二、千央、カラフルなパンダに会う
通い慣れた道とは速く感じるものだ、と千央は思った。しかし、逆に待ち時間は日に日に長くなっていくように感じられた。ただ笑えた初回のころを終えてみれば、効果もない除霊を受けるのは、思っていたほど気楽なものではなかった。
この日、千央は部屋の後ろで巨大な猫のようにだらしなく寝そべっていた。こういう時周りを気にしなくていいから子供は楽でいい。
今日もずいぶんと混んでいる。
近ごろ千央は自分の腹の中に余分な内蔵が増えたような、今までと違う働きをしているような気がしていた。緊張すると、何故か腹と首辺りが激しく脈打ち、肝心の心臓は冷え切って妙な無感覚状態になる。まるで腹が腐っていくようで、じっとしてはいられない気分になるのだった。
始めの頃、あまりの奇妙な感覚に、千央は自分がゆっくりと死ぬのを体験しているのかと思った。千央は布団に横になり大変至極真面目な態度で、臨終の時を待っていた。当然死ぬことはなく、その日千央は布団でそのまま寝入ってしまい、弊害といえば、そのせいで夜眠れなくなっただけだった。後から思えば、とても間抜けな光景だと自分でも思うけれど、その時は真剣にそう思いこんでいた。
千央は立ち上がり、父にトイレと口の動きだけで伝えて、部屋を出た。別段便意も尿意も感じてはいなかったが、身体を動かして温めたら少しは状況がよくなる気がしたのだ。千央はトイレの場所を知らなかったが、それを借りに行く人を何度か見かけていたのでなんとなく見当はついた。
廊下を出て左に曲がり、進んだ。真っすぐ行くと、突き当たり左右分かれ道があり、一方には奥にまっ黒いカーテンが見え、もう一方はまだ道が続いていた。右側に進むと、廊下は縁側みたいになっていて右手はガラス張りだった。そこからは黄色い四角い陽光が差し、庭を見ることができた。 それは、すばらしい庭だった。日向でひまわりは元気に咲いていた。日陰にはキキョウが水分たっぷりという様子でいくつもの花を付けている。遠くに大きくずっしりと固まった鶏頭がある、それは充血した小人の脳みそのように赤々としている。斑のアイビーがそれを縁取るように植えられている。しかし、斑入りの葉はそういうものだと知っていても、やはりどうしても病気のように見えるなと千央は思った。庭の外周には、ツツジの木がぐるりと植えられていて、庭師がそれを剪定していた。
用もないトイレにしばらく座った後(立派な洗面所だったので、千央は例によって腹を立てた)、またすばらしい帰り道を歩いている時、千央は不審な部屋があることに気づいた。行きに見た時は、無意識に窓にカーテンがかかっているものと思った、しかしよくみるとドアの枠にカーテンで目隠しのみがしてある。しっとりとした重みのカーテンの裾は、余るほど長く、光を通さないようにしてあるようだ。なんでもない黒いカーテンだが、ここでみると黒魔術的なものを思わせた。一体、なんだろうか、と千央は思った。
千央は好奇心のままドア枠のある奥へ進んでいき、捲ろうと手を伸ばした。
その時急にぐらぐらとカーテンが波打った。次の瞬間、女の子が目の前に飛び出してきた。いきなりの鉢合わせに二人はびっくりして見つめあっていた。千央ももちろん驚いたが、それ以上に同じ年頃の仲間を見つけたという嬉しさと興奮の方がすぐに上回った。
「食べる?」
その子は早々に気を取り直したようすで、こちらに菓子袋を見せた。
千央はその一言で、その子は女の子ではなく男の子だということに気づいた。男の子にも高い声、女の子にも低い声の持ち主はいるけど、その違いはなんとなく聞き分けることはできた。
「いらない」
千央は拒否した。
「あ、そ」
男の子は袋を雑に破ると中のバターケーキを食べた。
もしかして、この子は人の家に勝手に入って盗み食いをしているのか。千央は部屋をのぞこうとした自身を差し置いて、とりあえずそう思った。
もしそうなら確かに問題児だ。窃盗癖……ここに連れて来られるのもある意味当然かもしれない。
千央はかなり不信がった顔をしていたと思うが、それを見るか見ないかのうちに、その子は部屋の奥へすたすたと入っていってしまった。千央はその後を追い、慌てて部屋に入った。
