二十三、穴うめ
こいつでいいだろう、と公平は倉庫の壁に立てかけてあった大きなスコップを取り上げて、こびりついた泥を何とか削った。乾燥した土がポロポロと地面に落ちていった。
「思ってたより、重いんだなぁ」伊鶴はスコップを持って言った。
先日、取材に来たテレビ局のカメラマンが千央たちのイノシシ捕獲用落とし穴にはまるという事故が起こっていた、彼は鎖骨にひびが入り、その上高価な機材を壊しかけたのだ。
その穴は埋めたが、他にも穴がいくつかあるということを知ったハルエさんは、穴を掘った張本人たち、つまり毅たちに至急すべての穴を埋めてくるようにと言付けたらしい。それならと、当然千央たちにもお呼びがかかり、久しぶりに皆揃って山へのお出かけ、とこういうわけになっていたのだった。
最近ハルエおばさんは何をするにしてもピリピリとしていて、大変反論しにくいのだ、と毅は言った。当たり前だ、真琴は後ろから言った。
「あんなに近所の人達から誤解されてさ」
園さんは増田家の人間ではないし、霊能者は高齢過ぎて不満をぶつけるのには遠慮がある。だから年齢も適当で霊能者の娘であるハルエさんが一番辛い立場にあるのはある意味当然かも知れなかった。しかし、真琴は同情していた。もちろん千央たちも同様であった。
さて、あの取材の件で霊能者と決裂して以降、反対派の集会は増田家で開かれることはなくなっていた。だが、反対活動の集会は今では異様なほど盛り上がりを見せており、側におらずともその活動内容が聞こえてくるほどだった。
慶幾は釘抜き付きのデカいトンカチを投擲するように振り回しながら言った。
「今ではゴッチが反対活動のシンボルみたいになってるんだから……、可笑しいもんだね」
彼の言った通り、ゴッチの惨殺死体(解剖)発見事件はもはや反対派内でマスコットと化していた。
使い方としてはだいたいこのような感じだ。このような事件は二度と繰り返してはならないという教訓的な暗示と、次はあなたの家族がこのヤギのようになってもいいんですか?という脅しがけの二つである。
しかし慶幾の話を良く聞いてみると、彼の言った可笑しいという意味はどうやら違うところにあったらしい。
「西洋文化でヤギは悪魔の化身としてあつかわれているらしいんだよ。そのヤギの死体をバラされたことをあんなに怒って、マスコットにまで祭り上げるなんてさ。あいつらは自分から悪魔の仲間だと自称していることになるんじゃないのかな」
それを聞いて千央たちは笑いこけた。
さらに言えば、可笑しいところは他にもあるのだ。反対派は世間が自分たちを精神病は魔憑きのせいだと思っているカルトチックな差別主義者だという誤解を否定するために、霊能者から遠ざかったくせに今度は、ヤギを殺した悪魔を許すななどと言って、自らオカルト的な活動へと歩み始めたのだ。
これらを踏まえて、千央は反対派の人達をとても馬鹿だなと思ったのだった。
それから千央たちはスコップをまるで鉞のように担いで、山を登って行き、地図を頼りに落とし穴を順々に巡っていた。
「やれやれ」毅は地図を見て息を継ぎながら言った。
「僕ら張り切り過ぎて、数を多く造り過ぎたようだよ」 落とし穴は全部で九箇所あり、都合の悪いことにそれぞれ万遍なく離れていて、埋めてくるのには随分と時間がかかりそうだった。穴埋め作業自体は土を被せるのみの単純作業だったが、その穴を見つけることは難しかったからだ。勘でつけた地図は言わずもがな、あまり役に立たなかったのだ。
皆はぶつくさ言いながらも、また作業にかかることにした。千央たちは大体見当をつけた場所から蜘蛛の子を散らしすように離散し、穴を見つけたら大声で他の子を呼び一気に埋めてしまう、という方法をとることにした。このやり方でなら皆あまり離れなくてもいいし、効率もそれ程悪くない。その証拠に千央はこの方法で四つ目と七つ目を見つけた。
なぜこんな少し面倒くさい方法をとるのかというと、捜索が行われ何も見つからず、何度もテレビ局員が出入りしているとはいえ、それでもまだ心配だと考えているハルエさんに出発の際、口を酸っぱくしてこう言われたからだ。
