二十一、灰色な手
人生避けて通ることのできない道というものがある、と千央は考えていた。
例えば、虫歯の痛い治療とかだ。しかしこれは行ってしまえば後は楽になるのだから、まだ救いがあるといえる。だがこの場合、進んでも退いても別の災難が待ちうけているのだ。
それでも、もう少し早く動くべきだった。今さらだけれど、千央は後悔せずにはいられなかった。
大規模な捜索が行われることが決まった、今回は山もその範囲に入っている。その噂を耳にしたのは千央が川遊びをしていた時だった。千央は、そのあまりの衝撃のためゾエアだか、メガロパだかの大量にいる水を誤飲し噎せてしまった。
「どうした?大丈夫か?」
ミズスマシのようにスイスイと泳げる公平の声に頷きながら、千央は川からあがった。そしてタオルで顔を拭きながら、千央は本格的に焦ってきていた。
山の中には今もゴッチの解剖死体がそのままになっているはずだ。腹をさかれ、胃袋と心臓とを晒された死体が。もしそれが見つかったとしたら、どんなに恐ろしいことになるだろう。
千央は毅のところに行き、彼にそのことを伝えた。そして考えてもみろ、と千央は前置きし、毅に言った。
「精神病院の患者が逃亡した、かもしれない先に、ヤギの惨殺死体が見つかったらどうなる?その人がやったと絶対大騒ぎになるよ」
「いや。あれは、惨殺死体なんかじゃないよォ」
毅は異議を唱えた。
「じゃあ、何なんだ」千央は反抗した。
「……解剖死体じゃないの?」
まぁ、確かに間違ってはいないが、そういう意味で言ってるんじゃない。
「いや、だからさ。惨殺死体に見えるのが問題なんだよ。あれはどうやっても、自然に死んだままのようには見えないよ」
きっと、今の状態であれを見つけられたらそうとしかとられないだろう。それに会ったこともない人に罪を被せるわけにはいかんのだ、と千央は思っていた。それに真犯人である、千央たちも名乗りでることは極力避けたいのだ。
「うーん。どうかな。あるいは、動物に漁られたように見られるかも」毅は希望的観測な意見を展開しだした。「例えばさ。ミルコが鷲崎の家から逃げ出したとする……」
急に毅は息をのみ、カラカラと笑い出した。
「そういや、ミルコは歯がなかったっけか」
千央はビシッと言った。「冗談はいいから、こんな重要なことを起こるか分からない運に頼ってどうするのさ」
とにかくなんとかして捜索隊がそれを見つけ出すまでに、ゴッチの死体を再び土の中へ埋めて隠さなければならない、そうしないと無実の人に迷惑をかけることになる、千央はそれを必死になって訴えた。すると、毅は急にこちらに向き直って言った。毅はかなり腹を立てているようだった。
「迷惑!?迷惑だって!?ねぇ、本当のこと言うとね。僕はその人にすっごく怒ってるんだ。そいつが病院から逃げだしたせいで家がこんな面倒なことに巻き込まれちゃって。こっちはもう十分迷惑かけられてるよ。知らないやつに疑いがかかろうが、そんなことまで気にしてられないんだよ!!」
毅はひどくキレたようすで言った。
確かにあの番組に取り上げられたせいで、霊能者はお客から信用を失い、大変な打撃を受けたに違いなかった。それに、これから石室たちのいじめがエスカレートすることは確実だろう。祭りの日、毅は一足早く今後の学校生活を体験したのだから、それで失望したり、怒るのは無理もないように思った。
「そうだったね……、ごめん」 千央はしおらしくなって言った。毅は笑った。
「もうさ、ほっとけばいいじゃん。面倒なことはしないでおいてさ」
千央が謝ると毅は急に柔和になり、鈍感な様子になった。その変わり身速さと無頓着な物言いで千央はなんとなく感づいた。
毅がこの件で行くのを渋っている本当の訳は、霊能者のことでも、いじめっ子のことでもないのだ。確かにそれは含まれているだろうし、迷惑しているというのも嘘ではないだろう。しかし主たる理由、それはおそらく、あの正体不明の生物の出た場所にまた戻るのが恐いからだ。あれとは解剖をした夜、開いた腹に手を掛けて出てこようとした灰色の謎の生物のことだ。実は千央と毅はあの時起こったことの話を全くしていなかった。それは取るに足らないことだからというわけではなかった、怖くて仕方がなく二人は自然と口を噤む格好になったのだった。
