三十一、くだんのけん
増田家に到着してからの千央たちは、ウリのワタ抜きより何よりも、園さんの前に入れ替わり立ち替わり現れ、逃亡者――とは言っても、もう逃亡はしていないのだが――のプロフィールを聞き出すことにとにかく尽力した。
園さんからは、千央たちが作業中に抜け出したことに気づいていなかったのか、あるいは気づいたが黙っていることに決めたのか、何も言われなかった。なので千央たちは先程のの騒ぎの詳細とアリジジの件について、遠慮なしに質問することができた。
まずは伊鶴が園さんの前に飛び出して進路を妨害し、元気よく聞いた。
「ねぇ、さっき表で救急車で運ばれて行った人、マジで精神病院から脱走してた人だったの?」
勝手口から外に出ようとしていた園さんは、一瞬驚いていた。しかしすぐに気を取り直すと、たむろした千央たちの横をすり抜けて、壁に設えてある食料棚へと向かった。千央たちはぞろぞろとそのあとに付いて行った。園さんはこちらに背中を向けていたが、背後からの視線を感じたのか、歯切れ悪く答えた。
「うーん。そうらしいわね」
もしかしたら園さんはあまりこの話はしたくないのかもしれない、と千央は思った。子供に話すには複雑過ぎる問題だとかいう理由で。
「助かったの?その人」間髪いれずにアンコは聞いた。
段ボール箱からカゴの中へと何やら入れながら、園さんは言った。
「さぁね。でも、すぐに病院に運ばれたから、きっと大丈夫よ」
「あの人何の病気だったの?」と毅。
「水野さんから聞いたけど。多分、熱中症じゃないかって話よ」
「違うよ、熱中症ってことはもう分かってるの。そうじゃなくって何で精神病気に入れられたかの原因だよ、入院してたんでしょ?」
毅はさらに突っ込んだことを聞いた。
「どんな病気だったか知ってる?どんな見た目なの?顔は見た?感じはどうだった?」
あまりのしつこさに、とうとう園さんはキレたようだ。園さんはカゴを持って、急に立ち上がった。カゴから漂ってくる匂いからしてどうやら、中身はタマネギのようだ。
彼女は毅然とした態度で、千央たちを見下ろして言った。
「知らないわ。あのね、そんなことよりあなたたち、私が頼んでいたウリの下処理の仕事はもう終わったの?まだでしょ?途中でほっぽりだしてたんだから。こんな質問している暇があるんならさっさと仕事をすませて欲しいものね」
皆は口をへの字に曲げ、お互いに顔を見合わせた。どうやら千央たちのサボりは完全にバレていたらしい。
「興味があるのは分かる。でも、いくら根掘り葉掘り聞かれても、知らないことは答えられないの」
「分かったよ」毅は面白くなさそうに頭の後ろで腕を組んだ。「でもさ、厄介なやつが無事に捕まって、市長やよしば病院の人達も今ごろさぞほっとしてるんだろうな」
公平は笑って言った。
「きっと、反対派の人にざまあみろと思ってるんじゃないかな?」
「どうしてそう思うの?」と、千央。
「だって今まで、あ……、……あの患者の件で散々吊るし上げを食らってきたんだからな。これからはそのネタは使えない……、いや使えるか、っていうか、彼が新たなトラブルを起こすっていう心配は少なくともなくなったってわけだよ」
「でもこれで、反対派の人たちは逆に張り切り出すかもしれないな」と慶幾。「だって、あの人達の行動力といったら恐ろしいものがあるもの……」
「またバトルが始まるのか」伊鶴はため息をついて言った。「もう飽きたよ」
真琴は澄まして答えた。
「大人同士のケンカほど見ててうんざりするものってないわよね」
「色んな意見があるみたいね」
園さんは少し笑い、それからつぶやくように言った。
「でもね、病院は今喜んでいるどころじゃないわよ。きっと」
毅は驚いた、もちろん千央たちもだ。
「えっ?なんで?僕が院長の立場だったら大喜びすると思うけど」
一同は、だよねぇといった風に頷いた。
「ああ。ほら……、あそこの院長先生、具合が悪くてずっと入院してらしたでしょ?ずいぶん前から相当具合は悪くなっていたらしいけど、昨日の夜意識がなくなって。とうとう今日の朝早く、亡くなったらしいわ」
