二十、天花粉とテンニン糖
あの最悪のテレビ放送のあった次の日、真はめでたく全快し、病院を退院することになっていた。しかし増田家に帰ることはなく、本来なら福岡の自宅まで真っ直ぐ帰っている予定であった。だが真は星祭りが終わるまで滞在を許してくれるようにと母親に頼み込んだ。
いや、正しくは千央たちの目の前でめちゃくちゃに駄々をこね、ゆすり、脅しをかけたのだ。
「僕もお祭りに行きたいよ。ねぇ、お母さんお願い。えぇー絶対行きたいったら!!お願い!!ねぇぇー……。くっそ、行けないんなら病気のままの方がずっとマシだった!!マジ死んだ方がマシだよ!!死ぬ!!僕死んでやるから!!」
と、真はすさまじく場違いで不謹慎なことを大声で言い、ナースセンターの机を叩いた、終いには足をばたばたさせ、他の入院患者の注目を浴びていた。それはサルの挑発行動に似ていた。こうして彼は母親に恥をかかせて、しつこく粘った結果、とうとう許可をもぎとり、増田家に帰って来た訳なのであった。真のひどい振る舞いに千央たちは少し引いたが、本人は全く気にするようすもなかった。
「真、あんた普段からものすごく甘やかされてるでしょ?」
季生子の至極真っ当な指摘に対し、真は苦笑いしながら、こう答えた。
「今までの経験から言って、冷静に頼むと逆に聞いてもらえなくなるからそうしているだけ。わざとだよ、わざと。アハハ」 その真に千央たちはまず、退院おめでとう、と言ったが、他にも早急に言うべきことがあった。先日増田家に来た佃さんの名刺の行方についてだ。あのテレビ放送で起こったパニック以来、皆は軽いショックを受けこの件はしばらく忘却の彼方にあったのだが、今日真に会うことになって慶幾が思い出したのだ。
慶幾はそのことを真に聞いた。しかし、真はまず佃さんのビデオがテレビで放送されたことすら知らず、大変驚いたようすをみせた。
「もう、すごくびっくりしたんだよ。あの時は本当に心臓が止まるかと思った」
辛いものを食べた時のように真琴はヒーッと音をたてて息をした。
真は顔を歪めながら言った。「そういえば昨日、病院の駐車場にテレビカメラを持った人が何人かいるって他の人が騒いでるのを聞いたよ。テレビが取材に来てるって言ってさ。……じゃあ、あれはこのことに関係があったのか」
話を聞いて、千央の気分はさらに憂鬱になった。テレビは外の世界でも騒ぎになっているのか。
「それって生放送だったの?」
さあ、と真は言った。「僕は見てないから分からないけど」
じゃ、これから放送されるかもしれない。千央はあれ以来、とてもじゃないがテレビを見ていられなかった。付けていないテレビでさえ恐かった。その四角い箱と真っ黒い画面の組み合わせを見ているだけで、あの時のショックを思い出すのだ。頭の中が混乱状態になって、急激に肋骨が一回り縮んだようになる、気分も悪い。多分これは何かの発作なんだろうが、どこが悪いのかは全く良く分からないのだ。
しかし、これからは注意して見ていなければならない、ああ嫌だ、憂鬱だ。
「で、肝心の名刺はどこへやったのさ?」と公平は聞いた。真はこう答えた。
「それがね……。覚えてないんだよ。確かに僕が最後に持っていたような気はするんだけど、あの後どうしたかの記憶がないんだ。人から貰った名刺を捨てるわけないんだけどな……、どこかに置き忘れたのかなぁ」
「それか落としたか」とアンコは言った。もし、そうなら名刺はそうそう見つからないだろう。もうずいぶん日が経っているし、広大な山道を探すなど無茶があった。
「でも名字はわかってるんだから、あとは大学の名前さえ分かれば。なんとか……」
「それがさ。だぁれも覚えてないんだよ」
公平はがっくりとし、失望した声を出した。