「山では絶対一人になっちゃいけんよ、皆固まって行動すること!!分かったね?」 村人にとって、この山は今やや危険とカテゴリー分けされているようである。しかし、ゴッチを切り裂いた武器は今だ見つかっていないし、そうなるのも当然かもしれない、と千央は思ったのだった。
八つ目の埋め戻し作業後、九つ目に向かう途中、千央は自分のトラウマが何かに刺激されるのを感じた。
次の目的地は沢の近く、つまりゴッチが最初に捕獲された場所なのだ。
落とし穴に嵌まってしまったゴッチを皆で引き上げたのは、もう遠い遠い過去のことのようだ。当時、悩んでいたいたことが、今や取るに足らないものだと思えた、千央は過去が恋しく、無性に戻りたかった。しかし、別人になれないのと同じように、過去の自分にもまた戻ることはできないのだ。
それに、やっている時は何も感じていなかったが、死んだ動物を解剖したというその異常な行動に今さらながら千央は気づいた。以来、定期的にどす黒い感情の波に襲われているのだ。それは異様な臭気を放つ、とても無視できない種類のものであった。だから、いくら面白いことが起ころうと、何故だか全く関係の無いそのことが思い出されて、一瞬で神経質な領域まで引き戻されるのだ。何を呑気に笑っているのだ、それどころではないぞと千央の潜在的な意識がどこからか話しかけてくるのだった。もう、すんなり笑えるのは皮肉がかったものしか残されていなかった。それだけはゴッチの死体を思い返しながらでも努力なく楽に笑えるので、ついそちらの方面の笑いに走りがちだった。さっきも、患者が穴に落ちて捕まるかもしれんし、そのままにしとったら、首の骨が折れて死んどるかもしれんけど……あっはっは、と軽い気持ちで笑ったら、隣にいた伊鶴の顔が凍りついていた、それで初めて自分の異常さに気づき、千央は前にもましてますます打ち沈んでしまったのだった。
千央はそのことで少し毅を恨みに思ったものだが、しかし、毅も千央と負けないくらいに気分が落ち込んでいるようで、前のような元気がなかった。こんなときに責めるのはさすがに可哀相だと千央は思ったのだった。
「皆、あったよ」公平に呼ばれ、千央たちが向かうと、確かにそこには穴があった。時間が経ったせいか、フタの部分には雑草が生え、地面とほとんど同化してしまっている。それと分かるのはゴッチが落ちた穴があるせいだ。突き抜けた板葺き屋根のようになっていた。
千央たちはは早速スコップを持って、穴の周りを囲い、作業をはじめた。脇には山のように盛った土が大量にあった、穴を掘った時のものだ。土は長い間空気に晒されて、すっかり乾燥していた。
皆は一息に埋めようと素早く動き、ざらざらいわせ周りの土を穴へ流し込んでいった。とたんに土煙がそこら中に舞っていった。するとどこからかゲホゲホ、ゴボゴボと弱々しく咳こむ音がし、皆はビクッとして作業を一時中断した。
「あれ、大丈夫?」真琴が言った。
千央はきょろきょろと辺りを見渡した。伊鶴の顔色は良いし、アンコでもでもない。お互いの顔を見てようすを伺ったが、何も変わったことはない。森は沢と鳥と虫のたてる音以外、いつも通り静かであった。
しばしの無言の後、千央たちは気を取り直し、また埋め戻しの作業をはじめた。ざくり盛り土に突き立て、一杯の土を取った、そしてそばの穴に流し込んだ。
だがその一瞬か、二瞬後、とにかくすぐ後に、また咳こむ音。噎せこむ音。激しいヒューヒューという吸気の音が聞こえてきた。皆はその場に凍りついた。どうやらこの音はこの穴から聞こえてくるようなのだ。
毅は一歩退いたが、「何だ!!」と大声で言った。
穴からはまだ濛々と土煙が立ち上がり、周りの空気は白んでいた。しばし待ったが何も返答はなく、千央たちは目配せをしあった。怪しい。は青い顔をしている。すぐにお互いがお互いの考えていることが知れた。千央もピンときた。
