十七、夜になるまでまって
内臓系グロ注意※
夜半過ぎ、目を覚ますと毅がまくらべに立っていて、千央は一発で頭が冴えてしまった。毅は指をちょいちょいと曲げ、廊下に千央を呼び出すとこう言った。
「今から一階のトイレに行って掃除用の手袋を一人……いや、四枚取ってきてくれ」
「何?眠いんだけど……」
千央は不審がりながら答え、暗闇の中でチクタク動く柱時計を見た。苦労して短針の位置を探すと、なんと午前1時だった。千央は一気に眠くなった。
「こっちのには手袋が置いてないんだ。お願い」
毅は拝むように手を合わせ、千央に頭を下げた。毅の家では一般家庭にはめずらしくトイレが男女別になっていた。一方は男用の小便器のあるもの、もう一方がバリアフリーになっている女用で、皆はなんとなく使い分けている。ここの寝室からだと、男用の方が断然近い、女用は客用もかねて一階にあり男用は二階にあるからだ。だが、とりあえずそうなっているだけで、実際のところどちらのトイレを使ってもかまわないのだ。
千央は思った、二階で寝ている夜中にわざわざ普段使わない上、遠い一階のトイレに行くのは怪しまれるというのはわかる。しかしなぜこんな夜中に掃除用手袋がいるのだろうかと。
「さっき言ったら、園さんと鉢合わせた。次見つかったら変に思われる」
と毅は言う。
「別にいいけどさぁ、何で?」
「いいから、いいから」
毅は千央の肩をつかみ強引に階段のある方へ向きを変えさせ、背中を押した。少し歩いて振り返ると、早く行ってとばかりに毅は声を出さすに身振り手振りで急かしてきた。千央はいよいよ諦め、階下へと向かった。
階段を下りると、廊下に枠形のオレンジ色の明かりが落ちており、反対の壁まで長く伸びていた。それを見つけた千央はギョッとした。予想に反し、居間にはまだ誰かがいるようだ。千央は忍び足でこっそり扉の前を通り過ぎようとした。そのとき、背後から千央は声をかけられた。
「あら、毅まだ起きてたの?」
千央が半睡眠状態で振り返ると、寝巻き姿の園さんが立っていた。園さんはびっくりしたようすだった。「あ、その……お手洗いに」と、千央。
「そうだったの。姿形が似ていたから、わからなかった。毅はもう寝た?」
「さぁ、多分、寝てると思いますが……、わかりません」
千央は毅が本当は起きていると知っている、だが寝る所は別々なので本当に毅が寝ようと部屋にいたら、自分にはどちらかわからないはずだ、と千央は思ったのだ。
園さんに目礼し、千央は一目散にトイレまで走って行った。
夜中のトイレは涼しく、月明かりがあたる床はまるで水面のようにしっとりと光っている。千央は一番手前にあるドアをそっと開いた。そこは掃除用具入れになっていて、バケツやホウキの上に棚が作ってある。千央は背伸びをし、そこを手で探った。 見つけた。千央の手がひらべったい箱につき当たった。[天然ゴム製極うす手袋]とかいてある。そこからティッシュのように手袋を四枚取り出すと、千央は手の中に隠した。
寝室に向かう途中、また鉢合わせた園さんにおやすみなさいを言って、千央は階段を駆け登った。
元の所に戻ると、毅は普段着に着替えていて、小さなリュックを背負って待っていた。
「ありがとう、助かったよ」
毅はそう言って千央の手から手袋を受けとると、リュックの小ポケットにそれを入れた。中から何かの金属音がする。
「何に使うの?しかもわざわざ着替えて、どっかに行くの?」
これで何度目だろうと思いながらも、千央は尋ねた。
「まさか家出じゃあないだろうね」
千央は不信がって毅を見た。もちろん冗談だったが。
「違うよ、まさか。違う違う」毅はそう言って手近な窓を開けた、程よく冷えた夜風が吹き込んできた。
毅はそこからリュックを放り投げた。黄色いリュックは闇の中放物線を描き、庭の中頃辺りに静かに着地した。そして毅は振り向き、重苦しい態度でこう言った。