これは千央たちの間でも何度か話された話題だった。とりあえず、候補からはものすごく有名な大学は除外された。名刺にかかれた大学名が例えば、東大とか早稲田とかであったら、誰かがそれを指摘するなり記憶しているはずだからだと真琴は主張した。いや、案外大学名などは見てるようで見てないのかもしれない。人の目はかなり注意力散漫だから。しかし、佃さんの大学がハーバード大だろうがイェール大だろうが、今回重要なのは結局どこの学生だか千央たちには全くわからないということなのであった。
とにかく、最後の希望も崩れ去り、これで皆は名刺から連絡先を知ることは無理であることを悟った。佃さんと連絡を取るには何か別の方法を考えなければなるまい。
それから一日後の今夕、千央たちは出かけるために浴衣を着付けてもらっていた。まず風呂に入り、天花粉を体にはたいた後、アンコは藍色に金魚の泳いだ浴衣に青い帯、季生子は黄色に赤の帯を合わせてもらって、それははしゃいだ声を出した。千央は緑色の浴衣に白い線の入った帯を着させてもらっていたが、千央はその祭の前評判を聞いて、すっかり気分が重たくなってしまった。
西昇町の隣、原崎町にある仁奈八代神社では、8月の16日から18日にかけて天仁星祭りが開催される。この行事は一風変わっていて、子供たちが馬や牛の格好をしたり、かけっこや力比べなどが催されたりするのだ。今夕千央たちはその催し物の一つ、井戸場でんでん巡りという行事に、ほとんど強制的参加させられることになったのだ。
その井戸場でんでん巡りはまず、川に向かい水を汲み、村の一番古い井戸まで歩いて行く、そこへ着いたら、水を井戸の中に流して終了なのだが、この作業に参加できるのは小学校高学年から中学生までの子供のみで、さらにほとんど明かりのない中で行われなければならないのだった。
祭りの会場に行くまでの間、毅はこの行事の由来について話を聞かせてくれた。
今から300年程昔、原崎町の村々では長い間全く雨が降らず、川や井戸は枯れて、畑の農作物はおろか人々は自分たちの飲み水も苦労する有様だった。
だが、不思議なことに水が枯れていない井戸が唯一、一箇所だけあった。その家に住んでいたのは、婿をとってきたばかりの若い夫婦だった。その若夫婦は村の皆に水を分け、与え村人は命を救われた。
しかしその水もやがては尽き果て、そのうち体の弱かった夫は病に倒れ亡くなってしまう。“おれが死んだら村の脚が一等速い馬と一番力持ちで大きな牛をきっと用意しておけ。織り姫様と彦星様にお願いして、天の川から水を汲んできてやる”という言葉を遺して。
遺された妻は夫の希望を叶えようと、村中を奔走し、最後は村の地主に頼み込んだが素気なく断られてしまった。彼女は涙に濡れた手で泥をこね、本物の代わりに馬と牛の土人形を作った。次の満月の夜、人形はもくもくと動きだし、本物の馬と牛になった。また次の夜には村に雨が降りだし、井戸は水で満たされ、川の流れも元のように戻ったという。 今でもこの亡くなった若者は神通力の持ち主だったとか、この村には土人形から生まれた牛の子孫がいるとかいないとか言われおり、そのため町民たちは若夫婦への感謝の気持ちと鎮魂の気持ちを込め、馬や牛を真似て仮装したり、普段家で飼っている牛を連れ出して町を歩かせたりする。井戸場でんでん巡りもその一貫なのであった。
会場の仁奈八代神社に着いた時には日は沈んで暗くなっており、幾件も並んだ店の前には丸い提灯が吊され、朱く光っていた。美味しそうな匂いがそこら中に漂っていて、辺りはもう賑わいをみせていた。
「私、射的がやりたいの。得意だし」と、アンコは嬉しそうに言って出店に駆け付けた。
それに対して季生子は、「お祭りの出店は高くつくよ」などと、所帯じみたことを言いいながらも後を付いて行った。