彼である。
千央たちは穴の中に向かって、何回も呼びかけた。しかし全く返事がないことに痺れを切らし、皆はこわごわと上から覗き込んだ。
真っ暗な穴の中には人間が一人いた。胎児のような格好で丸まって、形や大きさからして人間の男だ。年齢は分からなかった。頭にはミイラのように何故か布がくるくると巻いてあり、顔が見えなかったからだ。ここまで見定めたところで、千央たちは顔を上げて、お互いの驚愕した顔を確認しあった。
「どうしよう」真琴は恐々として言った。
男は一生懸命に息をしようとしていたが、とても苦しそうで、陸にいるのにも関わらず、まるで溺れているようだった。咳込み、背中が大きくしなり続けていた。見るからに衰弱している。
「とりあえず、助けないと」慶幾が声を潜めて言う。
「助けるって、どうしたらいいのよ?」アンコは負けじと囁いた。
「よし。じゃ、まずはここから出そう」毅は覚悟を決めたように頷きながら言った。「引っ張り上げるんだ」
皆は穴に入って男の腕を掴み、引っ張り出しにかかった。が、彼の腕は汗や湿気なんかでとてもべとついていて、かなりやり難かった。さらに土がくっついていて、触れるとゴワゴワとした毛がちくちくした。男は、よなよなした感じでおとなしく従い、地上へ上がった。その後は、すぐに座り込んでしまい、土の上にぐったりと寝ついてしまった。
千央たちはそれを見て、またびっくりして顔を見合わせた。渦中の人を見つけたことにも困惑していたが、まさか死にかけのようにしているとは。
皆して途方に暮れていると、突っ伏したまま彼は唸りだした。ウーン、ウーンと、まるでサイレンのように。
「あのー、もしもし?大丈夫?大丈夫ですか?」
公平は男の中肉中背の背中をペシペシと叩いたり、ゆすったりして話しかけた。
彼の着ているTシャツはかなり薄っぺらく、土や泥で薄汚れている。千央たちは黙って深刻な思いで注目していた、歯を食いしばった口からはゼイゼイとした嗄声がもれたが、ハッキリとした言葉になることはなかった。
「何を苦しがってるのかなぁ」同情した表情で伊鶴は言った。
「喘息かなんかの発作じゃない?」とアンコ。「とにかく大人を呼んで来ないと」
「それなら、僕が呼びに行く。君たちはそこで見張っててよ」と伊鶴が言い、森を飛び出して行った。
千央たちは言われた通りに、男の周りを包囲した。相変わらず男は咳込み続けていた。千央は男のミイラのような顔を指した。
「ねぇ、これは何か怪我をしてるのかな?」
「いや、これは包帯ではないようだけど……」慶幾は言った。彼の言う通り、それは本物の包帯ではなく、単に布を破いて作った物のようなのだ。
真琴は推測して言った。「多分、逃げている途中で怪我をして、急ごしらえで作ったんじゃないの?」「それにしても怪しい。怪し過ぎるよ」
毅はしかめっ面で言った。その通りだ、と千央は思った。そして毅は男の顔の布に手をかけ、それを外していった。布はクルクルとリンゴの皮を剥くようにして外れていった。
「よせ」と、公平が言った。しかし、すぐに最後の一片が顔から離された。
……その時、千央は信じられない思いであった。とにかく全員がアッと息を飲んで、彼の顔を見下ろしていた。なぜなら、男の顔は一部の隙もないほど銀色の毛で覆われていたからだ。
「一体何だ。これは」と慶幾は言った。
それは広範囲に生えた白髭のようにも見えたが、しかし全体的に柔らかそうな感じで太陽の光を浴びてツヤツヤと輝いた。毛の長さは一cmか二cm程、鼻柱と眉間を中心にして、つむじ嵐のように生えている。
毅はその男の顔をまじまじと見た後、顔を上げた。そして大至急伊鶴を呼び戻してくるように、と誰にともなく告げた。
千央たちの会話が刺激になったのだろうか、そこで彼はいきなりゾンビのような爆発力で一気に起き上がった。さらに毅の腕を強い力でがっし、と掴んだ。その掴んだ手も、もじゃもじゃだった。
男は急に痛みに堪えるように、顔を歪め、しばらく何か話そうと頑張った。そうして、ようやっと男の口から出てきた言葉、それは、「腹が減ったよ……」であった。