このことはまるで重い枷にでもなったかのように、二人のこれまでの生活を変えていってしまった。
毅はあれほど遊びに行っていた山を避けるようになり、千央はその逆で誰かが山で遊ぶ時は必ず付いていくという、今までとは違った俄然付き合いの良い人物になった。というのも、この数日、千央が恐れていたのは山に行った他の子が悲鳴をあげて家に逃げ戻ってこないかということだったからだ。千央は、山に遊びに行くと言う度にできるだけ他の遊びを持ち掛けて引き止めた、それでも行ってしまった時は、その間ずっとヒヤヒヤしながら皆があの現場に近づかないように、あの惨状が他の誰にも見つからないようにと祈りながら、始終見張っていた。我ながら不気味だなと千央は思いながら笑ったものだ。
確か、たった一度だけ本当にドキッとした瞬間があった。数人が慌ただしく帰ってきて、玄関で騒いでいた。千央はその時心臓を突かれたかのように感じ、息が詰まったが、結局はイノシシ捕獲ようの落とし穴に誰かが落ち込んでお尻を泥だらけにしたというのが真相だったのだ。 今日まで千央はこんな大変なことになるのなら、あんなことやらなければよかったと千央は何度も何度も後悔した。いつまでこのプレッシャーに耐えなければならないのだろうか。
「そうだね」千央はさっきの毅の言葉を軽く受け流した。
いままでやばいと思っていながらもそのままにしていたのは、あの森にいってゴッチを埋める恐怖とその後の安心感とをのメリットをデメリットを天秤にかけても、どっちがより楽ともイマイチ判断がつかない、宙ぶらりんの状態であったからだ。しかし今、やっとこのままでは確実にマズイことになる、という核心ができた。今回の状況はある意味千央にとって待ってましたというような事態であった。煩わしさからすっきりと解放されたい、千央は何よりそれを期待していた。
「じゃあ、あんなに可愛がってたゴッチはどうなるの?死体は野ざらしでいいの?」 千央はじりじりと詰め寄り、脅しの文句を言った。
「ゴッチをちゃんと埋葬してあげなきゃ、私たちの他に一体誰がやるの?」
毅はしばらく苦い顔をしていた。
もとはといえば、掘り返して解剖したのも愛情からという話だったし、これを拒否すれば辻褄があわないことになる。千央はそこを刺激してみたのだ。
やがて毅はげんなりした顔で言った。
「あー、わかったよ。行くよ、行けばいいんだろう?気が乗らないけど」
そして、付け加えた。
「ただし今度は明るいうちに行こう」その言葉に千央はしっかりと頷き、心の中でこうつぶやいたのだった。
“そして、できるだけ早いうちに”
しばらくの後、川にそった山の坂道には、やる気なさ気にゴッチの墓へと向かう二人の姿があった。
その最中、千央は考えていた。
ゴッチの死体は一体どんな状態になってるだろうか、と。きっとひどく腐ってしまってるに決まってる、解剖した時だってあんなに臭ったのだから。そして、あの不可解な現象については今から思うと、死体をいじくりまわした呪いか、あるいは地球外生命体の出現なのだと半分信じ始めていた。しかし、また一方ではそれが白昼夢だと思い、まるで現実感のないもののように感じていた。
千央は深呼吸した。どうせ避けられないなら怖がるよりも、楽に終わらせられるように神経を使おうと決心した、そして後少しでこの苦しみから解放されると思うと、久しぶりの山の空気がいつにもまして清爽に思えてきたのであった。
そこへ、ざらざら、ざらざらと聞き慣れない不審な音が聞こえてきた。
遠くの方に急な坂道を木の幹に抱き着くようにして、滑り降りてくる人影があった。よく見ると、それは一人の青年であった。斜面はどこも茶色い木葉のカーペットが敷いてあるようで移動する度に、木の葉が舞い上がっていた。彼は坂を降りるとポケットに手を突っ込んで近くまでやってきた。
「あれっ、君たちどこに行くの?」
青年は毅を知っていたらしく、川の向こう側からこちらに呼びかけてきた。
「えーっと」毅は考え言った。「お墓参りです。ヤギの」
「ああー、あれ君たちのヤギだったのか?そうか、そんなら……、まぁとにかく今ヤギの墓にはいかない方がいいと思うよ」
青年が訳知り顔なので千央は不安になった。
「えっ、何でですか?」毅は素っ頓狂な声を出した。