「いや、家出ではない」
「今からゴッチのとこに行く、行ってもう一度死体を見て死因が何か調べてみるよ」
毅の正気とは思えぬ言葉に千央は肩を竦め、眉根を寄せた。そして今度こそ不信がった目で毅を見つめた。千央はどんどんと目が覚めてきた。
「何を言ってるの?見たじゃん。傷なんてなかった、病気の跡も見つけられなかったのに。これ以上一体何を調べるのわけ?」
「昼間色々調べただろう、見るものは沢山ある」
毅はポケットから一枚の紙切れを取り出して、振って見せた。まぎれもない、昼間図書館で千央が書いたメモだ。それを取り返そうと、千央は毅に飛び掛かった。毅は素早い動きでひらりとかわした。
メモを勝手に持ち出したことへ怒りは、ひとまず置いといて、千央は糾弾した。
「そんなの見たって素人にはわかりっこないよ。それにもう腐りだしてるかもしれないんだよ、そんなの見たって気分が悪くなるだけだよ」「じゃあなおさらすぐ行かないと。君の言う通り後に回すほど酷くなる」毅はこちらに背を向けて歩きだした。
「やだ、病気になるって、絶対!!」
千央は少し声を大きくして脅しをかけた。もう汚いとか言って辞めさせるのは無理だと分かったからだ。
「うるさい、静かにして。皆が起きるだろう」毅は慌てたようすで人差し指を立てた。
いや、むしろその方が都合がいいのだ、千央は思った。しかし、口ではああ言ったものの、千央は心の中で賛同していた。毅のゴッチへの親しみや愛着を今やろうとしていることでなんとなく理解したからだろう、多分。さらに言えば、それには執着も含まれているのだ。
だがあくまでも心の中でだけだ。千央は腐臭を放つゴッチを土から引きずり出す毅をの絵を想像した。いくらなんでもまともじゃない、狂ってる。病気だ、ホラーやスプラッター映画じゃないんだぞ。
スプラッター?ゴム手袋に、投げ落とした時のあの妙なリュックの音……金属か?それに昼間の会話……。アハハ、おい、待てよ。まさか……。
これである考えに行き着き、千央は完璧に覚醒した。どうやら毅は始めに思ったよりヤバイことをやろうとしているらしいぞと直感した。どうにかして引き留めなければ……、と千央が思った途端。
「それでも行くよ、だってね……」毅は真面目な顔で言った。
「なぜなら、ゴッチはもしかしたら殺されたかもしれないから」
リュックはのインパチェンスの茂みの中で見つかった。千央は靴を脱いで裸足になると、拾いに行く毅の後を追いかけた。ここの庭は至る所に砂利がしいてあり、突っ掛けで歩くととんでもなく派手な音がでてしまうのだ。
「待ってよ」
「静かに!!声を低くして、ねぇもうそれ履いてもいいんじゃない?」毅は言った。
そうだね、と言い千央はサンダルを履いた。
毅が庭の勝手口を通り、道へでて、山道へ入って行ってしまうのを、千央は中庭の柵にしがみついて見ていた。
「ねぇ、やめなよ。夜だし危ないよ……」千央は半泣きで言った。しかし尻窄みだった。もう、引き留める効力は期待していなかったのだ。
毅は勇ましく、チガヤの茫々と生えた道を歩いて行った。暗い中で、寝巻きの黄色の色が異様に目立っていたが、それはやがて黒い人影になり、山道のカーブを曲がるとそれも見えなくなった。千央は毅が怖じけづいて帰ってくるのをじっと待っていた。十秒……、二十秒……。姿が消えて、三十秒。毅が戻ってくる気配はない。風が吹いてきて、青田に植えられた稲をなでた。右へ左へ前へ後ろへと、若葉はぬるりとした一つの生命のように踊り狂っていた。それは暗闇の中、千央にはいかにも不気味な物に見えた。
それを見ているうちに千央は不安を覚えた。毅の後ろ姿は真剣だけども、まるで幽霊のように見えたのだ。
“いや、毅はもう、戻ってはこないのかも……”
