二十九、飛ぶ夢
その日の夕飯には、白身魚の唐揚げ、焼きナス、くし切りにしたトマト、ジャガ芋を醤油で煮た物、スパゲッティミートソース(何せ大人数なものだから、主食が一つだと足りない時があるのだ)の大皿が出て、なかなか豪華だった。
しかし、千央はそれらの料理を尻目に、食卓の端の方にやられていた漬け物に手を伸ばし、引き寄せると、醤油をかけて食べ始めた。千央はこれまで沢庵や梅干しくらいしか普段漬け物を食べつけていなかった。しかし毅の家では朝食のみならず、昼食や夕食にも漬け物が食卓に登場し、千央はこれがすっかり気に入ったのだ。漬け物を食べ終わると、千央は次にご飯を口に入れた。そしてゆっくりと咀嚼しながら考えた。 どうやらアリジジは今日の晩にも計画を実行するつもりらしい。もしこれが上手くいけば、犯人のアリジジへの濡れ衣計画をくじくことができるだろう。これに関しては、千央は期待していた。
だがそれと同時に、自分たちが今までやってきたことは、世の中の道徳に背いてまでする価値のあることなのだろうか?と千央は今さら不安になってきていた。これを考える度、千央は後頭部の毛が逆立つような感じがした。そもそも、今や指名手配犯のような扱いのアリジジを匿うことからして普段の千央ならありえないような行動だった。彼女は自分の置かれているこの状況と自分の行動に少し恐怖を感じていた。普段彼女は、規則を守ることにおいては、とても厳しいのだ。
千央は同じ食卓についている仲間たちを見ながらこう思った。しかし、皆は嬉々として最高に嬉しそうなようすだった。皆は決まりを破ることに恐怖を感じないのだろうか?それとも、決まりを破ることによって自分が勇敢なのを証明しようとしているのだろうか?それこそ千央は今までとった行動の節々で何度も思ったものだ。千央は皆の様子を見ながら、決まりを破って楽しそうにするなんてとんでもない奴らだと驚き、と同時に勝手に憤慨してもいた。
けれども、実は千央が決まりを守りたがる理由は彼女が特別ないい子だから、というわけではなかった。ただ決まりを破ってトラブルになるのがひどく面倒くさいからなのだ。つまり自分に迷惑がかかるのが嫌なのと、その後の対応を考えるのが面倒くさいからなのである。だからそこに千央自身の道徳的な考えはなく、何も考えずに、ただの強迫的、習慣的、あるいは機械的なこととして行動をするだけだった。
だが千央は今回、決まりを破り、アリジジを匿った。仲間内での保身の精神からだけではない。千央はこの性格の欠点について、前々から薄々気がついていたのだ。
それは、自分を指導する人物の精神や行動が悪かったりした場合、自分は破滅してしまうだろうということだった。彼女はそれなりに順応性が高く、同時に依存度も高い性格をしているからだ。というか極端な事勿れ主義者だといえた。だから、もし間違った方についたり、あるいはついていたりしていたら、千央はどんな悪人にもなってしまい、二度とくら替えすることはなく、一度も逆らわず、後は悪い方へ悪い方へと、奈落の階段をひたすら下って行くだけなのだ。千央はそうなることを普段からなんとなく危惧していた。だからこそ今、反骨精神を持ってこのような行動を起こしたというわけだった。
アリジジの件について、千央は現在、こう考えていた。ルールを取り外した上で考えれば、自分たちのしていることは割かし正しいんじゃないか、と。なぜなら、半分暴徒となった村人たちから守っているのだから。そしてこれからアリジジの誤解を解くために協力もしている。だから決まりを無視してでもやる価値はあるだろう、と。
いや、でも。千央は静かに自問した。今やっていることは本当に正しいことなのだろうか?しかし今のところ、千央には判断がつきかねた。しかし、多分アリジジには味方になってくれる人は自分たち以外もういやしないのだ……。
