十四、アシナガバチの日記
「今日はとても面白い光景をみたのでそのことをかこうと思います。
今日の朝、玄関の掃き掃除をしていると、目の前にUFOキャッチャーのクレーンのような形をした物がいきなり飛び出してきたので、私はびっくりしてしまいました。よく見ると、それはハチが大きなクモを運ぼうとしているのでした。そのクモは見た目がとても変わっていました。
今まで私は、釣り竿みたいな色と形のものと、エビの抜け殻とかダニのようなクモしか見たことがなかったけれど、このクモはまず脚が異様に長い上に、体中が茶色い毛で覆われていました。
毛のあるクモといえばタランチュラが思い出されますが、これにはイガイガした毛じゃなく、ビロードのような繊細で毛並みのいいつやつやしたものがはえていました。ハチは自分の何倍もの大きさの獲物に苦戦して上がったり下がったりを繰り返していました。
私は運ぶのを手伝おうとほうきでクモの脚あたりを支えていました。それでも、しばらくするとハチは疲れたのか玄関のすみに着地しました。
私はそのあともしばらく観察していました。ハチはクモの脚に何度も頭をぶつけて続けていました。すると脚が急にもげ、私はびっくりしてしまいました。
多分ハチはクモをばらしてから運ぶことにしたみたいだとすぐ分かりました。私はとても気味が悪くなって、掃除を止めて急いで家に入りました。しばらくして様子を見に行くと、あのクモは跡形もなく消えていました。ハチが巣に持ってかえり、きっとクモ・ミートボールになっているのだと思いました。
そのあとであのクモのことを調べようと思い、昆虫図鑑を開いたのですが、運悪く一番最初に開いたのが私の大嫌いな毛虫のページだったので、また気分が悪くなり、やめました。
朝のクモは縁起がよく、見るとその日一日ラッキーだときいたことがあるのですが、このクモはすでに死んでいたので、普通にラッキーでいいのかタロットみたいに裏返った意味になり、アンラッキーになるのか私は分かりませんでした。今日一日の出来事を振り返った結果、朝見たクモが死んでいたら、それはアンラッキーなことがわかりました。今日は私にとってあまりいい日ではなかったのです。
先生がクモは好きですか?私は大嫌いです。
8.5 」
8月5日の日記に千央はこうかいている。
数日後の今日、クモ・ミートボールとやらの所在がわかったようだ。
そんなもの一生わからなくていいのに、台所の際の軒下に大きなハチの巣が発見された。
見にいくと、ちょうど屋根の張り出した裏側に昔の笠付きライトのような形のハチの巣があった。このアシナガバチの巣はセンチくらいの大きさで、六角形をした巣の部屋には白いフタが付いている、どうやら働きバチが生まれるようだ。
巣からはハチが出たり入ったりしていて、とても忙し気にしている。
千央は以前にも、アシナガバチがその長い脚をプラプラさせながら飛んでいたのを何度か見た覚えがある。山の中だからハチがいても驚かないが、まさかこんなに近くに巣を作っていたとは。この間の台風の風がさらっていってくれたらよかったのだが、そう話はうまくいかなかった。巣はちょうど風の当たらない軒下にあったので全くの無傷だったようだ。これには女王バチの先見の明に乾杯といったところだ。しかし、作った場所が人間の家の軒先というのがただ一つ致命的であった。
もちろん駆除をしなければならないが、そこに水野さんが駆除実践の名乗りをあげた。
「え、でも刺されたら大変よ」
危険なので駆除するのに業者を頼もうと言っていた園さんは心配し、反対した。
「大丈夫です、自分らでできるのに料金がもったいないし」水野さんは言う。
「僕はハチに刺されない体質ですから」
千央はこの言葉理由にビカッと反応した。
「私もそうなの、ハチに刺されないんだよ」これは本当だった、今までも千央はハチに接近したりちょっかいをだしても刺されることがなかったのだ。
「だから、私も手伝っていい?」
「ダメ、絶対ダメ」園さんは麻薬撲滅の標語みたいなことを言って、反対した。
「大丈夫だよ」千央は食い下がった。
「でも、刺されたら危ないからな」水野さんは言った。
さっき自分に言われたことをそのまま他人に言うのか、と千央は釈然とせず不満に思った。
駆除は夕食の後、暗くなってから決行された。ハチは昼活動し、夜に巣で眠るらしい。