そしてある瞬間、何となく思いついたことだったが、千央はそれに支配されてしまった。一人で行かせたらもう二度と毅と会えない、なんだか死ぬような気がしてきたのだ、根拠はないけれど。
それで千央は覚悟を決めて、白い柵を突き放して思い切り山の方へと駆けた、なんだか高いビルから飛び降りたような心境だった。
少し走ると毅に追いついた。毅は何も言わなかった、しかし帰れとも言わない。二人は前後に並んで歩いた。ここには土と砂利の道しかなく、人工の明かりは望めなかったが、月が満ちていて空と山影の色は明るかった。林の中では、鈴虫がリンリン鳴いている。じゃ、松虫はどこだろう?チョンチョンスーィッチョンと鳴いているはずだけど、なんて無理矢理明るいことを考えてはみたけれど、ああ、怖。千央の気分は一向に盛り上がらなかった。まぁ、今からやろうとしていることを考えれば、むしろ当然といえた。
田んぼ道を抜けて、山道に入り、しばらく歩いた後、二人は山中の獣道に入った。
二人はひたすら黙々と歩いていたが、千央の頭の中はいつもよりずっと騒がしかった。
“ゴッチが殺されたと毅は断言したが、どういうことだろうか?証拠はあるのだろうか?”
“何が動機だ?怨恨とか?”
たかが動物に?そんなわけがない。“犯人はただ面白がって、ゴッチを殺したのだろうか?”
そういうことを趣味にする人がいるのを千央は知っていた。そしてそういうやつは大抵犯罪者予備軍で、将来、マッドサイエンティスト的な事件をおこすのだ。
“もしそうなら危険人物だ。そんなことするのは一体誰だ?”
誰ってそりゃ……ホラ、あの……。
“やはり……同じように毅も、例の脱走者を疑っているのだろうか?”
千央は不意に、髄膜をカリカリ掻かれているような気持ちの悪さに襲われた。何だかそわそわしてきたし、多分自分は不安なのだろう。考えてみれば、チビ太の話をした時からこうなることは決まっていたのだ。全く、余計なことをしたものだ。今のように黙って話さなければよかった。千央は今、猛烈に後悔していた。
「本気でやるの?やめとこうぜ」
いい加減、頭カリカリに堪えきれなくなった千央は言った。なんだかさっきから落ち着かない気分だった。家や布団がとても恋しかった。何も考えなくていい頭空っぽの睡眠時間が……。
「自分から来たんじゃないか。やりたくないなら、ここで引き返せばいい。じゃ、さよなら、バイバイ」
毅は素気ない調子で、後ろ手に手を振った。
「へぇ、じゃあ、なんで手袋を四枚もとってこさせたんだよ、道連れが欲しかったんじゃないの?」
千央は思いきって毅の背中に向かって指摘した。返事次第では家に引き返そうと思った。これはただ単に予備のつもりで言ったのかもしれない。しかし、仮に当たっていても来てほしいなら、否定すればよいだけだ。
その質問に毅は何も言わずに振り返っただけだった。眉根をよせている。
今、山中の鈴虫が鳴いていた。しかし、千央たちのいる辺り一帯だけは押し黙っていた。毅は歩き出し、千央はまた黙って付いて行った。ここで何となく自分は頼りにされているのではないだろうか、と千央は思った。
目的の場所に辿りつくと、毅はリュックを下ろした。ゴッチのお墓に供えられた花は、すっかり萎れてしまっている、以前見たクモの巣が月の光を浴びて完璧な銀色に見えた。 二人は塚をくずし、毅が持ってきたスコップで地面を掘り返した。二人は暗闇の中穴を掘り進めた、月が皓皓と照っているのは幸いといえた、手元がはっきりと照らし出されたからだ。ある程度まで掘り進めた後は、千央はいつゴッチが出てくるのかとヒヤヒヤしながら、少しずつ慎重に掘り進めていった。記憶では千央の掘っている側に頭があるはずだった。会話は一切しなかった。
