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三十、隠れんぼ

 その日の午前中千央たちは、増田家の前庭で酒粕漬け用のウリを切ったり、ワタを掻き出す作業にほとんどの時間を費やした。園さんから頼まれたというのもあったが、昨日のアリジジの忠告のために山へ遊びに行くことができなかったので、どっちにしろ暇だったのだ。

 漬け物にするウリはシロウリという名前の割に見た目は全く白くはなく、外皮は薄い緑色だった。大きさは20センチ強、形は長細かった。しかし、縦半分にウリを切ると、名前の通り白い身が顔を出した。そして胡瓜のように並んでいる種とワタを大きなスプーンで掻き出すのだ。ワタはバケツに捨てられ、ウリの方は笊に重ならないように並べて干す。という例え子供でも失敗しようのないような単純なものだったが、ウリの外皮が中途半端に柔軟性があり、また硬くもあり、これがくせ者だった。

 作業を続ける内にワタのぬるぬるが手に付いてしまい、スプーンの方に力を入れると、手から飛び出していくのだ。かといってしっかり持とうとすると何かの拍子にウリを掴み損ね、引っ掻いてしまい、爪の間にウリの皮が入り込んでくるのだ。といっても、たいして痛みはないのだか、皮が挟まった指は使いづらいし、毎回何とも言えないもどかしい気分になるのだった。

「ああ!くっそ、もう!まただよ!」

 真琴は毒づいて立ち上がると、ウリを拾いあげた。

 しようがないので千央たちはスプーンの方に力を入れていたのだが、案の定ウリはロケットよろしく地面に向かって勢いよく飛び出して行くのだ。これまでもウリについた汚れを落とすために洗い場を行ったり来たりしてきた。真琴ので何度目になるだろうか。前庭から出て行く真琴を見ながら千央は思った。

「ねぇ呪いのことだけどさー、朝から全然おとたさがないね」

 アンコは切り出した。

「それをいうなら、音沙汰だろ」公平は間違いを訂正した。

「午後になったら近所を少し回ってみようよ、あとアリジジにも会いに行こう。もしかしたら中止したのかも知れないし……」 千央が起きた朝4時のような早朝はともかく、日が昇り皆の活動時間になるころにはいくらか騒ぎになるだろうと期待していただけに皆は拍子抜けし、もしかしたら何か都合の悪いことが起こったのではないかとやきもきしはじめていた。

「……ねぇこれ、なんだか胡瓜っぽい匂いがするよね」

 突然、慶幾は手の平に鼻を近づけて言った。

「胡瓜もウリの仲間だもんね」と毅は言った。

「そうか?僕は全然熟れてないメロンみたいな匂いだと思うんだけど……味はどんななのかな?」

 伊鶴はスプーンでウリの身を少しだけ掬って口の中に入れた。が、すぐに地面に吐き出してしまった。

「ヤバイ。味がなくてマズイ」

「漬け物用なんだからそんなものだよ」

 これはこの後、塩漬けにされ酒粕に漬けられるらしいが、今日できる作業はここまでだった。ウリが完全に漬かって、茶褐色の奈良漬けになるまで約一ヶ月はかかるそうだ。

 公平は唐突に顔を上げて、言った。

「ね、なんかめっちゃ人の声してない?」

 確かに真琴がさっきまでいた方向(道路側)から何やら賑やかな声が聞こえてくる。一体何事だろうか。

 千央が振り向くと真琴が小走りで帰って来る途中だった。真琴はこちらに着くと息を整え、指で指しながら説明した。

「なんか誰か山の中で熱中症かなんかでぶっ倒れちゃったらしいよ。今、救急車が来てるってさ」

「ふーん。救急車がくるなんて、ずいぶんと重症じゃないか」

 おそらく、最も暑い時期を超えたのでその人もついつい油断してしまったのだろうと、千央は思った。

「にしてもさ、これはちょっと騒ぎすぎだろうよ」

 まるで運動会のリレーや綱引きの時のような声に慶幾は言った。確かにかなりやかましかった。野次馬が相当数集まっているようだ。

「ここらは娯楽がないから、救急車でも大騒ぎなんだよ」

 千央は普段周りで良く使われる言葉を引用して言った。まぁ、千央の住んでいる所も田舎なのだが。

「しかし最近は行き倒れるのが流行ってるのかね?」

 公平は少し可笑しそうに言った。多分、釣りの時に熱中症になった自分のことをからかっているのだとわかって、千央も笑いに加わった。

「誰が倒れたの?もしかしたら知っている人かも」毅は真琴に聞いた。

「さぁ、顔見てないから分からないな。周りに人がまるでアリみたいにたむろってたし」

「じゃあ、おじさんだった?それともおばさん?」

 真琴は少し考え、首を振り言った。

「いや、多分若い人。“兄ちゃん”て呼ばれてたから」

 さっきまで笑っていた公平は少し黙った後、一転して顔が強張り、見る見る変な顔になっていった。

「ねぇ。まさか、とは思うんだけどさ……、倒れたのってアリジジじゃないよね?」 皆はヒェーッとし、顔を見合わせた。とりあえず立ち上がり、全員が持っていた半割のウリとスプーンは地面に投げ捨てた。