千央たちは随分と遠くにいるのに、青年は身を乗りだし、ヒソヒソ話をするように喋りだした。
「きっと、あいつがここに逃げて来てるんだよ」
「あいつって?」毅は聞いた。
「実はさぁ、さっき山に行ったらそのヤギの死体がばらばらにされてて、これは大変だと思って今父さんたちを呼んだんだよね」
ここで、青年は顔を歪めた。
「多分あいつの仕業なんだよ」 そこにガヤガヤと騒がしい声が聞こえてきて、何人かの村人たちが林の間を通って行くのが見えた。
「お、早速騒いでるね」
青年は嬉しそうに言い、向こうへ戻って行った。
彼が走り去って周りに誰もいなくなった後、毅は「こりぁ、マズイ」と言い、眉毛をついとあげてみせた。
とうとう悪夢が現実のものになってしまったと、千央は恐ろしさに身を震わせた。
この状況からいってゴッチの死体荒らしはほぼ間違いなく、あの逃亡患者のせいだと思われるだろう。そしておそらく、皆は患者(実際の彼の人格はわからないが)をサイコキラーの異常者だと思い、パニックになってしまうのだ。そしてマスコミに嗅ぎ付けられ、そして興奮した住人に患者はリンチされ、最悪殺されたりするかもしれなかった、勘違いのために。千央は何度もした恐ろしい想像をまた繰り返した。
しかしそれでも、千央たちが名乗り出ることはもう無理だろう、もちろん殺人の元凶になりたくないが、すでに千央たちが住人に許される余地はなくなっていたからだ。こうなったのも、あの憎たらしいテレビ番組のせいだ……。
ゴッチが死んだ時、佃が道を尋ねて来た時、公平との話を聞かれた時、一つだけでも違っていたら、もう少し早く気づいて対処していたら……。今の状況も全く違ったものになっていたであろう。千央は深く後悔した。結局これは必要なくなってしまったと、千央は手に持っていたゴム手袋を見た。その時千央はあることを思い出して、あっと声をあげた、血の気がひく思いだった。毅は何事かとこちらを見た。
「ねぇ、あっちにはまだ毅のリュックとか、ナイフとかがあるはずなんだけど、大丈夫?」
毅はしばらく考え、思いだしたのか、何か苦い物を含んだような、ゲッっという顔をした。
あの得体のしれない物体が頭を出しかけた時、毅は藪の中にナイフを放り投げた。そして必死な思いで逃げ帰ってきたのだ、千央たちはその時、確かに手ぶらであった。千央は頭をフル回転させて考えた。それを見つけて、自分たちと結び付けられる人はどれぐらいいるだろうか?と。それはたくさんいるだろう、毅のリュックに増田家のバケツ、皿……ナイフ。そう。それから、使った道具の一つに鷲崎さんの剪定バサミもあるのだった。
二人はゴッチの墓に急行した。
そこにはすでに数名が集まっていて、例の死体の周りをうろつき、死骸の検分をしていた。千央たちは杉の木の後ろに身を隠して、遠くから様子を伺い見た。
「本当に腹の裂かれとぉごたる、こっから……ここまで、胸から腹まで一直線に」
「どっから持ってきたのヤギやろうか?近くにヤギば飼っとる人はおったっけ?」
「わからん。こいはなんこ?あっ!!内蔵か……。腐っとる」
ふと千央は毅がいなくなっていることに気がついた。周りを見渡すと前の方で、毅が身を屈めてコミカルな動きで抜き足差し足という風に走っている。低木の影や林のすき間を次々渡って行く……、千央はつい噴き出してしまったが、毅が至極真剣な顔でこちらに戻って来て、ナイフがなくなっていると重々しく告げられるとたちまちそれも失せた。どうやら毅は後ろに放り投げたナイフを回収しようと出向していたらしい。
「ちゃんと捜したの?」千央は聞いた。
「うん、周りをぐるっと回ってきたもの。多分、先に来た人にもう拾われちゃったんだよ」
毅は泣きそうになって言った。千央も同様だった。どうやらもう証拠隠滅の機会は永遠に失われたようなのだ、というか、すでに先に見つけられた時点でなかったのかもしれないが……、千央は遠くの現場を見遣り、思った。
「斬り殺したとやろうか?そいにしちゃ血の少なかように見ゆっけど」
「いや、こいはもう死んどったもんば掘り返しとおごたっよ」
「……わざわざ墓ば掘り返したとか、一体なんのために」
「こいはもう……警察を呼ばないかんな」その中の一人が言った。