しばらく掘ると、茶色一色の土から少し白い体毛が覗きだした。また一息掘ると、それはゴッチの鼻面であることがわかった。
「あったよ」千央は毅に教えた。
それからは速かった、毅はかなり乱暴に掘ったし、千央も死体がそれほど傷んでいないのがわかって、にわかに元気づいたからだ。
ゴッチの死体は発掘された化石のような格好で、前に見た時と、なんら変わっていなかった。虫に食われてもいず、ウジも湧かず、今のところ変な匂いも感じない。むしろ生きていたころより匂いはしないかもしれない。生前は常に獣臭さが鼻についたものだ。ゴッチの体は毅に脚を引っ張られ、穴から引きずりだされた。
毅はリュックから銀色のアルマイトのバットや皿を何枚か取り出して地面に並べた。まるでピクニックのようだが、今からやろうとしていることとは程遠い。千央は額を拭ったが、実は全く汗などかいていなかった。それから毅はリュックからバットの上に、持ち物を移し始めた。それらは次の通り、小型の剪定ハサミ、メモ数枚、ゴム手袋、砂遊び用の玩具バケツ、ポケットサイズの植物図鑑、懐中電灯、軍手、箸と錆びた大きなスプーン、ビニール袋、金魚用の網、そして喉が乾いた時のためだろうか?ペットボトルに入った水……?
毅はゴム手袋を千央に渡し、二人ともそれをはめた、サイズは少し大きい、大人用だから当たり前だ。その上から軍手もはめた。真っ白い二組の手とゴッチの体とが闇の中で、とても映えた。毅はゴッチの前にしゃがみこんだ、千央は自ら後ろで皿を持ち、待機した。阿吽の呼吸でまるで有能なアシスタントみたいだ。おやつをもらうのを待っている子供みたいな格好だった。とても妙だと、千央は自分でそう思った。反対してたのに、当たり前のように手伝ったりして。
そして到頭、毅はリュックから刃物を取り出した。それは、ちびた小さくなった包丁だった。刃が持ち手と同じくらいしかないのだが、持ち手も短く細いので、もとは果物ナイフやペティナイフだったのだろうと千央は推測した。
千央はいざ刃物を見て疑問に思い、考えた。ヤギのような四つ足の動物の開腹は、アジとかイワシの干物みたいに開くのかしら、それとも胴体の横に穴を開けてやるのかなと。
毅はナイフをゴッチの腹に突き立て、引き下ろそうとした。しかし、皮にひっかかって中々切れない。その上、おっかなびっくりしていてなんだか危なっかしい。力が刃に入っていないのだ。
「もっと力を入れないと」
千央は後ろから言った。
毅は黙って持ち方を変えると、鋸のようにぎこぎこと動かして、少しずつ傷口を広げていった。鼻息がとても荒くなっていた。そのうち、毅が大きな溜息をついてゴッチから離れた。その胴体の真ん中の辺りには、小さなチャックのような穴が空いていた。続いて、毅は剪定バサミを手に取った。これは多分鷲崎さんのものだ。そのハサミの先をゴッチの切り目に入れて慎重に切り始めた、まるでニッパーで爪を切っているような感じで鈍く、それはそれはゆっくりが、皮は確実に切れていき、やがてゴッチの腹にはL字型をした三十センチ大の大穴が空いた。千央は感嘆の声をあげ、ひと安心した。しかしその途端、わっ!!くせぇ!!ムッとした悪臭が漂いだした。外側はともかく、中身は腐っていたのだろう、腐ったピーナッツのような匂いと、使い古しの絆創膏が混じったような嫌な匂いがし、千央はむせこんだ。
毅は何度も畳まれ小さくなっていたメモ用紙を開いていた。その内容のほとんどは植物や中毒のことだったが、うちの一枚は牛の解剖図をわらばん紙をコピーしたものだった。牛の四つの胃袋にそれぞれ番号がうってある絵だ。第一の胃が異常に馬鹿でかい。しかしなぜ牛の解剖図なんだろう?今から解剖するのはヤギなのに、千央はそう思って聞いた。
「ヤギのやつがなかったもんでね」毅は息を継ぎながら答えた。「牛とヤギの体の構造はよく似通っているらしいから、参考になるかと思って」