「僕らは何か食べ物を買ってくるけど、君たちはどうする?」水野さんたちと別れて、人込みに入ってからすぐ毅は言った。
千央は毅に言った。
「私はアンコが射的をするのを見物してる」
「僕もそうするよ。慣れないものを食べるとたいていお腹壊すから」と真。
「そう」公平は言った。
「じゃあ、お巡りが始まるまでは別々に行動して、後で神社の前に集合な」慶幾はそう言って神社を指差した。そして伊鶴ら四人は連れ立って人の波の方に消えて行った。 その後、千央とマコト二人はアンコのいる的屋に向かって歩いた。草履は地面の砂と擦れてざりざりと音をたてた。神社までの道のりには金魚すくいに、水風船釣り、綿飴や、りんご飴、フランクフルト、などたくさんの出店が並んでいて、千央は色々目移りした。おじさんたちが汗をかきかき、それぞれ客の呼び込みをしている。千央はその客の群れの中に見知った顔を見つけて、少なからず驚いた。
それは、台風で小学校に避難した時に会ったあの悪ガキのボスだった。毅の親を「人殺し」呼ばわりしたやつだ。今日も数人の取り巻きを従えて、スーパーボールつりなどに興じている。
「どうしたの?」 千央のぎょっとした顔を見て真琴は聞いてきた。
「ああ、あいつらさ。本当に最悪なんだ」
千央は彼を指差して静かに言った。二人にあの台風の日に起こったこと、自分が聞いたことをすっかり話した。
話を聞き終えた二人は一様に怒り、そして不思議がった顔をしていた。
「毅のおばあちゃんと親父さんがあの子の弟を殺しただって?」
真琴は千央に聞いてきた。
「それってどういうことよ?」
「知らないよ、そんなの」千央は首を振った。
「てゆうか毅ってお父さんいたのかよ?一度も見たことがないから、てっきり両親はいないものだと思ってたなぁ」 確かに今まで毅の両親らしい人を見かけることはなかった。千央は毅の両親は死別しているか、あるいは離婚したのだろうと勝手に決めていた。もしくはなんらかの理由で別居しているのかもしれないが、ことの真相は毅本人に聞かないかぎりはわからないであろう。
「ねぇ、その人を殺した罪で刑務所に行ってるんではないよね?」と真琴。
「まっさかー、そんなわけないじゃん」と千央は言った。千央はとりあえずあの男の子に腹を立てていたのだが、ひたすら想像力を巡らした結果、彼の弟の件についてわかることは全くなかったのであった。
さて、三人が遅れて射的屋につくとアンコはすでに射的を始めていた。ここはわりと大きな店で、真っ赤な暖簾に達筆な筆使いで「娯楽・射的・遊戯」と書いてあり、その周りを金色の房が縁取っていた。広さは他の店の二倍ほどあり、的になる商品と発射台は六メートルくらい離れていた。商品はお菓子やヌイグルミ、おもちゃの箱が置かれて、なかなか豪華な品揃えだった。
アンコは鉄砲にコルク弾を込め、よく狙いを定めて引き金を一気に引いた。――お見事。弾は命中し、前方にあった薄い箱はふらふらと揺れてぱたりと倒れた。アンコはまた狙いを定めて鉄砲を撃った。またも命中。今度は小さなヌイグルミの入った袋を跳ね飛ばした。それを見た隣の子供がうわぁ、と歓声をあげていた。
的屋のおじさんは苦笑いをしながら、アンコに景品を渡した。発射台にはもういくつかの商品が積み重なっていた。アンコが射的が得意だと言っていたのは、どうやら本当らしかった。
千央たちが見ているのに気がついたアンコは、言った。
「マコトたちもやりなよ。楽勝だよ」
それに対して千央はううんと、首を振った。千央は空気銃のポンポンいう破裂音とか、そういうのは苦手であった。ましてやこんなにたくさんの人の注目を浴びながら撃つなど、とんでもないと思ったのだった。
