル以上離れているのにも関わらず、もう、野畑焼きの後のような焦げ臭い匂いが風に乗ってやって来ていたからだ。それから竹が熱で爆発でもしているのか、引っ切りなしに爆竹のような音が、おそらく山中に響いていたのだ。
「まさか!大丈夫だよ」
灰の混じった風が目の前を渡っていくのを見ながら、伊鶴は叫んだ。
この風には焼けて灰になった木の葉が混じっていて、吹く度に千央の視界は発熱した橙と黒色の斑模様で占められた。
「川もあるし、途中でせき止められて、火は多分こっちまでは渡って来られないよ」慶幾はつぶやいた。「というか、そうならないと僕の家も焼けてしまうよ」
「まぁ、そうならないことを祈ろう。あ。ほら見て、噂をすればだ……」
公平が下を見たのにつられて、他の子たちも同じ方向を見た。まさにその時、道路をサイレンを鳴らした消防車が通過していった。千央は何だか心強い気分になり、赤色灯の光る消防車を見送った。
その時、背後で再度カチリという音がして、千央は振り返った。部屋の中はまた暗闇になっていた、アンコが背伸びをして電灯を消したのだ。
「寝ちゃうの?これから火を消すのに」真琴は惜しそうに言った。
千央も思った。そうだそうだ、だいたい人を叩き起こしといて、先に寝るなんてどういう了見だ。
アンコは言った。
「だって暗い方が火事が見やすいと思って」
「見やすいって、花火大会じゃないんだから」
真琴はこう言って苦笑したが、部屋が暗くなった結果、確かに炎がよりハッキリ見えるようになった。
隣室でも少し揉めて騒がしくなった後、こちらと同じく明かりは消された。
さて、現場では消火活動が始まったらしく、山の下方から湯気だか白煙だかがもくもくと上がり始めていた。まれに放水された水が林のすき間から見えた。
この光景を見ながら千央は考えた。大量にいるであろう水は一体どこから持ってくるんだろう?と。おそらくだが、供給場は村のあらゆるところにある用水路だ。その場所の一つで千央たちは釣りをしたわけだが、同じような感じの水路を千央はあちらこちらで何度となく見ていたのだ。
みるみる辺りに充満しだした白煙を吸い込んだ真琴は、顔をゆがめ言った。
「何だこりゃ、ひどい臭いだな」
アンコは細い自分の鼻をつまんだ。「うん。ガスくさい」
確かに、消火活動がはじまってから胸のムカムカするような臭いが立ち込めてきていた。千央も鼻をつまんだ。
「何が燃えてるのかしら」
「さぁ、ゴムとかかな。もしかしたら、秘密基地が燃えている臭いかも」と公平。
あそこには、冷蔵庫やソファーなどの家具や廃棄物が山と積まれていた。この臭いの原因はタイヤか、あるいはベッドに使われていたウレタンマットか……、どちらにしろダイオキシンか何かの悪いガスが出て、体にはかなり良くなさそうだ。しかしそれでも、千央たちはタオルケットを顔の下半分に当てて、火事の観覧を続けた。
「ねぇ!」
急に慶幾は尖った声を出した。
「ねぇ!あれ、また、燃えだしてない?」
いち早くそれを見咎めたらしく、真琴は目を細めて言った。
「あっ、本当だ」
「どこよ?」千央とアンコは聞いた。
「あれ、あれ」真琴はそれを指差した。
消火が大分進んでいたため、山は全体が薄い白煙に覆われ霞みがひどく、真琴が差し示す方向を見ても簡単にそれは分からなかった。
しかし、千央はとうとう探し当てた。火事から二百メートル超は離れている山林にごくごく小さな明かりがある。
もともとの火事の場所から飛び火していったのだろうか?それにしては、どうも距離が離れ過ぎている気がする。それよりも、新たな火の手と考える方が妥当であるようだ。しかしなんでまた……?
千央たちがア然として見ているうちに、新しい火事からは勢いよく火の粉が吹き出されはじめた。火の粉はやがてふらふらと地面に落ちていったが、その中にいつまでも空中に留まり、落ちることもなく、それどころか自由に飛び回っている火の粉が一つあるのを千央は見つけた。握りこぶし大のそれは軽々と、まるで生きた鳥のように飛んでいる。
しばらくの間、火の鳥は下にある火事の場所を起点に、千央たちの目の高さと同じくらい、上空20メートルほどを小さな円を描くように回っていた。しかし、一周するごとに連れて速度も速まり、外側へ渦巻きを書くみたいに円周もだんだん大きくなっていった。絶えず動き続け、表面が次々に入れ替えられている印象を受けた。火でありながら、まるである空間の中で循環している水に似ている。もし、このままずっとあの鳥が周り続けたら、いつかは千央たちのいるベランダのすぐ近くまでやってくるかもしれない。それどころか、開けっ放しの窓から部屋に乱入してくるかもしれない。そんな事態になったら、一体どう対処すればいいだろう?水をかけて火を消すのか?あるいは捕まえてみようか?