千央はふーんと声を出し、懐中電灯の明かりの下に紙を持っていって、かいてある注釈を読んだ。
※反芻動物の牛は、第一の胃に草をためこむ。後に口に吐き戻し、噛みなおす。
※第一と第二の胃には消化酵素はなく、多くの細菌が住んでいる。
※牛の他に、ヤギや鹿が四つの胃を持つ……。
毅はメモ用紙をよくよくチェックした後、臭いに辟易したように吃りながら言った。「よし。ま、まずは胃を見てみよう」
最初にゴッチが生前何を食っていたかを調べるのだ。毅は軍手を取ると、はいつくばるようにしてゴッチに覆いかぶさった。そしていざ、ゴッチの腹の中に左手を、それから右手を突っ込んでいった。明らかに手袋の丈が足りていなく、毅は肘まで内蔵のプールに浸かっていた。千央は顔をしかめた。毅は平気なのだろうか、勇ましいな。
「どれが胃だろう?ないな」毅はつぶやいた。
そんな訳無いだろう、千央は思った。
「あった、これかな。ナイフを寄越して」
千央は地面に転がっている包丁を渡した。
毅は右腕も体の中に入れて、腕を動かし、また他の箇所で動かした。
「気をつけて」千央は言った。
そして両腕を引き出し、一旦刃をタオルで拭き、また穴に手を突っ込み、なにかを引っ張り出した。それから、毅は無言で皿を要求した。千央は皿を差し出したが、振り向いた毅の持っていた胃があまりに大きいのでひーっと恐れ戦いてしまった。毅はきょとんとした顔をして巨大な肉の袋を生まれたての赤子のように抱いていた。それは大変な色白ぼっちで、単なる脂肪肝にも見える、もしくは白皮でできたハンドバッグだ。そして表面はしっかりしており、丈夫そうに見えた。
千央はアルマイト皿をシンバルのようにして、それを受け取った。それはかなり重く、かさ張った。また胃袋がスライムのようにとろとろと動き続けるため、前方にこぼれ落ちるのを防ぐのに、千央は上体を反らして持たないといけなかった。それで腹部分に胃が触れ、とても不快だった。千央は馬鹿でかい赤子を抱いて、途方に暮れ突っ立っていた。非常に不本意なことをやらされているのは違いないのだが、妙に現実味のないこの感覚、夢か幻かという感じだ。しかし、腕は痺れ、筋が痛くなってきた。どうやら都合よく夢とはいかないようだ。
仕方がないので、千央はゴッチの胃袋を直接地面に打ち上げた。胃袋はボロリと落ち、その衝撃で胃壁がぶるぶると波打った。
毅はまたハサミを取り出し、食道と思われる管にひっかけ、おそらく第二の胃の管までをちょきちょきと切り、胃を開いた。
千央は眉をひそめながらもそれを凝視した。「うへぇ」
その内側は細かな突起が沢山ついており、中にはどろりとした半消化されたものが入っていた。粗微塵に切った雑草類を水分たっぷりに蒸しあげ、そのまま数日の間放置したかのような代物だ。色は緑に乳を混ぜた色をして、明らかに大量の細菌が繁殖している。それは吐瀉物というより、嗅いだことのない変な匂いがした。醗酵臭というのだろうか、おそらく腐りかけの匂いなのだろう。
毅はペットボトルを指差して、バケツに水を注ぐよう千央に言った。千央がそれを実行する間、毅は取り分け用の大きなスプーンを使って、胃の中身を全て皿へ移した。結構な量だ。練った緑の半ペーストのようなものが掻き出された。水分がした垂れ、搾れば青汁がたっぷり取れそうだった。
「ねぇ、これは一体何だろうね」
毅は溶けかけの葉のくずに絡み付いている薄黄色の泥状のものに興味をしめしていた。
なぁに?と、千央は言った。
「これだよ」
わざわざ毅は人差し指と中指でかき集めて見せ、それを寄越した。