薄暗い部屋の中は粉っぽいと思えるくらいほこり臭く、千央は息をつめて目が慣れるのを待った。
千央は中の光景に圧倒されていた。部屋は、畳ほどの広さだったが、その半分ほどが大小の包装された箱で占領されていた。箱の山は部屋の角を一番高く段々低くになっていて、そのせいで、奥にある窓は外の光が遮られ、うす暗かった。ふいに金属音がしたのでそちらをみると、さっきの子はたくさんあった菓子缶を一つ取り、フタを開けて、クッキーを食べだした。千央は困惑してそれを見ていた。
ほこりが舞う散る中、男の子はクッキーを貪り食い、砂糖粒が輝き、大変不思議な光景だった。
「いつまでいるの?」 男の子は手の上に乗った砂糖粒を払いながら言った。言葉のニュアンスがどことなくおかしい。彼は急に我にかえったようで、千央に笑いかけていた。しかし、どこか一腹ありそうな笑みだった。
千央は答ようとしてすぐ黙ってしまった、この部屋のどこからか声が聞こえてきたような気がしたのだ。
部屋の壁の一つは入り口のドアと同じでカーテンがひかれていた。確かに集中すると確か人の声がそこから聞こえてくる。男の子もしばらく一緒に耳を澄ませていた、気のせいではないらしい。前にもこんなことがあったな、と千央は考えた。
男の子は箱の山を乗り越え、訳知り顔でこちらを向き手招きした。そして、床に寝そべりカーテンの裾に頭を入れた。千央もそれに習い、男の子の隣に寝そべった。
カーテンは二重になっており、手前の方にドアにかけてあったのと同じ黒いカーテンが、二枚目は、これはうすい茶色のカーテンだった。これにはまたどこかで見覚えがあった。
千央も同じように頭をだすと、目の前に又箱の山があった。隣の男の子を見ると、箱のすき間を熱心に覗きこんでいる。
すき間を探し、千央も覗いた。
部屋で見知らぬ老人が正座でこちら側に話しているのが見えた。
千央は悟った。あそこはさっきまでいた霊視部屋でここは控え室なのだ、ということはあの山はおみやげものだろうか。しかし自分達は何にも持って来たことがないぞと千央は思った。
「この人の奥さんは末期がんなんだ、気の毒にねぇ」
隣で男の子は目を細めながら、ぼそりと呟いた。
千央は首を傾げ、ひねくれた考えをおこした。はたしてこの子の言う気の毒とはどういう意味だろうか、奥さんが病気で間もなく死ぬことか、それとも頼る人を間違えていることだろうか、と。
老人の体には薄いシャツが体に張り付いて、痩せた肩の形がはっきりと見えていた。
おじいさん、あんた来るところ間違ってるよ。病気の妻の側にいてやればいいんだ、この馬鹿詐欺師の所なんかじゃなく。無駄なことのように思えたが、又ふつふつと怒りがわいてきていた。
彼女がこの弱りきった夫婦にとりついているといっているものはなんだろう。
どんなことを責め立てているのだろうか。
今までの経験からして大抵の偽の霊能者は話したことから、殆どの人はそうだろう、ということを自信たっぷりに言ったり、どちらでも通用する質問をして、予め答えがわかったかのように振る舞ったりしている、言い当てる。ここまでなら誰でもできそうなのだが、宗教の怪しい雰囲気で疑心暗鬼にしたり、不幸になると脅したり、先祖を無下にするという罪悪感を持たせたりするのは普通の人にはできない。
それと人を騙すという背徳ができる人物に限る。これらの粗悪な混ぜ物が、霊能者を肥えさせているのだ。正しくは偽物の霊能者だ。
しかしそれより、本当に自分が霊が見えると信じている人の方が怖い。霊が見えると嘘をつく人と、どっちがましだろうか、千央にはわからない。
たまに両方わかっていて演技しているんじゃないのかという場面にでくわすことがあった。
この前、千央の前の番だった人の話だが、その人は体調不良の相談できていたようだったが、会話の端々に親戚からむけられる容赦ない悪意についてを匂わせ、さりげなく霊能者に訴えていた。この人は明らかに愚痴をきいてもらいにきているだけだ、と千央は話しを聞く途中でわかってきた。最初は呆れたが、話しを聞いていて段々同情の気持ちが沸いてきた。最終的に千央は、その話の高松の伯父夫婦とやらに殺意まで抱いた。
