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三、イノシシの沢

 「かんき」おもむろに立った彼は確かにそういった。

 とても変わった名前だ。

「僕はここに住んでいるので知っている人もいると思います。何か分からないことがあったら聞いてください」

 歓喜は皆の顔を一周見渡し、一礼した。そして静かに椅子に腰を下ろした。

 合宿に参加する子供は増田家のサンルームに集まり、それぞれ自己紹介をさせられた。サンルームとは全面ガラス張りのベランダのようなところだ。

 まず、石川五右衛門かヤマアラシのような髪の男の子が立ち上がり、最初は照れ臭そうに、最後はふざけながら言った。

「えーと、吉田伊鶴です。よろしくお願いします」

 千央たちはモザイク模様が施された丸テーブルを囲んで座っていたが、その上には植木鉢がどっさり置いてあった。

「坂田真琴です。中学二年生です」

 だから宿泊道具の詰まった重そうなスポーツバッグやリュックなどは床に散乱していた。

「夏梅杏子です。よろしくお願いします」

 隣の子が挨拶した。次は千央の番だ。思うのだが、こういう場でいつも行われる自己紹介に意味はあるのだろうか、千央は自分の番がくる前は緊張で、相手の名前も特技も趣味も全く聞いていられたためしがない。千央は立ち上がった。頭に血が上る。

「小千谷千央です、よろしく」 そそくさと言って着席。やっと終わった、千央はため息をついた。ひどく無愛想に思われただろうけど、まぁいい。

「福岡県からきました。仙谷真です」

 色白の小柄な男の子が千央に勝るとも劣らない緊張感と震え声で自己紹介を終えた。

「牛島公平です。特技は多分……サッカーです」

 ひときわ背の高い男の子はこう挨拶した。

「僕は平岡慶幾です。10歳です。よろしくお願いします」

 最後の子はまだ幼い雰囲気があるのに、実に落ち着いていた。鼻が高く、艶のある癖毛が魚の鱗のようで、どこか異国人風だった。

 正午過ぎのこの時間、光沢のあるタイルの床に光が反射し、堪え難いほど眩しくて暑かったから、千央はアロエの鉢の影に潜み涼んでいた。目の前をべっこう色の小さなアリが列を作って渡っていた。それに見惚れていると、姿勢のよいすらっとした若い女性が登場した、彼女は元気よく言った。

「今日からはじまります、宿泊会ですが、初日からお天気に恵まれ何よりです。今回、君達にはこの自然の中でしか経験できないことを学んでほしいと思っています。私は園まり子といいます。皆のお世話を担当します。よろしくお願いします。まず――」

「来てたんだね。びっくりした」

 後ろから声がした。いつのまにか例の男の子、歓喜が側に来ていた、千央はただ驚き頷いた。

「誰なの?」 隣から鈴のような高い声がした。振り向くと、そこには千央と同じ歳頃の女の子がいた。菱形の大きな眼、小さな鼻をして、癖のない真っすぐな髪は形の良い頭蓋骨にぴったりと沿い、耳下辺りで切り揃えられていた。その猫のような目は不審気に光り、千央に向けられていた。

「ばあちゃんの客だよ」

 歓喜は答えながら椅子を引き寄せ、女の子と千央の間に座った。女の子はふーん、と言った。どうやら二人は知り合いのようだ。その時拍手が起こった。話は聞いていなかったが三人は一応拍手をした。

 彼に会うのは久しぶりだった。千央たちはあれから(彼を“オカマ”呼ばわりしてから)何度か霊能者のところに通ったが今日この日になるまで会うことはなかった。その間に千央のお祓いの過程は進み、“今後はあなたの心がけ次第”と言われ、結局はこちらに丸投げという形で終わった。

 歓喜の砕けた人懐っこい態度に、千央は驚きはしたがまた嬉しくも思い、前回に会った時の気まずい思いを払拭したいとも考えていたので、千央はいかにも親しいふうに話しかけた。

「そういえばさ、あの人どうなった、あのガンの」と千央。妙だが唯一の共通の話題であった。

「んー、さぁね、知らない。全員を監視してるわけじゃないから」歓喜は変な顔をしてすげなく囁きかえした。仲直りの握手の手を跳ねのけられた、ような気がした。

「これから部屋に案内します。荷物はそこに置いてきて下さい。一同きりつ。」テキパキとした合図にガタガタと音をさせ、皆は立ち上がった。少し軍隊のような乗りなので、千央はこれからが不安になってきた。