この言葉は千央の耳に爆弾のように響いた。とっさに千央は飛び出して、それは自分たちがやったのだと白状したい衝動にかられた。しかしそれはまた驀進するダンプに飛び込むくらい恐ろしく危険なことに思えていた。
千央は何か行動する前に後のことをいくつか想像するのだが、今回は焦りすぎて何も考えられなかった。つまりは何にも行動に移すことができないということであった。今の千央に出来るのは、ただ恐い顔をしてそれを見守ることだけだった。「もう、家に帰ろうよ」
持ち帰る物がないとわかった今、ここにいてもストレスになるだけだと思い、千央は言った。
千央たちが立ち上りかけたその時、ふと、背中からロケット花火の様な音が聞こえ、二人はとっさに振り返った。それを見て千央は大きく息を呑み、とっさに立ち上がろうとしたのだが、毅に押さえ付けられた。千央の目には視界の端から端へと、ものすごい速さで横切っていく黒い影がうつっていた。
その謎の物体はゴッチの墓までを一直線に向かうと、おじさん達の間を大きく8の字を描くようにして飛びだした。影は木が燻るように黒い煙を猛烈に吹き出しながら、彼らの腰のあたり高さで素早く飛行した。それは、眩しいものを見た後に視界に出てくる黒点みたいな色をしていて、動きは速すぎて黒い線に見える程だった。
「ゴッチが生き返ったんだ……」
小さくつぶやく声が聞こえ、千央は隣を見て仰天した。毅が涙を目にいっぱいにためていたからだ。
千央は慌てて否定した。しっかりしてくれよと、思いながら。
「でも、普通魂なんかは白いんじゃない?あれは黒いよ」
「そっか。確かに真っ黒だ……くまんバチかな」毅は目を凝らして言った。
千央はそれを指差したまま、しばらくの間固まっていた。あんなに近くにあるのにも関わらず、おじさんたちはまるで気づきもしない。しかし、あれは本当にハチなのだろうか?そのうち、水蒸気が蒸発しきる時のように謎の黒い影はしゅっと、一瞬で消滅してしまった。 その後千央たちがいくら目を凝らしても、黒い影が見つかることはなかった。
肝を潰すような目にあった二人は、山をとろとろと降りていた。
「あの人たち、リュックについては何も話してなかったよね」毅は千央に何度か確認してきた。
「うん、でも拾われたんなら証拠として、警察に渡すつもりなんじゃないかな」
もし、警察に調べられたとしたらとても敵わないだろうなと千央は思った。おそらく、持ち主は簡単にわかってしまうだろう。そして多分増田家に道具が盗まれていないかと尋ねにやってくるのだ。その時は観念して白状するしかないだろう、それともそんなに長いこと精神が持たないだろうか。
千央は言った。「道具は誰が持っていっちゃったんだろう?」
「分からないよ」毅は肩を竦めて言った。「ねぇ、もしこれがばれても解剖は違法ではないよね。つまり逮捕されることはないよね」
「知らないよ。……警察が来る前に誰かに言ってしまう?」
「そんなの無理、大体どう説明するんだ。犯罪者予備軍みたいに思われるのは嫌だよ、ボク」
確かに凶悪犯が少年時代に小動物をいじめていたというエピソードはよく聞く話だった。だがしかし、千央たちは決して楽しくてやったわけではなかった。だってあんなに怖かったじゃないか、今となってはあの恐怖が免罪符のように思えてくる。まぁ毅はあまり怖がっていなかったようだけど。
しかし千央たちが恐々解剖していようが、残酷な楽しみで解剖してようが、今さら外に与える印象や影響は悲しいことに、何にも変わりはしないのであった。
「そりゃあ、私だってそうだよ」千央は自嘲笑いをした。
知られたくないのは千央も同じだった。
この間のテレビの件で酷く責められたばかりでなのだ。異常呼ばわりされて、その孫たちがヤギかっさばきの犯人だと知れたらどうなるだろうか、千央は考えたくもない。今でさえ家の中で異常者扱いされているのに、このうえ動物の虐待癖有などと思われては、もう立場がないではないか。
「ああ、もういっそ肩代わりしてもらおうかな、あの入院患者に」もう投げやりな調子になって毅は言った。
それは名案かもしれない、と千央は思ったが口には出さず、代わりに泣き声を言った。
「私はもう家に帰りたいよ」
「いや、君だけが逃げるのは許さないから」
しかし、毅にこう言われてガシッと肩を捕まれ、千央は大きく脱力してしまったのだった。