夕方、やっとウリの下準備の手伝いを終え、報酬に缶ジュースをもらった千央たちはそれを飲みながら部屋でくつろいでいた。この頃の山は午後6時過ぎにもなると、窓さえ開けていれば涼しい風が勝手に入ってくる。以前と比べて、だんだん日も短くなってきた。空は少しずつ陽を失い、群青色に染まっていったが、ほのあかい桜色の光だけが残って黒い山影をくっきりと縁取っていた。こんな空模様を見ていると、何かが起こりそうな気配がするのだが、実際は残暑の時期も過ぎ、もうそろそろ夏も終わりへと近づいていた。
……という風に物悲しい気分に浸っていた千央の耳に、ささやくような鋭い声が聞こえてきた。
「そうだ!そうだ……!間違いないよ!」
院長が亡くなったというニュースを聞いた毅は、さっきからソワソワして興奮しっぱなしだったのだ。
それを見兼ねた公平が毅に話し掛けた。
「おいおい、院長が死んでそんなにうれしいのか。そりゃお前にとっては気に入らない人だったかもしれないけどさ……、嬉しさを面に出すのは流石に不謹慎ってもんだぞ」
毅は、夢見たような顔のまま首を振った。
「違う、そうじゃないんだ。全然別のこと。いや全く関係ないと言ったら嘘になるんだけど……」
公平は毅の挙動不審ぶりがおかしかったのか吹き出した。
「じゃ何なんだよ。言いたいことがあるならとっとと言えよ」
毅は一拍息を止め、ゴクッと音をたてて唾をのんだ後、喋りはじめた。
「ほら、僕らこの間ゴッチを解剖してただろう?」
「ああ……確かそんなこともあったね」公平はまた笑った。近くにいた真琴も笑った。「君ら二人のバカな行動については、僕はもう何も言わんよ」
アンコは解剖を聞いて気分を害したのか、うぇっという風に大袈裟に舌を突き出してみせた。それをチラっと見て公平は言った。
「……で、それがどうしたの?」
「……えーと、とにかくだな。その時の帰り際、千央と僕は目撃してたんだ」毅も渋い顔をしているアンコを見ながら言った。「まぁ帰り際、というか、それを見てしまって逃げ帰ったというのに近いんだけど……」
「何なのよ、もう。勿体振らないで早く言いなさいよ。イライラさせるわね」真琴は自分の膝を叩き、毅を急かした。
「まぁ、待って。まずはこのことを先に話さないと……」
「僕らは最初、ゴッチの死因は鼓脹症か毒草を食ったせいなんじゃないかと疑っていたんだ。鼓脹症ってのは穀物を多く摂りすぎた時に胃の中で異常発酵が起こってなる病気だよ。だから、胃にその穀物やら毒草の痕跡がないかと思って、まず胃袋を切り取って中を見てみた。でも何も出なくって、次に心臓を取り出して調べた。次の候補はフィラリアだったから、フィラリアのことは前に話したから知ってるよね。でも心臓にも問題はなくて、それでどうしたものかと千央と二人で途方に暮れてたんだ。そしたらゴッチの腹が突然、膨れ上がり始めた。内臓を取ったのに。しかもそれが動きだした。最初、僕はデカイ寄生虫か、腹の中で産まれたた虫が外に出ようともがいているのかと思った。でも膨らみはただの虫とは思えないほど、異常に大きいし、動きもめちゃくちゃ素早いんだ。だから今度はネズミかと思ったんだけど、でもそいつは傷口からゆっくりと這い出してきた。まるで悪くなったラードみたいな物体だった。で、それはゴッチの腹をギュッと掴んだんだ。僕らはそれを見て一目散に逃げた……、そして……、それっきりさ」
「うおぁぁぁ」
「おいおい大丈夫か」
慶幾は言った。可哀相に、アンコは顔を歪ませて顔を隠してしまった。
「あとからゴッチを埋めに行けばよかったんだけど、あんな得体のしれないものがいた場所に戻るのは嫌で……」
何だか支離滅裂な感じだったが、ゴッチを解剖した際の話は、この場にいるほとんどの子にとって始めて聞くことだったためか、皆は黙って大人しく聞いていた。
公平は言った。
「ああ、だからゴッチの死体は埋められてなかったんだね。野ざらしのままにしておくなんて、いくらなんでもちょっと薄情すぎだと思ってたんだ」