火の鳥はまた向こう側で大きな曲線を描いた。
そのためには、何かしら道具が必要だった。しかし、あまりに火の鳥が綺麗なので千央はこの特等席から離れるのが惜しかった。今だ猛烈な勢いを保ち、鳥は飛び続けていた。周囲に明かりを振り撒き、緑の山や焦げた木々、家々を照らした。そのようすを下にある水田が見事に写しだして、何本もの赤のラインとなって千央の目に返ってきた。 千央以外の子も動きを止め、黙ってそれを眺めた。舌をとられたんじゃないかと思うくらいであった。
そうしてベランダに届くまで、あと何周といったところまでに火の鳥は迫ってきた。鳥は惑星のように同じルートをたどり、山の近くで山肌を赤くし、弧を描き、またこちらに戻ってこようとした。千央は固唾を飲んでそれを凝視した。
突然、増田家の屋敷に誰かの悲鳴が不自然なほど大きく響いた。千央たちは何事かとビクッと飛び上がって、後ろを振り返った。しかし、音の正体はただの電話の呼び出し音であった。音はその後、すぐに鳴り止んだ。
千央は急いで視線をまた外の方へと向けた。だが火の鳥はこちらに来てはいなかった。鳥は急に方向転換し、彗星のような尾を残して山の向こう側へと飛んで行ってしまっていた。火の鳥が行ってしまったせいか、こちら側は一段暗闇が濃くなった。
「あわぁー」慶幾は身を乗り出して言った。
「何だったのあれ……」
アンコは目を剥いて言った。
火花が向かった山は、まるで日の出みたいになっていた。
もしかしたら、あそこがまた新たな火種になってしまうのだろうか。それに、あの飛行する謎の物体はなんだったんだろう。命のある物だったんだろうか?もしや、あいつが火つけの犯人なのではないか?
しかし考えはじめてから間もなく、背後からガチャガチャと音がし、ドアが開いて、園さんが部屋に入ってきた。そしてなぜか、千央だけ廊下へ来るように言った。千央は何事だろうと思い、真琴とアンコに目配せをした。
千央は疑問に思いながらも部屋を出て、園さんを上目で見ながらドアを閉めた。園さんは言った。
「あなたのお父さんから電話よ」
「えっ?こんな遅い時間にですか?」
こう言った時、同時に千央はあることを思いついて、火事の見学で興奮した気分がたちまち緊張に変わっていった。こんな非常識な時間帯にかかってくる電話が伝えるのは、たいていの場合、悪い知らせだというのが常だろう。千央は動揺した。
千央は、電話のある1階まで向かった。
なぜか園さんが後からついて来た、ますます嫌な予感がした。途中でチラリと見た柱時計の針は3時台を示していた。
その電話は台所側の廊下にあって、バネのようなコードがついていた。千央は受話器を取り上げ、心臓の音を聞く時のような気持ちで静かに耳に当てた。気づけば、園さんが側まで寄り添ってきていた。どうしよう。最悪なことに肩に手まで置いてきたので、千央は血の気が引くような気分になった。どうしよう、どうしたらいいんだ、本当に。
それでも千央は意を決して、話し口に向かって言った。
「もしもし……?お父さん?」
「あっ、千央かー?」懐かしい父の声が電話口からした。意外にも声の調子は暗くはなかったので、千央は拍子抜けした。むしろ、いつもより明るくて親しげなくらいだ。
「今近所で火事が起こってるんだって?千央のいるところは大丈夫なのか?」
「うん……多分……大分遠くだからね」
「元気かと思って電話した」
「うん?元気だよ」
「そっちは楽しいか?」
「うん。……まあまあ」
父は電話の向こうで笑い声をあげた。
「そうか、まあまあか、友達は出来たか?」
「うん……?」
この人は一体何の用件で電話してきたのだろうか、千央は疑問に思った。父は確かに少し変わり者だったが、用もないのに深夜に電話してきたりするような人でもなかったはずだが。
「……もしかして、もう寝ようとしてた?」
あやふやではっきりしない返答に、父は千央が眠いようだと判断したらしく、こう聞いてきた。
「いや、起きてたよ」
千央は言った。山火事や火の鳥の登場という大事件の連続で興奮し、むしろ頭はハッキリとしていたのだ。
「ところで、なんでこんな遅くに電話してきたの?」
何かを心配しているらしい園さんの前でこんなことを聞くのは少々気が引けたが、いい加減聞かなくてはならない。千央は思い切って父に尋ねた。