「私はてんでダメだったわ」季生子はなにやら口をモグモグさせながら言った、アンコの取った商品のキャラメルを食べているのだ。
「僕、やってみる」
と真は名乗りをあげた。料金は7発500円。真はおじさんに500円を払うと、小柄な真にはいくらか大きすぎる鉄砲と皿に入ったコルク弾を受け取り、銃身に弾を込めた。
真琴は柱によりかかり、千央は腕を組んで、そのようすを興味深げに眺めていた。
真は棚の一番奥、ど真ん中にある大きな箱に狙いを定め、一発撃った。乾いた音をたて、弾は飛び出した。当たったが、しっかりとした作りの箱に跳ね返された。もう一発。しかしまたも、弾は弾かれてしまった。
「ねぇ、ちょっとおじさん。当たったのにあの箱全然倒れないよ」アンコは店のおじさんに抗議した。
「ああ、当たっても倒れないとだめってことになってるんだよ。頑張って倒してな」
おじさんはタバコを吹かしながら、唇の端をちょっとあげ、笑った。
真はもう、と面白くなさそうに舌打ちを打って言った。「箱の中身が重くて倒れないんだ」
「でも、大きな箱が軽かったらむしろ難易度が下がるでしょう?だから、調度いいんじゃないの?」真琴はそう言って、宥めた。
あの角を狙ったら?と千央は言おうとしたが、その後ろから新しい客が賑やかにやってきて、おじさんに声をかけた。それでその機会は失われた。客は二人の小学生らしい、話し声がこちらまで漏れ聞こえてきた。
背があまり高くなく、太っている方が言った。
「じゃあ、負けた方がヤキソバを奢るってことで」
「あぁいいよ。まぁ、俺の方が上手いと思うけどね」もう一人は背が高く、痩せている。
彼らには見覚えがあった、さっき千央たちが見かけた一団にいたやつらだった。千央たちは素早く目配せをし合った。あちら側はこちらの方に全く気がついていないようで、たくさん景品を取ったら勝ちだとか、いや大物を取った方が勝ちだとか、色々賭け事の内容を話していた。
やがて、太った方が銃を構え、菓子箱に狙いを定めてこれを撃ち取った。次に背の高い方が小さなおもちゃ入りの袋を取った。千央たちはそのようすを盗み見ていた。7発全てを撃ち合った結果、数では太った方が上回り、商品の豪華さでは長身の方が上だったようだ。
「お前はいつでも小物狙いなんだな」数で負けた背の高いのは腹立たしそうに言った。
「どうも、俺はあくまでも堅実な性格なんでね。無理はしないんですよ」太った方はそう言って、商品棚に視線をやった。「ならさ。あのくらいデカイやつを取れたら、小さいの5個分のカウントってことでどう?」
彼が見ていたのはさっきまで真が取ろうと試みていた箱であった。パッケージには有名なキャラクターがプリントしてある。ノッポはそれを請け合い、二人は新たに弾を買ってまた撃ちはじめた。ノッポは最初からあの大物に撃ち、太ったのはまた小さな箱や袋狙いだった。
しかしながら、太ったのは前までのように景品を取れなくなっていた。不思議なことに狙いを定めて引き金を引くと、その一息前に誰かがその景品を撃ってしまうのだ。実はこれは、ちょうど隣にいたアンコの仕業であった。
彼の驚いた顔を見てアンコはにやり笑うと、わざとらしいようすで彼の手元を観察し、撃つタイミングを計っていた。
一方ノッポも苦戦中だった。何発か撃ち込んでも重いためか少しぐらっとするだけで、すぐ元に戻ってしまう。これにはアンコのようすに気づいた真が参戦し、ノッポに張り合ってまたあの箱を狙いはじめた。二人が撃ち出すと、その衝撃で箱は前にぐらり後ろへぐらりとし今にも倒れそうなまでに揺れた。アンコもそれを見て一緒に箱に向かって撃ち出した。太ったのは呆れた顔をしてそれを見ていだが、真とアンコが仲間同士であると察知したのか、彼も標的を変えてきた。
箱はさらに大きくぐらりと揺れていった……が、なかなか倒れてくれない。