 前庭を突っ切り、柵を乗り越えて道路に出た千央たちは、遠くに見える人混みに向かって走った。

 そこには近所の人たちが大勢たむろしており、がやがやと賑やかな喋り声がしていた。救急車はまだ到着していないようだった。

 千央はぎゅうぎゅう詰めの人垣から隙間を探し、そんなことは勘弁してくれと思いながら、人の波を押しのけ人だかりの核へとなんとか進んでいった。途中、隙間からはチラとオレンジ色のシャツが見えた。最悪なことにアリジジがいつも着ていた服の色そのものだった。待て待て、まさかまさか……。それから全体が見えてきた、ばったりと倒れ、仰向けに地面にのびているようだ。真琴の言ったとおり、確かに若い人らしかった。体つきもアリジジにそっくりだ。大変だ大変だ大変だ……、大変なことになったぞこれは……。千央は唇を噛んだ。胸の中で心臓が猛烈に動いているのが千央にはわかった。心臓の鼓動が爆裂弾のように響いてくる。

 やっと人垣を抜け、千央は大人の足の間から頭を突き出した。そのようすはまるで檻から顔を出す動物のようだった。千央はもうほとんど分かりきっていたが、改めて倒れた男を見やった。

 …………しかし思ったような衝撃を千央は受けなかった。ただ何倍も大きい、別の種類の衝撃を受けた……。

 問題の男は地面に大の字に伸び、目をつぶっていた。誰かが水分を摂らそうとして失敗したのか、男は苦痛そうに顔を歪め噎せた。眉根をよせている、そう、眉毛が確認できるのだ、そして瞼には黒い睫毛があった。オレンジの半袖から伸びる腕は肌色をしている。男には人並みの体毛しかなかったからだ。短髪をしばらくほったらかしにしたかのようなボサボサの頭に、眉毛に睫毛、それ以外はつるつるで表情や顔の造形がはっきりとわかった。腕などにももちろん毛は生えているが、アリジジと比べると無いに等しかった。

 見知らぬおじさんやおばさんに揉まれながらも、千央は向かいにいる似たような状態の毅の顔を見つけ、口の動きだけで聞いた。

(知り合い?)

 毅は激しく頭を横に振り、口の動きだけで答えた。

(いや、全然。全然知らない人)

 同じく毅もかなり困惑した顔つきをしていたが、むろん双方おしくらまんじゅうの件で困っているわけではなかった。二人は“こいつ誰?”と、心の中で叫んでいた。しかし本当に叫ぶわけにはいかない。このアリジジに限りなく似ている男、しかしこいつは多分アリジジではない……、じゃあこいつは一体何物なんだ?一体何が起きてるんだ。千央は言いようのない不安な気持ちになった。 千央の耳にはえっ?とかはっ?と小声で言っているのが遠くから聞こえてきた、多分慶幾と伊鶴だ。一足遅れてやってきたアンコも千央の隣で何だ?という顔をしていた。公平は放心し、真琴はというとひたすらたまげた、というような顔であった。