「ああ」父の声は、一気にトーンダウンした。「ああ、それがね。お父さんは今、病院にいるんだけど、実はお祖父ちゃんの具合が悪くて倒れちゃってね」
「えっ!どうして……?」
いつも元気で活発な(千央より元気なくらいなのだ)祖父が救急車で運ばれるなんて、にわかには信じられなかった。また熱中症かなんかだろうか?それとも食中毒?何にしろ病気で臥せっている祖父など、千央の持つイメージとは程遠かったのだ。
父は意気消沈したようすで言った。
「夕方頃に気分が悪くなったそうで、自分で救急車を呼んだらしい……。お父さんはちょうど仕事に出ていてね、連絡があった時はビックリしたよ」
「で、大丈夫なの?」「それがお医者さんの話だとあまりよくないそうだ。血圧がどんどん下がって……」
では、祖父は熱中症ではないのだろうか。千央は驚いて聞いた。
「何の病気なの?」
「ウーン」父は唸った。「それが、脳梗塞っていって脳の血管が詰まる病気なんだよ」
どうもおかしいな、千央は沈黙した。
「……とにかく、明日の朝早くに迎えに行くからね。そのつもりで準備してなさい」
「うん。わかった」
「急に帰ることになって、残念だったな」
「それは、別にいいけど」
千央はこう答えながら考えていた。この電話に関しては、おかしなところがいくつもあったのだ。
園さんが父からの電話を、いつものように子機に切り替えることなく、わざわざ千央を階下へ呼んだことがまずおかしかった。子機は親機のすぐ側、つまり電話を取る時目の前にあるのにも関わらずだ。とは言え、これだけなら単なる偶然と考えられるかもしれない。しかし、園さんの千央への妙に馴れ馴れしい態度。それから祖父は夕方の時点で既に倒れていたのにも関わらず、今になって電話してきたことも重なっていた。
だいたい後になって祖父の容態が悪化したにしても、どうせ朝になってからしか動けないのなら午前3時に電話する意味がない。
それに、容態が良くないのなら、たとえ千央を迎えに行くためでも家族が患者の側を放れるのはよくないんじゃないか。父がこちらまで迎えに来なくても千央を病院まで運ぶ方法は他にもあるはずだ。
しかしそれを提案しなかった、ということは今やもう祖父の側についている意味はないということではなかろうか……。千央は顔を歪めて考えた。
もしや父はそのことを言おうとしたが、途中で怖じけづいたのではないか?詳しい理由はわからないけれど。
少しの時間考えて、千央は聞いた。
「お母さんは大丈夫?」
「……ああ、元気だよ」父は答えた。
その後すぐ、千央は電話を切った。
千央の耳に園さんの声が上の方から響いた。
「どう?皆のいる部屋に戻る?なんなら私の部屋で寝てもいいけれど」
なんて遠回しですごく分かりにくい宣告だっただろう。しかし千央にはわかった。どうやら祖父は死んだらしいことが……。
「はい。じゃあ、そうします」
その声は、木の虚を叩いた時のように篭って聞こえてきた。もう、火事のことなどどうでもよくなっていた。それから千央は園さんの隣で、朝までの時間を寝て過ごした。
父がやってきたのは、先刻の宣言通り翌朝6時半のことだった。その際千央は、スポーツバッグを2つ持ち、若草色の服を着て、玄関の前に立って待っていた。そこへ、父の愛車である白いビビオが砂利の音をやかましくたて、増田家の前庭に乗り付けた。千央は車へ走って向かい、巨大なバッグと共に後部座席に収まった。
父はアクセルを踏み、千央は小さく前へつんのめり、車は出発した。車は門を通り抜けて外へと出た。「ねぇ、お祖父ちゃんの具合はどんななの?」
千央は前方の運転席に向って聞いた。父が急に大きく息を吸ったので、千央は自分の予想は間違っていなかったと分かり、同時に肩を落とした。
「それがな」
父は、声を震わせた。
「お祖父ちゃん、もう駄目だったみたいなんだよ。お医者さんが言うには……」
「やっぱりね」
今度は、千央が巨大な溜め息をつく番だった。
「もう知ってたよ、もういい」
千央は父の涙声を打ち消すように語気荒く言った。変に思われることは分かっていたが、言わずにはおれなかった。それに、元々千央はオカシイと思われているのだし父に対しての印象は多分あまり変わらないだろうから。
父はしばらくの沈黙した後、口を開いた。
「……もしかして、お祖父ちゃんが最後の別れに夢に出てきたか」
