二十六、×・×ー××
××××―××―××××――
毅は親指を使い素早く、リズミカルにプッシュホンを押した。
プルルル……、プルルル……、ブツッ…………。
長い呼出しと一瞬切れたような音の後、受話器からは明るい女性の声が聞こえてきた。その声からして、真のお母さんが電話に出たらしい。
『もしもし、あら……増田さんとこの……、……こちらこそお久しぶりです。元気だった?夏バテはしていない?……そう。……うん、真でしょう?待って、今代わるからね……』
千央は増田家から持ってきた白い子機電話に耳を近付けた。 電話は一応ハンズフリーになっていて声は周りの人間に問題なく聞こえていたのだが、真が電話にでてくるというので。電話口ではしばらくガサゴソという音がしていたが、とうとう千央たちは懐かしい声を聞くことが出来た。
『もしもし、毅かい?久しぶり、元気だった?皆は?……僕はまぁまぁ元気。……何?ハチアレルギー?それはもうとっくに大丈夫だよ、知ってるでしょうが。うん。……ところで、今日はまた何で急に電話なんかくれたの?……佃さんの名刺が?……まだ探していたの……いい加減諦めたらどう?』
おそらく宿泊会を途中で抜けた真には、事の重大さが十分わかっていないのだろう。真は千央たちがアリジジを見つけたのを知らないし、もしかしたらゴッチの死体が見つかったことも知らないかもしれない。 そのゴッチは一部で逃亡患者の猟奇的な犯行の犠牲者だと思われている。しかし、其の実ゴッチの墓を暴いたのは千央たちなのだが……。
「それが僕らさ、どうしても諦めきれなくて。佃さんに電話するなりして詳しく事情を聞きたいんだよ。だから皆で記憶をたどって名刺を探そうとしたんだけど、結局、見つからなかった。それで真のことを思い出したんだ。その時のことをもう一度よく思い出してくれないか。もう、真だけが最後の頼みの綱なんだよ」
『……それはいいんだけどさ。でも何度も言ったように、今さら新しい話はでないよ。あの時名刺を皆に回した後、それを誰が最後持ってたのかなんて僕、全ッ然覚えていないよ』
「それをさ~、脳みそ搾り出すとかしてなんとっか思い出してみてよ」毅は急いて言った。
『無理言うなよ』真は冷たく言った。当然である。『忘れたもんは忘れたんだ』
そこで、アリジジは隣にいる毅にコソリと囁いた。
「なら、声をかけられた時の話をはじめの方から話すよう言ってみてくれ」
毅は分かりましたといった調子で頷き、言った。
「……じゃあさ、まず最初に会った時から順番に話してくれないか?それで思い出すかもしれないから」
毅は真を説き伏せるように言った。
『う~ん。OK、いいよ。分かった』
真は喋りはじめた。
『あの時は確かスーパーに行った帰りだったよね?皆は漕ぐのが速くて、僕は少し遅れて最後尾のところにいた。それで遅れて曲がり角に差し掛かった時、人の影が見えてきたわけ、その人が佃さんね。僕は急いでいたけど、あの人どっかで見たことあるなぁと思ってちょっとだけスピードを緩めたんだ』
「佃さんを以前に見たことがあるって?一体……」
毅は勇んで聞いた。しかし慶幾と真琴が横から口をはさんだ。
「どこで?」
「まさか、知り合いだったの?」
『やぁ。今の声は慶幾と真琴?いや、知り合いなんかじゃなくてさ。実はあの何日か前にも一度だけ見かけてたんだ。ほら、あのマンガを読みによく行くコンビニの近くの道路。そこで佃さんは車の運転席で地図を広げて見ていた。僕は多分道に迷ってコンビニに道を聞きにきてるんだろうと思って、特別その時は気にしなかった。でも、そしたらまたあの人がいるだろう?僕は、いつまで迷ってるんだっていよいよ変に思って、自転車をとめてジッと見たんだ。そしたら佃さんとバッチリ目があっちゃってさ、僕に話かけてきたんだよ』
真は矢継ぎ早に新事実を並べ立てた。
それを聞いて千央は推測した。もし本当に佃さんが増田家までの道のりを本気で迷っていたのだとしたら、彼は本当に飛び込み取材にきていたのだ。だって市長の差し金で取材に行くのに、対象者の住所を知らないなんて、そんなこと有り得るのだろうか?