急遽鷲崎さんも呼び出され、二人はまず、Tシャツを頭に被り普段なら頭を出す襟首のところに顔のみを出した。一瞬とても間抜けに見えたが、鼻口を隠して、色々形を整えると、まるで忍者のようになった。ただし、この頭巾は黒ではなく白もしくは白っぽい色を使わなければいけなかった。ハチは特に暗い色を襲うので黒は避けねばならない色なのだと水野さんは言った。それから、ゆったりした長袖シャツを着て、袖口をハチが入ってこないようにゴムで止めた。手には軍手をはめ、麦藁帽子をかぶった。
そうやって、完全防備になった水野さんはふざけたポーズをとり、言った。
「どうだ?格好いいだろ」
「いいね、日焼け対策万全の強盗ってかんじ」アンコは言った。
「本当だ」皆から笑いがおこった。
「なんて失敬なガキどもなんだ」水野さんは憤慨するふりをした。
さてそれから、準備万端になった二人は殺虫剤を持ち、ハチの巣の場所に向かった。
千央たちは外には出られないので、台所の窓の前に殺到し、すし詰めになりながら始まるのを待っていた。あまりにもぎゅうぎゅうなので、皆の息で窓が白くなった。
突然、ガチャリという金属音がして皆振り返った。毅が椅子を換気扇の前に持ってきていて、そこから外を覗き見ていたのだ。
この家の台所には、なぜか換気扇が二つあり、一つはフィルターのついた小さめのもの、もう一つはファンが剥き出しで、奥の方に幅広のブラインドのようなものついたものがあった。それはステンレスボールの紐がスイッチになっているのだが、その紐を引っ張って持ったままでいると、ファンが回らないままブラインドが開く、そうすると調度そこから二人のいるところが覗けるようになるのだ。
そこで千央たちは、二つに別れて見物することにした。
千央は窓から見ていたが、換気扇からハチが入ってこないかと心配していた。自分は刺されないと根拠もなく信じているけれど他の人は別であるからだ。千央が熱心に換気扇の枠と睨めっこしていると、毅と目が合いへらへらと笑いかけられてしまった。
「電気を消せ」と誰かから声がかかり、その通り部屋は真っ暗になった。皆の肌が夜光虫のように青白く光って見えた。とうとう作戦決行の時間だ……。
水野さんはかまぼこを逆さまにしたような形の大きな眼鏡をかけた姿で、殺虫剤の缶を振りながら踏み台に飛び乗った。次の瞬間、殺虫剤が巣に吹き付けられた。鷲崎さんは一歩下がったところに待機し、逃げたハチに薬を噴霧し打ち落としていった。千央はどちらかが今にも刺されて悲鳴をあげたりはしないかと、多少びくつきながら恐々と見物していた。今夜は風が無く、白い霧状の薬剤は噴射音とともに、夜の暗闇にモクーッと現れ、しばらくそこをおばけのように漂ったあと、雲散霧消していった。
虐殺はものの数十秒間で終わった。
水野さんは壁に虫取り網を当てがい、巣を棒で叩き落として、それをキャッチした。おーっ、と歓声があがり、伊鶴が拍手をした。暗闇の部屋にまた電気が付けられた。 そのうち、かさかさいう音と、プラスチックのガタガタという音がした、ハチの巣がゴミ箱に入れられたのだ。
「終わった、終わった。無事終了」水野さんは宣言した。
しかし、すぐにギャッという声があがった。千央たちの見ていた窓ガラスに一匹の残党アシナガバチが突進し、大きな音をたてたのだ。水野さんが急いでやって来て、スプレーをこちらに降りかけた。窓には殺虫剤で白い模様が描かれ、こんなにムシ暑い夜にも関わらず、千央はクリスマスを思い出した。クリスマスシーズンに窓に吹き付けられる、スノースプレーに似ていたのだ。
しかしハチはそれにもめげない、なおも激しい攻撃を続けてきた。ブンブンバチバチと、やかましい音が響いた。中々根性のある虫だ。
次に鷲崎さんは首に巻きつけていたタオルを解き、ムチのようにしならせハチを打った。ハチは身体をタオルに絡みとられ、地面へ落下していった。 水野さんと鷲崎さんは二人してそれを踏み付けた。ガスッ、ガスッ。哀れ。
「死んだ?」
「死んだぞ」
その声を合図にまた歓声が起き、毅たちはポンポンと椅子から飛びおり、換気扇はガチャリと音をたて、閉じられた。千央はやれやれと、無事終わってホッとしたと同時に、清々した気分だった。
だけど、浮かない顔をしているものがいた。真が皆から離れ、ボーッとした表情で一人テーブルに座っていたのだ。何か考え事をしている様だが、何処か様子が変だ。もしや、今までずっとそうしていたのだろうか?