 千央も二人もざわつきの中、立ち上がった、スリッパを履くように指示された。

一同は団子になって移動した。先頭がつっかえるので皆は必然的にすり足になっていた。二階にあがり、ガラスの引き戸をあけて部屋に入った。

「女は向こう側で男はこっちね」歓喜は男女を左右に別けた。

 部屋の広さは20畳ほど、小学校の教室のような大きな窓があり、そこからは山が見えた。この家は周囲三方を山に囲まれており、お隣りは道を挟んだ右手に一軒のみだった。白くて大きな犬が吠えているのが見えた。大きな納屋があることから、どうやら農家のようだ。また窓から見える裏手に、現代日本風の家屋が建っていたが、明らかに歓喜の家の敷地内なので、おそらくこれが本宅なのだろう、と千央は思った。

 この部屋は本々一つの大きな部屋だが、真ん中に仕切りがあり、男女が別々に使えるようになっている。その仕切りは滑車付きのアコーディオンドアだった。これは両側から鍵がかけられる様になっていて、衝突させるとばふばふいった。この妙でばふばふしたドアを開けるには両方の鍵を開けないといけないようになっていた。

 壁には洋服箪笥が備え付けてあり、扉は合板だった。反対の男の子側には押し入れと本棚があった。テレビはなく、川の水音だけが聞こえた。千央は足元に荷物をおいた、ここで数日の間寝起きするのだ。



 千央は今日、相談室と控え室以外の部屋を初めて見た。この家は外見こそペンションのようだったが、中は鴨居や襖のある完全な和風の内装だった。長方形の形をした建物で、部屋数が多く、旅館か学校のように長い廊下があった。

 その途中至る所にいくつもの絵が飾ってあり、ちょっとした画廊並であった。その絵というのがどれもこれもとても妙ちくりんだった。

 その中の一つに横幅が千央ほどもある巨大な絵があった。三つの丘が近景から中景、遠景にかけて描かれていて、そこへクリーム色の一本の道が渡してある。右側には古代の原始植物か、南国植物だかがの森が描かれていた、その暗闇の中から得体の知れない生物の目玉が二つ、覗いている。中央にはこちらに背を向けている男が描かれている。彼は薄黄色の上着と若草色のズボンを履いての帽子をかぶっている。おそらく化け物は男を狙って潜み隠れているのだろう。

 だが、千央には狙われているこの人物の方がよっぽど不気味に思えた。彼はひたすら歩いているだけなのだけど。



 歓喜は「今夜は外でご飯を食べるから、道具を運ぶのを手伝って」と皆に呼びかけた。部屋にいる皆、得に男の子はとたんに色めきたち、すぐに走っていった。

千央は外の庭まで彼らを追いかけた。焼き台、網、すみ等をそれぞれ分担した。

「近くの川原まで運ぶよ」

 歓喜はそう言って裏口から出ていった。

 家のうら側に山があり、そこの道を歩いていった。道を行くと川原がみえてきた。手前は砂利のたくさん敷き詰められた川原で、対岸は山が割れてできた絶壁のように土が剥き出しになっていた。向こう側にいくほど、水深は深くなっている。上流は岩だらけで水が白糸となって流れ落ちていた。辺りは腐葉土や濡れ落ち葉の匂い、木の匂いがした。その緑林の匂いが沢の水で掻き回されて、山独特の空気となり、そこら中に発散されていた。

 猫の女の子は靴を脱ぎ、裸足になって、川原へ駆け寄り川に足を入れた。千央も同じようにした、水は飛び上がるほど冷たく、澄んでいた。

 公平は川原の石を拾い、それを投げた。石は水面でポーンポーンと小気味よく跳ねた。ひとつ、、ふたつ、、みっつ、、よっつ、、いつつ、むっつ、ななつ、、、、。千央はわぁ、と感嘆の声をあげた。 歓喜は川に入り、こう言った。「ここ蟹がいるんだよ。石をひっくり返してみて、出てくるから」