「じゃあ、佃さんは何度かこっちに来ていたというわけか」
公平は言った。
『よぉ公平か。うん、多分ね。あるいは何日か滞在していたのかもしれない。だって見かけた日の間隔が短すぎるから。めんどくさいだろ、こんな山奥に毎日通うのは』
「でも、どこで寝るんだよ。この辺にホテルなんてないだろ」
『車の中で寝ればいいじゃないか』
「ああそっか」公平は合点がいった顔をした。
「いや、ホテルじゃないけど宿泊施設ならあるよ」毅は言った。「僕は行ったことないけど、ここから少し下ったところに一つだけ。そこに泊まっていたのかもね」
「こんな辺境に一体だれが泊まりに来るんだよ。お客は来るのか」
「詳しくはわからないけど、社会保健施設らしい。スポーツとかも出来るみたいだよ」
『何てとこ?』
「確かラ・パージュだかア・ニュールだか……なんかヘンな外国語みたいな名前だったよね」
毅は自信なさげに慶幾に同意を求めた。
「うん。ラパージュだったよ。あそこテニスコートがあるでしょう?僕、何度かそこにテニスしに行ったことがあるよ」慶幾は頷いた。
『そこに行けば、佃さんの連絡先がわかるかもしれないな。普通、ホテルとかに泊まるときは連絡先を書かされるだろ?住所とか電話番号とか……』
「でもホテルの人が簡単に教えてくれるかしら?」と真琴。
「子供相手なら教えてくれるかも」と伊鶴。
「いや、いくらなんでもそれは無理でしょう。クビになっちゃうよ」とアンコ。
「その辺なら、僕にちょっと考えがある」とアリジジ。
『今のはだれ?』
真が言ったので、アリジジは慌てて口をつぐんだ。
真にはアリジジのことを話していなかった。それは、彼を仲間外れにしようと思ってのことではない。真は今現在この場にはいない、だからことの重大さが分からず、話をばらしてしまうかもしれなかった。また申告さが理解できても、余計な苦労を負うことになる。病み上がりでせっかく日常生活に戻った真に、それらさせたくはなかった。だからこれは単なる仲間外れではないのだ。むしろ千央は出来ることなら、真の立場と取って代わりたいくらいに思っていた。その方が気が楽になるであろうから……。
さて、例によって増田家には自転車が3台しかなかった。だからホテル『ラ・パージュ』まで行くのは3人までに限られていた。なので問題の箇所へ向かう影は毅、千央、真琴の物のみであった。一同はセミの声を右耳で聞きながら生暖かい風をうけて、坂をどんどん下っていった。
『ラ・パージュ』とはほとんど山のふもとにある灰色と小豆色の建物だった。ここは町でただ一つのホテルと聞いたが、実際は自治体が運営する社会福祉宿泊施設なのだった。 千央たちは建物の隅に自転車を留めると、大きな自動ドアから中へ入った。中はクーラーがよく効いていて涼しく、薄暗かった、ドアが開いたとたん冷たい空気が吹き出してきて一時千央の肌に鳥肌を立たせた。千央は周りを見渡したが、他に客はいないようだった。
ところで千央には普通のホテルとの違いが良く分からなく、唯一気づいたのは内装がとても地味なのと(しかし実際このくらい地味なホテルがないこともないだろう)、スポーツ施設と風呂の入口がフロントの真横に作ってあるくらいだろうか。フロントには女の人が待機していて、制服らしい桃色のベストと半袖のシャツを着ていた。
隣の敷地には健康増進の為のスポーツクラブやテニスコートが併設してあり、ミーティングに使われる大部屋も、その中におまけのようにして宿泊部屋が存在する。
この情報は、フロア脇に置いてあったパンフレットを千央がとりあえず勝手に要約してみたものだ。さらにパンフレットの写真を良く見てみると、そもそもこの施設はホテルとは名乗っているわけではないようだった、高くあがった看板には『健康増進施設 ラ・パージュ』とだけ書いてあった。