「うん、まぁね。でも、それが失敗だったんだよ。何日か後になって、山の一斉捜索があるってのを聞いて、ゴッチを埋めにまた山へ行くことになった。もちろん僕は全然行きたくなかったんだけど、ゴッチの死体を見つけられたら今以上にややこしいことになるって千央に言われたから、で行った時にはもう、おじさんたちに見つけられて実際にそうなってた。アリジジの仕業だと思われて大騒ぎだったよ。それで、僕らはその様子をちょっと離れたところから見ていたんだけど、何かゴッチがいる周りでまた妙なものが見えるんだ。それは黒い色をしていて、やかましい音をたてて飛び回ってた。でも周りのおじさんたちは全く気づいていなかった。まるでロケット花火みたいな派手な音をずっとたてていたのにだよ。もしかしたら、あれは僕らにしか見えてないんじゃないかとさえ思った。しばらく見てるうちに、黒い影は一瞬でシュッと消え去った。ローソクの火が消える時みたいに」
毅が話をしている間、アンコはずっと指を耳に突っ込んでふさいでいた。真琴はジェスチャーでそれを辞めさせると、眉根を寄せて言った。
「ふーん。まぁ……、かなり不思議な話だとは思うけど……」
どうやら真琴は怖い話に免疫があるらしく、毅の説明では二人の味わった恐怖はあまり伝わらなかったらしい。とは言え、あの場にいればそんな暢気なこと言ってられないはずだけど、と千央は思った。
「でもそれがさっきの院長が死んだ話と、何の関係があるの?」
毅は息巻いた。
「だからさ、さっきアリジジの顔を見ただろう?いつもと違って全く毛が無くて不思議だったよね?でもあれが本来のアリジジの姿なんだよ」
真琴は首を傾げてまだ分かんないな、という顔をした。千央はというと、全くの同意見だった。
「あー」慶幾は納得の声をあげた。
「つまりアリジジは毛を剃ったんじゃないかと?」
真琴は言った。
「アリジジの中身は本当はこんなだった的な意味で?でもこれと黒い影と何の関係が?」
毅は大きく息を吸い込んだ。
「違うよ、そういうことが言いたいんじゃないって。僕が言いたいのは、アリジジはもともとは毛のないごく普通の人だった。でも、なにかの拍子にゴッチの体から出現した影に乗り移られた。そのせいであのように毛むくじゃらになってしまったんだ。ヤギのDNAのようなもののせいでね。アリジジの毛は白かっただろう?」
毅は、またも息を継いだ。
「でも、今は魂が体から抜けたからアリジジの毛がなくなり、本来の姿に無事戻ってたってわけ」
皆は話を聞いて、揃いも揃って不審な顔になった。
「ちょっ、ちょっと待って」真琴は手を突き出し、つっかえながらも話を遮った。「憑依の件はまず横に置いておくとしてさ。確認したいんだけど。じゃ、あの倒れてた人は本当にアリジジだったってことで決まりってわけ?そういうことなの?」
「それは……うん、ほぼ間違いないだろうね」
公平は残念そうに言った。何かを諦めたような態度だった。
「……そう、なの。……なんだかびっくり」
真琴は目を丸くして言った。
公平は唸った。
「んあー、君が言いたいことってつまり、解剖の時ゴッチの死体から抜け出した霊が手近なところにいたアリジジに乗り移って、今までそのー、なんだ……、色々コントロールしてたってことなの?」
毅はうんと頷いた。
「だいたいのところはね。そりゃ、ありえないって思うだろうけど。僕は黒い影を二度目撃したけどどちらもアリジジと合う前だった、その後毛むくじゃらのアリジジが現れ、今度はつるてかだよ。公平の言う通り、こう考えたらアリジジの体に毛がなかったのや、黒い影にもちゃんと説明がつく気がするんだ……」
伊鶴は呆れて、口をパクパクさせていた。そして、慶幾は馬鹿にしたように毅に言った。
「でもその説だとさ、アリジジの毛がなくなった後に黒い影を見つける必要があるよな?見てないんだろ?黒い影」
「うん、まあね。でもこれから見るかも知れないし。僕はさ、あの呪いに何かしら意味があったんじゃないかと思ってるんだ。よく分からないけど、目的を遂げたとかで体はもう必要なくなった、ってわけでさ」
公平は言う。
「あー、君ったら、またずいぶんバカバカしいことを言うな。死んだヤツの魂が人間にとりついて……だなんて、ものすごい妄想力だ。僕はお化けとか、さ迷う魂とか現実のものとして信じられないよ。そもそも毅たちが見た黒い影ってのも見間違いじゃないのか、あんまり怖がるからそういう風に見えてしまったんだよ。よく言うだろ?気の持ちようで風にふかれた柳の枝が、幽霊に見えるとかなんとかって」