 途方に暮れている千央の上空では大人たちが噂話をしはじめた。

「〇〇君が見つけて、ここまで運んできたらしか」

「××に□□のあっやろうが、そこに倒れとったって」

「こんなに痩せて、今まで何ば食べて生きとったとやろうか」

「ねぇ、この兄ちゃんはよしば病院に運ばるっと?」

「ここからなら一番近かけんが、多分そがんやろうね」

「こりゃあ院長たまぐっやろうない」

 年長者らしきおじいさんはこう言ってアハハと笑った。

「いや、よしば病院の院長は今、床にふせっていてそれどころじゃないですよ。もうずいぶん悪いとか」

 野次馬の中では比較的年若のおじさんが真面目に言った。

「あの院長……歳はいくつくらいやったね?」

「だいぶ歳よ、あの先生は。息子が子供の時から院長やったけん。いつぽっくり死んでも不思議じゃなかくらいばい」

 千央は信じられない気持ちで男(アリジジ?)を見た。じゃあこいつがあのアリジジなのか?でも、そのわりには毛が全く無い。それは変だ、まぁ普通の人からしたら毛むくじゃらの方が変わっているんだろうけど、しかしアリジジの場合は毛無しの方が逆に変なんだ。千央は目が合いさえすれば、アリジジがどうだかはっきり分かるはずだと思い、ひたすらこちらを見るよう念力を送った。だが男は千央と目を合わすどころか、かたく閉じたまま、ただ息をしているだけ。取り巻きの人々は興味津々ながらも決して話しかけたり、触れようとは決してしなかった。その扱いはまるで、傷ついた危険な野生動物のようだった。

 そうしてる間に、背後でサイレンが響き救急車が到着した。男はストレッチャーに乗せられて、人々に大注目されながら車の中へと吸い込まれていった。そして出発するのを千央たちは見送った。救急車が坂を下って影が小さくなっていくのを見届けた。

 やがて近所の人々たちは何やらぶつくさ言いながらも、ぽつりぽつりと自分の仕事や家へ帰って行った。しかし、子供たちは身動きがとれずにいた。ウリを洗う仕事がまた山積みなのだが、全然その気になれなかった。

 千央は、動揺しながら考えていた。おぼろげながらも以前から頭の中でモンタージュしていた、もしアリジジがすっきり髭を取ってしまったらこうなるだろうな、という想像の顔をだ。それは行き倒れたあの人の顔に怖いほどよく似ていた。その後、わざと倒れた彼の顔に紗をかけてみた。するとまた恐ろしいことに、お馴染みのアリジジの顔がそっくりそのままの形で現れてくるのだった。ああ、間違いない。そうだ、あの人はアリジジだったんだ……なんてことだろう。

 千央はこの確かめの作業を何度も何度もやった。だが、あまりこの妄想を繰り返すと気がどうにかなりそうになってくる。だから別のことを考えるように千央は努めた。

 …………、……アリジジの容態は大丈夫だろうか?とりあえず、病院に行ったのだから大丈夫であろう。もし熱中症であるなら今ごろ千央の時と同じように、点滴をバンバン打たれて、そのうち回復するはずだ。目を覚ましたアリジジはベッドにいる自分をどう思うだろうか?ホッとするだろうか?それともしまったと残念に思うだろうか?また、山に戻りたいと思うだろうか?もしかしたら過酷過ぎる生活にうんざりしていて、やはりホッとするのかもしれない……。

 いや、そういえば、とふと千央は思った。そもそもアリジジは何で病院を抜け出したのだろう?千央たちがはじめてこの質問をした時、アリジジは何かやることがあるとかなんとか宣っていた。しかし、子供である千央にも単に話をはぐらかすために言ったことにしか聞こえなかった。その雰囲気から、多分彼なりに言いたくない事情があったに違いないのが分かり、以後この質問は遠慮していたが、こうなってしまった今、それはそれで知っておきたかった、というか、もう少し突っ込んで聞いておくべきだったかと千央は大後悔していた。アリジジは、もう、二度と手の届かない所へ行ってしまった、そのような予感が猛烈に千央の中でしてきていた。

「ねぇ、アリジジを捜しに行こうよ!」

 途方に暮れている集団の中で、慶幾が突然大声で言った。

「え……でも……、だって、じゃ、さっきの人は……」

 アンコはしどろもどろになりながら、救急車が向かった木陰を指で指して言った。他の子たちも何だという顔になり、無言で目を見交わした。

 そうなのだ。今しがた運ばれて行った若い男の正体がアリジジであるならば、寝床に行ってもアリジジに会うことは不可能だ。にもかかわらず、その彼を捜しに行くなど、なんて馬鹿げた提案だろうと千央は思った。

 しかし、先程の勢いのまま慶幾は言う。

「もし、山のどこにもアリジジがいなくってはじめて、あの救急車の人は本当の本当にアリジジだとわかるだろ?もしかしたらあの人は全然関係ない人かもしれない。早合点しても損だよ」

 慶幾の言い分を聞くと、どうやらあの行き倒れの人物がアリジジであると確信していないらしいのが分かった。 これに対して、あまりに背格好が似過ぎていたため、あの男がアリジジだというのはほぼ確定だろう、と千央は考えていたが、それと同時になるほどと思った。