千央は顔をしかめつつ受け取ると、親指と人差し指に挟み擦り合わせた。触り心地は何の抵抗もなくさらさらしている、バナナの皮のような渋い匂いが鼻につく、まるで溶けたビスケットだ。色と質感からこれが草でないことは明らかだった、カビの一種のようにも見える。少し粘りがあるが、それは胃の中に収まっていたせいだろう。毅は千央のようすを片膝をついてずっと見守っていた。
「何だろ?わかんないな」
毅は千央の返事を聞いて怒りの表情に変わった、しかしすぐ笑みを浮かべ、
「へー、ないのか」
とふざけた様に言い、頬杖千央の顔をジッと見つめてきた見上げてきた。
「本当に?本当に心当たりない?」
毅は首を傾げて詰問した。
千央は首を振った。千央は何がなんだかわからなくなって固まってしまった。毅も何も言わず静止していた。二人ともしばらく動かなかったのでとうとう鈴虫たちが鳴き始めた。虫が鳴きだすのを制止させるかのように、毅は喋りだした。
「あのさ。お前、ゴッチに変なもん食わせただろ?あのホットケーキ。そのせいで鼓脹症になってゴッチは死んだんだ」
千央は始めて毅が怒っていることに気がついた。何となく顔が赤く、険しくなっている。鼓脹症は反芻動物が穀物の多い餌を食べてなる病気だ。胃の中で異常醗酵がおきてガスを抜かないと最悪の場合、窒息死するのだ。それは知っていたが、しかし千央は、毅がいきなり何を言いだしたのか訳がわからなかった。それに千央はゴッチにホットケーキなど一度もあげていないのだが……。
しばらく黙った後、千央は言った。
「それ私じゃないよ」
毅は、はぁ?という顔をした。
「第一、ヤギってホットケーキとか甘い物食べるの?お菓子でしょ?」千央は聞いた。
「食べるよ」毅はムスッとした表情で言った。
「そう……、でも本当に違うんだけど」
毅はしばらく黙っていたが、立ち上がると木立の脇へ行き、地面を蹴った。
「ゴッチが死ぬ前、水野さんちに預けてただろ?そこにホットケーキが何枚か捨ててあるのを見たんだよ」
毅が大変気まずそうだったので、千央は特に何も突っ込まず会話を続けた。
「えーと、つまり毅はゴッチがホットケーキを誰かに食べさせられたせいで鼓脹症になって死んだと思ったわけね」
毅はこっくりと頷いた。では、ゴッチ殺しの容疑者とは他でもない自分のことだったのか、しかし、頼りにされてると思ったら、疑われていただけだったとは、千央はがっかりするとともに、恥じ入った。千央は自分の知っていることを話した。
「あのホットケーキ、半分くらいまでは自分で食べたんだけど、いつのまにか残りが冷蔵庫から消えててさ。てっきり、誰かが食べてしまったものかと思ってたんだけど……」
「ゴッチの寝床の上に何枚かあったよ」と毅。
「ゴッチが食べてたんだね」
さらに千央は言った。動物に人間の食べ物をやるのはあまり良くないと知っている、少なくとも進んでやろうとは思わない、とにかく自分の仕業ではないし、信じてくれと。
「君がゴッチにやったものかと思ってた」
「違うよ。本当に」
毅はしばし無言だったが、
「……わかったよ、ごめん」としおらしく言った。どうやら信じてくれたようだった。
「別にいいよ」
「でも、千央でないなら誰が?」毅は当たり前の疑問を千央に投げかけた。
「そこまでは、わかんないけど……」
とりあえず、犯人は家の中の人に違いない。それに質問すればすぐに誰だか分かるだろう。しかし、
「でもさぁ、ホットケーキは無くなった時、そんなに残ってなかったよ。それを全部食べていたとしても、あんな少ない量で異常醗酵が起きるとは思えないよ。病気になるには、もっと沢山いるんじゃないの?」
ゴッチの巨大な胃に入る量から考えて、小さな数枚のホットケーキの割合は、3%にも満たないのではないかと千央は思っていた。それさえ問題だというなら、どうしようもないけれど。
「まぁそうかもね……」
毅は脱力したが、やがて気を取り直し、
「とするとフィラリアかな」と言った。