男は毅の耳元でそうつぶやくと、ウッと息を飲み、力着きたかのようにまたどたりと地面に倒れ込んでしまった。
冷蔵庫を開けると、オレンジ色の明かりが皓皓と千央の顔と両腕を照らし出した。アンコはペットボトルの冷たいお茶、昨日のお惣菜の余りを、伊鶴は戸棚からバナナ、ポテトチップスを取り出した。二人は最高にワクワクしているようだった。
背後からは真琴と慶幾の会話が聞こえてきた。真琴は得に不安気だった。
「本当にあの人が逃げてきた患者なんだろうか」
「さぁ、とにかく早く誰かに知らせないと」
「でも毅の言う通り、下手な人に教えると騒ぎになるよ」
「とりあえず引き留めておかないと」
「引き留めるも何も、ほとんど昏睡状態じゃないかよ」 確かに男が弱り切っている今、拘束するには絶好のチャンスだ。それなのに、食べ物を与えて元気にしてしまってもいいものだろうかと、千央はちらと考えた。
しかしそれから数分後、男のもとには食べ物がどっさり並べられていた。増田家から持って来たものの他に、庭にうんざりするほど成っていたいちじく、そしてどこかの家の庭から失敬してきたらしいびわなどがあった。
公平はペットボトルの蓋を開けて、男の口元へとゆっくり持っていった。男はうっすらと目を開け、それを見ると、貪るようにしてお茶を飲み下した。続いていちじくに手を伸ばし、そのままかぶりついた。彼は噛みながら身を起こすと両手で食べ物をつかみ取った、それは素早く、次々に彼の胃の中へと消えていった。から揚げは二口で飲み込んだし、バナナは数秒でなくなっていった。ものすごい食欲だ。千央は彼の胃袋が心配になった。
やがて果物が消え、水が消え、食べ物が大方なくなると、彼は落ち着いて穏やかな顔になってきた。そして胡座に座り直し、変な口調で千央たちにこう言った。
「あの、皆さん。助けてくれて、どうも御有難うごさいます」
彼は胸の前で手刀を切り、それから両手をついて、千央たちに頭をペこりと下げた。
「一体何日くらい食べてなかったんですか?」
公平は言った。公平は何よりまず男の暴食ぶりに驚かされたのだ。
「いや別にそういうわけじゃ……ただ腹がへっていただけです」彼はこう言い笑った。
顔が毛で覆われていて年齢ははっきりしないが、声の質からして相当若いようだった。はじめ千央は奇妙な話し方から彼を外国人かとも思ったのだが、どうやら彼には元々ここの辺りではない、遠い地方のなまりがあって、無理矢理標準語で喋っているようなのだ。
とにかく皆はその言い訳を聞いて、お互いに困った顔を見合わせた。
千央は思った。これはどこまで突っ込んでいいものだろうか、と。もし自分の身分がばれていないと思っているのなら、黙っている方が都合がよいであろう、暴れられては確保できない、気づいていることを悟られてはならないのだ。
また千央は気の毒な思いで、また食物にパクつきだした彼を見下ろしていた。なにせ彼は、千央と毅の軽率な行動のせいで、ヤギで悪魔の儀式を行った異常者と思われているのだ。千央は申し訳なくて、心の中で彼に謝った。
やがて真琴が恐る恐るといった調子で話しかけた。
「あの、知らないなら言っときますけど、ここら一帯は私有地で、立ち入り禁止なんです。だから勝手に入られると困るんですけど」
千央は分かった、真琴は多分遠回しでお前はどこの誰かと聞いているのだ。
「でも君たちは入っているけど……、いいんですか?」
男はあっけらかんとして言った。
「この子の家の土地なんで」真琴は左にいた毅を指さした。
「はぁ……、それはなんともすごい広い庭ですね。これは遊びがいがあるでしょう」
男が昔話の登場人物のような語り口で感心したので、千央は可笑しさに吹き出しそうになった。それから男は毅に頭を下げて言った。
「あの、お庭に勝手に入ってしまって、本当すみません」
毅は苦笑いしながら言った。