 慶幾が提案した方法は今現在の千央たちが、行き倒れの人物がはたしてアリジジ本人であるかどうかを少しでも探ることができる、おそらく唯一のことだった。千央たちが山でアリジジを捜し回るということ事態に何のリスクもないわけだから、これは実に楽でうまい方法だと言えるのだ。とは言え、単なる消去法なのだから、山でアリジジを発見できなくても救急車男がアリジジである確かな証拠は得られないだろう。しかし、少しだけだが望みが出てきたので無言ながらも千央は活気づきはじめた。

「そうだな。もしかしたら単に寝坊しただけなのかもしれないな」と公平。

 真琴は指を曲げ伸ばしながら言う。

「アリジジが暢気にぐうすか寝てたら、私が叩き起こしてやるわ」

「よかったら、それ私も手伝うよ」とアンコ。

 伊鶴はそれを聞いて笑い出した。

 早速、皆は揃って山へ向かうことになった。どうかお願いです、アリジジに会わせてください、千央は祈っていた。 一行はまず、アリジジの使う寝床へと向かった。何度も通ったお馴染みの場所で、大抵の場合彼はそこにいた。

 しかし、そこはもぬけの殻、アリジジの姿はなかった。そこで、千央たちは西側と東側を何組かに別れ、それぞれアリジジを捜しに行くことに決まった。

 千央は鷲崎さんの家のある方角である東側にむかうために、一度坂を下り、土の段差から平地へと飛び降りた。隣に着地したアンコがギャッと驚いた声をだした。地面にびっしりと生えた植物の茎のせいだ。それがサンダルを履いていたアンコの足に刺さったらしい。

 毅は早速用意していたトランシーバーの話すボタンを押して喋りだした。

 このトランシーバーは夏祭りの際、真から譲り受けたものだった。おもちゃなので通話できるのはごく狭い距離に限られていたが、お互いの連絡の役に立つかもしれないと家から持ってきていた。もう片方は西側の誰かが持っているはずだ。

「えー、こちらは東班。一面枯れ草がだらけ、しかもめっちゃ痛いであります。(毅は自分の周りを見回した)なお、アリジジの姿は見えません。どうぞ」

 毅は軍の連絡風に伝えた。トランシーバーからはしばらくガーガーピーピー音がしていたが、やがてそれに混じって人の声が聞こえてきた。声の主は真琴だった。

『こちらは西班。森にでました、こっちにもアリジジはいない模様。しばらく捜してみます』

 千央たちは膝を高く持ち上げるように歩き、やっとのことで野原を渡って行った。この草はすっかり黄色く乾燥しており、ほとんどがくの字型に折れ曲がっているのだが、もともと背丈の高い植物であるせいか、大変進みにくかった。茎は硬く、触れる度にガサガサといい、芯には空洞か白い綿のようなものが入っていて、踏むとバキバキと割れる音がした。その派手な音の鳴るなか、不意にカサコソという物音がした。千央がハッとしてそちらを見ると、ちょうど一匹のネズミが木の洞から這い出てくるところであった。

 針地獄を抜けた後は林に出た。杉の木の間からは木漏れ日が指し、鳥が鳴き、何の変哲もない風景だった。周囲一帯を眺め、千央は口の横に手をあててアリジジを呼んだ。

「アリジジーッ!」

 千央の声はこだまのように響くわけでもなく、たちまちのうちに消えていった。多分、下の分厚い落ち葉の類に吸収されたのだろう。

「おーい!」

 毅も叫んだ。アンコもそれに続いて大声を出した。

「いたら返事してー!」

「アリジジーッ!」

 そういえば、アリジジの本当の名前は何なのだろう、彼の本名はアリジジではないはずだ。しかし、それ以外の名前を千央たちは知らないのだから、アリジジという偽の名前で呼ぶ他なかった。もし、アリジジを無事に見つけだせたら聞くことが増えたな、と千央は思った。

 そこへトランシーバーからまた雑音がしはじめた。再び真琴から通信が入ったな、と思ったら今度は公平であった。

『もしもし、道路脇に呪いの痕跡らしきものを見つけた。布が三角に折ってあって上にロウの後があるよ。ローソクはどうやら全部燃えつきたらしい』

 どうやらアリジジは予告通り、計画を実行にうつしたようだ。

「カエルはどうなってた?」

『いないよ。カエルは皆逃げたみたいだ。……そっちは何かあったか?』

「いや、ないね。もう少しでバーガー岩に着くよ」

 一同はバーガー岩まで走って行ったが、ここにもアリジジはいなかった。千央は岩の中を少しだけ覗いたが、あいかわらずコウモリの糞だらけだった。

 さらに先へ行くと、長い畦道にたどり着いた。ここは主に地元住民の使う砂利道で、トラックのタイヤ跡を避け、雑草が生えていた。遠くには白いハンカチのような布切れが見えたが、今の状況からしてそれがただのハンカチである可能性はかなり低かろう。