「中毒、というセンもあるけどね」
千央は皿を見て言った、フィラリアは衰弱して死ぬのだから、中毒死の方が有力だと千央は考えていた。しかし、この緑ヘドロをじっくり見分するのを考えると……ああ、嫌だ。千央はとてつもなく憂鬱な気分になってくるのだった。
さて、千央は一体何をするのかと思いながら、毅が作業するようすを見ていた。毅はまず、ゴッチから採った緑粥を少し取り分け、金魚用の網に入れた。それを、バケツの水の中に持って行き、そこで振り洗いした。すると、草の周りのドロドロしたものが大方取れて、大きな繊維のところだけが残った。それらは箸を使って慎重に回収され、タオルに並べられていき、水気が取り払われた。なるほど、これでゴッチが食べた草がなんという名前かを調べることが出来るわけか。
千央と毅は懐中電灯を持って、そのわずかな特徴からどういう植物なのか見極めようと、図鑑と葉っぱとを見比べていた。 しかし、残った繊維のほとんどは、まるで糸くずのようになっていて正体が全くわからないか、細長くて尖った平凡な葉の形をしていた。後者は多分、ササかイネの仲間だろうと思われた。調べによるとササもイネ科の植物もヤギが食べても毒にならないようなので、これは全部ゴッチの死因候補から除外された。
一度目を調べ終わると、二人はまた網に草を入れ水洗いし、じっくり観察した。三度目からは毅は水洗い、千央が取り分けて分析する、もし気になるものが見つかればお互いを呼ぶという風に役割分担したので、いくらかスピードがあがった。
そのうち毅は、トロ草の中からうまいこと葉脈だけが残る骸骨状態の大きな葉っぱを引き当てた。それを見た千央は思い出した。以前やった葉っぱを水酸化ナトリウム水溶液で煮て葉脈だけにし、しおりを作るという体験だ。その時に見た煮込んだ葉の状態がこれによく似ていた。
大きさは千央の手の平くらい、横に広い楕円形で縁には摩訶不思議な丸っこいフリルがついていた。まるで池に浮く水草みたいだが、ゴッチが水草を食べるわけがないし、またこんなもの川で見掛けたこともない。
「これはアジサイじゃないか?」
毅はよく見て言った、確かにこれはアジサイの葉によく似ているのだ、さらに近所に生えているし、ヤギが食べると毒になる。ちなみに人が食べるてもいけない。
しかし、千央は同じ意見ではなかった。
アジサイの葉はもっとスペードみたいな形で、これより一回りは小さく、縁はぎざぎざしていなかったかという覚えがあるのだ。
「私には水草のように見えるけど……、それにアジサイの葉って大葉みたいな形じゃなかったか」
千央が図鑑で調べるとその通りだったので、毅は引き下がった。
続いて見つかったのは赤紫の蔓性植物だった。これも図鑑の出番だと思ったのだが、開くまでもなかった。蔓を何気なく見遣っただけで、毅はすぐに答えをだした。
「それ、多分芋だよ。たまに畑に入って葉っぱと一緒に食べていたからな」
ゴッチは薩摩芋の蔓や葉が好きであったらしい。
結局全部の検査を終えても(最後の方は少々雑だった)、毒草らしいものは見つからなかった、正しくはもしあっても、見つけられなかったのだろうが……。
千央はバケツをひっくり返し、汚水を捨て、タオルで手を拭いた。
「心臓を見てみようか、フィラリアの痕跡があるかもしれない」
千央にタオルを渡されて、毅は初めて自分の両腕が血みどろなのに気づき、そのせいで思い出したかのように言った。
どうぞどうぞ、と千央は言った。疲労困憊であり、今日はショッキングな出来事が多すぎて何事にも簡単に動じなくなっていた。あるいは自暴自棄になったともいえた。ゴッチがフィラリアに罹患していたとするなら、心臓にそうめん虫が巣くっているはずだった。毅はまたゴッチの体に手を突っ込んで探り始めた、また千央は後ろで待機した。不愉快な音がまた聞こえだした。