「でも確かに私も見たよ。そりゃ死んだ魂、ましてやゴッチだったかって聞かれたら、全然分かんないけどさ。別に話し掛けられたりはしてないし……」
千央は言った。この黒い影の目撃に関して、千央は決して見間違いではない、と断言できた。二回目はただのハチであった可能性がまだ捨てきれていないが、少なくとも一度目は気のせいや精神的なものなんかではない、確かな物理的現象であった。あの灰色の手がゴッチの開かれた腹からにょきり差し出され、ゴッチの体に指を絡ませた。その時白いゴッチの毛が押されてへこむのを千央は確かに見たのだ。
「ヤギはもとから喋ったりしないだろ。動物なんだから」は呆れた風に言った。
ねぇ、とアンコは言った。「結局ゴッチって何で死んじゃったんだろうね?毅たちが解剖しても警察が調べても分からなかったんでしょ」
「毅たちはプロじゃないし、警察もゴッチの死因を調べようとして死体を持っていったわけじゃないからな。こればっかりは神のみぞ知る、だよ」と公平。
「後、黒い影の正体がゴッチだったとして、だいたい何を理由に蘇ったのよ?」アンコはつぶやいた。
「知らんが、多分……成仏できてなかったんだろ。この世に心残りがあったのさぁ」慶幾は納得したように頷き、少しふざけた感じで言った。「それが墓を荒らされて怒ったとかな……」
千央はニヤッと笑った。
伊鶴は言う。
「でも、ヤギがこの世に残す未練って一体何だろう?死ぬ前に草を腹一杯食べたかった……、とかか?」
「そりゃあさ……、自分を殺した犯人だろう、うん。僕は今んとこそれしか思いつかないね」と慶幾は淡々とした調子で自分の意見を述べた。
しかしアリジジは空き巣などの犯人捜しは指南したが、ヤギ殺しの犯人を捜し出せなどとは言っていなかった。それにゴッチが死んだ時の話しをした際も、特に興味を持っていたようには見えなかった。なので、これではゴッチの魂がアリジジにとり付いたという説には辻褄があわない。ゴッチの死因が他殺ではなく自然死だった場合は別だけれど。
それとも、アリジジが以前に“やることがある”と言っていたのに何か関係があるのだろうか?
「ああ。でも、僕はさ。黒い影の正体はゴッチそのものの魂ではなくて、件のようなものだったと思ってるんだ」
「くだん?」やっと、アンコが喋った。
「また新キャラかよ」慶幾は言った。
「件っていうのは、昔から日本に伝わる妖怪さ」
毅は件について、説明を始めた。
「件は牛から産まれてくる人の体と牛の頭、それか人の顔をした妖怪で、同時に完璧な予言者なんだよ。人間の言葉を話し、人間にとって重大な予言するんだ。例えば、日照りや台風とかの災害や流行り病のことをね。その予言は必ず当たるんだけど、件は何日かしか生きられないんだって」
「それで、僕はアリジジが運ばれるところを見て黒い影のことを思いついてから、何かが起きるんじゃないかって、薄々だけど期待してたんだ。毛のないアリジジが現れたことと直前に呪いを仕掛けに行ったことが何か関係があるように思えてね。そしたら、今の院長が死んだってニュースだろ?しかも昨日の晩に体調を崩して、ちょうどアリジジが呪いのお礼参りをしてた頃にだよ。僕はこれが偶然とはとても思えないんだよ。まるで件のようじゃないか」
毅は自信満々の表情で言った。しかし慶幾は、話の矛盾点に容赦なく突っ込みを入れた。
「ちょっと待って、お前の話だと件っていうのは普通牛から生まれてくるんだろ?ゴッチはヤギじゃん。それに件には実体があるっぽいから、他人にとりつく必要はない。というかとりつけないだろ。件というには条件が全然合ってないよ。それに予言だってしてない。アリジジは別に“院長が死ぬ”や“誰かが死ぬ”どころか、予言らしいことは何も言ってなかったよ」
毅もやり返した。「僕はただ、動物由来の霊験のたとえとして件を説明しただけだ。だからさっき、件そのものじゃなくて件のようなものって言っただろ?本当の件は牛だけど、今回は死んだヤギから産まれてきて、重大な予言じゃなく、個人的な恨みをはらしていった。簡単に言うと、グレードが少し下がった件の亜種ってところかな」