結局、ほとんど誘導尋問のようにして出た結果は期待通りだったようで、その人は気が晴れたようにして帰っていった。千央は複雑だけれど、その姿を祝福しながら見送った。
とても短い時間だったが、こういう場所の意義、有用性を多少なりとも理解することができ、また、霊能者の優しさ、というか配慮、のようなものを感じたエピソードだった。霊能者はある程度ウンウンと話を聞いてくれるし、気軽に愚痴れるような人が側にいない人にはよいのかもしれない。
しかし肝心なのは、千央自身が納得も得もしてないことだ。むしろマイナスじゃないか、と千央は自分の考えに絡んだ。
その通りなのだ。むしろ他の人たちと同じように話をきく父の真剣な顔に呆れ、父への尊敬が日々削り取られていった。大波に削られる岸壁のように。いまや千央の父への信頼は真夏のゆきだるま並に減っていた。
千央は、老人はやっぱり信じているのか、女と問答する様子を見ながら思った。
千央が憂慮していた怪しい儀式はなかった。しかし、やはり異常ともいうべき光景が目の前で繰り広げらけているのだった。
この霊能者と適当な呼び方がないのでそう呼ぶの対談は、医師の診察に似ていると思う。
まずはじめに、相談者は今抱えている問題や不安を相談し、霊能者は過去にやった罪についていくつか質問する。ここでは、自らの罪やの失態が悪霊を引き寄せ、困難や不満を引き起こすと考えられている。
だから、相談者はの子供時代から人間関係まで根掘り葉掘り聞かれ、そこから何に憑かれているかを推測する。その原因が本人に見つからない場合も安心だ赤ちゃんなど、話は家族や先祖、前世にまで及ぶ。たとえ、結局当人が聖人の様に暮らしていても、もれなく晴れて憑かれたに認定される。
憑きものは大抵人や動物、化け物の姿をしている。稀に生きている人にとりつかれることもある、千央の場合もそうらしい。まさか除霊のため本人を殺せとか言わないだろうな、と千央はいかぶったが、本人は生きていてもいいらしく、殺人は勧められなかった。
そして対象が定まればお祓いのプロセスに入る。
除霊はその霊に話かけながら行う、なだめたり賺したり、時には怒ったりして真面目に離れよう訴える。幽霊にも性格があるようで、すぐ離れたり、逆に離れなかったり、何か言ったり要求してきたりする、というかそう演出している。その光景は異様に見えると同時に可笑しかった。
霊能者は突然除零される側になって奇声をあげたり、急にまともに戻ったりを繰り返しながら、一人、大芝居を繰り広げるのであった。それは、サイレント映画のように身振りが大袈裟でありながら、それでいて声までついているので、やかましく滑稽この上なかった。
しかし、千央は基本不機嫌と無口を装っている手前、可笑しいところにあってくても笑うわけにはいかず、毎度も吹き出しそうになるのを堪え、大変苦しい思いをしていた。
そして他の人は知らないが、千央はお祓いの後、家での課題が出された。
毎日、お香を焚くことと、家の手伝いである。 お香は叩き割ったような形の木片で、増田家の玄関あたりの受付で1セット600円で売っていた。これは長さがなく、肌は流木のように滑らかで、ピンセットで挟んで火を付ける。そうしないとやけどをしそうになって、すごく危ない。
さらにこの木片、かなり火が付き難い、しかも火の元はマッチでなければいけないとの通達があり、さらに焚く時間も夕方と決められていた。その時間家には誰もいないので、さぼってもばれようもないのだが、千央は義理堅く毎日焚いていた、誰にに対しての義理なのかはわからないけれど。
しかし、本物にうんざりするぐらい目にしみる煙りだった。千央はお香を炊く度、大粒の涙を机に垂らして、泣いていたくらいであった。
男の子が首を引っ込めたので、千央も従った。頭をあげるなり、千央は薄々感づいたことについて質問した。
「ここに住んでいるの?」「これは客がもってきたもの?」などを。
男の子はゆっくりとした調子で答えた。