 千央は言われた通り、適当に石をひっくり返してみた、大きな石を移動させると軽い小石は水に流されていってしまう。いや、よく見ると、それは灰色の小さな沢蟹であった。大きさは味噌汁のアサリの中に入っているのと同じくらい。千央が手の平で包むと、しゃこしゃこと中で運動をした。とてもくすぐったい。

 歓喜は小石でプールを作り、そこにカニを集めていた。中には鎧のような鱗の魚が数匹、灰色の蟹は石をどかすと動きだし、それでやっと見分けをつけることができた。中には鎧のような鱗の魚が数匹、灰色の蟹は石をどかすと動きだし、それでやっと見分けをつけることができた。

 慶幾が大きな蟹を捕まえたと言うので、見せてもらった。殻が3cmくらいはあり、真っ赤な色をしていて、明らかに雌だった。なぜ雌だとわかったかというと、腹に卵を抱えていたからだ。紅色と銀の斑模様で、マニキュアにこんな色があったかも、と千央は思った。サイズは意外と大きく、BB弾くらいはあるだろう。

「沢がにはメガロパ、ゾエア期を卵の中で過ごすんだよ」豆知識を語る口調で歓喜は言った。

 しかし千央にはメガロパ期も、ゾエア期も、両方意味がわからなかった。多分成長期みたいなものだろうということは、なんとなくわかった。



「ほぉ、歓喜は物知りじゃないか」

 突然、後ろから感心した声がし、そこにはクーラーボックスを担いだ見知らぬ男の人がやってきていた。唐突に現れたので、千央はびっくりした。背が高くて、なかなか格好がよかった。「ねぇメガロパって何?」猫は歓喜に聞いた。

「えーと、それはね……」 歓喜は目を泳がせて、うろたえた。うまく説明できないようだった。

「メガロパっていうのは、蟹の幼生のことだよ。普通蟹は生まれてすぐは蟹の形をしていないんだ。メガロパやゾエアは蝶になる前の青虫や蛹みたいなものだね」

 男は助け船を出した。

「まぁそのうち学校で習うと思うけど」と笑いながら締めた。彼は愛想が良かったが、笑うと口の角ではなく、両頬に縦のシワができて妙だった。歯は小さく、米粒のように青白い。今までそんな人を見たことがなかったので、千央はまた驚いた。とりあえずメガロパのことはわかったが、しかしこの男の人は誰だろう、という不審な雰囲気になった。

 男は空気を察してか、自己紹介した。

「あ、俺、水野裕紀です。よろしくな」水野さんは手近にいた、公平、慶幾、ヨワマルと握手をしていった。いや、どーも、どーもと言って。気になったのが隣にいた歓喜の態度で、嫌に目が虚ろで、白々しく、その上怒っているようにも見えた。

 そのすぐ横では、五右衛門頭は特別大きな蟹を捕まえるのにしばらく奮闘していた。ようやく捕まえると彼は「己蟹、あんまり生意気だと、茹でて食うぞ。おら」歯をカチカチいわせながら、蟹に言った。蟹はもちろん脅しなどには屈せず、本の脚をバッと開き威嚇の格好をとった。

「でも沢蟹って食べられるのかな?全然身がなさそうだけど」とヨワマルが聞いた。真面目な答えに千央は内心おかしくて、こっそりと笑ってしまった。

「丸ごとから揚げにすると美味しいらしいよ」歓喜は答えた。エビフライのしっぽを集めたような味がしそうだな、と千央は思った。

「うわ、痛い」五右衛門頭は声をあげた。彼は蟹の大きなハサミで指を挟まれていたのだ、五右衛門頭は手を振りまくった。ボチャと水音をたて、蟹は落ちた。蟹は紅葉が流れるようにして、するすると石の間に入り込み、あっという間に皆の視界から消えてしまった。「あ~あ、逃げちゃった」と猫。皆も惜しそうな顔をしていた。