「おじさん!!一回分ね」
真琴はいきなり大声を出し、鉄砲と弾を手に取った。そしてすかさず、箱目掛けて発砲した。続いて千央も、お金を払い真に加勢した。それに最後には季生子までが加わり、最終的には総勢7人が一つの的に向かって弾を撃ちまくる、という変な事態になった。
辺りにはポップコーンが爆ぜる時のような、パンパンパンパンという音が連続して鳴っていた。
箱は長い間、前にぐらぐら後ろにぐらぐらを繰り返した。大きく後ろに傾いた反動で前に傾いた時、真の撃った弾が箱の右下隅にヒットした。すると箱は人が転ばされた時みたいに一気にボテっと倒れた。実にあっけない感じであった。
「終りょー!!勝負あった!!」おじさんが手をあげて叫んだ。いつの間にか射的屋の親父が勝負を仕切っていたのだ。
景品は最後に弾を撃った真に譲渡された、真はとても嬉しそうな顔をした。あの二人は舌打ちをし、面白くなさそうにこちらを振り返りながら店を出て行った。
このよくわからない張り合い合戦は千央たち側の勝利で終わった。しかしこの勝負で大分小遣いを消費してしまい、皆の財布は一様に軽くなってしまった。結局、今回の本当の勝者は射的屋の親父なのかもしれないと、千央は思ったのだった。
店を出た後、季生子は聞いた。
「何のおもちゃをとったの?」
「開けてみなよ」と真。
「何じゃこりゃ」箱を開けてみて、真琴は笑った。
中にはキャラクターの姿をした、一対のおもちゃ電話が入っていたのだった。
アンコは笑って言った。
「可愛いじゃん。でも子供用っぽいかも」
「これは……、湖水にあげようかな」電話を見て、真はこうつぶやいた。
それからしばらくして、神社の前で千央たちと合流した毅たちは、一体何事だ、という顔をすることになった。
「あいつらを僕らが負かしたんだよー!!ばんざーい!!」
真は毅の周りをスキップして、ぐるぐる回って言ったからだ。つい最近退院したとは思えない、厄介なくらいの元気さだった。
毅はことの次第を聞き、ふーんと面白がったような苦しいような顔をしていたが、やがて、「よく殴られなかったよなぁ」とだけ言った。
公平と伊鶴の手には、透明の袋に入った金魚をぶら下げられていた。赤い魚には祭りの明かりが当たり暗い中で金色の光を放っていた。黒の出目金は闇にまぎれて、静かに尾を振っていた。
大人たちは子供の間に割り込んで、井戸場でんでん巡りのためにグループを作らせた。これは一つが4、5人の組で、千央たちはは毅と公平、アンコ、千央と、真と真琴、伊鶴、慶幾の二つに分かれた(季生子は高校生なので参加しなかった)。グループには提灯とバケツ、予備の懐中電灯が一つずつ配られて、提灯の蝋燭には火が点された。それから、たくさん集まった子供たちの前に骨張ったおじさんが登場して、説明をはじめた。
「皆さんは最初に川の下流へ行って、バケツに水を汲んで下さい。そこに係の人がいますのでカードにスタンプを押してもらって……」
骨おじさんは自分の持っている二つ折りの厚紙を見た。これは千央たちのは毅が持っていた。「尾形さん宅のお庭にお邪魔して、井戸に汲んできた水を流します。それから水の事故がないようにとお参りして下さい、スタンプを忘れずに、それが終わったら帰り道は……」
他の子たちはうんうんと頷いて聞いていたが、千央はあまり聞けていなかった。ちょうど側にいた園さんの腕の中で湖水が僕も行きたいと、駄々をこねはじめたからだ。
「僕も行くぅー。僕も」
湖水は体を一杯にのけ反らせて、ばたばたと暴れた。最近見たような光景だ。千央は正直うらやましいと思った。この夜の散歩に行かないですむのなら、どんなにか気分が楽になるだろうか。
「だめだめ、湖水はまだ小さいんだから」園さんは言い聞かせた。