「うん、まぁ、ここに住んでる。あそこにいるのは、おばあちゃんといとこ。あと、このみやげ物は催促してるものじゃない、勝手にもってくるんだ。このとおりこの通りもてあましているしね」
男の子は山づみの箱を見上げた。確かに埃が積もり、長い間手をつけた痕跡がない。
男の子は手を後ろに組み、千央が何か言うのを待っているようだ。
千央は改めてこの男の子を観察した。彼の顔は一言で言うとカラフルな顔立ちであった。顔が色鮮やか、といっても何か具合が悪くて顔色がおかしかったり、ケガをして血が滲んでいるとかいうわけではなかった。
彼は割と白い肌をしていた、だからか目の下の青いくまがとても目立っていた、その上、目の周りが泣いた後のようにピンク色に縁取られていた。カラフルなパンダのような子だ。
長髪でゆるやかなウェーブのかみをかたまでたらし、顔は可愛らしく、背は千央より若干低く、すんなりとした細身の体躯であった。唇の形がとても印象的だ、小振りながら日本人形やビスクドールのような山なりのはっきりとした肉の厚い立体的な形をしていた。その縫い縮められたようような格好の口はひどく紅い、かき氷のイチゴシロップを食べた後みたいだ。服はキャミソールに短い丈のズボン姿だった。
千央は心の中で彼が女みたいだと思ったが、むしろ女性らしく見られたい様に見え、他の人には無礼がもしれない考えは、あまり罪悪感はわいてこなかった。本人もどう見えるか分かってやっているのだろうと思う。
男の子は黙って踵でリズムをとっていた。二人はしばらく黙って見つめ合っていた。彼の肌は見れば見るほど、白さを増していき、千央は息が詰まっていくような感覚があった。
また千央がカーテンをくぐるとき、男の子は「気を悪くしないでね」と悲しそうにいった。
千央は何とも言葉が見つからず、返事をしなかった。それに、自らがここで受けている仕打ちを考えたら当然無視していいような気がしたのだ。しかし、千央はふとあることを思いついた。
「ねぇ」
千央は振り返り、含み笑いしながら男の子に向かった。カーテンを掴んだまま体の向きを変えたので、薄暗い小部屋に強烈な光が射し込んだ。
「君はさぁ、オカマなの?」
男の子はかなり面食らったかのようにカッと目を広げて、抗議するかのように言った。
「は?まさか、違うよ」
まるでとんでもない誤解だと非難するような声色だ。しかしこんな格好をしているのにオカマじゃないなんてとても信じられない、千央はそう思った。
「ふーん、あっそ」千央はとびきり冷たい声を出し、負けずににらみ返した。
またあの閉塞感のある部屋にもどった千央は、今度は姿勢を正して座った。あの男の子が見ていると思うと何となく気が抜けなかった。
その日の帰り際、父に渡されたプリントにはこう書いてあった。くすんだ茶色い藁半紙に印刷してあると、家の真っ白い紙より本格的に見えるのだから、なんだか不思議である。
「交流会のおしらせ
第XX回夏季交流会を、下記の要領で実施します。
日時:8月×日(火)PM18:00~、×日まで
場所:喜屋武・増田ヒサノ、宅
持ちもの:着替え、学習用具等
料金(食事代等)」
嫌いな場所での胡散臭い集まりにも拘わらず、千央はこの企画に惹かれていた。
この紙が父に渡された時、千央はちょうど側にいたのだが、子供がいる親みんなに渡している、というようなことをきいた。紙に対象は小中学生と書いてある、つまり千央とおなじ年頃の子が集まるということだ、千央の行く時間にはおなじ年はおろか子供の姿を見ることはほとんどなかった。千央はその子たちと特別何かを話したい訳じゃなかったが、しかし、千央は親に霊が憑かれていると思われている子供たちが、どのくらいまとも、もしくはおかしいのかを自分の目で確かめてみたかったのだ。そして、本人は親を怨んでいないのだろうか。または自分の中になにかが居着いていると思っているのか、それとも怖がっているのかが気になった。
千央の説得がどれだけの影響を与えられるかはわからない。しかし、もし霊能者の言うことを信じて怯えているのなら、それは嘘なのだと教えて安心させかった。この無茶で、衝動的ともいえる感情は、誰にも感知されることなく、千央の胸の中だけで、強い使命感として大きく燃え盛ったのだった。