もしかしたら真は虫が苦手だったのかもと千央は思い、
「大丈夫?」と聞いた。真は、
「僕?うん、大丈夫だよ」と笑いながら答えた。しかしその声はひどく嗄れていた。いよいよ以ておかしい。
千央はちょっと詰問するような口調になって言った。
「本当に大丈夫?」
真は急にふて腐れた顔になった。
「何でもない、ほっといてくれよ」真はこう言って、顔を赤くした。
千央は自分が心配したのに冷たく返され、少し気を悪くしたが、真が駆除の光景にショックを受け気を悪くしたのだろうと考えた。きっと意気地がないと思われるのが嫌で、それは言えなかったのだろうと。
千央はそのあとすぐに寝付いてしまった。その夜、真がハチアレルギーで病院に運ばれたということをアンコに教えられたのは、明くる日の朝のことであった。
「ねぇ、これはどう?」
そう言って、伊鶴は一本の花を差し出した。伊鶴が持っていたのは、透明度の低いオレンジにあずき色の斑の入った花であった。
「そんな毒々しい花、お見舞いに持っていけるか馬鹿タレ!!」と、アンコ。
「じゃあ、これは?」
慶幾はオレンジの花を指差した。
「匂いの強い花はだめってさっき言ったでしょうが!!」
「なぁ」公平はアンコたち三人を眺めて、つぶやくように言った。「さっきからずっとこんな感じだけど、一体いつ出発できるんだ?」
「分からん。でもどうせ何も言っても無駄だろう」毅は諦めよう、という調子で唸った。
千央は思わず吹き出した。真が入院して3日目、やっと全員が連れ立ってお見舞いに行くことが許されたのだ。それで、庭から摘んだ花をお見舞いにしようと決めたのだけど、こんな具合に押し問答が繰り返されて、花束はなかなか完成せず、出発は遅れていたのだった。
また、慶幾の持ってきた色の花がすぐさま却下されていた。赤いねこじゃらしのような花だった。却下された理由はわからない。
「じゃあ、これにしようぜー」 公平がなにやら持ちあげて言った。それは濃い緑色の玉数珠のような植物の植わった鉢植えだった。
「花ですらないじゃん!!だいたい鉢植えは駄目なんだって!!根が付くが寝付くの意味に通がるから……」アンコは必死に説明しだした。
途端に公平が吹き出し、えりたちも笑った。自分がからかわれていたことに気づいたアンコはムッと膨れて、大いに悔しそうにしていた。
「お見舞いの花はあれがいいと思うよ」
公平は、ほとんど空を指差して言った。その先にあったのは大きなひまわりの花であった。早速、伊鶴がそれを束ねて、季生子がリボンを結ぶと立派な花束になった。
それからすぐに、千央たちは水野さんの車に乗り込み、真のいる病院へと出発した。
真の入院先は千央が熱中症で倒れた時に行った、あの病院であった。千央はその時のことを苦々しく思い出した。と同時に、今話題にもなっている、よしば総合病院でもあった。そこは、精神科と内科が併設されていたのだ。
さて、目的地に到着した千央たちは、建物の裏手に回った。前にきた時千央は、真正面から入ったが、真のいる病棟の入り口は真横にあったのだ。
そこには灰色の壁の昇降室があり、そこから真のいる病室の階に行った。真の部屋は病院の最上階、すなわち4階にあった。
「縁起悪いわねぇ、4階なんて」階段を上り終え、真琴はゼイゼイ息切れしながら言った。階段の横にある窓からは、病院の周りにあるヤシの木や蘇鉄がにょっきりと何本も生えているのが見えた。よしば病院は山と田園に囲まれていて、その熱帯植物や白い堅固な建物との混在した風景がなんともアンバランスだった。
病室の壁は真っ白でベッドもベッドカバーも白かった。その中段辺りに真のあの困ったような顔があった。
「死にかけたんだって?おい」公平は笑って声をかけた。「可哀相になぁ」
「言ってることと表情があってねぇぞ」真の顔が綻んだ。
皆と同じように川で遊んでいてもほとんど焼けずにいたその白い肌は、この数日の間にますます白く青ざめたようで、真の真っ黒い髪がその小さな顔の輪郭を縁取り、まるで白い壁に直接顔を描いたようだった。