そうだ、これはもう決めたことなのだから、千央はこれを頭の中でそれを何度も繰り返していた。走り出した電車内に存在するのと同時に片足で駅のプラットホームを踏むことは無理な相談なのだ。それに、もう電車は走り出していた。すでにはじまっていたことなのだ。もし二カ所同時に存在しようと頑張っても、そんなことはとうてい無理だ、きっと二つに裂かれてしまうだろう。とりあえずそれだけは避けたかった。だから黙って時間が経ち、物事がある程度落ち着くのを待っていよう。
ここまで考えて、ふとあることに千央は気づき、途端に暗い気分になった。あれ、話がまた元のところに戻ってきてやしないか?と。
食事の後千央は、少しテレビを見て、風呂に入り、またテレビを見た。時計が11時半を回った頃、布団に入り眠った。そしてとても妙な夢を見た。
夢の中での千央はなぜか服を着ていなかった、しかし裸ではなく、アリジジのような毛が全身に生えていて、その上雨にでも降られたのか、びっしょりと濡れていた。その姿で暗く狭い洞窟の中をひたすら歩いているのだ。体には何かよく分からない綱のようなものが引っ付いていて、千央を洞窟の奥へと誘っていた。壁や床は雨の止んだ直後のように濡れており、つるつるぬるぬるとしている、見た目の色といい質感といいまるで蛞蝓の様だ。後ろからは風が絶えず吹いてきていた、風は生暖かかったが千央の肌には鳥肌が立った。転ばないようその壁に寄り掛かりながら、千央は毛先から水をポトポトと滴らせつつ、暗い道の先へと進み続けた。
そのうち、千央はある袋小路に辿り着いた。そこは丸い暗室のような場所で、ありがたいことに全く風の侵入がなかった。
ああ、よかった!助かった!
千央は安心したのと同時に急に疲労を感じて、地面に丸くうずくまり、夢の中なのにもかかわらず(もちろんその時はここが夢の中だという自覚がなかったのだが)そこで眠むってしまった。
しばらく寝た後、千央は良い気分で目を覚ました。体はすっかり乾き、ぬくぬくと温まっていた。しかし、どうも周りの様子がおかしい。地面が揺れだしているのだ。何かが起こっているようなのだ。地震だろうか?そう千央が意識した途端千央のいた袋小路の壁という壁が天地がひっくり返るような勢いでくねくねと変形しだした。その変化に合わせて千央は吹っ飛び、天井で頭や体を何度か激しく打った、もしかしたら床だったのかもしれないが、とにかく壁は柔らかくなっていて怪我はしなかった。
まるでスーパーボールのようにぽんぽんと跳ねる途中に、千央は壁の色が灰色から真っ赤に変わっていることに気がついた。それから暗い中で自分が白熱灯のように発光していることにも。どうやら、千央の知らぬ内に体毛は抜けてしまっていたらしい。
また、袋小路の中は風が吹きすさびはじめていた。そして壁にはオレンジ色の明かりが見えだした。風はそこから吹いているらしいのだ、多分洞窟の壁に穴が空いたのだ。
なぜだか分からないが、その時千央は早くここから出ないと自分は死んでしまうと思った。
そこで千央はくにゃくにゃになった壁をトランポリンのように使い、明かりに向かって力いっぱいに跳んだ。しかし跳躍の途中、突然足首が空中に投げ出され、続いて胴体、頭が引っ張られた。何かの力が引き止めているのだ。その正体は、千央の体についていた綱だった。爪を立てて傷つけ、千央はそれを引き離しにかかった、しかし硬く丈夫でなかなか切れてくれない。まるでゴムのようなのだ。埒があかないと思った千央は今度は噛み付いた。原始人のように犬歯と奥歯を使って強く、これでもかというほど攻撃した。綱は段々弱く細くなって、とうとう……切れてくれた。もはやなんの拘束もなくなった千央の体は、飛んだ時の勢いそのままを保ち、何もない外の世界へと向かっていった。こういう時は息を吸ったらいいのだろうか、それとも吐いたらいいのだろうか、千央は混乱し仰天する自分を見送りながら思った。
朝4時。
「あら、もう起きたの?早いわね」
と、階段を降りてきた千央に園さんは驚いて言った。
「うん」呻くように千央は答えた。
いつもよりかなり早く目覚めたはずだったが、あせもと全身の引っ掻き傷がひどく、爽やかな目覚めには全くほど遠い。ふらふらと部屋に入った千央は、乱暴に畳に座るとひたすらボーッとして時間をつぶした。