一方、千央の場合はというと、これらの恐れ、不満、恨み、どの感情にもあてはまりはしなかった。霊より祟りより、そんなことを信じる父のことを千央はただ単純に、不気味に思っていた。
悲しいことに父も千央の何かを不気味に思っているのだろう。そうでなければ、こんなところに連れてこられはしまい。
それにしても、憎み合っている親子は多いかもしれないが、お互いを気味悪がっている親子はかなり珍しいのではないか。そう思うと少し情けないが、それでいて奇妙すぎて、いつも笑ってしまう。
毎回あちら側で、自分の悪霊の悪行について切々と訴えられているけれど、それは悪霊なぞではなく自分自身のせいか偶然そうなっただけだと分かっている。残念ながら悪いことでも、ちゃんと意識を持ってしているのだ。
しかし、ふと、もしその悪霊が自分自身のことではないかという変なことを思いつことがあった。 千央はそれで一つの空想をした。私の意識は小千谷千央という子に寄生し、11年間育った何かの亡霊で、私の中には本当の赤ん坊状態の千央がいるのだ。そして、もし自分を追い払っわれたら、きっと記憶喪失になって本当に病院行きであろうなと、そんなひどいおちになって妄想は終了した。どっちにしろ悪い霊も千央もたちが悪いところで結果は同じなのかも知れない。とにかく今の千央では駄目らしいのだ。
それにしても、父はどこでそのような特殊な思想を身につけたのだろうか。今まで父は超自然現象を信じるタイプでもなく、普段宗教に感慨深いようすもなかったから、この場に限っての父の変化には千央は首をかしげるばかりだった。千央は一度そのこと考えだすと、しばらくの間それが頭をはなれなかった。
本人に聞こうにも聞けなかった。なぜかというと、なんとなくどういう展開になるか予想がつくからである。きっと大げんかになり、父は一生懸命に自分の行動を肯定し、千央はショックを受ける。父は千央から頭がおかしいと言われる、多分怒るだろう。そして大喧嘩をし、父子の関係は修復不可になる。千央は永遠に父を失う、精神的な意味で。
今の立場もつらいが、踏み込めばどうなるのかがわからない。本当に嫌になるかもしれない、だから黙っていることに決めたのだ。
もしかしたら、父が言いたいことを女教祖を介して言ってもらっているという比較的まともな可能性も考えた。古い分野から生まれた新しい矯正教育法というわけだ。ただ、今回に限って言えば嘘だとバレているから全然効き目はないし、逆にひいている、そういう効果を期待するなら小さい頃から英才教育的なすりこみをするべきだった、と千央は思う。
それに、今となっては杞憂だが、千央が本当に信じきってしまった場合はどうするつもりだったんだろう。千央はもともと怖がりで、今でもテレビでやっている怖い話をみてしまうと夜は眠れないくらいだ。それをもちろん父は知っているはずだ。いくらか対処法を生み出さなければ、千央はなにかに怯えながら過ごさなくてはいけなかっただろう。もしかしたら父はそれを望んでいたのだろうか。千央は気分が落ち込んだ。それならあまりに趣味の悪い方法だ。それにそこまで自分は扱いづらい子ではないはずだ、そう願って千央は考えを振り払った。そこまでして矯正したいわけがない。恐怖で支配してまでも。
この件は真面目に考えるほど、頭がこんがらがってくる。毎回聞かないかぎりはもう、わかりようがない、というところで毎回どん詰まっておわる。永遠に飽きることのない問答である。答えは隣で運転しているのだけど。
父は千央が思っているより訳ありな人物なのかもしれない。隣の父を見て千央はそう思った。
それにもう一つ、消極的な訳だが参加したい理由があった。祖父と父の不仲が千央の不在によって解決するかもという副産物的な目論みだ。解決するといっても二人が復縁するわけではなく、決別する可能性もあったが、今の状態を続けるよりずっといい、父も大人なのだし、独立すればいい。
千央は冷蔵庫のドアに磁石で“お知らせ”を貼付けた。