そんな中で、ボーッと千央は考え続けていた。
毅が鼓脹症の件に、いつ気づいたかは知らないが、その時に怒ればいいものをわざわざ夜中にこんな所に呼び出して責め立てるなど、結構手がかかっている。
いや、と千央は思い出した。そういえば、千央がここにくることになったのはたまたまであった。毅が無理矢理連れてきたわけではない。多分毅は、夜中にこっそりゴッチの胃の中を確かめてから言おうとしたんだろう。しかし、もしゴッチの死んだのが千央の過失のせいだったとしたら、その可能性を想像するとなんだかゾクゾクして怖い。自分の犯罪を自分で暴いてしまうという、ちょっとした怪小説のような展開になったはずだ。いや、毅はそれに気づいてからしばらくの間、自分のことをゴッチ殺しの犯人だと思って見ていたのだから、それはそれで後味や気味が悪く、十分怪小説らしいなとも千央は思った。
おそらく、毅は確信がもてなかったのだろう。だからメモで病気のことを知り、千央のことを疑ったが何も言わなかった。それで聞くかわりにヤギを解剖することにしたというわけだ。だが、いくらなんでもの腹をかっ裂くのはさすがにやりすぎというものではないか、と千央は思った。遠慮するにもほどがあるというものだ。ある意味慎重深いともいえる、もしくは執念深いとも。一体こいつはどういう性格をしているのだろう、千央は毅の後ろ姿を見てそう考えていた。
ついにジュボッという不愉快な音が聞こえ、毅はゴッチから手を引き抜いた。心臓を取り出した。毅はゴッチの心臓を玉子をもつように大切そうに包みこみ、二人は魅入られたかのようにじっと見ていた。
ゴッチの心臓は想像どうりの鮮やかな赤をしており、まるでルビーのようだった。レバーがいくつか重なったような形をしていたが、しっかりしていた胃袋とは違って、こちらは形が多少崩れてしまっていた。
毅はまたナイフを取り出すと、中をみるために心臓に十字の切り目を入れた。
千央はここにきて、初めて自分らのしていることに罪悪と嫌悪感を覚えた。死後にこんな扱いをされて、全くゴッチが何をしたというのだ。しかし、傍観者とともに実行者なので文句は言えない。
心臓を切った後、二人はさまざまな角度からそれを眺めた。しかし、虫の侵食どころか、虫のカケラさえ見つけられず、組織自体は綺麗なものだった。
「どうやらフィラリアでもなかったようだね」千央は言った。
「そうだね」
毅は心臓を地面に置いて、溜め息をついた。
これでフィラリアだった可能性も消えてしまった。どうやらこの決死の冒険は、徒労に終わったようだ。千央も溜め息をついた。眠い。二人は、ひどく疲れたようすで後片付けを始めていた。
その時、冷たい強い風がドッと吹いてきて、千央は鳥肌がたった。さっきの風で周りの空気すべてが入れ代わったような気がした。そして同時に何かの気配した。千央は周りをキョロキョロ見た。
「あ、あ、何だろう、動いてる」
毅がゴッチを指して言った、見ると本当にゴッチの窪んだ腹の皮が、ウサギくらいにぼこっと膨らんで、ぴくぴく動いている。
それはゴッチの腹の中を壊れたねじまきのおもちゃのように、グルグル、グルグルと掻き回っていた。しばらくして動きをぴたっと止めると、思い出したかのようにゴッチの尻の方へ、つまり傷の方へとじわじわとせまっていった。膨らみは、一時の間、恥ずかしがるかのようにモゾモゾと動いていた。そして、次の瞬間、それは外に出てこようと、ゴッチの腹に手を掛けた。
「げぇっ…………、……!!…………!!」
二人はお互いを支え合い、やっと立っていたが、毅がナイフを放り投げたのを合図にしてクルリと振り返ると、先を争い暗い森の外へと一目散に逃げ出した。千央は大声で叫びたかったのだが、恐怖のあまり声も出やしなかった。