「でも個人的な恨みをもった相手っていっても、あくまで空き巣や放火を偽造した人であって、院長とかではなかったようだけど……」
「いや少なくとも、院長はのっとった宿主を追い詰めていた。宿主を伝って間接的に苦しんでいたかもしれないだろ?」
「そんなこと言うなら、住民たちも同じように恨んでいたはずだよ」
「反対派はただの住人の集まりで小物だもん。一人一人相手してたら埒が開かない。要は院長は見せしめに呪い殺されたんだよ」
「いやいやそんな……、ヤギが人に乗り移って他の人を呪い殺すだなんて、馬鹿な話があってたまるかよ。だいたい件だって、想像上の生き物だろ」
「じゃあ急に毛が消えたことは、どう説明するんだよ」
「だから、さっきから言ってるように単に剃ったんでしょ!」慶幾の声が大きくなった。
毅も負けじと怒鳴り返した。
「髭剃りなんて僕、渡してないよ!」
「どうせまたどっかで盗んだりして手に入れたんだろ!」
「…………!……アリ、」
「ああ、もううるっさいな。少しくらい静かに喋れないの!?」真琴は毅がまた大声を出そうとしたのを遮って言った。
「そうだそうだ」と伊鶴。
二人はお互いを指差して言った。
「ほら見ろ!お前の声デカイんだよ!」
「うるさいのはむしろお前の方だろ!」
「……二人共同じくらいうるさいんですけど」アンコは言った。
公平は笑っていた。
「まぁ僕も今日院長が亡くなったのは本当にたまたまだと思う。……だって、他にどう考えるっていうんだ。さっき外に集まってた野次馬のおばさんが院長は相当の歳だと言ってたのを僕は聞いたし、病気の年寄りが死ぬのなんて別段珍しくもなんでもないもんだろ。毅にとっては院長が昏睡して死んでいったのは絶妙なタイミングだったのかもしれないけど、本当のところは適当に寿命で死んでいっただけだよ。そもそも魂が抜けてとりつくって話からしてもう……、有り得ないだろ?」
「だよねぇ」慶幾は大きなため息をついた。「それにしてもさ、お前はどんどん自分のバアさんに似てきているな。きっと将来はバアさんと同業になってるんじゃないか?全く、先が思いやられるよ」
それを聞いて毅は、苦虫を噛みつぶしたような顔になった。
「お前にそんな風に心配をされる筋合いはないね」
「さぁ、それはどうだか。僕にも友達として付き合える限度ってもんがあるからね。来学期からはまた石室からのイジメがひどくなるんじゃないかな?」
慶幾は残酷な調子で言い放った。そして、意地悪そうに笑った。
「このクソ野郎!」
激昂した毅は慶幾に向かって飛び掛かって行った。しかし慶幾はひらりと身をかわし、すぐさま反撃の体勢をとった。慶幾は毅の首に掴みかかるとその体をひっくり返らせた。毅はその腕をめちゃくちゃに殴り、身を捻って慶幾の手から逃れた。それから二人は叩いたり叩き返したりの乱闘騒ぎになった。
しかしそうなったのもつかの間、園さんが階段の下から、晩ご飯の時間ですよと千央たちを呼んだので、喧嘩は即時終了となった。さっき怒らせてしまったばかりなので、千央たちも素直に従うざるを得なかった。
二人はしばらくの間緊張状態で睨み合っていたが、とうとう慶幾はついと目をそらし、部屋を出て行った。何人かもそれに続いた。残された毅はバサバサになってしまった髪を撫で付けてから廊下へと向かった。
千央は階段を下りる時に窓から外を見た。もうすっかり日は落ちて辺りは暗くなり、遠くにある家庭から洩れる黄色い光が見えた。
「あの川にはね、鯰とすっぽんがいるんだ。夜行くとよく見られるんだよ」
外を眺めている千央を見咎めて、毅は暗黒色の川を指差して言った。毅はさっきよりもいくらか気分が落ち着いてきたようだった。
「ふーん」
「あそこに月が映り込んでいるでしょ。だから今ちょうどあの川は、月があって、すっぽんがいて……つまり、月とすっぽんの状態なんだ」
「本当だ」