千央たちは床にひかれたベージュのカーペットを渡り、フロントまで行った。
真琴は受け付け嬢に近づくと全く躊躇うこともなく話しかけた。
「すいません、ちょっと……、お尋ねしたいんですけど」
「はい、どうなさいましたか?」
見た目よりも幾分か若い声で、彼女は答えた。受け付けの机には松笠で作ったフクロウとガラス製の犬が飾ってあった。
「えーっと、だいたい週間かな?それくらい前に大学生ぐらいの二人組がここに泊まってませんでしたか?」
お姉さんは困ったように眉根を寄せた。
「さぁ……、それは分かりませんけど……。……どうかなさったんですか?」
「あの、その大学生くらいの人たちが家に来て、忘れ物をしていったので、……割と高価なものだろうし、困ってるかもしれないと思って」
毅はそう言って、用意していた木綿袋からデジタルカメラを取り出した。
「でも連絡しようにも名前すらわからないし、それでここに泊まってるって言ってたのを思い出して、よかったらその人の連絡先を教えてほしいんです」
お姉さんはなるほどという顔をした。佃さんの名前を伏せたのは、彼が偽の名前を使っていた時のことを考えてのことだ。もし名前が違っていたら選別の候補から外れてしまうだろうから。
「ああ、それなら……とりあえず名簿を調べてみますね。ちょっと待ってて下さいね」
お姉さんは立ち上がると、奥の部屋に消えた。恐らくそこに書類棚があるのだろう。
しばらくしてお姉さんがファイルを抱えて部屋に戻ってきた。そして椅子に座り、残念そうに言った。「調べてみたけど、それらしい年齢の人はいないみたいですね、一人で泊まっていった人は何人かいるようですけど」毅は食い下がった。
「見た目は痩せ型で……よく日に焼けた人なんですけど」
「さぁ……、顔や背格好までは覚えていなくって」
「そうですか……、ありがとうごさいました」
「力になれなくてごめんなさいね」
受け付けのお姉さんは済まなそうに言った。
どうやら佃さんの泊まったところはここではないようだ。毅は礼を言い、千央も頭を下げて帰ろうとした。しかし真琴は言った。
「あのー、その二人組は同室じゃなくて別々の部屋に泊まっていると思うんですが……それでもいませんか?」
お姉さんは真琴の言ったことを聞いて、しばらく考えるような顔をした後、また利用者名簿を調べてくれた。しばらくすると、宿泊していた時期と年齢が合うのはこの二人だけだということが分かった。
・佃 憲人 26歳
・実ハルナ 21歳
運のいいことに、この施設の利用者はたいていが団体でくる中年か、もしくは部活合宿で来る高校生なので、それだけでかなり絞り込むことができたようなのだ。早速千央たちは、喜び勇んで連絡先を教えてもらおうとしたが、規則か何かで個人情報は第三者に知らせることはできないと言われた。なのでまず、ホテルから連絡し、確認がとれ次第、その人に連絡をしてもらうという話になった。ホテルの人にそう言われては千央たちももう食い下がる余地はなく、受け付けの人から渡されたメモ紙に増田家の連絡先を書きこんでおいた。
「ちゃんと折り返し連絡があるかしら」真琴は自転車のストッパーを外しながら、心配そうに例の木綿袋を見た。「覚えのないカメラの忘れ物で」
実はこのデジタルカメラ、佃さんが忘れていった物ではなかった。本当の持ち主は真琴で、あわよくばホテルの人から情報を引き出すための小道具だったのだ。これはアリジジの案で、うまくいけば怪しまれずに連絡先を聞き出せるだろうという話だった。
「大丈夫だよ。僕たちの名前を残しておいたんだから、相手も気になるはず」 毅は言った。
「利用名簿にも佃憲人って書いてたってことはやっぱりあれが本名だったってことだね」
