十九、チリリと電話は鳴る
そのあまりのけたたましい鳴り方に、毅は一瞬怯んだが、すぐに立ち直り、受話器を持ち上げ耳にあてた。
「もしもし」声が嗄れている。
「今親はおりませんが」
隣で千央が見ているうちに毅は見る見る険しい顔になっていった。生返事を繰り返して毅は受話器を置くと、恐れ慄いた顔で言った。
「風間さんの奥さんからだったよ。家に電話がたくさんきてるって」風間さんは以前イノシシの話をしてくれたあの馬面の人で、彼は反対運動の役員も勤めていた。「さっきのテレビは一体何だって……でも、あんなの出鱈目だよ」
毅はめそめそ泣きそうになって、首をふった。
使われた映像にはモザイクがかかり、音も加工されていたものの、見る人が見ればわかってしまうに違いなかった。知り合いならば尚更だろう。
「ねぇ、何でまたあの時のビデオがテレビなんかで放送されてるんだよ?」憤然としたようすで真琴は言った。
「佃さんて本当はテレビ局の人だったの?」
「いや大学院生って言ってたでしょ」
「でもそれは、警戒させないための嘘かもしれない」
「名刺までくれたのにか?」
「偽造かも知れないぞ」
佃さんのくれた名刺には所属する大学名と、名前があった。確かに見たのだか、どうしてもその学校名と佃さんの下の名前が思い出せないのであった。
「いや。そんなことするか?だいたい名刺を見せなくても、大人なんだからそのくらい信用させられるだろう。馬鹿のやることだよ、名刺を渡してわざわざ嘘の証拠を残しておくなんてのは」慶幾は推理して言った。「だから僕はあの名刺は本物だと思うよ。多分あの後、なんらかの経緯があってテレビ局にあのビデオが渡ったんだ」
「じゃ、そのなんらかの経緯ってなによ?」アンコは怒りながら尋ねた。
さぁそれは知らん、というふうに慶幾は首を竦めた。
「成り行きはともかくとして、許可もなくテレビに売り渡すなんて、なにを考えてたんだろう?あの佃のやつ」季生子は機嫌が悪げに呟いた。相当頭にきているようだった。まぁ当たり前か。
「ところでさ。その名刺はどこにあるの?僕見てないんだけど……」その途中で、伊鶴は突然思いついたかのように言った。「あっ!!もしかしたら、それに佃さんの連絡先がかいてあるかもしれない!!」
これは大変重要な閃きになった。伊鶴の言う通り、名刺にはたいてい表か裏に普通住所や電話番号などの連絡先がかいてあるものだからだ。
「私は持ってないけど」
「俺も、つーかあれ以来見てないぞ」
皆は、知らないよと口々に言った。
しかし、千央にはそれを持っている人の検討がなんとなくついた。あの日最初に佃さんに声をかけられ、尚且つここに唯一いない人物だ……、
「それさ、真が持ってるんじゃないの?」 あれ。慶幾に先に言われてしまったが、そう、仙谷真くんである。真は一番最初に名刺を受け取り、順番に皆で回して見た後でまた最後に受け取っていた気がするのだ。
「じゃ、病院に電話して真に聞こう。ナースステーションに連絡すれば、取り次いでもらえるはずだ」伊鶴は電話をかけようと台に近づき受話器を取った。
「でも伊鶴さ、病院の番号知ってるの?」アンコは聞いた。
「え、あれ。ううん、わかんない」
仕様がないな、と慶幾は電話台の下から電話帳を取り出し、よしば病院を調べはじめた。しかし、それを見つける前にまた呼び出し音が鳴りはじめた。
毅は電話を恐ろしげに見遣ったが、意を決して伊鶴から受話器を取り上げ電話に出た。しかし、毅はすぐ弾けるように受話器を遠ざけた、相手が耳をつんざくような大音量でいきなりがなりたてたからである。皆はすばやく耳をふさいだ。
「金返せぇぇええーー!!こ、のバカヤロー!!」
そして乱暴に受話器を置く音。これを聞いた毅はすっかり白んだ顔になって、ゆっくり受話器を元の場所に戻した。そして意気消沈して一番近くの部屋に入って行ってしまった。それを止める間もなく、直後また電話が鳴り出した。
今度は千央が毅を助けるつもりで出たが、運のよいことに相手は怒鳴ることもなくまともな人であった。千央は毅がこの電話に出ればよかったのにと思った。