良く見ると、目の前にある田んぼの区画一つ一つに夜空が映り込んでおり、毅が言う通り、川にも全く同じことが起こっているのだった。黄色く円い月が静かに波打っている。空には星も出ていて、家々の明かりと夜空の光とが墨色の水面という水面に一斉に映り込んでいた。その光源は実際の何倍もの数になって、本物の何倍も美しかった。
千央は深呼吸をしながら空気の匂いを嗅ぎ、夜の露を肺へと取り込んだ。確かにこれには朝の空気のような自然と気分が高揚する、不思議な効果は無かったが、夜の空気には一日を生活した人の匂いがする気がして、千央をなぜか安心させるのだ。
毅は両手の人差し指と親指で輪っかを作ると、それを繋げて鼻先まで持っていった。
「すっぽんって途中で切ったみたいな鼻してるんだぜ、こんな風に」
「へぇ!」千央は言った。
「……」
「……」
庭では鈴虫が鳴きまくっている。
突然、毅はこちらを見て言った。
「アリジジはもう、目を覚ましただろうか?」
毅の目は黒曜石のように光って、どこか謎めいていた。千央も毅の顔を見た、きっと千央の目もそうなっているだろう。
「わかんないな」千央は答えた。
「アリジジって結局何から逃げ出したかったんだろうか?」
「しらないよ」千央は首を振った。
興奮も冷めて、毅はすっかり落ち込んでいるようだ。あんな喧嘩の後では仕方がない。その上、慶幾にずいぶんひどいことを言われていたし。
「どっちにしろアリジジに聞けば全部が分かるよ。そうだ、過去に毛アリだったか毛ナシだったかを聞けばいい。そうすれば件が取り憑いていたかどうか、分かるよ」
そういえば、どうしてアリジジはあんなに若いのにも関わらず、入院するまでに精神病を悪化させてしまったのだろう。戦争や飢餓なんかが起こらない限り、子供はお気楽に生きてゆけると千央は信じていたのだ。
「うん、まぁね。でも、もしかしたら意識が戻った時はアリジジはもう僕たちのことを全く覚えていなくて、会ってくれないかもしれないよ。僕らが今まで接していたのはゴッチから出てきた黒い影であって、病院から逃げてきた人とは別の人格なわけだから」
毅は言った。
「はぁ……そうなの……」
毅の力説に音洩れのような返事しかできなかったが、その可能性はおおいにあるなと千央も考えていた。とはいっても、ゴッチの霊云々の話とは関係がない。もしかしたらアリジジはこの逃亡生活を忘れたかったり、自分を恥じたりが原因になって千央たちのことを全く知らない振りをするかもしれないと思っているのだ。仮にアリジジがそう望むのなら、千央たちも多分、少なくとも千央は協力するだろう。あるいは逃亡中、匿った千央たちに迷惑をかけまいとして黙るかもしれない。この場合はアリジジと千央たちだけにしてもらえれば話が違ってくるのかもしれないが、今後そんな機会を作れるのかは不明だ。
毅は身を乗り出し、弾んだ声で千央に囁いた。
「ねぇあの呪いって、何か効き目があるのかな?だって、件が考えた呪いだよ?」
千央は笑いを堪えた、毅がある重要なことをど忘れしていたからだ。
「考えたって言ってもさ、半分くらいは皆で案を出し合ったものじゃなかった?」
千央の言ったことを聞き、毅はみるみる変な顔になっていった。
「そういえば、カエルを使うのは、千央が出したアイデアだったっけか……」
「そうだよ。それに……私、考えたんだけど。もしアリジジがゴッチの化身か何かであるとしたら、院長を呪い殺したことで成仏したとするのはどうにも説明がつかないよ。……だって宿主を脅かしたという理由で院長を恨むんなら、それは蘇った後のことになるはずでしょ。だからアリジジの魂が蘇った理由ってのが全然分かんないんだよ。慶幾が言った通り、自分を殺した相手への復習?……でも院長が殺したわけがないし、やっぱり院長が今日亡くなったのは偶然だと思うよ」
「…………」
毅は話を聞き、納得がいかないような顔をしていたが、何も言い返してはこなかった。そして、彼は彼なりに解釈をして受け入れようとしたのだろうか、色々と考え込んだ顔になっていた。多分今、毅の脳の中は思考の糸が何本も絡み合った状態になっているんじゃないかしら、と千央は思い、ぐちゃぐちゃになった糸を少し想像した。
その時、園さんから呼ばれる声がした。今夜は焼きサンマらしい。それで千央たちは離れると、また歩き出した。