千央は顔を歪めた。そんなことが起こるはずないだろう、この期に及んで馬鹿じゃないのかコイツ、と心の中で父を罵った。だが、自分がなぜそう思ったかを説明する気には到底ならなかった。なので、まぁそんなとこだ、と気のない感じで答えておいた。
調度その時、昨日の火災が見えるところに車が差し掛かった。千央は窓の外を見て、父に教えた。しかし、期待外れなことに反応は淡泊なものだった。
「ああ、来る時に見たよ。ひどい火事だったみたいだな」 父は涙だか鼻水だかを拭いながら言った。父の言うように、確かに火事はとてもひどいものだったようだ。今日の明け方にはよく見えていなかった火事の被害の程度が、今ははっきり見ることができた。
山は広範囲にわたり、木の部分がえぐられており、いくらか笠が減ったように思えた。焼け跡は炭化してほとんど真っ黒になったところや、茶色く変色したのが混じって、何だか妙に汚らしい。その箇所はまるで、ギリギリまで治療するのを渋った虫歯のようだった。
千央はその山を隅々まで見渡した。もういるわけがないのだが、今になって明け方に見た火の鳥の行方が気になりだしていたのだ。あの火の鳥はどこへ言ったのだろう。何者だったのだろう。このことを父に話そうとして、千央は思い留まった。祖父の死んだのを秘密にするような人に、話す義理がどこにあるのだ、と思ったのだ。
車は走っていた。千央は自分の前を通過していく建物を、ずっと目で追っていた。豪奢なパチンコ屋、長い煙突付きのゴミ処理場を通り、排気ガスで枯れた街路樹も見た。そして、千央はふと、奇妙な気分におちいった。何かを忘れているような、不思議な落ち着かない気分だ。千央は頭を集中させて、それを思い出そうと努めた。
しかし、車がカーブを曲がりきると、それが何だったのか、すぐにわかってしまった。まるで煌々と輝く巨大な繭のようで、千央を感動させたビニールハウスだった。当たり前だがハウスは以前と同じ場所にあった。だが、昼のビニールハウスは夜に見た時と大分違っていた。何しろ、ハウスはビニールが剥がされ、貧相な骨組みだけの姿になっていたのだ。先日来た台風に巻き取られていったか、あるいは栽培していた野菜なり果物なりを収穫して、役目を終えたのだろう。その姿はもう、神秘さも迫力の欠片も感じられなかった。千央はあの見事な繭をもう一度見たいと思っていただけに、とても残念だった。
……いや違う。千央は気が付いた。自分がさっき思い出しかけたのはビニール製の繭なんかじゃない。しかし、それが何なのかはわからない。だけど千央にとって本当に重要なことだという気がした。しかし、思い出しかける度につるりと逃げて行ってしまう。繰り返すごとに記憶は不確かになっていくようだった。むしろ思い出す努力をするほどに忘れていくような感じさえした。そうであるなら、もう、努力するのは辞めてしまった方が良いかもしれない。
千央は祖父の葬式について、考えることにした。千央は、まだ葬式には出たことはなかったから具体的にどういうことをするのか知らなかった。何をすればいいんだろう。どういう服を着て行けばいいのだろうか。
車は田んぼや、畑の群れを完全に抜け、もう県境である橋に差し掛かった。陽は段々と高くなってきた。木陰の数は消え、建物の影が濃くなり、空気は暖まってぬるま湯のようになってきた。虫は高い気温に元気づいたのか、一層大きな声で喚きだした。窓の外にはすでに馴染みのある光景が迫ってきていた。
千央はぼんやりと思った、自分はまた元の生活に戻って行くのだろうな。それは現在が速く昔になってくれることを願うような毎日であった。
そうだ。私はふと思い出した。千央には悪魔が憑いているのだから、そのように振る舞えばいいのだ。
千央は目の玉をギョロギョロとさせ、帰ったらまたペットを飼うことを決意した。
父はアクセルをさらに深く踏み込んだ。古い年式であるこの車は、唸るようなエンジン音をたてて、速度を上げ、街の暗闇へと消えていった。
〈終〉
小説“夏の夜の日”はこの三十二話をもって終わりです。稚拙な作品を読みに来て下さった方々、それからお気に入り登録してくれた三人の方、本当に感謝しています。執筆は大変でしたけど、とても楽しかった。飽き性の私が最後まで書き上げることが出来たのも読者様のおかげです!ありがとうございました!m(_ _)m