「あ、いやでも、普段は立入禁止になってないんです。入っちゃいけない本当のわけは、最近危ない人が山に来ているからなんです」
多分これは男の罪悪感に対するフォローのつもりだったようだが、色々な前置きを端折って、結構大胆な探りをいれていた。千央は内心冷や汗をかいてウワーッと慌てた、と同時に彼の表情の変化に注目した。何か心当たりのあるようすを見せないか……と。しかし、じきに気づいた。毛もじゃな彼の表情の変化など、ここからでは全く分からないな、と。
「危ない人?」
やはり当人の顔の変化は全く分からず、彼は至極自然な声で聞き返した。
公平は慌てて取り繕った。
「いや、正しく言うとテレビでここが紹介されてから勝手に入り込んで怪我する人たちが出てきてですね……。」
成る程、少なくとも嘘は言っていない。
「へぇ……」男は唸った。
少々余裕の出てきたようすで慶幾は言った。「その上、最近は幽霊も出るんですよ」
その話は余計だよ、と千央は思いつつもニヤついた。
「幽霊が……?」
彼はうっすら口角を上げて笑い、唇を舐めた。「それって、どんな幽霊なんですか?」
千央たちは彼に湖水から起こった幽霊捏造騒ぎの一件を説明した。その幽霊とはイノシシのような硬い茶色の毛に、白い木のキバ、茶と黒の翼を持っているのだ。
男は興味深そうに話しを聞き終えて言った。
「それは随分良いことをしたんですねぇ」彼はぽつりつぶやいた。「僕は小さい子供を怖がらせるのは大変な罪だと思います」
それから千央たちはしばらく、彼と当たり障りのない会話をした。その間千央は彼が捕まった後の展開について、少し考えを巡らせていた。もちろん彼はヤギの解剖したことを否定するだろうと思う。それは真実だ。しかしそれを他の人が信じるかだ、信じないかもしれない。そもそも、彼とヤギが結び付けられたのは、逃げたのと、死体が見つかったのが運悪く重なったせいだ。彼はどうやら暴力的な人間ではないようだし、警察の信頼を得られるかもしれない。
この事件がうまいこと被疑者不明、名無しのゴンベエの仕業になればいいと千央は考えていた。それに、ヤギがすでに死んでいたのを警察は知っているはずだから、警察が本気で捜査しているのかも疑しい。きっとあんまり住人がうるさいために、表面上聞き込みをせざるをえないのではないだろうか??そう考えると、彼のことを通報するのも多少気が楽になった。
千央たちは予め談合していた。彼を皆で引き留め油断させておき、途中でさりげなくアンコと千央が抜け出して増田家に帰り、園さんなり、水野さんなりに話す手筈だ。アンコはそろそろだよと千央に合図し、二人はゆっくりと後退りしだした。そして森へと振り返った時、
「あ、ちょっと君」
千央は男に話し掛けられた。
「僕どこかで君の顔を見たことがあるように思う」
「え……、どこでですか?」
千央はどうせ飼っていたペットか何かに似てるとかだろうな、と軽い根拠で聞いたが、やめておけばよかった。
「うん、つい数日前なんだけと」
男はゆっくりかみ砕くように言った。
「僕は森の中を散歩していたの、そしたら君とアノ長い髪をした女の子、その子がヤギに何かをしていたのを見たんだ」
うわぁ、全部バレてるんだ、千央はそう直感して全身がギュッとなった。あの夜何かの気配は感じていたが、それは彼だったんだ。千央はどっかの管から空気の塊がせりあがってきて苦しくなった。
「いや、彼はああ見えて男なんですよ」公平は言った。
「そうなの?でもあれは真夜中で……、えーと、まぁいいや」男はとっさに複雑な表情になり、口ごもった。
千央は皆から不審な目を向けられた。否定すればよかったのに、千央は見られていたショックと注目されたのとで、自分が赤面しているのがわかった。それが何より真偽を雄弁に語ってしまっていた。伊鶴は勘違いしたらしく冷やかして、年長組は顔を見合わせた、慶幾はニヤついていた……。アンコは目を数回しばたいた。
千央は毅の細腕を捕獲して、助けを求めた。毅は顔面蒼白であぅあぅと狼狽していたが、やがては観念したようすで切り出した。