千央たちは毅の後を追いかけて部屋に入った。そこは多分普段使われていない洋間のようであった。青銅色と淡黄色の壁に東洋風の布織物が掛かっており、隅にはマントルピースが備えられていた、その上には古い洋酒の瓶が置かれ、その大半がぶ厚い埃を被っている。千央たちが毅を慰めていると、公平はやっと喋りだした。
「あのさ……僕らはあの市長にしてやられたのかも」
「え、どういうこと?」と真琴は聞いた。
「佃さんはもしかしたら市長の差し金でうちに密偵に来たのかも知れないってこと」そう言って公平はワインの瓶に被った埃に息を吹き掛けた。埃は薄暗い部屋の中を舞い、なんだか妖しく光るのだった。「皆もあの記事を読んだだろ?患者の脱走事件で、今まで反対してなかった人たちまでが怒ってるって話を」
千央たちは頷きながら聞いた。その通りだ、その記事なら真がくれた雑誌で見た覚えがあった。
「それで、病院増設の住民の説得が一段と難しくなったわけだ。さらに悪いことに隠蔽疑惑もろもろで反対派に調度いい攻撃材料を与えてしまった。それで市長はこのような反撃方法を考えた……」
“反対派に仲間が裏切ったと思わせて、内部抗争を起こさせればいいんじゃないかって”
そう言い、公平は窓の桟から垂れ下がった重厚なカーテンを興味深げに見た。ここの壁に貼られた壁紙は、なぜかカーテンと色違いの布製だった。
「でもそうじゃないじゃん。間違ってるよ」
鼻息を荒くして千央は反論した。しかしそうは言いつつも、確かにこんな報道をされては、今まで通りに反対運動を行うのはいくらか弊害がでてくるだろうな、と千央は思っていた。いや、それくらいの支障では済まされないだろうとも千央は直感した。別の箇所で不都合が起こるだろう。実際、さっきのテレビ放送で、霊能者の仕事がすでに危うくなっているのだから。“心が汚れてる”犬の霊につかれて”頭のおかしく”“性根の曲がった”“死ぬまでこの病気は治らん”……、これらの言葉が上手く編集され、まるで霊能者は精神病患者が自らの落ち度が招いた因果のせいで霊に憑かれ、発病したと考えているかのようになっていたのだ。それに、死ぬまで治らないという言葉をかぶせると、遠回しながらもその意味は……。
「そりゃ事実とは違ってるけど、疑心暗鬼にならざるをえない訳だし」
佃さんは市長が差し向けた刺客だ、なんて、何やら陰謀がかっていてとてもすぐには信じられない話だった。しかし、季生子もそれに賛同するように言った。
「反対派の結束を弱めるのが目的かもね、うん。有り得る」
「えぇそんな……」
千央はこの病院建設の件に関しては特に賛成でも反対でもなかったが、なぜだかとても残念な気持ちになった。なにかに妨害され、自由に意見を言う機会が減るというのは、なんとなく惜しい感じがするのだった。たとえそれが自分に全く関係のないことでも。
しかしふと千央は疑問に思った。なぜ、市長がこんなことをするのだろう?この件で住民の批難を浴びていたのは、よしば病院と院長であったはずなのになぁ。
「でも何で市長が、そんなことするのさ」千央と同じことを思ったらしく、伊鶴は質問した。
「馬鹿だな」慶幾が一喝した。と、すると千央も馬鹿らしい。
「この計画が決まらないと、国から補助金が出なくなって困るんだろうが」
「そうなの?」アンコは真琴に聞いた。
「うん。まぁ、そうだろうね」真琴は頷いた。
「そうなのか」伊鶴は青い壺にさしてあったゴルフクラブを弄るのを辞め、驚いた。
「でも、そのやり方だとテレビ局と繋がりがないとできないんじゃないのか?」毅はやっと復活して公平に聞いた。公平はやっと笑顔を取り戻し、言った。
「う……まぁ、そのへんは、僕にはわからないけど……」
まぁ、そりゃそうだよね、と千央は思った。いやもしかしたら、テレビ局も騙されたんじゃないのかという説もある、千央はテレビ局に勤める母親に聞いてみようかとも思ったが、よく考えるとローカルテレビ局の一社員のである母が都会のテレビ局の事情にそんなに詳しいはずもなく、それは止めておいた。