「きっと、俺らに食われちゃたまらんと思ったんだろ」と公平が笑いながら言った。


 佐野さんは火をおこす準備をしはじめた。カセットコンロの上に柄つきの網を乗せて、その上に炭を並べ、火をつけた。

よく炭が熾ったら焼き台に入れ、網を被せた。千央はその間、野菜を切るのを手伝った。ナスとタマネギは輪切り、ニンジンは薄切りにした。

それが終わるまでには、人たちが集ってきていて、分担して仕事をやった。

 皆で肉を焼きはじめたころには、辺りは夕方を飛ばして夜の気配がしてきていた、どこかの草むらで、鈴虫が鳴きはじめていた。山なので日が暮れはじめるのが少し早いのだ。

 千央は川原に座り食べはじめた。石が尻にあたって痛かったが、すぐに慣れた。しかしそれよりも、知らない人達の集まりで千央は身の置き場がなく、小さくなってしまっていた。他の子も申し合わせたように沈黙していた。カルビの隣でなぜかバナナが丸ごと焼かれていたが、誰も突っ込まなかった。千央は炭火で顔が熱く火照ってきた。

 それにしても、と千央は紙皿に溜まった茶色の液体を見ながらこう思った。このタレはちょっと辛過ぎかもしれない、そのせいか、胃が少し痛くなってきた。なにしろ全然会話がなかった。

 バナナが黒く焼けて焼きナスみたいになってきたころ、「ねぇところで、このナスを丸ごと焼いたのは何なの?」

 細身の年上の子があるものを指さし、誰にともなく聞いた。

 その先には長い間焼かれ、もうナスのように変色したバナナがあった。

「いやそれ、バナナですよ。誰が焼いたんだろ」と笑いをこらえながら千央は言った。

 それを聞き、「嘘、それバナナなの」と慶幾が少し大きな声を出したので、皆は注目した。にわかに誰がやったの?と犯人探しのようになった。

「あぁぁ、僕です」

 ものすごく言いにくそうに名乗る声がした。それはなんとも気弱なようすの信だった。信はそれをさっと自分の皿に取った。バナナは真っ黒く軟らかくなっていて、透明の汁が皮から流れ出している。

 奇妙な調理法に皆は引いてしまい、白い目で信を見た。彼はしょんぼりとしていた。千央はちょっとしまったと思った。


 そこに、どこか企み顔のおじさんがやってきた。おじさんは得体の知れない肉の乗った皿を皆の中心にドンと置き、こう言った。「おら、こいば食べんこ」

 皆は食べるのを中断して、皿に注目した。肉が乗っていた。公平は盛られた肉を見て、非難めいた声を出した。

「なにこれ、汚ねぇ」 無礼な言い方だったが、的確だった。確かにそれは散々灰の中で転がして遊んだ後の肉片みたいで、すごく汚く見えた。

 しかし歓喜は、いただきます、と言うと身を乗り出し、箸で一切れ取って、あっさり口に入れてしまった。皆はア然とするか、感心してそれを見ていた、歓喜は何とも自慢げな顔をして言った。

「美味しいよ、これ」

 それを聞いておじさんは側にいた他の人に次々に進めていった。

 これは何かあると思ったが、危険なものではないらしい。千央はとりあえず一切れ取り、他の何人かもそうした。

 千央は匂いを嗅いだ、とりあえず何かの肉であることだけは間違いなかったが、それ以外は不明だ、肉はローストビーフのように塊を切り分けた形で、外と同じで中も黒灰色をしていた。色からすると牛肉だが、全く牛肉の匂いがしない、多分鹿とかヤギか熊。まさか……人肉ではないだろう。なんて考えながら、千央はおじさんの顔を見ながら少しだけ口にした。それはとてもくにくにとしていて歯ごたえがあった。半乾燥のジャーキーか、繊維質なハムみたいだ。臭みはない。千央が思案顔で食べているのを、おじさんは面白そうに見ていた。

 千央の鈍い咀嚼の間に、やっぱり種明かしがあった。水野さんがふいに現れ、この肉の正体を明かしたのだ。

「あれ、親父、そいイノシシの肉じゃなか?」

 それを聞いた瞬間、その場にどよめきが起こり、急に騒々しくなった。向かいではウワッ、と声があがり、猫の女の子がベッと肉を吐き出した。公平は苦い物を含んだように歪め、すぐさま千央は肉を噛むのを止めた。五右衛門頭は顎が外れたような面白い動きをした。慶幾は困惑して立ち上がった。歓喜は知っていたのか、そのようすを見て笑いこけている。猫目は半泣きになっていた。なにも泣かなくても。