それを見た千央は、なんて病室が似合う子なんだろうと真の病弱な雰囲気に少し感激したが、しかし直にそれはとても間抜けな考えだということに気づいた。
毅は暇つぶしにと持ってきたマンガを真に渡し、部屋を見回した。
「とってもいい部屋だね、でもすごく高そうだよ」
と、いきなり入院費の心配である。
千央も部屋の中を見渡した。確かにここはとても広い部屋で、千央たち9人全員が入っても、まだ十分に余裕があった。壁際には冷蔵庫とソファベッド、割としっかりとした造りの棚があり、そしてどこかの野原を描いた大きな絵が飾ってあった。そのせいか、病院の生活感のない無機質な感じはあまりしない。むしろ飾り気のないホテルの一室のように見える。確実に病院らしいと思えるのは真の寝ているパイプベッドくらいだと千央は思った。
壁の絵のような顔をした真は笑い声をあげて、
「四人部屋が空いていなかったんだって、病院の都合だから部屋代は同じさ。心配いらないよ」と、首をすくめながら答えた。
「へー、得したじゃんか」ホッとしたように毅は言った。
毅は自分の家でケガをさせてしまったせいか、真の入院を他の子より余計に気に病んでいるようだったのだ。千央たちは近くの椅子を引き寄せて、ベッドの周りに座った。
「暇じゃない?」伊鶴は聞いた。
「すっごい暇だよ、だからテレビばかり見てる」と、真は言い、台に乗ったテレビを顎で指した。
ベッドの脇に自立式のテレビがあり、番組の明かりがチラチラと映っていて気になった。それにはイヤホンが繋いである。せっかく個室なのだから、そのまま聞けばいいのに、と千央は思った。
「ねぇ、なんでハチに刺されたくらいで、こんなに入院が長いの」
真は首を捻りながら答えた。
「よく分からないけど、まだ治療が残っているらしいんだ。検査とかがね」
「ねぇね。ハチに刺された時、何ですぐに言わなかったの?あの時はもう刺されてたんでしょ?」
考えてみれば退治を終えた直後から、真は声が嗄れ、顔は妙に赤いしで、様子がおかしかったのだ。それに刺される危険性はあの時が一番高いと思う。
「まぁね。痛かったけど、我慢すればそのうち治るかなと思ってほっといた。騒ぐのも嫌だし。でも、そのうちどんどんと息苦しくなってきて……、本当に僕死ぬんじゃないかと思った」
切羽詰まった真は、真夜中にほとんど這うようにして園さんの部屋に行ったらしい。真の様子があんまり変なので救急車が呼ばれた、そのあと救命士にたずねられて始めてハチに刺されたことを告白したようなのだ。
この息苦しさも嗄声も顔面紅潮の症状もハチアレルギーで起こる、アナフィラキシーショックのせいだった。真は数年前、低学年だった時、ハチと戯れていてブスとやられたそうだ。「それでその時に身体の中に抗体ができてたらしくって、こんな症状がでたんだってさ」
ハチに刺され、下手したら死ぬこともあるらしい。千央は思っていたのよりずっと深刻な事態だったことを聞いて、びっくりしてしまった。それとこれからはハチに不用意に触らいようにしようと決めたのだった。しかし真が本当に死んでいたら、原因はハチ毒だけではなく、余計な我慢のせいでもある気がする。性格が死に一役買うなんてなんだか損だな、とも思った。
「まぁ、これからはその変な堪え性は他のことに活かせよ」公平は慰めるように言った。
真は上の空の調子で、
「え?あぁ、はいはい」と答えていた。
さて、今まで毅は話を聞きながら落ち着かない様子でそわそわしていて、そろそろ真から不審な目で見られ始めていた。
無理もなかった、実は真に伝える重大な出来事があるのだ。他の子が伝えても良いのだが、毅が伝えるのが一番自然だと思えた。しかしあまり、どころか全然良いことじゃなく、言い出し難い話だった。それでもやがて、毅は重々しく口を開いた。
「あのね……、真。ゴッチが死んだぞ」
「は、死んだって?何が?」へら、と笑って真は聞き返してきた。冗談だと思ったのだろう。当たり前だ。千央たちもまだ半分は信じられない。
毅は事の次第をゆっくり話し始めた。千央も一緒に思い出していた。それは、つい昨日起こった出来事だった。