「いや、そもそも名簿の名前からして嘘を書いてるかもしれない。どうせバレないだろうしさ」と千央。
「確かに名前も住所も偽物だという可能性もあるよね。もしそうだったら、もう本当に分からなくなっちゃうわね」
真琴はペダルを踏み出しながら言った。千央は彼女を追いかけながら聞いた。
「ねぇ、なんで男と女の二人だ、って言ったら分かったんだろうか」
「だって二人組の学生で、男がカメラを忘れて行ったって聞いたら、普通二人とも男だと考えるんじゃないかと思ってさ」
「ふーん、まぁ言われてみるとそうかも」 千央は口の中を舐めながら言った。帰りは全部上り坂なのを思うと、憂鬱だった。
「暑いー、どっかで休憩しようよー」
走り出してすぐ、千央は弱音を吐いた。
太陽は千央たちの肌を真上から容赦なく焼いたし、山にはないアスファルトの強烈な照り返しのせいで汗はだらだら、全く情けないことに千央はもうバテバテだった。 それを聞いて毅は、本当の道から逸れた小さな横道を指差した。
「じゃあ、あそこの道に入ったところに駄菓子屋があるから、飲み物を買おう」
こう言って振り返った毅は、下まぶたにまで大汗をかいていた。
それから千央たちは駄菓子屋に寄り、なんの謂れがあってそんなに邪険にするんだ、と言いたいくらい無愛想な店番のおばちゃん(毅の話では、彼女はいつもこうらしいので特に気にすることではないらしい)からそれぞれジュースを買った。三人は店の前にあったベンチに座ってジュースを飲み、汗がひくのをまった。
店の前はくすんだオレンジと緑縞のテントが張ってあり、日陰になっていて、外は眩しく露出を強くしたカメラのように全体が白色に見えていた。わずかに植物の緑や茶、空の青が見えるのみだった。一部ではオレンジ色の明かりがチラチラと光った。さらに鳥が飛んできたが、薄い二つのシミにしか見えなかった。
さらに辺り一帯には長い芝に似た植物が生えていた。太陽の光にあたり椿のような艶で強烈に輝いて見えて、奥の方は蜃気楼のように歪んでいた。きっと、向こう側の空気は濃厚な草いきれで満ちているのだろう。
だが、千央の周りでは十分に涼しい風が過ぎ去っていっていた。隣では真琴がひくっとしゃっくりをし、胸をとんとんと叩いていた。千央がボーッとしていると、また赤いチラチラが視界に入ってくる。
これどこかで見たことあるなぁ、と千央が朦朧とした頭で思った途端、横で真琴が鋭い声で「あれ、なんか燃えてるんじゃない?大丈夫?」と言った。
真琴の視線の先を見ると、まさにさっきまで赤の布切れのように見えていた所から、黒煙がモクモクとあがっているのだった。三人が駆け寄ってみると、ゴミ置場に置かれた漫画雑誌が派手に燃え盛っていた。それを見た毅はすぐに踵をかえすと、店の方へ慌てて走って行った。しかし燃えているのが薄い紙である上、コンクリート製の壁で囲われているのでどこにも燃え移らず延焼がなかったせいか、一瞬爆発するように燃えたあと何もせぬうちに炎はみるみる鎮静化し始め、毅が大騒ぎで店のおばちゃんを引っ張り出してきた頃には完全に消えてしまっていた。
遅れてやっておばちゃんは後ろから首を伸ばして今まさに炎無しの現場を覗き込むと、おもむろに自分の拳固を振り上げ、ゼィゼィしながら毅の肩を一発ぶん殴った。なんとも鈍い痛そうな音がした。
毅は「はわ!!」と言い、うずくまってしまった。
おばちゃんは今度は平手で毅を叩きながら切れ切れに言い、噎せだした。
「年寄りを……、無駄に……、走らすんじゃ……、ないよッ……ガホッ」
「すいません、すいません」
毅は座ったまま後退りして謝っていた。
一方千央と真琴はというと、気の毒そうにその光景を見下ろすのみであった。