「それは……うーん。分かった、話すよ……。……その時、僕らはゴッチの病気を調べに行ってたんだ」
「えっ、わざわざ夜中に?なんで誘ってくれなかったの?どうせなら僕も一緒に行きたかった」伊鶴は不満気に言った。
「まぁ、黙って聞いてろ」公平は伊鶴を遮った。「で、ゴッチに何をしたんだ?」
「うん。それは……」毅は言いづらそうに黙ってしまった。
「ねぇ、何をやったの?」公平は少し怒っていった。「おい」
「ゴッチの解剖はこの人じゃない、私たちがやったの」千央は一気に言った。
その場は一時静まり返り、やがて騒然となった。毅は苦悶の表情を浮かべて、続きを話していった。
「少し前に図書館で毒草とかフィラリアについて調べてただろ?それで、胃の中の物や、心臓を見ればゴッチの死因がはっきりすると思ったんだ。だから僕らでゴッチの胃を調べに行ったんだ。それから、心臓も」
話が進むにつれ、真琴は肩で息をしはじめた。慶幾のニヤニヤ笑いは拭い去られていき、徐々に困惑した表情になっていった。そして、ボソリと言った。
「じゃあ、あれは……」
皆は事の重大さに黙りこくってしまった。しかし、しばらくしてアンコが聞いてきた。
「それで、ゴッチの病気が何かわかったの?」
「いや、結局分からなかったよ」
毅は首を振り、
「それにあの灰色の手……。あれは……、あれは一体なんだったんだろうか……」
とつぶやいた。そして突然膝から崩れ落ちて、
「ごめんなさいごめんなさい本当に申し訳ない」
と皆に謝りまくった。
「僕は知っていたよ」公平はぽつりと、びっくりするようなことを言った。「まぁ、正しくいうと、二人が何か隠していると思ってただけなんだけどな」
真琴は手をあげた。
「私もなんとなくは気がついてた」
「二人がよく話しているのを何度も見掛けてた、単に仲がいいだけかと思ったけど、全然楽しそうじゃなかったし。千央も明らかにようすが変だったからね……」
「でもさ、二人は本当に隠し通せると思ってたの?こんな大事になったのに?」
公平は千央と毅に言った。
千央と毅は首を竦め、しょんぼりとうなだれた。空気がピンと張り詰め、ことの重大さに辺りは水をうったような静けさになった。
「何?どういうこと?」いきなり、この場の雰囲気にそぐわない声がした。
この中にただ一人事態把握できないものがいたのだ。むろん例の男だった。彼は特別鈍感そうなようすで聞いてきた。
公平は説明しながらも、話の核心に迫っていった。
「少し前に、そのヤギの死体が見つかって村は大騒ぎになったんです。なぜなら、近所の精神病院から患者が逃げ出して……そのままつかまっていないんです。村の人はあなたがヤギを解体した犯人だと思ってるんです。つまり、病院から逃げて、武器を盗んでヤギの解剖をして山にいると、あなたがヤバいやつだと言って、村中がかなり怒ってます」
そしてそれが反対運動の反撃の材料にもなっているのだ。
「はぁ……なるほどね……ハハ、なんか怖くなってきたな。うーん。まぁ、何かされたわけじゃないから別にいいんですが……」
男はしかめっ面だったが、多少面白がった調子で言った。告白してできたダメージが強過ぎて分かり難かったが、彼はこの発言でさらりと自分がその患者であることを認めたのも同然だった。
それから彼は俯いて、腕に嵌めた輪ゴムを弾いた。しばらくたった後、ふいと顔を上げてにわかには信じられないことを千央たちに言った。
「そう。君たちがそれで困ることになるのなら……、むしろそれは僕がしたことにしてもいいですよ」
千央は驚き、思った。それはありがたい申し出だけど、彼の名誉はどうなるんだ?それに何故そんなことをしてくれるんだ?と。
さらに男はこう切り出した。
「ただしね、これには交換条件があります。通報を待って、もう少しだけここに居させてほしいんです。まだ僕はここでやることがあるんです。お願いします」
そして男はジーとこちらを見た。