「泣かないで、湖水。ねぇこれをあげるよ。ほらっ、金魚だよ」伊鶴は金魚を見せて慰めてやり、湖水の小さな指に引っ掛けてやった。それでやっと湖水は笑顔になった。
真琴は湖水を抱っこした園さんと隣にいる水野さんとを見比べると、こう言った。
「あの二人、こうして見るとなんだか夫婦みたいに見えるね」
「うんうん。付き合っちゃえばいいのに」
アンコはふふと笑った。
そういえば、この間おじさんたちが水野さんは女にうつつを抜かしてると言っていた。あれは少々言い掛かりぽかったが、もし二人がカップルになるのなら、美男美女でとてもお似合いだと千央は思っていた。 それからいくらか時間をかけて神社からいくかのグループが次々と出発していった。しばらくして、とうとう順番が回ってきた、千央たちはマコトたちに見送られて神社を出た。人いきれから抜け出した神社の外は真っ暗で、涼しいというよりはむしろ寒々としていた。
足元では虫がピィピィと鳴いており、いきなりチビの蛙がピョンと跳ね、きゃーっと幼い奇声があがった。この一団には出発間際、僕が連れていこうか?と言って結局毅が預かった湖水も一緒だったのだ。
周りには街灯もなく、提灯の光だけが頼りであった。所々にある丸い明かりは監視員の人たちで、先の道にうねるヘビのような形に配置されていた。五人は目的地に向かって、田畑だらけの暗い道をずんずんと歩いていった。
第一のチェックポイントは案外と近い場所にあった。川音が聞こえてきて、それで少し林を抜けるともうそこは川だった。監視員が黄色い提灯を持って立っていた。ここは川の下流で川幅は広く、深さはかなり浅い。監視員さんにスタンプを押して貰った後、毅はサンダル履きの足を片方川に入れて、バケツに水を汲んだ。
「うゎ、めちゃ冷たい」毅は呻いた。
いくら下流とはいえ、この涼しい夜に山の水に触れるのはかなり辛いのだ。千央も川に手を突っ込んでみた。水は黒灰色をしており、なにかの鉱物が溶けて流れ出たもののように見えてきた。
水を汲み終わった千央たちは、冷たい風の吹きすさぶ川原には長居せず、次の行き先へすぐに出発した。提灯が強風に煽られて、ばたばた音をたてた。 次の目的地である尾形さんの家は元来た道を一旦引き返して、しばらく歩いてから小路に入って行った場所にあるらしい。その道すがら、千央たちの目にこちらに来る一つの提灯明かりが見えはじめた。それはどんどん近づいてくる。
「ゲッ!!石室だ!!」
毅はそれを見ておかしな声をあげた。
「隠れないと」
毅は道路を渡り、向かい側の歩行者用道路まで行ってしまった。千央たちも慌てて追いかけた、そして道路脇の低木の繁みに固まって身を伏せた。枯れ草が薄い浴衣を通して尻に突き刺さり、とても痛かった。
彼らの持っていた提灯が不意に揺れ、一瞬顔を照らし出し、千央もその顔を確認することができた。なるほど、毅が逃げた理由がわかった。またあいつらだった。さっき射的屋で張り合った太ったのとノッポ、例のボス格のやつ(こいつが石室だろう)と千央の知らないのが一人いた。提灯を携えて四人で歩いている。彼らもこの行事に参加していたらしい。しかし、今晩はよく会うなぁ、そう千央は思った。
「何なんだよ?知り合いか?」公平は繁みから覗きながら言った。「何で隠れるんだ」
これは毅にとって耳の痛い質問だろう。
千央はボソと答えた。
「毅の敵だよ」
「マジで卑劣なやつらなの」とアンコ。
「ああ……?確かに柄は悪そうだな」
仲間の一人が川面に乱暴に石を投げつけはじめたのを見て、公平は目を細めた。
「くそ、不法投棄だ。環境破壊だ!!」アンコは怒りだした。
別に川原の石だし、別に不法投棄にも環境破壊にもならないだろうと千央は思ったのだが、黙っておいた。