その後しばらくの間、電話は鳴りつづけた。千央たちは代わる代わる電話番を勤めて、大人は今いないのだと断りをいれた。そのなかには相手が一切喋ってくれない電話もあった。普段なら無気味で怖く思うであろう無言電話も、今回はむしろありがたかった。「切りまーす」と言ってすぐに切ってしまえばそれで終わりだからだ。
しかしたいていの場合、相手は元気いっぱいなのだった。千央たちの断りには納得せず、構わずに喋り出す人もいて、千央たちはかなりビクついた。だから話す間はハンズフリーにしておき、いつでも助け舟がだせるよう皆は電話の周りにずっと集まって聞いていた。
彼らの言い分を大まかにまとめると、このような感じだった。まず、胡散臭い商売をして怪しからんだとか、差別行為だとか、お前たちの方がよっぽど社会の弊害害悪だ、信者もろとも地獄に堕ちろとか、市長がお前らを信用しないのも当たり前だとか、妨害するなだとかだ。
これには千央としても、おおむね賛成であった。ただ増田家が反対活動の参加動機や活動で担う役割について、つまり、精神病人が霊に取り憑かれていると主張し、それで信者を反対活動へ煽っているという報道が正しければの話だが。なにせあのテレビ番組は、ここを住民たちに精神病患者に対して差別的解釈を植え付ける、胡散臭い集団であるかのように報じていた。そしてその意見を根拠に住民らが反対運動を展開しているかのような雰囲気を醸し出していたのだ。そういう電話が殺到するのもある意味無理もない。しかしそれは、まるで間違った情報なのだ……。
千央たちは相手が聞いてくれる限り、一生懸命説明した。あそこは数回反対活動の人達に貸しただけだということ、そもそも信者は地元の人間ではない人が多く、反対活動のメンバーとは全く別の人達だということ、霊能者は反対運動を煽りたてたりしてはいないということ、それどころか、本人は賛成でも反対でもないこと等を。しかし増田家が霊感商いをしていることについて(元々番組の造りがこっちが主だったし)、相手方にそちらのモラル、というか道徳観はどうなってるのよ、と問われると、これは紛れも無くこちらに落ち度があるわけだし、下手に否定もできず、後ろめたいのもあって黙らざるをえないのであった。これはどんなに納得させても決まって最後に聞いてくる質問だった。その時千央たちは、本当にその通りですねとしか思えなくなってしまうのだ。
慶幾は長々と抗弁を垂れる女性の相手をようやく終え、受話器を置いた。だがまた電話が鳴り出して、皆はうーんと唸った。もう気力は尽いてしまった、次は誰が出るのだ?
しかしすぐにそんな心配は無用になった。ありがたいことに、アンコが「こんなもの抜いてしまえ」と言って、電話についていたプラグを颯爽と引っこ抜いてしまったからだ。それで呼び出し音はピタリと止まり、忌まわしい電話はもう鳴らなくなった。皆は彼女にやんやと拍手喝采を贈った。アンコはまれに男気あふれる行動をとるので、千央は面白いと思った。 さて、なんといっても、今日のハイライトは増田家に住民たちが訪ねてきた出来事ではないだろうか。彼らは案の定、怒った顔をしてやってきた。
大部分の人間は単純にテレビの取材を受けたことや、都合の悪い会話を撮られたことを怒っていた。しかし、彼らの一部はビデオは反対派を陥れるため霊能者が住民を裏切って、取材に協力し作られたものではないか考えていた、それで問いただしにやって来たのだ。果ては増田ヒサノは市長側のスパイなのではないか、という疑惑まで巻き起こっている始末で、この人たちには水野さんが対応した。
「さっきの報道で反対側の活動がやりにくくなったのは申し訳ないと思います、本当に謝ります。でも私たちが裏切ったというのは完全に貴方がたの誤解です。テレビが無断で取材に来て、勝手に放送されたんです……、テレビでインチキと批判されたのをそちらも聞かれたんじゃないですか?協力しているのに評判を落とすような扱い許すわけないじゃないですか。こちらもとりあえず商売してるんですから」
“私たち”水野さんがそう言ってくれたので、千央はなんだか心強かった。