「あっ、あれ!」

 地面にある白い布を指差して千央は叫んだ。

 三人で駆け付けてみると、やっぱりあった。角を釘で固定された布、公平の言った通り、ローソクは溶けて短くなり、布の中は空であった。毅はトランシーバーを使い、それを西にいる公平たちに報告した。さらに下っていくと車道があった、車がたくさん行き来していたが、それ以外に人の姿はなかった。奥の方には水路が見えた。鷲崎さんの家行く時に渡った川だ。千央は肩を落とした。千央たちはあそこをアリジジ捜しの終点としていたからだ。普通の状況でこれ以上アリジジが移動するとは考えづらいと千央たちは思っていた。人目につかぬよう移動を制限していたアリジジにはおそらく、ここまでの土地勘はなかったろうからだ。

 もし、わざわざ土地勘の無い上このように人の目の多い場所まで来る必要が起こったのならば、よほどの緊急事態だろう。多分病院のみならず、千央たちからも逃げようとする時か、または誰かに発見されかけたか。今のところ、そのどちらの可能性も薄かった。アリジジが急な気まぐれを起こし、探索に行った、というのも普段ならありえるだろう。しかし、呪いの計画を実行した次の日にそんなことするだろうか?千央たちが来ることは分かっていただろうから、それもまた有り得ないのだ。というわけで千央は結局“あの救急車に載せられたのはアリジジであったのだろう”という結論に至る他なかった。

 千央たちは車が途切れる瞬間を狙って道路を渡った。むろん、さっき見た通り誰もいない。ちょうどその時トランシーバーが電波を受信した。向こう側では真琴が怒鳴っている。山で遮られたため、電波がごく弱くなっているのだ。

『こっちにはアリジジはいないよ!』

 毅も怒鳴り返した。

「今水路に着いたけど、こっちにもいないみたい!」

 公平の声が聞こえた。

『じゃあ、これからどうするつもりだ?!』

「さぁ、……それはわかんないよ!!」

 結局、アリジジは見つけられなかった。

 しかし、あの行き倒れがアリジジだったとしても、謎が残るのは確かだった。なにせ、彼は全身がつるつるだったのだ。

 多分、アリジジは毛を剃ったのだろう、でもなんでまた剃る気になったのかが分からなかった。一体どういう心境の変化が起こったんだろうか?

 これを突き詰めて考えてみて、二つの説を千央は思いついた。 まず、アリジジは逃亡生活を諦め、自首しようとしていたということが一つ目。毛剃りと病院に戻ることの関連性はうまく説明できないが何か関係がある気がした。そして二つ目は、毛を剃ることで姿を変えて新たな場所へ逃亡するつもりだったという説。しかし熱中症になってしまい、どちらにしろ計画は頓挫したというわけだ。

 アンコはひどく疲れたようすで道路脇のコンクリートブロックに腰を下ろした。そして膝を抱えて目を閉じ、ため息をついた。腕を組んだ千央は、毅と並んでそのようすを見ていた。

 千央はアリジジが自分たちを裏切って二度目の逃亡を計っていたとは思いたくはなかった。だがしかし、これが裏切りだと言えるのだろうかと千央ははたと気づいた。なぜなら、自分たちもアリジジを匿うことでそれなりのリスクを負っていたからだ。むしろ、アリジジが長い期間山に留まり続けていた方が双方の危険度は増すだろう。千央たちには知らせなかったが、これまであわやということが何回があって、危険を感じていたのかもしれない。あるいは、自己犠牲の精神みたいなものをおこし、この山から自分が去ることですべてが丸くおさまると考えたのかもしれない。だから、これはこれで結果的に良かったのかもとも千央は考えた。だが、それを実行するにしてはタイミングがおかしすぎる。もう少し後からでもいいはずだ。千央たちにお別れを言ってからでもちゃんと間に合うはずだ。

 千央は無意識に頭を横に振っていた。やっぱり変だよなぁこれ、一体何が起こってこうなったんだろう?

 たいして毅は、鬱々と考えこんでいた。それは帰り道でも続いた。探偵のように顎に手を当て難しい顔をして、ぼそぼそと何事かをつぶやきながら、千央とアンコの後ろを着いてきた。その熱心さときたら、もし千央たちがわざと間違った道に入ろうとも、気づかずに素直について来そうなほどの集中ぶりであった。



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