「なぁ折角鉢合わせたんだし、俺が行って一発シメてきてあげようか」
そう言って、公平は繁みから立ち上がろうとした。
「駄目だよそんなことやったら、余計に悪化するよ。お願いだから静かに座っててよ」
毅はそれを慌てて押さえ込み、二人はしばらく揉めていた。
「やられてばっかりじゃダメだろ。反撃しないと、ナメられるぞ。まさかずっと黙ってるわけじゃないだろうな?」
「無理無理。相手はデカいし、話しも全然通じないんだから」
「ねぇ二人共、隠れてるのに声が大きいって。このままじゃ見つかるよ」とアンコが言って、やっと静まった。
それからすぐに、石室たちは千央たちの前を通過して行った。
そうだ、千央はやっと気がついた。あの番組が放送された、今後あの石室たちから毅への風当たりはよりひどくなるに違いない。今は夏休みだからまだいい、今みたいに隠れたらいいんだから、でも新学期が始まったら一体どうするんだ。学校に行けば会いたくなくても会わざるを得ないのに、毅にとって9月1日からの新学期は地獄になるんじゃないかと千央は心配になってきたのだった。
公平はそれに気付けないのだ。毅が家の仕事のことでいじめられているという事情を知らないんだから。千央は公平に訳ありな感じの視線を送ったが、公平はまるであさっての方向を向いて、暇そうに草をむしっていた。
こちらからは石室が川岸に近づき水を汲んでいるのが見えた。彼らは結局こちらには気づくこともなかった。千央は道を通り遠くへ過ぎて行く石室たちを静かに見送った。
「おい、燃えてる、燃えてるぞ」
公平がいきなり慌てた声を出した。
「熱っい」アンコが言って、急に跳び上がった。
見ると、傾けて置かれていた提灯の外張りが風に煽られた炎に触れ、パチパチ煙りをあげはじめていた。その場はたちまち大パニックになった。三人は一斉に立ち上がって、提灯の上で地団駄を踏み、必死になって火を消した。浴衣姿でぴょんぴょん跳びはねたりして、傍から見ればかなり面白い光景だっただろう、千央は肩で息をしつつ思った。
やがて騒ぎも収まり、気づくと千央たちの辺りは光もない暗闇になっていた。毅が予備の明かりとして持たされた懐中電灯をつけたので、千央はホッとした。
「ああ良かった。危うく山家事になるところだったよ」歩き出しながら、毅は言った。その手には焼け焦げた提灯があった。
「あっ僕ら馬鹿だなー。水があるんだから、これで消せば良かったんだ」公平がバケツを持ち上げた。「忘れてた」
「アンコ、どうかした?」毅は言った。
ふと見ると、アンコが何かに気を取られているようにして一人群れから遅れていた。アンコは自分の後ろを振り返って言った。
「ねぇ、さっきからあれ、何だろう?何に見える?」
アンコは少し離れた山の斜面を指差した、そこには一つの赤い玉が漂っている。和紙を通した光のような仄明かさだ。
「提灯?」千央は言った。
「どうしたんだろう?誰か迷子になったのかな」
「向こうに隠しルートがあるのかも?」毅は言った。
「そんなゲームみたいなことないだろ、だいたい夜の山に入らせるなんてそんな危ないことさせないよ」公平は思いついた顔をした。「ああ、そうだ。もしかしたら人魂かもしれないな」
「はーん。そういえば、昔この近所に墓があったと聞いたことがあるな……。無念の死をとげたあの若者のさ」毅は早速便乗した。
うわ、冗談でもこんな暗い中でそういうこと言うのはやめてくれ、と千央は思った。それとも大人たちがこういうことをして、驚かすという余計なイベントがあるのだろうか。どっちにしろ恐いので、やめてほしかった。その時、千央の目に不意にあるものが一瞬だけ見えた。
カーテンを開ける人の手のような格好で、竹林の間からにゅるり、細く伸びた炎が覗いたのだ。それは人魂よりも現実的で直接的な脅威だった、あれは提灯じゃない!!火事だ、山火事なんだ。