「あ!?単に裏切られたんじゃなかとか?口車にのせられて、用がすんだけん切り捨てられたとさい。トカゲのしっぽ切りのごとな」
周りにいた大人二、三人がウンウンと頷いた。
違うのだ、そいつらをこちらに引き入れたのは自分たちなのだ。断じて水野さんたちが仕組んだわけじゃない、そう言いたかったが、あんな恐ろしい集団に飛び込んで自らの罪を告白するような度胸や勇気を、悲しいことに千央はまるで持ち合わせてはいなかった。
「あいつら腹の中真っ黒やけんな」
この言い方だと、あいつらが市長のことかテレビの人のことかよく分からなったが、もうこの際どっちでもよかった。
「とにかく増田ヒサノば出さんか。話しのあっけん」おじさんの一人が水野さんに詰め寄った。
「今は話せません、今いないんですよ」
水野さんはお手上げという風に両手の平を見せて、困った声を出した。
「お前、隠しとっとやなかとか」
「まさか、そんなことしません」 男性は水野さんを突き飛ばして、玄関をあがり家の中に入ってきた。おじさんがこちらに歩いて来たので、千央たちはクモの子を散らすように逃げた。その時、水野さんと目があったが、彼の目には不安の色が浮かんでいた。彼も恐いのだ、そして為す術もなく戸惑っているのだ。ああ、ごめんなさい、ごめんなさい、千央は心の中で水野さんに謝った。こんな風になったの、私たちのせいなんです。
「ねぇ、そもそもこちらが貴方がたに係わったのは成り行きですし、僕らは住民の皆の頼みに応えて協力しただけ、そちらから貸してと言ってきたことじゃないですか」
「ああ、おいはそいば悔いとるよ」 男は部屋をいくつか廻って、霊能者の姿がないのを確認していった。
「僕だってなんでこんなことになったのか聞けるもんなら聞きたいんですよ……――、あの、ちょっと、おじさん!!」
そして水野さんに追いつかれるといきなり振り返った。
「だいたいお前らが全国テレビで批判されるような胡散臭い商売しとるとが悪かとやろうが」
水野さんの背後にはもう一人が近づいた。こちらは土足で入ってきたのだった。「お前らは本当に町の恥よ。インチキ商売ば止むっかな、ここから出ていくかしろや。女にうつつを抜かしとる場合じゃなかぞ、にーちゃん」
おじさんはそう言って、水野さんの肩を叩いた。そして、住民たちは嵐のように帰って行った。後に残された千央たちは、水野さんを見た。水野さんは顔の筋肉を一瞬ひくつかせたが、またすぐいつもの表情に戻った。そしてゆっくりと、大きな溜め息をついた。
その日の夜中、千央は布団の中で今日起きたことを考えていた。一番最初はテレビの内容に大慌てして、続いてかんはつ入れずに人々の怒りの凄さに戸惑った、五十を過ぎたいい大人が若者のようにキレるのはなかなか見物であった。
今日、今の今まで千央の感情は確かに驚きと興奮で占められていた。 しかししばらくして興奮から覚めた時、千央はすでに、悔悟の念から逃れられなくなっていた。自分たちのほとんど故意といえる失敗が起こしたこの事態、その責任をどうとるのか、あるいはどうとらされるのかを考えると、千央は気が狂うような思いだ。いや、もうどんな方法をでもとれないだろう。
“霊能者の商売が駄目になって、反対運動にも影響が出るみたいで、もう取り返しがつかないよ。これから毅の家の人たちはどうやって稼ぐんだろう?”“そうだ、その前に毅たちに知っていることを全部話さなくちゃいけない……”“こんな時に相談できる大人が側にいたらいいのに……”“父は変人だし、母は無関心で、おじいちゃんは耳が遠いし……、水野さんと園さんか……二人にはなるたけ嫌われたくないよ……”
しかし、もはやこのこと隠し続けることはできないのは分かっていた。千央はしくしく泣き出し、そのうち嗚咽がもれた。秘密を告白することは千央にとって、一番苦手で恐ろしいことであったのだ。
ねぇ、誰か泣いてるの?、布団の外から小さく真琴の声がした。さぁ知らない、千央は慌てて声を整えて言った。そう、ならいい、と真琴は言って再び静かな寝息をたてはじめた。
千央もやがて、すっと深い眠りについた。平気なふりをすると、本当に平気になったような気がして楽になったのだ。