「嘘、これイノシシなの!?」

 公平は驚いて言った。

「そうだよ、去年まで近所を駆け回ってたやつ」苦笑しながら水野さんは答えた。

 水野さんのお父さんは鉄砲を構える仕種をして言った。

「冬にね。イノシシが出てくるけん、おっちゃんが山で捕ってきたとよ。こいはその肉ば燻製にしたと」

「まじ?すげぇ、イノシシとか初めて食べた」と五右衛門頭。

「えー、可哀そう」と猫目の子。

「不味くはないかも」

 千央は肉を噛み締めながら呟いた。

「でもそういうのは先に言ってよね、おじさん。まじびっくりした」

 慶幾は抗議した。

 しかし、こう文句は言いながらも、また皿に箸を延ばした者が何人かいた。初め汚いと言った公平などは、何切れも食べた。砂かと思っていたそれは、黒と白の砕いたコショウだったり、何かの植物の種(香辛料)であり、それからいい香りがしていた。

 おじさんはその様子を嬉しそうに見ていた、そして千央が一息に飲み下したのを見て、満足そうな顔をした。

「あーあ、面白かった」

 歓喜はやっと笑いの発作が終わったようだ。しかしまだ肩をひくつかせていた。

 それから、バナナの件で一時下手物食いのような扱いになってしまった信だが、後で千央が一口貰うと、甘味が増して中々美味しく、無事その誤解は解けたのだった。



 帰り道で水野さんはイノシシの話をはじめた。

「一度イノシシにあったことがある」「以前山の上に住んでいた時、家までの坂道を自転車で上っていたんだ。ちょうど今ごろの夏の暑い日でさ、暑くて、暑くて汗だらだらになりながらね。で上り終えた後、僕は猛スピードで坂をくだった。ほぼノーブレーキでね。そしたら行く先に何か茶色いものが見えたわけ、最初はあまり気にしていなかったんだけど、近づいてみるとそれはイノシシでさ。でも急には止まれなかった、一度急ブレーキをかけ損ねて数メートル下に落ちたことがあったから、下がたんぼじゃなかったらきっと死んでいたよ。――とにかくそのまま僕は下っていった。そうこうしてる内にイノシシも僕に気がついてね。あと数メートル位に近づいた時、イノシシが突進してくるように身構えた、僕も猛スピードで走りながら身構えた。そしたら次の瞬間、小さい破裂音がしたかと思うと、イノシシはあっという間に森の向こうに走っていってしまった。頭を一所懸命ふってね」

 千央はイノシシが暑いアスファルトをひづめでたたきながら、慌てて逃げる様子を想像した。

「大きさはどれくらいだったの?」と猫の女の子。

「ん~、僕の膝くらいかな」水野さんは自分の足を見ながらいった。

 急に馬のような顔のおじさんが、人懐っこそうな表情をして割り込んできた。良く日焼けしていて、まるで鹿毛の馬のようだった。おじさんは言う。「おいの小さかころ、どがんでん太かイノシシば飼っとったことのあったよ。昔、親父の養豚業をやっとった時、山でウリぼうば拾ってきて、ウリぼうってのはイノシシの子供ね。赤ちゃんの時はイノシシもカワイかとよ、こんぐらいで、茶色と黄色の縞があると。そいで懐くと人について歩くと」

 おじさんはラグビーボールを抱えるような格好をした。

「でもブタと同じエサをやっとったけんが、俺の背を超すぐらいどんどんバカでかくなってさ。暴れ回るようになってからは、普通の豚と一緒にしておれんごとなって、隔離のために木で檻を作ってそこに入れたとよ。一日中体当たりしてから、いつ檻の壊れるかびくびくしとった。最終的には親父の背ぐらいになっとったけんね」

「怖っ」

「檻は大丈夫だったんですか?」と公平。

「多分ね。いやー、そいがさい。親父が養豚ば辞めた時はもうおらんかったと思うとけど、もうよー覚えとらんとよ」

「名前はつけてた?」

「そりゃー、ウリぼうけん。ウリぼうくさ」

「そのまんまじゃん!!」

 おじさんの単純なネーミングセンスにその場の皆から笑いがおこった。

 千央も笑った。だが、燻製にして食べたイノシシと併せて考えた結果、ある可能性について思い当たったのだった。その時千央は、落ち込まずにはいられなかったのであった。


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