「それに、もし僕が掴まったとしても、少なくとも君たちのことを教えないと約束します。今日の食べ物と宿の恩がありますから……」
それを聞いて毅はしばらく黙り込んだ。そして、こくりと頷いた。……契約成立の瞬間だった。千央たちは彼の通報をしばらく待ち、男はこの先ゴッチ解剖の真の犯人と千央たちに会ったことを秘密にしておくのだ。
彼のこの提案の訳、それはおそらく千央たちと同じように名乗り出る勇気がまだないのだろうと千央は思った。
毅は尋ねた。
「あの、一つ聞きたいんですけど。僕らがいた場所の近くで皿とかリュックを見かけませんでしたか?」
千央はリュックのことはすっかり忘れていたが、持ち主の毅はちゃんとそのことを覚えていたのだ。
「ああ、それはちゃんと返しておきましたよ」男は言った。
「えっ!!どこに?」毅は驚いた。
「そりゃ、君の家に」
「家にですか!?なんで僕の家を知ってるんですか?」
「ええ、だって……ハサミに鷲崎って名が彫ってありましたから。そこの家にまとめて置いたんですけど、あの山の奥にある……、いけませんでした?」
千央たちのびっくり顔を見て男は慌てて言った。
いけないもなにも、返すところを間違っているのだ、千央は衝撃を受けた。だから鷲崎さんは庭仕事に関係ない毅にわざわざ訊いてきたのか。それから、ゴッチの死体が見つかった次の日、千央は野菜畑にハサミを持っていった。もしかしたらあれは……あれは、鷲崎さんのハサミではなかっただろうか?千央は自分の鈍感さに愕然とした。
毅は息を荒くしながら言った。
「僕の名字は喜屋武で鷲崎じゃありません。鷲崎はハサミを借りた人の名前です」
「じゃあ、僕まずいことをしちゃったのかな?どうしよう」
「いや、でも……。それってまさか血まみれのままで返したりは?」
「川でちゃんと洗いましたよ。でもそんなに血はついてなかったと思いますよ」
「そっか……、なら大丈夫です。多分」
彼の情報に毅はホッと胸を撫で下ろしたようだった。
しかし、千央は逆に不安になっていた。鷲崎さんが全くの馬鹿だとは思えなかったのだ、少なくともそれなりに勘が働く人物であるはずだ。じゃないと遠回しにハサミのことを聞いたりしてくるはずがないだろうと思って。
夕暮れ時、山道には夕日が一杯に差し込んで、皆の顔は揃ってみかん色だった。次の日も必ず行くと彼に約束した千央たちは、意気揚々と山を下っていた。
しかし、公平だけはようすが違っていた。
「なぁ、さっきの話、本気なのかよ?!」
公平は脱走男を匿うのには反対なのだ。これを倫理に反する行為だと彼は考え、益々事態を混乱させてしまうと主張した。
怒る公平に向かって、歩きながら千央は言った。
「あの人がそうしたいって言ってるんだから、しばらく黙っててあげようよ」
千央は思った。彼の意見は尤もで、本来なら自分も同じことをしていただろう。しかし、状況が状況なので千央としてはもう選択肢がなかったのであった。
「そうだよ。ゴッチを解剖したとか言われてたけど結局何もしていなかったんだし、全然普通だったじゃん」と伊鶴。
公平は呆れ返って言った。
「あのね。そう見せてるだけかもしれないだろ、お前らは子供だから簡単に大人に騙されるんだよ。もし油断した隙に襲われでもしたら大変なことになる」
「そんなこと言って自分もまだ子供じゃないかよ」慶幾は言う。
「何?人間不信なの?」アンコが笑った。
「違うよ。お前らが間違ってるから忠告してるだけだ」
公平は否定したが、そういえば最近、彼は佃さんの件で大人に騙されたばかりなのだということを、千央は思い出した。このことで公平は人一倍過敏になっているのもあるかもしれない。
「だいたいそんなことがバレたら、益々村の奴らから村八分を食らうぞ!!」公平は大きな声で言った。
「もうされてるだろ」前を歩いていた毅は振り返った。
「責任は僕が全部取るよ。公平たちはどうせもうすぐ帰っちゃうんだから。だから好きにやらせてくれ」
そう言う、毅の目には有無をいわせぬ凄みがあり、公平は黙ってしまったのだった。