「まだ、燃えてる!!」公平も気づき、大声をあげた。「大変だ!!」
千央たちは猛スピードで山の中に造られた階段を三段跳びで上がり、現場に駆け付けた。
案の定、炎が燃え上がっていた。火は竹のすき間を縫うように縦に成長していて、長く伸びたようだった、火は周辺の竹林と地面に溜まった枯れ葉とを焼いていた。竹がまだ青かったため、あまり燃え広がらなかったらしい。炎が当たると竹の葉は一瞬濡れたようになり、その後すぐくしゃくしゃに丸まり黒く焦げてボトと落ちた。
「早くバケツを寄越して!!」
と公平は言ったが、そのバケツを持っていた毅は、まだ到着していなかった。湖水を連れていたからだ。 千央たちは急いで引き返し、また階段を一気に駆け降りていった。そして階段途中にいた毅と湖水に合流した。もう、浴衣も髪も乱れまくっていた。
「毅、水、水。バ、バケツは……?」息を乱しながら、アンコは毅に聞いた。
「あっ!!まずい!!僕、下に置いて来ちゃった」
毅はバケツを持っていなかった。下を見ると確かに階段の上り口にバケツがあり、黒い水面が波だっていた。嘘だろう。
「何で置いてきたのさ!?」千央は怒鳴ると、アンコとまた階段を駆けた。
下まで降りて、二人でバケツを持って上った。途中でアンコの体力がつきてしまい、それからは千央が一人で持っていった。
しかし千央が現場に到着すると、火事はすでに鎮火していた。焦げた地面の上では金魚がピチピチ跳ねていて、その側で湖水がぎゃあぎゃあ泣き喚いていた。
「もう間に合わないだろうと思って」
察するにどうやら、公平が金魚の袋の水を火にかけたらしかった。公平は湖水にごめんね、ごめんねと言いながら金魚をかき集めていた。
毅は拾った赤い金魚にとても手こずっていた。
千央は毅にバケツを差し出そうとして、不意にあることを思い出し、恐ろしくなった。金魚は急激な温度変化に弱いのだ、以前飼っていた時も新しく買った金魚は時間をかけて水槽の温度にならしてから入れていた。熱過ぎると当然茹だってしまうし、冷た過ぎてもまた……、
「ダメだよ川の水じゃ、冷たすぎて心臓発作で死んじゃう!!どこか別のところで水を貰わないと!!」千央は思いっ切り叫んでしまった。
千央はイラついたようすのアンコと階段ですれ違った。
「ねぇどこに行くの?火事はどうなったのー?!」
アンコの声は遠く後ろの方から聞こえてきた。
両手で作ったお椀に何匹かずつ金魚を入れて、千央たちはぬるい水を求めて暗闇の中を疾走した。早くしないと、金魚が窒息死してしまう。
前を走る公平がこんな叫び声が聞こえてきて千央は思わず吹き出し、少し失速した。
「くっそ!!こんなに掬わなけりゃよかったあぁぁぁ!!」
千央たちは結局神社まで走り帰り、金魚すくいのお店の水を貰い、金魚たちはなんと無事生還したのであった。さすがにバテバテになってしまい、井戸場でんでん巡りはリタイアした。
帰りに千央たちはでんでん巡りの参加賞として薄い琥珀色をした棒付き飴を一つ貰った、胴体から四つの手足と丸い頭のついた人型の飴だった。中には金箔が混ぜてあり、それが綺麗に光った。この飴は祭りの由来になった若者を模して作っているらしい。感謝しながらも、片や若者を菓子にして食ってしまうのだ。理由はよく分からないが、なんとなく千央はこのことを不気味に思ったのだった。
翌日のお昼のこと、真は母親の運転する高そうな車に乗り、家に帰って行った。
別れ際、皆は連絡先を交換仕合い、湖水は電話のお礼を言っていた。サンサンと太陽が照り付ける外にでたので、皆顔をしかめていたが、それは眩しかっただけのせいではないように思った。少なくとも、千央はそうだった。